第一章 はじまりのひ
序章:空に祝福された日
高く澄んだ空に、白い羽が舞っていた。
風に誘われるように、ふわりと旋回して、やがて光の中に溶けていく。
「ネフィル、こっちこっち!」
仲間の声に振り返る。
白い翼がふわりと揺れ、大きな耳に風が触れた。
「待って、ティエル」
声の主を追いかけて地面を蹴る。
雲の上を走るみたいに飛んで、太陽の光のなかで笑い合う。
ここは、天空の島。
人間の目には映らない、高く高く空に浮かぶ、天使たちの楽園。
ここでは争いも、痛みもない。
僕はまだ幼くて、小さな群れの中で、兄弟みたいな仲間たちと暮らしていた。
食べ物は空から落ちる露の果実。
寝床は雲の綿。
朝は鳥と一緒に歌って、夜は星の下で踊る。
「ネフィル、またぼーっとしてる。ほら、捕まえた!」
ティエルが背後から飛びついて、僕の翼に顔をうずめる。
くすぐったくて、思わず笑う。
僕もティエルを抱き返した。
白い翼が重なって、一枚の大きな羽みたいになる。
あの時間は、夢みたいだった。
本当に、夢だったのかもしれない。
夕方、空に赤い光が差し込んで、雲の隙間から地上が見えた。
遠くで、何かがきらめいている。
小さな音。煙の柱。
「……あれ、火?」
ティエルが呟いた瞬間、胸の奥がざわっとした。
そのとき僕は、まだ知らなかった。
あの小さな煙が、すべての終わりの始まりになることを。
あの日を境に、空の色が少しだけ変わった。
風がざわつきはじめて、鳥たちは群れをなして、東から西へと移り始めた。
「最近、地上のほうが騒がしいね」
寝転がっていたティエルが、ぼそっと呟く。
僕も、それを感じていた。
遠くの地平線が霞む日が増えて、夜になると、ときどき地上から赤い光がちらちら見える。
風が重い。
雲の流れが鈍くて、どこか湿ったにおいがした。
「……なんだろう、嫌な感じがするんだ」
耳がわずかに揺れる。
僕たち天使は、感覚にとても敏感だ。
風の流れ、雲のざわつき、空気の重さ、そして
地上に生きる者たちの、心の波。
どこか遠くで生まれた不穏な気配が、僕たちの羽に、冷たい痛みを刻んでいく。
「……空の守りが、弱まっている」
群れの長老が、そう言った。
天空の島は、はるか昔から結界に守られていた。
それは、天使たちが築いた、目に見えない壁。
地上の者たちを近づけず、空と地の境界を保ってきたもの。
でも今、その結界にひびが入っている。
「地上で、戦争が起きている。かつてないほどの、大きな戦争だ」
長老の言葉に、僕たちは息をのんだ。
「武器の力で、空を裂くほどの衝撃が生まれている。……このままでは、結界が保たない」
誰かが小さく呟いた。
「じゃあ……この島は……?」
「ー墜ちるかもしれん」
その言葉に、僕の羽が小さく震えた。
空はざわつきはじめ、風は鋭さを増し、
鳥たちは空へ逃げていき、雲は渦を巻き始めた。
あれほど穏やかだった空の海は、いつの間にか、深い不安を孕んでいた。
胸の奥に、なにか冷たいものが広がっていく。
けれど、この楽園が本当に崩れ落ちるなんて、誰も思っていなかった。
だって、ここは空の島だ。
何十万年も、誰にも触れられずに守られてきた、僕たちの場所。
……それでも、その時は近づいていた。
この空に祝福された島が、地上へと堕ちる日が。