第1話:喝采の裏で足音がする
きらびやかなシャンデリアの光が、無数のグラスに反射して乱舞していた。
都内でも屈指の高級ホテル、その最大のバンケットルームに人々の熱気が渦巻く。
大手化粧品会社「アリュール・コスメティクス」が社運を賭けて立ち上げた新ブランド『LUMINAURA』のプレス発表会は、興奮と賞賛に満ちていた。
ステージ袖から会場を見渡していた相沢久美は、その光景を静かに、そして確かに、噛みしめていた。
三十五歳。
キャリアは十二年。
仕事に生き、プライベートの大半を切り捨ててきた。
誰かの陰に隠れるのではなく、自分の足で登ってきたという確信が、今のこの瞬間に結実した。
壇上でスポットライトを浴びてスピーチをしているのは、マーケティング部長の片桐比呂。
スマートな身振りと抑揚のある語り口は、いかにも“会社の顔”という風格を纏っている。
しかし——久美は知っていた。このブランドをゼロから築き上げたのは、自分自身であると。
市場調査、コンセプト立案、製品開発との折衝、パッケージデザイン、広報戦略、発表会の演出に至るまで。
この一年、チームと共に寝る間も惜しんで駆け抜けてきた。
それは、確かに久美が指揮し、育ててきたプロジェクトだった。
(これは、私たちの勝利だ)
拍手とシャッター音が響く中、久美の胸には誇りが満ちていた。
会場は祝賀パーティーへと移行し、フロアには華やかな音楽とグラスを交わす音が溶け込んでいった。
「相沢さん、おめでとうございます!」
「本当に、すごいです!」
チームの後輩たちが次々と笑顔で駆け寄り、祝福の言葉とともにグラスを掲げてくる。
「ありがとう。でも、私一人の力じゃないわ。みんなが頑張ってくれたおかげよ」
そう言いながら、久美はひとりひとりの顔を見つめた。
その視線には、感謝と共に、確かな自負が宿っていた。
彼らを率いたリーダーとしての、静かな誇り。
だが同時に、胸の奥にふとした影が差す。
(この一年、ずっと走り続けていた)
友人との約束を断り、週末の食事も、趣味の時間も捨ててきた。
SNSを開けば、結婚式や出産報告、家族旅行の写真がタイムラインを埋め尽くす。
久美だけが違うレールの上を走っているような、そんな疎外感。
それでも——彼女は、シャンパンの泡に目を落とし、心の中で呟く。
(私には、この場所がある。自分の力で掴んだ、この舞台が)
それは何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
「相沢くん、素晴らしい成功だったね」
背後からの声に振り返ると、片桐が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「ありがとうございます。これもすべて、部長のご指導のおかげです」
社交辞令のように滑らかに言葉が出る自分に、どこか冷めた視点もあった。
「いやいや、本当に君の頑張りだ。我が部の誇りだよ」
その「我が部の」という一言に、久美は小さな違和感を覚える。
まるで自分の手柄のように語る片桐の態度は、これまでも幾度となく見てきた。
(そうやって、他人の成果を自分のものにしてきたんだ)
その場では笑みを浮かべながら、久美の心には黒い霧のような警戒感がじわりと広がる。
「今回の成功で、役員たちも君の能力を再認識したはずだ。私も鼻が高いよ」
一瞬だけ、片桐の視線が会場奥の役員たちに向けられた。
(やっぱり……考えているのは“次”のことだけ)
久美は、片桐がこのプロジェクトを利用して自分の評価を高めようとしていることに気づいていた。
そしてそれは、今に始まったことではなかった。
(でも、今回は違う。これは私の“証明”なんだから)
目の奥に、静かな炎が宿る。
「……身に余るお言葉です」
そう返す声は、あくまで穏やかに。だが、胸の奥は冷たく固まっていた。
夜、久美はタクシーの窓から東京の夜景を見下ろしていた。
高速のランプウェイを滑るように進む車内は、パーティーの喧騒が嘘のように静かだった。
脳裏に、片桐の笑顔が何度も浮かぶ。
(本当に、ただの考えすぎだろうか……?)
あの目は、祝福ではなかった。
得物を手にした者が見せる、獲物への視線だった。
スマートフォンを取り出し、SNSを開く。
『#ルミノーラ』のハッシュタグが、喜びに満ちた投稿で埋め尽くされていた。
──パッケージも素敵だし、肌へのなじみがすごい。
──LUMINAURA、神コスメ確定!
その一つひとつが、久美の胸をじんわりと温めた。
これが、久美が求めていたものだった。
顧客の声。偽りのない感動。数字ではない、生の手応え。
(これさえあれば……私の手柄は消えない)
画面を閉じると、再び夜の街に目を向けた。
自宅のタワーマンションに戻り、久美は無言のままエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まり、数字が上がっていく音が妙に耳につく。
部屋に入ると、静寂が支配していた。
煌々と輝く東京の夜景も、今日の彼女にはただ無機質な光にしか見えない。
リビングのテーブルには、開封されていない結婚式の招待状が置かれている。
それは、久美が「今は無理」と返信をしたまま、時間だけが過ぎた封筒だった。
ソファに身を沈めた瞬間、スマートフォンが短く震える。
何気なく画面を見ると、そこには“片桐 比呂”の名前が浮かんでいた。
『明日の朝、少し大事な話がある。九時に、部長室に来てくれたまえ』
(……なに?)
突き刺さるような嫌な予感が、喉元を締めつけた。
なぜ今、このタイミングで。
この“成功の夜”の直後に?
(まさか……)
役員に向けたあの視線。
自分にかけられたあの言葉の数々。
頭の中でつながっていく不穏な点と点。
久美はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
気づかぬふりをしていた“足音”が、もう背後まで迫っている気がしていた。
裏切りという名の幕が、静かに、だが確実に、今まさに開こうとしていた。




