10
「母は私が幼いころに病気で亡くなりました。父には会ったことすらありません。母は少ない時間で、私が生きるための術を叩き込んでくれました。私の剣の技は、そのほとんどが母から教わったものです」
「そうか、そりゃ良い母親だったんだな」
突然の告白。俺はまだその真意を掴めずにいた。
「元気で、いつも笑顔で、時に怖くて、とても強い母でした」
その紫色の目は、俺の顔を通じて、懐かしくも優しい過去を見ているようだった。
「そんな母が、一度だけ、私に溢したことがあるんです」
白銀は一瞬視線を下げて目を閉じる。カシャンと小さく鎧が揺れると、今度は俺をじっと見つめた。
「ウィズという名前を、ご存知ですか?」
「――どうして、その名を」
あの日以来、俺は一度たりともその名を使っていない。そのあだ名で俺を呼ぶのは、呼ぶのを許したのは、この世で一人だけだ。
「母が死の間際、私に溢した名前です」
「…………」
俺は今にも耳を塞いで、この場から逃げ出したかった。
それ以上、話を聞きたくなかった。
白銀がどんな表情をしているのか、俺にはまったく分からなくなってしまった。
「母はその人を、たとえ何度生まれ変わろうとも変わらない。世界で一番の相棒……そして、私の父だと」
白銀が兜を上げる。涙でぐしゃぐしゃの顔だが、その口元は震えながらも笑顔を保っていた。
「私の名前は、ミール・シュバリエ。ライラ・シュバリエの娘です。お父さん」
俺はなにか言おうと口を開くが、掠れた息が喉を擦れるだけで、音が出ない。
頭の中が真っ白で、俺はただ、ヨタヨタとゾンビのように両手を伸ばして歩く。
「ミール……」
「はい。ミールです! なんだか、照れますね……」
その紫の目から流れる涙をそっと指で取る。
どうして居なくなったのか、どうやって生きていたのか。
聞きたいことなど、山ほどあるはずなのに、口からはなにも出てこない。
「……ありがとう」
寝息のようにか細い声でそう呟き、ミールを抱きしめた。
「――――だからあの魔物の弱点を知ってたのか」
しばらく抱き合っていた俺は、照れ隠しも兼ねて町の中心部、噴水の縁にミールを誘った。
「はい。お母さんが話してくれました。いっそ魔物諸共と突っ込んで、魔物自身の魔法で。ただそのときの後遺症で全身に火傷を……」
「そうか……それで戻らなかったと?」
「……はい」
冒険者にとって、特に前衛職にとっての身体は資本だ。それが動かなくなれば冒険者を続けるのは難しい。
「そんなこと、俺は気にしないってのに……」
「……やっぱり、恨んでますか?」
「恨む?」
俺はまったく思ってもいなかった質問に、思わずキョトンとしてしまった。
「ギルドの方から聞きました……お母さんを探して、ずっとダンジョンに潜ってたって」
「恨むわけないだろう。ライラは昔っから自分勝手に全部決めて、冒険者だって、ライラが勝手に登録して」
褪せることのない思い出。それらはすべてが輝いていて、どんな宝石だって、夜空の星々の煌めきだって、この輝きには勝てない。
「それでいて、どうしようもないくらい責任感が強くて、優しくて、誰よりも大切だったんだ。それを恨むそんなわけないだろう?」
ミールの顔に張り詰められた緊張の糸が若干解ける。そこまで緊張する必要が、どこにあるというのか。
――むしろ。
「恨まれるなら、俺のほうだろう。ライラを置いてダンジョンから逃げて。ミールのことだって、今さっきまで知りもしなかったんだ」
「いえいえいえ! 母がよく話していたんです。名前は最後しか教えてくれませんでしたが、父はカッコよくて、強くて、優しくて、素敵な魔法使いだって」
ミールの言葉はどれも跳ねるように楽しそうで、俺にはそれがどうしても嘘には聞こえない。
「ていうか、無魔さん……じゃなくてウィズさんとかのほうが良いですかね? あっそれかお父さんとか?」
「いや、無魔で良い」
いや、やっぱりお父さんのほうが良いか? ……いや、今更父親を名乗る資格などないか。
「じゃあ無魔お父さんで……へへ」
俺の葛藤などつゆ知らず、ミールはどんどん距離を詰めてくる。
「……まぁ、なんでも良いが」
俺は噴水の縁から立ち上がると、ローブをはたく。
「あ、もう行きますか?」
若干寂しそうに、俺を見上げるミール。
「あぁギルドの受付は六時までだ。パーティ申請が間に合わなくなっちまうからな」
「――っはい!!!!」
パッと明るくなる表情。
歩き始めた俺の後ろを、カシャンカシャンと軽快な音を立てて歩いてついてきた。
「パーティ申請したら、焼肉でも行くか」
「良いですね!! 行きましょ行きましょ!」
結局、生き返りの妙薬など眉唾で、ライラを生き返らせることもできなかった。
それでも、俺はもうちょっとだけ、冒険者を続けてみることにしようと思う。
白銀が俺のパーティから旅立つそのときまで。




