第12話:見えない壁の正体
「これは……おかしい」
久美は、原材料の価格推移を記した表を見つめ、目を細めた。
価格の異常な高騰、そして連続する納期の遅延。
ただの偶然にしては、不自然すぎる動きだった。
そして久美は、確信する。
(これは片桐さんの仕業……)
その確信は、嫌な記憶を呼び起こす。
冷たい笑みを浮かべ、机の上で手を組む片桐の姿。
彼が工場再生の芽を潰そうと、また暗躍している——そう思わざるを得なかった。
久美は迷いながらも、優斗に相談することにした。
「やっぱり、そう来たか」
久美の報告を聞いた優斗は、眉一つ動かさずに静かに呟いた。
「……やっぱり?」
その反応に、久美は目を見開く。
「もしかして、あなた……片桐さんのやり方、前から知っていたの?」
優斗は、しばらく無言のまま何かを飲み込むようにうつむいていた。
やがて、口を開く。
「……実はさ。俺、本社にいた頃、片桐さんの不正を告発しようとしたことがあるんだ」
「えっ?」
「でも、証拠は途中で揉み消されて、逆に俺の方が左遷された」
その言葉に、久美は言葉を失った。
優斗の過去——これまで断片的にしか知らなかった彼の“挫折”の裏に、そんな事実があったなんて。
「ごめんなさい。私……あなたのこと、何も知らなかったわ」
久美の謝罪に、優斗は小さく笑った。
けれどその笑顔には、どこか寂しさが混ざっていた。
「いいんだよ。もう終わった話だから」
(……終わってなんか、ない)
久美は、優斗のその表情に、胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。
彼がこのプロジェクトに賭ける理由。
それは、過去に踏みにじられた「正しさ」へのリベンジでもあったのだ。
二人は、片桐の妨害に立ち向かうために、静かに動き始めた。
優斗は、仕入れ価格の推移と特定の取引先との不自然な関係性を追った。
すると、片桐の親族が経営する商社との不透明な取引が浮かび上がってくる。
一方で久美は、地元の農協や中小の供給業者に足繁く通い、新たな仕入れルートを開拓した。
雨の日も風の日も、資料を片手に交渉を続ける久美の姿は、すでに現場の社員たちの信頼を勝ち得ていた。
しかし、片桐の妨害は、さらに形を変えて襲いかかってくる。
ある日、総務から呼び出された久美は、人事部の担当者から通達を受ける。
「相沢課長。本社の判断により、〇〇さんと△△さんには他部署の緊急プロジェクトに参加してもらうことになりました」
「な……何ですって?」
久美は思わず声を上げた。
〇〇と△△は、『RE-BIRTH』の中核を担う技術者だった。
この二人を失えば、製造計画は確実に遅れる。
「待ってください、それではこちらの進行に深刻な支障が出ます!」
「それは、そちらで調整してください。本社決定ですので」
事務的な口調で言い捨てるように伝える担当者。
久美の拳が、無意識に震えていた。
(これは……明らかな嫌がらせ)
怒りに震える久美を、誰も止められなかった。
その夜、久美は一人、薄暗い会議室に座っていた。
静寂の中、書類の端をぎゅっと握りしめる。
そこに、優斗が入ってきた。
「……久美さん、大丈夫?」
「……大丈夫なわけないでしょう?」
久美の声が震えていた。
「どうして、こんな……頑張って、やっと形になってきたのに……!」
込み上げる悔しさに、言葉を詰まらせる。
それでも久美は顔を上げ、優斗を見た。
「どうすれば、いいの……?」
優斗は、何も言わずに久美の隣に座った。
そして、静かに彼女の企画書を開き、あるページを指差す。
「このページ……新商品の流通計画、覚えてる?」
「……ええ。でも、まだ検討段階の話でしょ?」
優斗はにやりと笑った。
「テスト販売だよ。こっそり、この地域限定で商品を出して、結果を出す。
本社に気づかれる前に、圧倒的な数字を作ってやるんだ。
実績さえあれば、本社も文句は言えない」
その案は、大胆すぎる賭けだった。
正式な承認を経ずに行えば、処分のリスクもある。
しかし、それ以上に、彼らの誇りがかかっていた。
久美は一瞬迷った。
だが、すぐに心を決めた。
「……わかったわ。やりましょう」
強く、はっきりと頷いたその瞳に、迷いはなかった。
優斗は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、作戦会議を始めようか」
—
小さな机を挟んで、夜が更けるのも忘れ、ふたりは計画を練った。
誰もいない工場の一室で、パソコンの光だけがふたりを照らしていた。
見えざる壁は高く、厚く、静かに立ちはだかる。
けれど、久美と優斗の中には、確かな火が灯っていた。
それは、過去へのリベンジであり、未来への挑戦であり、
そして、信じ合う二人の間に築かれた絆の証だった。




