第11話:小さな成功が光になる
「やっと、ここまで来たのね……」
久美は、ラボの片隅で静かに微笑みながら試作品のサンプルを手に取った。
ガラス瓶に満たされた澄んだ液体が、白い蛍光灯の光を受けてほのかに青くきらめいていた。
抽出プロセスの改良は困難を極めたが、初回のサンプルは期待以上の出来だった。
現場には、確かな手応えと、抑えきれない希望が漂っていた。
だが、その静かな歓喜は、すぐに砕かれることになる。
検査室からの一本の内線。
受話器の向こうで、技術主任が厳しい声を発した。
「抽出エキスに、不純物が混入しています。しかも、通常許容値を超えています」
久美は、思わず言葉を失った。
資料を手に、足早に会議室へと向かう。
すぐに優斗を呼び出し、ふたりは原因を探るため、モニターを囲んだ。
「どうする、優斗くん。このままじゃ、全てが振り出しに戻ってしまう……」
久美の声には、焦りと苛立ちが滲んでいた。
目の下に浮かぶ薄い影が、疲労と不安の深さを物語っている。
優斗は、モニターに映し出された数値を睨みながら、唇をきつく噛んだ。
「俺の分析が甘かった。自然のものは、数字通りにいかない……わかってたつもりだったのに……」
沈黙が流れた。
久美は静かに息を吐き、彼の肩にそっと手を置いた。
「あなたのせいじゃない。これは、私たちみんなの課題。……まだやれることはあるはずよ」
その言葉に、優斗ははっとして顔を上げた。
目の奥に、再び小さな炎が宿る。
「現場を見直そう。細かいところを一つずつ洗い出せば、何か見えてくるかもしれない」
翌日、二人は現場に張り付いた。
原材料の受け入れから、選別、抽出、精製、充填……。
全工程を追いながら、目と耳と足を使って異変の兆しを探す。
作業員一人ひとりにも声をかけ、日々の微細な変化を尋ねて回った。
そして、ある一人のベテラン作業員・中村の選別作業を見ていた優斗が、ふと立ち止まった。
中村は、原料の葉を手に取り、触れ、光に透かし、時折首を傾げて「弾いて」いた。
その所作には迷いがなかった。
「その判断、何を基準にしてるんですか?」
中村は苦笑しながら答えた。
「言葉じゃ説明できんよ。手触りと色。あとは……におい、かな。何年もやってりゃ、わかるもんさ」
久美は息をのんだ。
「まさか……これが不純物混入の防波堤だったの?」
優斗は中村の動作を黙って観察し、目を輝かせながらつぶやいた。
「この感覚……もし数値化できたら、再現できるかもしれない」
数日後、優斗は試作段階の画像解析AIを構築した。
高解像度のカメラと、ベテランの選別パターンを機械学習させたアルゴリズム。
わずかな葉の変色や繊維の乱れを検出し、自動で分類・除外するシステムだ。
モニターに映し出された画像群は、人の目では識別困難な微妙な差異までも明確に分類していた。
中村が腕を組んで、驚いたようにうなる。
「……すげぇな。俺が手探りでやってたのを、機械が真似しちまうとは」
久美はその言葉に笑みを返しながら、表示された合格ラインのサンプル群を見つめた。
「これなら、安定した品質で量産できる。ついに……突破口が見えたわね」
優斗は、肩から力を抜くように微笑んだ。
「やっと、俺たちの努力が形になったな。これが、初めての“結果”かもな」
その一言が、久美の胸にじんわりと染み込んだ。
長く、果てしなく思えた挑戦の中で、初めて「報われた」と感じた瞬間だった。
その晩、久美と優斗は工場の屋上にいた。
秋の夜風が涼しく、どこか凛とした静けさを運んでくる。
星が瞬き、遠くで街の灯りが滲んでいた。
「……今日のこと、きっと忘れない」
久美は夜空を見上げながら、そっとつぶやいた。
優斗はポケットに手を突っ込んだまま、隣で小さく頷いた。
「でも、油断はできない。まだ序章にすぎないよ。
正直、この成功が“幻想”にならないか、少し不安なんだ」
「……わかる。私も、同じこと考えてた。
それに……最近、気になることがあるの」
久美の声が、少し低くなる。
「納期遅延や価格の急騰、仕入れ先の態度の変化。全部、偶然とは思えない」
優斗の表情が険しくなる。
「片桐、か」
久美は黙って頷いた。
嫌な予感は、ずっと前からあった。
動いている。あの男が——影で、また何かを。
「以前にも似たようなことがあった。本社の一部が、裏で仕掛けてきてる」
「潰しにきてるのね。……私たちのプロジェクトを」
重く、沈む空気の中で、それでも久美は目を逸らさなかった。
優斗もまた、まっすぐに彼女を見つめ返す。
「やってやろう。全部ぶっ壊してやる。なにが来ても」
その声は静かだったが、確かな火を宿していた。
久美は微笑み、静かに応えた。
「ええ。次の戦いに、備えましょう」
彼らの背後で、夜の工場が、ひっそりとその鼓動を響かせていた。




