第七章:希望と恐怖のあいだで
リィナはすくすくと育っていた。
まだ言葉は拙いけれど、ネフィルの名前を呼ぶその声は、曇った空の下で唯一の陽だまりだった。
「フィル、だいすきー」
小さな手が柔らかい羽に触れ、くるくると笑いながら回る。
それはまるで奇跡のような光景だった。
僕は、彼女の小さな手をそっと握り返した。
笑顔を返しながらも、心の片隅ではこう分かっていた。
この幸せは、長くは続かない。
その日も、僕は白い制服に身を包み、店のホールに立っていた。
リィナは園の奥、保育部屋で他の小さな天使たちと共に過ごしている。
彼女の無垢な笑顔を思い浮かべては、心を強く保とうとした。
けれど──
「君、可愛いねぇ……少しこっちに来てくれない?」
甘い男の声。吐息まじりの距離感で、客が手を伸ばしてきた。
一瞬、後ずさりそうになったが、それがルール違反だと自分に言い聞かせる。
天使から触れてはいけない。けれど、客が天使に触れることは、黙認されている。
それがこの店の、いや、この世界の「常識」だった。
僕は何も言わず、感情を殺し、ただ俯くしかなかった。
肌を撫でる指先。
羽をなぞろうとする手。
獣族の鋭い爪が、耳の付け根をかすめる。
気持ち悪い、やめて……
けれど、それを口に出すことはできなかった。
“それ”を拒んだ天使がどうなるか、知っているから。
最も尊厳を奪われる瞬間は、痛みよりも、耐えることが正しいとされるときだった。
―――
その夜、園に戻るとリィナが膝の上によじ登ってきた。
「フィル、だいじょぶ?」
無邪気なその声に、涙がこぼれそうになる。
この子はまだ、何も知らない。
何も、知らないままでいてほしい。
「うん、大丈夫だよ。フィルはつよいからね」
嘘だった。
でも、守らなければ。
リィナだけでも、絶対に。