第14話:怒りと、覚悟と、再出発
片桐がアリュール・ファクトリーへ乗り込んでくる当日。
工場内には、目に見えない緊張の糸が張り詰めていた。
空調の微かな音すら気になるほど、皆が息を潜めていた。
久美と優斗は、部署のメンバーを会議室に集め、最後の打ち合わせをしていた。
「今日まで、本当にありがとう。
私たちの努力が無駄ではなかったことを、これからあの人に見せつけてやりましょう」
静かながらも、強い決意を帯びた久美の言葉に、メンバーは次々に頷いた。
彼らの目に、もはや怯えはない。そこにあるのは、久美と同じ「戦う覚悟」だった。
その横で優斗は無言のまま、彼女の姿を見守っていた。
その眼差しには、信頼と敬意、そして深い想いが宿っていた。
午前十時。
片桐は、スーツ姿の本社社員を数名引き連れ、黒塗りの車から降り立った。
にこやかな表情のまま、工場長に握手を差し出すその姿は、一見すると礼儀正しい上司そのものだった。
だが、その目には隠しきれない冷たさと、鋭い計算が潜んでいた。
「久しぶりだね。どうやら、私の知らないところでずいぶん楽しそうなことをしてくれたようだ」
その声に、久美は背筋を正した。
目の前の相手は、ただの上司ではない。
工場の息の根を止めかねない力を握る“敵”だった。
「会議室で話そうか。君たちの“成果”をじっくり見せてもらおう」
会議室には、久美・優斗に加え、プロジェクトの中心メンバーと工場長が集まっていた。
片桐は、資料を淡々とめくりながら、わざとらしい口調で話を切り出した。
「『RE-BIRTH』……立派な名前だ。
だが、君たちは本社の許可を得ずに独断で新商品を企画し、販売までしてしまった。
これは明らかに社の規律違反だ。覚悟はできているのだろうな?」
その言葉に、会議室の空気が一気に冷える。
久美は立ち上がり、片桐の視線を正面から受け止めた。
「規律を破ったのは事実です。
ですが、この工場を救うためには、それしかなかったのです」
彼女の声には、後悔も迷いもなかった。
久美は、工場が直面していた窮状、片桐の妨害工作、そして『RE-BIRTH』プロジェクトが立ち上がった経緯を、丁寧に説明した。
しかし、片桐は鼻で笑った。
「君の弁明はよく分かった。だが結局、田舎の工場が勝手に作った、安物の化粧品に過ぎない。
そんなものが、どれほどの価値を持つと?」
久美は静かに、一冊のファイルとタブレットを片桐の前に差し出した。
そこには、テスト販売の詳細な販売データと、購入者から寄せられたレビュー、SNSでの反響が記録されていた。
「これは、実際に商品を手に取ってくださったお客様の声です。
どれだけの人が、私たちの商品に価値を見出してくれたのか。目を通していただければ、すぐに分かります」
片桐は無表情のままページを繰ったが、その指がわずかに止まる。
「肌荒れが治った」「母へのプレゼントにぴったりだった」「この商品を作ってくれてありがとう」
どのコメントにも、真剣な“感謝”が綴られていた。
だが片桐は、資料を乱暴に閉じた。
「小さな成功だ。所詮は地域限定の話。本社が本気を出せば、すぐに潰せる」
その言葉に、久美が反論しかけた時——
「その言葉、撤回してください」
低く、よく通る声が会議室に響いた。
静かに、しかしはっきりと。
話していたのは優斗だった。
片桐が怪訝そうに顔を上げた。
「君は……誰だ?」
「一ノ瀬優斗。
そして、俺はアリュール・コスメティクス創業者一族の一員です」
その言葉に、室内の空気が一変する。
ざわめきが走り、誰もが息を呑んだ。
片桐の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。
—
優斗は席を立ち、片桐の正面に立った。
手にしたタブレットを操作し、壁のモニターに映し出したのは、原材料の仕入れ価格の不自然な推移と、不正に関与した商社の取引記録だった。
「あなたは、私利私欲のために、この工場を食い物にした。
粗悪な原料を高額で売りつけ、その差額を着服していた。
ここに、その証拠がすべて揃っています」
声は静かだったが、その語調には怒りが滲んでいた。
優斗は続ける。
「あなたはこの工場の未来を奪い、誠実に働く人々の生活を脅かした。
そして、私の大切な仲間を踏みにじった」
片桐は椅子から立ち上がろうとしたが、膝が震え、腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「これは……でっち上げだ。私は……知らなかった!」
叫ぶ片桐の声は、もはや誰にも届いていなかった。
「すでにこの件は、社長および監査役に正式に報告済みです。
あなたは、もう逃げられません」
片桐は、項垂れたまま言葉を失った。
かつてはこの場を支配していた男が、今や見る影もなくなっていた。
—
会議室に、沈黙が落ちる。
久美は、優斗の横顔を見つめていた。
その目に宿る強さと誠実さに、胸の奥が熱くなる。
(この人は、変わった……)
かつて自分の才能に溺れ、すべてを壊してしまったと語っていた彼が、
今は、人を守るためにその力を使っている。
(そして私は……救われたんだ)
込み上げてくる感情を押さえきれず、久美は小さく息を吸った。
——それは、感謝であり、尊敬であり、そして——愛おしさだった。




