第16話:祭りの前の静けさ
工場全体に、奇妙な高揚感が漂っていた。
それは、文化祭の準備期間のような、少しの緊張と期待、そしてどこか秘密めいた興奮だった。
久美たちが密かに準備を進めている『RE-BIRTH』のテスト販売。
本社には知られてはならない企画だが、そのスリルさえ、今は皆の結束力を高める燃料になっていた。
工場の空気は明らかに変わっていた。
数か月前までの沈鬱と倦怠は消え、社員たちは前のめりに、自分の仕事に誇りを持ち始めていた。
その変化の中に立ち会う久美は、ある日、ふと耳にした言葉で胸が熱くなった。
「このエキスの一滴が、お客さんの笑顔に繋がるんだ」
それは、ベテランの作業リーダーが若手に語った何気ない一言。
だがその言葉には、ものづくりに携わる者の矜持が滲んでいた。
総務の女性たちは、販売ブースの装飾や手書きPOPのアイディアを持ち寄ってくれる。
営業経験豊富な年配社員は、地元商店へのアプローチ術を惜しみなく久美に伝授してくれた。
誰もが自分の強みを活かし、「自分のプロジェクト」として行動を起こしていた。
久美は、いつの間にかその中心に立っていた。
かつて「本社の人間」として距離を置かれていた自分が、今では信頼される仲間として受け入れられている——それを感じるたびに、こみ上げるものがあった。
そして、そのすぐ隣には、いつも優斗がいた。
—
彼は、数値データを駆使して販売戦略を組み立てる一方で、常に久美を支え続けていた。
彼女が重圧に押しつぶされそうになると、決まってこう言う。
「あんた、また一人で抱え込んでるだろ。少しは俺にも背負わせろよ」
そう言って、何も言わずに彼女の仕事を分担していく。
久美が小さな進展にはしゃげば、「よかったな」と、まるで自分のことのように笑う。
その優しさが、どれだけ久美の心を支えていたか。
彼女自身、まだ気づいていなかったかもしれない。
けれど、確かにそこには、深い信頼と、温かい絆が生まれ始めていた。
—
ある夜、遅くまで資料に向かっていた久美は、ふいに目の前が暗くなるほどのめまいに襲われた。
意識が遠のき、椅子から崩れ落ちそうになった瞬間——
「おい、大丈夫かっ」
気づけば、彼女の身体は優斗の腕の中にすっぽりと収まっていた。
慣れ親しんだパーカー越しに感じる体温と、彼の匂い。
それは、どこか懐かしく、そして異様に心地よかった。
「……ごめんなさい、ちょっと立ちくらみが……」
離れようとした久美の肩を、優斗はもう一度、強く抱き寄せた。
「馬鹿野郎。倒れたら元も子もねぇだろ」
怒るような口調の中に、抑えきれない心配の色がにじむ。
「……あんたが倒れたら、俺が一番困るんだよ」
その言葉の意味を、久美は聞き返すことができなかった。
けれど、その時の鼓動の高鳴りは、確かに心に刻まれた。
—
テスト販売を三日後に控えた夜。
工場内は人の気配もなく、静寂に包まれていた。
その静けさの中、久美と優斗は、事務所の窓際に並んで立っていた。
窓の外に広がるのは、工場の屋根の向こうにまたたく街の灯り。
そのひとつひとつが、どこか祝福のように優しく輝いていた。
「いよいよね……」
久美の声は、かすかに震えていた。
期待と不安が入り混じり、胸の奥でざわついている。
「……ああ」
優斗の返事は短く、けれどしっかりとした手応えがあった。
(もし失敗したら?)
その言葉が頭をかすめる。
それでも、久美は首を振った。
そのとき、優斗が静かに言った。
「大丈夫だ。あんたなら、できる。俺が保証する」
その言葉に、理屈はなかった。
でも、どんな資料よりも、どんな報告書よりも、久美の心を揺さぶった。
彼の目は、まっすぐに自分だけを見ていた。
その眼差しに、揺るぎない信頼と、何かそれ以上のものを感じる。
「……ありがとう」
久美は、そっと微笑んだ。
この人となら、未来を共に描ける。
そう、心から思えた。
—
その夜、久美は眠る前に空を見上げた。
星は少なかったが、風は穏やかで、どこかあたたかかった。
「祭りの前」のこの静けさ。
それは、不安と希望が交差する、特別な時間。
言葉にしなくても通じ合う想いが、確かにそこにあった。
それはまだ恋と呼ぶには幼く。
けれど、友情では済ませられないほど、熱くて、深くて、優しかった。




