「クレイドル」……簡単には見つかりそうもないぞ
――クレイドル。
この名前はトゥブアン皇国においては男性名に用いられる部類で、地域によっては差もあるだろうが、けっして珍しい名前でもない。
そう。平凡で多数を占めているわけでもないが、この名前の主を尋ねて「ああ、あの人ね」とハシュが喉から手が出るほど欲しい情報を持つ者は、すくなくともハシュに対して親身になってくれた四月騎士団の文官には存在しなかった。
これには正直、血の気も引く。
皇宮内に設けられている三つの騎士団に所属する人数は、合わせて小さな数字を先頭にした数百人規模。
全員が全員を見知っているとはさすがに思わないが、それでも即座に彼らの記憶に引っかからないとは……。
他の同僚をつかまえて、もし「彼」のことを知っている者を見つけたら情報を聞き出して教えてあげようと親切にも言われたが、その是非を聞くには明日、ふたたび四月騎士団を訪ねなければならない。
激務の伝書鳩に、そんな時間の余裕があるだろうか?
――誰かまわず尋ねれば、存外早く割り出せる。
そう思っていたハシュは、最初からこの場渡りの計画に不安を隠せなくなった。
それは、ハシュが四月騎士団の庁舎の玄関ホールに姿を見せるまでただ黙したまま姿勢を正しく立っていた一月騎士団所属の衛兵もおなじで、わずかな可能性をこめて彼に尋ねてみたものの、
「――そうだね。私の祖父が偶然にもその名前だけれど、彼は騎士団に所属した経歴はないし、住まう地域も皇都とはかなり離れている」
馬を走らせて七日の地域で牧畜業を営み、いまも現役で牛の世話をしていると、衛兵がつけ加える。
彼は優美なしぐさで白手袋をはめたそれを口もとに当て、ふむ、と考えるようすを見せて、
「まさか四月騎士団団長も祖父に会いたいと思わないだろうから、これは完全に人ちがいだろうけど」
「……ですよね」
さすがに一騎士の身内、それも対面もしたことがない老爺を相手に、さすがの四月騎士団団長も呼びつけるようなことはしないだろう。
ハシュは申し訳なさそうに頭を下げる。
「残念なことに、私の知人にその名を持つ者はいなくて。調べてみれば幾人か割り出せるだろうけど、――待てるほど、いまのきみには時間もなさそうだし」
「す、すいません……」
せっかくの申し出に、ハシュはもう一度頭を下げた。
誰もが協力的に人海戦術でも行おうかと提案してくれるが、先の四月騎士団の文官たちにも頭を下げたように、彼らが本来使うべき就労時間を自分のために割いてもらうわけにはいかないし、お願いしたら是非の確認のために足を運ばなければならない。
だいたい、初対面の伝書鳩が気安く誰かに物を頼むなんて、おこがましいにもほどがある。
できることなら、お願いします、と頭を下げたいのが本音だったが、新人騎士の文官であり、伝書鳩である自分に些少でも心を砕いてもらうだけでも充分ありがたいことなのだ。ハシュにだってそれぐらいのわきまえはある。
なので、ハシュが下げる頭の意味は「そのお気持ちだけで充分です」という彼らに対しての感謝だった。
何より、ハシュが集中しなければならない事柄は人探しではない。
書類集めだ――。
――ああ、嫌だなぁ……。
こんなにも精神的に追い込まれている気がするのに、頭のなかは書類第一主義だなんて。これではすっかり、上官たちの書類に命をかけるそれに染まりかけているではないか。
意識を失ってもつぶやく言葉が、書類、とは。
「急にお伺いしてすいませんでした。その、いろいろあって……四月騎士団団長が会いたいと――実際は、連れてこいとの表現だったが――仰せになられたので……」
受けた覚えはないのに、受けざるを得ない状況になって……。
ハシュはうなだれてしまう。
そのようすに衛兵は何となく察し、
「直截所属する騎士団は異なるけれど、我ら一月騎士団を統括する四月騎士団団長のご気性は存じ上げている。――なかなか手強い宿題をいただいたね」
「宿題だなんて、そんな」
――むしろ、時限式の爆弾を首に付けられた気分かも……。
ぽつりとつぶやくと、衛兵は「不思議な表現をする子だな」と思ったのか、ふふ、と微笑する。
「でも、あのロワ団長が二日かけて探していいから会いたいなんて言うとは。その方はいったい、団長に何をしたんだろうね」
「その場で雷を落とされないなんて。そ、そんなすごい人、いるんですか?」
「さぁ、どうだろう」
思わず尋ねるハシュに、優美な衛兵は目を丸くして、そして笑う。
呼び出し、つまり説教。
その構図は無意識のうちに衛兵にも確立されているらしい。
ただ、説教が目的だとしても、すぐに連れてこいと言わなかったのが何とも奇妙だ。彼の性格上、その場で秒読みを開始して「連れてこい!」というのがつねだと思われるのに。
高圧的で、高慢で。
人を見下すような言動、それがあからさまな視線、さも当然のような気配。
だがまるで、彼だけに許されたような、洗礼された所作のような態度。
――あの人の手を焼かせる? 人がいるなんて……。
こちらはおかげで意識まで失ったというのに!
ハシュが、むぅ、と頬を膨らませてしまうと、「見ていて飽きない子だな」と内心で思う衛兵が、
「もし、そんな方がいるのだとしたら、失礼ながらぜひお目にかかりたい。できることなら期限までに、きみがその方を連れて皇宮の御用門を通ってもらいたいものだけど」
「――存在……しますよね? 皇宮内の人数で簡単に割り出せないだなんて。もしかすると十月騎士団にも何人かはいると思うんですが、俺、そこまで先輩方や上官のお名前を覚えきれてなくて……」
「すまない、力になれなくて」
「い、いえッ、これも伝書鳩の……俺が受けた仕事ですのでッ」
――いや、ほんとうに受けた覚えはないんだけど!
もしかしたら、魑魅魍魎のように書類が跋扈するつながりがある十月騎士団になら、その該当者がいるのかもしれない。その線も濃くなってきた。
目先の嘆きに囚われるぐらいなら、さらに半歩先にある展望を持て、だ。
申し訳なさそうな表情を見せる衛兵に、気にしないでください、とハシュは全力で頭を振る。これがまずかった。先ほどまで意識を失っていたので、これをしたことによってハシュはまためまいを起こしかけてしまう。
どんなに激務でも、簡単にめまいを起こすようなことはなかったというのに――。
「あ……」
「危ないよ。――きみは庁舎内で意識を失ったっていうじゃないか」
刹那、目の前がくらりとして、足もとがよろめいてしまう。ハシュは転びそうになってしまったが、衛兵がハシュの腰に手を回して支えてくれた。
それはあまりにも紳士的で、自然な動きだったので、ハシュが憧れる「騎士」そのものの所作に思えてしまい、ハシュは照れながらも惚けてしまう。
そう!
こういう「騎士」になりたいのだ、自分は!
寝言で、書類、とつぶやくような「騎士」で一生を終わらせてなるものか!
どうも憧れがとなりにいると、めまいとはちがう意味合いで足もとがふわふわとしてしまう。
「あ、あの、もう大丈夫ですッ、すいません!」
ハッとしてハシュはあわてて離れようとしたが、その身体を衛兵がさりげなくも互いを密着させるように引き寄せる。
白手袋をはめた優美な手がしっかり腰に触れると、思いのほか相応の男性的手だなと思える――ハシュの感覚でいえば、年上のお兄さんって感じだなぁ、と思えるそれ――感触があった。
そのせいでハシュを気遣う衛兵の顔が近くなる。
「だめだよ。ここで転倒して万が一怪我でもしたら、きみの案内役として私が自分を許せなくなる」
「え、えっと! お気遣いなく!」
「おや、つれない」
照れて恥ずかしがると、ハシュには自然と目もとが潤んでしまう癖がある。
本人はあまり気にしたこともないが、そうなると左目もとにあるほくろが妙に印象づいて、恥じらうようすが好ましく他者の目に映ってしまうのだ。
そんな不思議な感覚に、衛兵も無意識にまばたいてしまう。
その彼をもってしても、「クレイドル」という名を持つ相手をこの場で正確に割り出すことができなかった。
けっしていないわけではない。
ただ、面識や交流の範囲でその名前を持つ者がいなかったのだ。
――クレイドル。
その名前はけっして珍しいとは思えないのに……。
それでも。
まだどこの誰かもまったくわからないが、ハシュは「彼」を十二ある騎士団のどこかに所属する人物だろうと仮定する。
その全騎士団の所属人数はいま、脳裏に浮かべたらそれこそふたたび意識を失うが、どう考えても底意地の悪そうな四月騎士団団長のことだ、じつは一般人を探していたなんてことはあり得ないだろうし、「連れてこい」という口ぶりからして、彼らの対面は一度や二度ではないはず。
けれども、その割り出しが困難を極める。
「十二月騎士団は修練の少年兵で構成されているから、まず該当外だろうし、三月騎士団は現在休団中だし……」
四月騎士団と接点が濃いのは、やはり皇宮内で統括されている一月、二月騎士団。そして彼自身が長を務める四月騎士団。
職務の関係上濃密なのが、ハシュが所属する十月騎士団。
あとは実際に政治面に一切関与はしないにしても、国事、政治の国府である五月騎士団とも接点はありそうだ。
ここに集中するのは、やはりおなじ文官。
――とすると……。
一切関与しないという点では、軍事面もそうだ。
武官で構成されている騎士団は、彼の該当から遠ざかるだろう。とくに剣技の六月騎士団、海軍騎士の七月騎士団、騎馬隊構成の八月騎士団はあまりにも接点が低いと思われる。
でも、あの性格で目につくものに黙り、口を挟まないなんてことは考えられないし……。
むむむ、とハシュの脳内で謎解きのような仮定がはじまる。
「きみはロワ団長に対して、ずいぶんな印象を覚えたようだね」
「えッ、いえ、そんな」
心理的中を突然言われてハシュは焦るが、
「たしかにロワ団長は厳しい方だけれど、端々まで目配せし、つねに公正、適材適所のコントロールに長けている。さすがは皇宮諸事の一切を取り仕切る騎士団の最高位でいらっしゃる、と私は思うけど、きみの目にはそうとは映らなかったようだね」
「そ、それは……」
できることなら、そうです、ときっぱり断言して見せたかったが、対象の相手が団長位となると、うわべだけでも否定するのが新人騎士の礼儀というもの。
だが、目は口ほどに物を言うハシュのそれに、衛兵は苦笑する。
「でも、公正さにまちがいはない方だ。そこは信じてほしいかな」
――いや、それ無理。
――絶対に疑惑しか残さない、模範的な表現だと思う。
衛兵ほどの立場があって、高潔さを求められる一月騎士団の武官であれば、他者の人となりを口にするのにも一言一句、配慮も必要になるだろう。
上官の評価を最低限の位置で食い止める、下官の配慮常套句。
いまのハシュにはそうとしか聞こえなかった。
そして――気がついたときは行きとおなじで、ハシュは自分がどこを歩いているのか、周囲を見やる前に先ほどの御用門のところまで来てしまっていた。
行きよりも話に夢中になってしまったとはいえ、こうも簡単に周囲を見やる暇も与えてくれないとは。一度は断念した皇宮内周囲の景観の眺めも、つぎこそは見てやろうと、ハシュは勝手にその「つぎ」に闘争心を燃やしてしまう。
――でも、つぎって……。
できることなら永遠にその機会がなければいいのに……。
そう思うのが本音だったが、二日後にはその機会はあっさりと巡ってくる。
そのとき、自分はどんな顔をしてこの御用門の前に立っているのだろうか。
そのときも、いまもとなりに立つ衛兵がいて、自分を案内してくれるだろうか。
何より――、自分のとなりに「クレイドル」と名前を持つ人物が立っていてくれるだろうか。
やはり気になってしまうと、きりがない。
そんなハシュを他所に、衛兵が正面に向かって軽く手を上げると、ハシュが騎乗してきた黒馬がべつの衛兵に手綱を取られて歩いてくるのが目についた。足どりは幾分重そうだったが、すぐに出立できるように用意されている。
黒馬はハシュを見るなり、ようやく見知った顔に会うことができてほっとしたような表情を見せてきた。黒馬にとっても皇宮内の空気は、ハシュが戻るまでの休息の間、いささか居心地が悪かったようだ。
緊張から解放された黒馬を見て、ハシュもようやく小さく笑う。
「ごめん、待たせてしまったね」
抱きつきこそしなかったが、ハシュも心底身を預けられる相手――黒馬に安堵して、その首もとに顔をつけ、額を当ててゆっくりと黒馬を撫でる。
その間、衛兵たちはごく短く、互いの耳もとで何かをささやき合っていた。黒馬を連れてきた衛兵は、ハシュを案内してきた衛兵にうなずき、表情をわずかに険しくする。
どうやらハシュが、四月騎士団団長との初対面で酷く緊張して意識を失ったと端的に聞かされたようだった。どうやら気に入られたらしい、と揶揄を含ませ、そのぶん、とんでもない宿題を言い渡されたようだ、とつけ加える。
つまり気苦労の圧で倒れたのか、と理解すると、黒馬の手綱を取る衛兵がこのままハシュに手綱を渡していいものかと、やや渋る。
「これから騎馬で急ぎ十月騎士団の本庁舎に戻るようだけど、体調がすぐれないようなら護衛をつけようか?」
などと配慮してくるので、ハシュはそれこそ「とんでもない!」と頭を振る。
どこの世界に、十二ある騎士団のなかでもっとも「花形」と称される一月騎士団所属の衛兵を持ち場から離して、帰路をともにさせる新人騎士の文官がいるというのだ。しかも、立場は伝書鳩だというのに!
気持ちは嬉しいが、もしそれを現実にしてしまったら最後、ハシュは十月騎士団本庁舎に戻った直後に直截の上官から容赦のない落雷を受けるのは必至。
「いえッ、そんなッ! ご配慮をいただけただけで充分です!」
「でも、ひとりの帰路で落馬でもしたら……」
落馬――。
その言葉を聞いた瞬間、途端に黒馬が癇に障ったような表情を見せた。
自分の騎手に対し、誰がそのような無様をさせるものか!
そう衛兵たちを威嚇するように眼光険しく、前足を踏み鳴らしてくる。もし馬に鋭い牙があるのなら、黒馬は惜しみなく口もとを歪ませながらそれをぎらりと見せていただろう。
「こ、こら、どうしたの?」
突然気分を荒くする黒馬にハシュはあわてて押さえるが、黒馬は眼光を衛兵たちから逸らさない。そのようすは、まるで不機嫌極まりない黒衣の騎士のようでもあった。
「この子はずいぶんと、きみを慕っているようだね」
鼻息の荒い黒馬の威嚇など気にも留めず、衛兵たちが苦笑する。
ハシュもこれには困ったように笑い、
「日々、この子を全力で走らせているので、いまはすっかり気の合う相棒のような存在です。十月騎士団のなかで一番の俊足なんです」
そう評価するハシュの本音に安堵したのか、黒馬の気性は途端に落ち着いた。
できることならもっとハシュから誉め言葉を聞いていたかったが、残念なことにこの伝書鳩にはとにかく時間がない。黒馬は、早く乗れ、とせかすようにハシュを鼻先で押してくる。
ハシュも、そうだった、と思い出し、手綱を手にするなり素早く足を上げ、鞍に手をかけて身軽そうに身体を持ち上げて、流れるような所作であっという間に乗騎してしまう。
たしかにずいぶんと騎馬に慣れた一連の動作だったので、衛兵たちは危うく感嘆の口笛を鳴らすところだった。
「――あ! すいませんッ、非礼は充分承知していますが、時間がないのでこのまま騎乗で帰らせてください!」
黒馬の背に跨って、ここはまだ騎乗禁止区域であったことを思い出すが、衛兵たちも特段咎めようともしなかった。むしろ、その先にある門前に立つ装飾槍を持つ衛兵たちに、大目に見てやってほしい、と軽く合図を向けてくれた。
「落馬には充分気をつけて」
さらに温情の言葉を向けられる。衛兵たちの破格の気遣いに、ハシュは思わず気安く手を上げて返してしまった。
白を基調とした軍装の衛兵――一月騎士団の武官に向かって何て非礼をッ、と思ったが、もうこの際だ。
ハシュは数歩ほど黒馬をゆっくりと前進させる。
そして、
「はッ!」
行くよ! と腹を蹴って合図を送るなり、黒馬がもっとも得意とする瞬発力を発動させてスタートを切る。
身なりは新人騎士の文官で、話している最中は表情の多い明るい少年の印象が強かったが、こうして意気揚々と騎馬を走らせる姿は、現役の武官騎士に見劣りしない魅力があった。
「――あの子だろ? 騎馬隊の八月騎士団が欲しがっていた馬術の得意な子は」
それは馬術にも長けている衛兵たちでさえ素直に見事だなと思えるものがあって、好奇心が疼いてくる。
「ちょっと、あの子とは騎馬戦でもしてみたくなったな」
ひとりが目を細めて、かたちのいい顎を撫でると、すぐそばの衛兵がねめつける。
「おい、子どもに剣を持たせて本気で突っ込む気か? あの子、吹き飛ぶぞ」
「いや、そうじゃなくて競馬のほう。俺もスタートには自信があるからさ。お相手願いたいなって」
「たしかに。――あの瞬発力を見せられたら、ちょっと勝負してみたくなるよね」
彼らはそんな雑談をしながら、ハシュを見知っておこうと心に刻む。
これはハシュ本人が聞けば、即時卒倒するだけの名誉でもあった。
だが彼らの会話は長くつづかなかった。
ひとりが「カツ」と足音を鳴らした刹那、彼らは一片の表情も変えない皇宮の門前に立つ衛兵、その身辺を警護する衛兵として機能的な顔に戻る。
そのうちのひとりである、ハシュの四月騎士団の庁舎までの往復を案内した衛兵は、すでに遠ざかる騎馬の影を見やり、ぽつりとつぶやいた。
「……よりにもよって、クレイドルさんを探す羽目になるとはね。――前途多難だよ?」
夕暮れにはまだ早かったが、それでもすでにそれに近い午後の時間を迎えていた。時報ではないが、これくらいの時間になると自然と風向きが変わる。
夏のようなただ熱い空気を攪拌させるような風はもう吹かないが、周囲の樹木の葉が涼やかに揺れる音を聞くと、季節は確実に秋に向かっているな、と感じるものがあった。
さて、あの疾風のような競走馬を扱う少年……伝書鳩は、無事に「彼」にたどり着くことができるだろうか――。