第15話:夜明けに言葉を添えて
片桐の不正が正式に認定され、彼は本社を追われることとなった。
その報が届いた日、アリュール・ファクトリーには、長らく感じたことのない開放感と安堵が広がっていた。
騒動の渦中で立ち上がった新ブランド『RE-BIRTH』は、品質と開発ストーリーの両面で高く評価され、異例のスピードで全国展開が決定。
瞬く間に、アリュール・コスメティクスの新たな柱としての地位を確立した。
久美は工場長代理として、現場と経営の橋渡しを担う立場に昇進。
そして、優斗は商品企画部のチーフとして、彼女の右腕となり、さらなる商品開発に尽力していた。
工場内の空気も、もはや以前のような沈滞ムードは一切なかった。
社員一人ひとりが自分の仕事に誇りを持ち、背筋を伸ばして働いている。
その姿を見ながら、久美は静かに思う。
(ここが……私の居場所なんだ)
企画室の窓から見える風景は、何も変わっていないはずなのに、心に映る景色はまるで違っていた。
それは、長く閉ざされていた扉の向こうにあった、光の差し込む未来だった。
その日、仕事を終えた久美と優斗は、珍しく二人だけで屋上に出た。
夕暮れの空は茜色に染まり、遠くの山々が薄紫に霞んでいた。
風は少し冷たかったが、どこか心地よく、季節がひとつ巡ったことを知らせていた。
久美は、手すりにもたれながら、静かに呟いた。
「まさか、こんな日が来るなんてね……」
「来たさ。あんたが、最後まで諦めなかったから」
優斗はそう言って、隣に立つ久美の横顔をそっと見つめた。
彼女の頬に夕日が差し込み、金色に縁取られている。
「違うわ。……あなたがいたから。あなたが隣にいてくれたから、私はここまで来られたの」
久美の言葉は、装わない本音だった。
どんなに苦しくても、彼がそこにいてくれた。
どんなに道が見えなくても、彼となら歩けた。
優斗は照れ隠しのように笑って、視線を外す。
「俺もさ、あんたと出会わなかったら、たぶん腐ったままだった。
また誰かと本気で何かをやるなんて、もう無理だと思ってたから……。
でも今、俺、また夢中で仕事してる。……ありがとう、久美さん」
その声に、久美の胸がじんと熱くなる。
彼の言葉は、飾らず、まっすぐで、心の奥に沁みてくる。
そのとき、優斗がふいに、久美の方を正面から見つめた。
彼の瞳が、落ちる夕日の光を反射して、きらきらと揺れていた。
「久美さん……俺、ずっと伝えたかったことがある」
その声音には、かすかな震えが混じっていた。
久美の心臓が、急に早鐘を打ち始める。
(まさか、いま?)
「……俺、久美さんのことが、好きだ」
その一言は、風の中にもかき消されず、はっきりと久美の耳に届いた。
胸が高鳴る。足元が、ふわりと浮いたような感覚。
思い返せば、彼への想いは少しずつ育っていた。
最初はただの反発心。
やがて彼の才能に惹かれ、苦悩を知り、誰よりも真剣に誰かを守ろうとする強さに気づいて。
気づけば、彼の存在が、久美の心の大部分を占めていた。
久美は、何かを言おうとした。
けれど、言葉よりも先に体が動いた。
気づけば、彼の胸に飛び込んでいた。
優斗は驚いたように少し固まったが、すぐにその背中に腕を回してくれた。
その腕は、あたたかくて、やさしくて、頼もしかった。
「私も……好き。あなたのことが、ずっと……」
久美は、優斗の胸に顔をうずめたまま、かすかに呟いた。
優斗の腕の力が、少しだけ強くなる。
遠くで風が木々を揺らし、どこかで街灯が点る音が聞こえた。
そのすべてが、世界の祝福のように感じられた。
彼の心臓の鼓動が、頬越しに伝わってくる。
そのリズムが、久美のそれとぴたりと重なったような気がした。
(……ああ、私はいま、生まれ変わったんだ)
仕事のために、理想のために、強くあろうと走り続けた日々。
挫折も、怒りも、涙も越えて、ようやくたどり着いたこの場所で、
彼と、共に歩む人生の一歩を踏み出す。
それは、これまででいちばん静かで、いちばん大きな「成功」だった。




