3.海の町からの来客
「ごめんください……」
木製のドアを、トントンと控えめにノックする音が響いた。
その音に、工房の中央で作業していたリュウはまったく反応しない。
細かい調整に集中していた。
耳には入っているのだろうが、反応する気はないらしい。
事務所兼設計室から飛び出してきたリリィが、やれやれと肩をすくめながら答える。
「はーい! 少々お待ちを、なのね!」
ちらっと、無視を決め込んだリュウに冷たい視線を向ける。
「お客様なのね……少しぐらい顔を出すのね」と言いたげだった。
ドアを開けると、そこには一人の男性が立っていた。
黒いスーツ風の長衣に身を包み、細身の体躯。
年齢は三十代後半ほどか。見た目に気を配った、営業マン風の人間族だった。
彼は深々と頭を下げ、丁寧な口調で名乗る。
「お忙しいところ、失礼いたします。わたくし、ランヒルドから参りました――
ノルク商会のラガン・ノルクと申します。あの、こちらのご主人様でいらっしゃいますか?」
そう言って、懐から丁寧に名刺を差し出す。
リリィは名刺を受け取り、軽く頭を下げた。
「いえ、私は助手でして、主人は――」
そのとき、すぐ背後から声がした。
「私が……ここの責任者ですが。どいったご用で?」
突然、リュウがひょっこりと現れ、リリィの背後から顔をのぞかせた。
「うわ!!」
リリィが驚いて飛び上がる。
やがて三人は、事務所兼設計室のテーブルを囲んで座った。
紅茶が置かれ、少し硬めの空気が流れている。
ラガンが礼儀正しく話し始める。
「この度はお忙しい中、ご対応いただき、誠に――」
「要件はなんでしょうか? 開発依頼ですか?」
営業トークの導入をあっさりと切り捨てるリュウ。
目線はラガンではなく、目の前の書類にあった。
「ちょ、ちょっと主任……!」
リリィが肘でツンツンと突きながら、小声でたしなめる。
「お客さんのあいさつくらい、ちゃんと聞くのね……」という苦笑いを浮かべた。
ラガンも苦笑いを浮かべながら、やや無理やり話を戻す。
「それでは、本題を……」
ラガン・ノルクは、ノルク商会というランヒルドに本拠を持つ商人で、
海に面した町で漁業を主とした商いをしているという。
「弊社では漁船を使用しているのですが、最近、回遊する大型魚が増えておりまして。
現行の船ではスピードが足りず、逃してしまうことが増えているのです。
そこで――早い魚に追いつける、高速漁船の開発をお願いできないかと」
リュウとリリィは顔を見合わせ、「なるほどなのね」と頷く。
リュウが何か口を開こうとした、その瞬間。
「ところで、開発費、それとその後の権利については、ご予算は決められておりますかなのね?」
リリィが一歩前に出て、テーブル越しにまっすぐラガンを見据える。
その鋭い問いに、ラガンは少し驚いた表情を見せつつ、テーブルに置いていた一枚の紙を裏返し差し出す。
リリィがそれを受け取り、ざっと目を通した。
「開発費、金貨100枚。開発後の権利は、ノルク商会が全保有……なのね……」
リュウが「あ、じゃあこれでいいんじゃ――」と、OKサインを出しかけたその瞬間。
バン!!
机の天板をリリィが平手で叩いた。
「こんな安い金額じゃ、開発はできないのね!!
しかも、そちらが権利を保有するのでは、なのね!!!」
リュウとラガンがビクッと同時に肩を跳ねさせた。
リリィは席を立ち上がり、指を三本ぴんと立てて突き出した。
「開発費はこの三倍はいるのね! 船は材料費が高くつくのね!
それに遠方搬送費もかかるのね!」
その勢いと迫力に、ラガンもたじろぎながら汗をぬぐう。
「で、では……三倍の金貨三百枚で……」
言い終わらぬうちに、リリィがすばやく手を差し出した。
「交渉成立なのね!」
ラガンも慌てて立ち上がり、手を握り返す。
握手の瞬間、リュウが思わず目を細める。
二人の手のひらに浮かぶ魔法陣が、ぼんやりと光りログを記録した。
それは、この世界において正式な契約の証明だった。
「……責任者の俺を無視して契約が成立した……」
リュウが小声でぼそっとつぶやく。
数分後。
ラガンとの簡単な打ち合わせを終え、彼は満足そうに工房を後にした。
リリィは笑顔でドアを閉め――そして振り返った瞬間、鬼のような形相でリュウを睨んだ。
「主任!! さっき金貨100枚で契約しようとしたのね!!!」
「いや……だって……100枚あれば十分……だった、かも?」
リュウは冷や汗を垂らしながら、笑ってごまかそうとする。
だが――
「今はなのね!! 物価が上がっているのね!!
100枚じゃ、船の材料しか買えないのね!! 人件費も、運送費も出ないのね!!」
「そ、そうなのか……物価、そんなに上がってんだ……」
後頭部をかきながら後ずさりするリュウ。
しかし、リリィは容赦しない。
「少しは世間に目を向けるのね! この商売音痴が!!」
彼女の怒号が工房にこだまする。
「だいたい、ランヒルドまでどうやって船を運ぶのね!?
運送費だけでもバカにならないのね!!
それに、私の給料もままならないのに!!」
リュウは「す、すみません……」と蚊の鳴くような声で謝っていたが――
その後、2時間にわたってリリィの**説教&経営勉強会(強制参加型)**が続き、
リュウは魂が抜けたような顔で椅子にもたれていた。