第10話:午前0時、試行錯誤の向こうに
静まり返った深夜の工場。
蛍光灯の白い光が、人気のないフロアにぽつぽつと灯っている。
その中に、二人分の影が並んでいた。
久美は資料の束を前に、静かにため息をついた。
指先には疲労が蓄積していたが、眼差しは鋭く、諦めの色はない。
その隣では、優斗がモニターに映し出されたグラフと数式を見つめ、無言でキーボードを叩いていた。
——もう、何日この時間を一緒に過ごしただろう。
プロジェクト『RE-BIRTH』が本格始動してから、久美と優斗の間には目に見えない結びつきが生まれていた。
表面上は「課長」と「分析担当」という関係だが、実質は二人三脚。
感覚と理論。情熱と冷静。
正反対に思える二人が、互いを補い合うことで、プロジェクトは少しずつ前に進んでいた。
抽出技術の再現は、予想以上に難航した。
わずかな温度変化や加圧タイミングのずれで、仕上がりがまるで変わる。
原材料となる植物も、気候の影響を大きく受ける繊細な性質を持っており、安定供給の見通しは立っていなかった。
それでも——
久美は現場の作業員たちと膝を突き合わせ、知恵を借りながら少しずつ解像度を上げていく。
優斗はデータから傾向を洗い出し、予測モデルを改良して提案を重ねた。
いつしか二人の間には、言葉を交わさずとも意図が通じる“呼吸”のようなものが生まれていた。
久美が「この数値、違和感がある」と言えば、優斗が「pH推移に異常がある」と即座に補足する。
優斗が「ロス率が高すぎる」と指摘すれば、久美が「現場の加熱装置、メンテナンスが甘い」と状況を補完する。
机の上には、冷めた缶コーヒーがいくつも並んでいた。
久美の目元にはクマが刻まれ、優斗も髪が乱れたままだった。
けれど、どちらの目にも疲労以上に、強い光が宿っていた。
(この人となら、どんな困難も乗り越えられる気がする)
久美は、ふと優斗の横顔を見た。
乱雑に並べられた書類の間で、彼は黙々と検証データを修正していた。
その姿が、眩しく映った。
ある夜。時計の針が午前0時を回った頃。
久美は手を止めて、ふと漏らした。
「ねえ、優斗くん……このプロジェクト、うまくいくと思う?」
ペンを置き、椅子の背もたれに寄りかかる。
その声には、不安もあったが、それ以上に覚悟が滲んでいた。
優斗は画面から目を離し、少し考えてから頷いた。
「道は険しいけど……久美さんとなら、きっと行けると思ってる」
「ふふ、軽口ばかりのあなたにしては、珍しく真面目ね」
そう言いながらも、久美の頬がわずかに緩む。
「……試作品、次のステージに進めていい?」
「もちろん。データも揃ってきた。抽出条件は安定してきてる。
あとは、再現性の精度を詰めるだけだ」
「そこが一番難しいのよ」
ふたりは同時に深いため息をつき、そのまま目が合った。
そして、吹き出した。
疲労の中に、確かな手応えと信頼。
それが笑いへと変わる瞬間だった。
数日後。
ついに試作品第一号が完成した。
白衣を着たスタッフたちが集まり、製造ラインの小さなテーブルに立っていた。
その中央には、ガラス瓶に詰められた透明な液体。
ほんのりと青みがかったそれは、まるで夜明け前の雫のように澄んでいた。
久美は瓶を手に取り、光にかざした。
「……これが、私たちの“0時の試行錯誤”の結晶ね」
優斗が隣で頷く。
「うん。でも、ここからが本番だ。これが量産できなきゃ、ただの奇跡で終わる」
そう。ひとつ作れたからといって、それが商品になるわけではない。
再現性。安定性。コスト。すべての壁を乗り越えて、初めて「製品」となる。
それでも、今日だけは。
久美はその小さな勝利を、そっと心に刻んだ。
その夜。久美は工場の屋上にいた。
星が少なく、薄雲に覆われた夜空。
それでも、月だけは高く、静かに光を放っていた。
久美は、手すりに肘をかけて空を見上げていた。
風が髪を揺らし、冷えた空気が肌を撫でる。
「……やっと、ここまで来たんだな」
独り言のように呟いたそのとき、背後から足音が近づいた。
「やっぱり、ここにいたか」
振り返ると、優斗がいつものパーカー姿で立っていた。
「……寝ないの?」
「寝れると思う?こんだけ緊張してたら」
優斗が隣に並ぶ。
二人は並んで夜空を見上げた。
「……あんた、泣きそうな顔してるぞ」
「泣かないわよ。泣いてなんか、ないわよ」
「でも、泣いていいよ」
その一言が、久美の胸に不意打ちのように刺さった。
「……バカ」
唇を噛みしめながらも、久美は少しだけ微笑んだ。
優斗も同じように笑っていた。
二人の間を、静かな風が通り抜けた。
—
だが、その静けさは長くは続かなかった。
数日後、原材料の抽出エキスに微量の「不純物」が混入していることが発覚する。
機器の不調か、材料の劣化か、それとも設計の甘さか——
原因はまだ不明。
しかし、確かなのは、この問題が『RE-BIRTH』プロジェクトにとって、
避けては通れない次の試練だということだった。
小さな成功に安堵しかけた矢先に突きつけられた現実。
プロジェクトは、再び揺さぶられようとしていた。




