城の主と騎士の息子
アリリエルがリンの掃除当番を引き受けたのは、只アリリエルが親切をしたい、ということだけではない。アリリエルは窓から太陽の位置を確かめる。太陽が丁度ミリア城の真上に来ている。つまり、城に住む者たちが昼食を始めるまであともう少しの猶予がある。急げばまだ間に合うかもしれない。
アリリエルはバケツを持ち直して使用人用の通路を進む。
使用人用の通路では城の住人とすれ違うことは無い。ミリア城で給仕しているほとんどのメイドはこの迷路のような通路が繋がっている先を覚えることが最初の仕事になる。マルサの様な礼儀作法を修得している品格高いメイド長であれば主と同じ廊下に出ることが許されている。だが、メイドの大半は貴族の様式美などにまったく馴染みがない田舎者だ。本人にどれだけやる気があろうが、王族の居住区域を歩く許可は下りない。
掃除を行うメイド以外なら。
アリリエルは狭い通路を迷うことなく、目的地に向かう。子どもにとっては急勾配な階段を跳ねる様に駆け上がった。
三階に位置する小さな部屋は授業を行う教室として使われている。
アリリエルは少し扉を開き、教室の中を覗き込む。中に生徒はいつもふたりしかいない。
鋭い眼をした少年が難しい顔で教科書を睨みつけている。猫の毛の様に柔らかい金髪を掻きむしり唸る少年の名はフィアデル・ロッソという。歳は十歳。ルデリミスラ王国の騎士団長ベルキース・ロッソの嫡男である。
机に突っ伏してうたた寝している少女はシズリア・ミリア。歳はフィアデルより一つ下の九歳だが、正真正銘このミリア城の主人だ。短く整えられた前髪の隙間から丸いおでこが覗いている。まるで定規で直線を引いたような長い眉は気が強そうな印象を持たせているが、そうでなくてもシズリアはアリリエルが知る人間の中でもっとも気が強い。
分厚い教科書を片手で開いている初老の教師クゼ・パリストンがやる気のないふたりの生徒の間をゆっくりと通り抜ける。
クゼはシズリアの後頭部をパカン、と教科書で小突いた。
美しく纏められた栗色の髪の無事を、両手で抱えて確認するシズリア。痛みと恥ずかしさで頬を赤く染めている。シズリアは咄嗟にフィアデルを確認したが、フィアデルは未だに教科書に向かって唸っている。
教室を覗いているアリリエルはくすり、と笑った。
いつもの様にモップを手に取り、掃除の振りをしながらクゼの授業に聞き耳を立てる。
「およそ十年前、このミリア区は我らルデリミスラ王国の属国となり、繁栄を享受しました。ここまでは宜しいか?」
アリリエルはクゼの授業を聞くのが好きだ。メイドという身分では教育は受けられない。だから、可能であれば仕事の合間、この時間に教室の前に来る。
「旧ミリア国の教育水準は著しく遅れており、ルデリミスラ王国の国民なら誰しもが嗜んでいる哲学はおろか、旧ミリア語以外の読み書きさえできず……、うわっ! なんだ!?」
クゼの悲鳴に思わず教室の中を覗き込むアリリエル。
そこには小鷹が教室の窓から迷い込んで飛び回る姿があった。
クゼが分厚い教科書を振り回し、小鷹を追い出そうとする。その様子をシズリアは真っ赤な顔で笑いを堪えながら、しかし、机の下で足をバタバタさせているのだった。
「勉強って退屈だな……」
フィアデルだけが教室の緊急事態に気が付いていない。フィアデルは参ったという様に教科書から顔を上げる。
「先生、黄昏の時代の歴史を教えてよ。ルデリミスラ王国の勇者セドニス・アルディンの大冒険の物語をさ。って、あれ……?」
顔を上げてようやく小鷹に気が付いたフィアデルの机の脚をシズリアがちょこんと蹴る。
「もうちょっとだけ先生を見ておきましょうよ……!」
小鷹は扉の隙間から教室を覗いていたアリリエルに目掛けて一直線に飛んでくる。
「……っ!?」
アリリエルは体勢を崩し悲鳴を上げそうになったが、その口から声は出なかった。
クゼを含めた教室の三人がアリリエルを見ている。
驚いているクゼと眉を潜めるシズリア。そして、嬉しそうなフィアデル。
「アリリエルも入って来なよ!」
フィアデルの誘いに戸惑い、アリリエルは教室の扉から一歩下がる。モップを握りしめる手に力が入る。
教育は上流階級が嗜むものであることをアリリエルは知っている。それを羨ましがって盗み見ている自分は彼らの目に浅ましく映っているに違いなかった。
「勉強したいんでしょ? なんだったら、僕の代わりに授業を受けてくれてもいいし……」
アリリエルはモップで顔を隠し、かぶりを振る。
フィアデルはそれを見て可笑しそうに笑った。その隣でムッとするシズリア。
「アリリエルは退屈しないなぁ」
机から立ち上がり、フィアデルが扉の前に歩いてくる。
「ほら、遊ばない。アリリエルは屋敷メイドの仕事があるんですよ」
呼び止めるクゼの声にフィアデルが反応する。
「でも、アリリエルは僕の姉上だぞ? 教育を受ける権利があるでしょ?」
呆れたようにため息をついたクゼは教科書でフィアデルの頭を小突く。
「フィアデル・ロッソ。貴方はロッソ家の血を継ぐ子です。片や、アリリエルは孤児。いくらベルキース・ロッソ騎士団長が彼女を受け入れたとはいえ、身分が違うでしょう? 受け継ぐべき血を持っていないのだから」
フィアデルは納得のいかない様に眉尻を下げる。
「きっと、父上はそうは言わないよ」
アリリエルに笑いかけるフィアデルの瞳。
それを避ける様に、申し訳なさげにアリリエルは目を伏せた。
クゼがアリリエルの前で扉を閉め、教師として粛然とした態度でフィアデルに振り返る。
「理想を語るのは結構ですが、勉強が出来ない子は将来誰にも相手にされませんよ」
シズリアは目を細めて、扉の裏側にいる筈のアリリエルを睨んでいる。
「アリリエルみたいな、何も言えない馬鹿になるのは嫌だわ、私」
シズリアの憎まれ口を聞いたフィアデルの眉間に不機嫌な皺が寄る。
「謝れよ。アリリエルは僕の家族だぞ」
挑むような眼差しでフィアデルを睨み返すシズリア。
「なら、私はフィアデルの許嫁じゃないの」
クゼは今にも喧嘩になりそうなふたりの間に割って入る。
パカン、パカン。
教科書がテンポよくふたりの頭を跳ねた。
「ミリア区の元王族とルデリミスラ王国最強の騎士の息子が結婚すれば、将来的にミリア人とルデリミスラ人の親睦は確実に深まります」
渋々机に戻るフィアデルとシズリアを見て、クゼは教壇に戻る。
「ですが、おふたりが簡単な勉強も出来ない穀潰しと分かれば、国民は誰も言うことを聞いてくれなくなりますよ」
シズリアは軽く机の脚を蹴って、「ちぇーっ」と文句を垂れた。




