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さすがに意識を失いました

「――ふはははははッ!」


 何とも言い難い、奇妙で恐怖を覚える笑い声が背後から聞こえる。

 奇妙――、と思えたのは、冒険書物にでも書かれているような悪役の笑い方を実際に熟してしまう男性がいるとは……と感じたそれ。

 恐怖――、と思えたのは、きっちりと前髪を七三に分けた黒縁眼鏡の高圧的な彼が、こんなにも高らかに笑うことができるのか……と感じたそれ。

 どちらの比率が勝って鳥肌が立つのかはわからなかったが、ハシュにとって彼は完全にこう位置づけられた。


 ――この人、敵にしたら絶対にヤバい人だッ!


 もちろん、味方にしたところで充分に厄介極まりないだろうが、とにかくとんでもない人に遭遇してしまった事実に震えが止まらなくなっていた。

 ハシュは、早くこの笑い声に蓋をして隔離しなければ、と思い、あわてて「四月騎士団団長執務室」の扉を閉める。ずいぶん乱暴な音を立ててしまったが、だからといってやり直すわけにもいかない。

 扉を閉めた瞬間、心臓に直截ひびくような笑い声は小さくなったが、先ほどの会話で何に機嫌をよくしたのか、四月騎士団団長の笑い声は止まらない。

 けっして薄くないはずの扉越しから聞こえる彼の笑い声に意識が負けて、ハシュは扉に背をつけたまま、その場にずるずると腰が抜けたように座り込んでしまう。

 これは、彼の高慢な態度に心底恐怖してのことではなかった。

 ほとんど経験したこともない、わけのわからないまま相手の調子に巻き込まれたことに呆然とし、ようやくのことで退室できたことの安堵に気が抜けたのだろうと思われる。


「な……何で……」


 自分がこんな目に遭うのだろう……。

 自分はただ、十月騎士団所属の伝達係として、正しい手順で上官が必要とする書類をこの四月騎士団から受け取るために訪ねたというのに、どうしていきなり自分の失言――失言? あれは失言の部類に入るのか?――のせいで十二月騎士団に所属する学長が呼び出されることになり、ハシュが知りもしない「クレイドル」なる人物を探せと、どう考えても彼の私的な用向きでしかない事柄を命じられ、従わざるを得ない状況になってしまったのだろう……。


 ――学長はともかく、クレイドルって誰ッ?


 ああ――ッ。

 できることならいますぐ恩師である学長に詫びを言いに駆けつけたいが、その前にいま預かった書類を一度、十月騎士団の本庁舎に届けて、すぐに五月騎士団の庁舎に書類を届けに向かって、それから……。

 それから……。

 こうなった以上、どこに焦点を当てれば動きがまとまるのか。

 とにかく急がないと、時間が……。書類が――。

 クレイドルっていう名前、忘れないようにしないと……。

 そんなことより早く状況を整理して、行動に移さないと……。

 だがハシュは、立ち上がりたくても貧血に近い感覚で目の前が暗くなっていくそれに耐えきれず、身体がさらにかたむいてしまう。

 もはや書類の受け渡しよりも、四月騎士団団長から下された宣告刻限が気になりすぎて、秒針の音が妙にはっきりと聞こえてくる。

 それは幻聴に囚われはじめたのか、それとも近くにある柱時計の振り子の音がそうと聞こえるのか。


「――大丈夫かッ? 意識はまだあるか?」


 声をかけてきたのは、四月騎士団団長の執務室まで案内をしてくれた四月騎士団の文官だった。

 ハシュが最初の入室に手間取ったとき、自身の保身のためにハシュを蹴り込んで執務室に放り込んだ極悪人だが――すくなくともハシュには、そうと印象が残ったが――、いまは心配そうに目の前で膝をついてきて、手を伸ばして頬をさすってくる。

 意識はまだあるか、と問われたとき。


 ――この執務室に入り、退室するときは意識を失うのが普通なのか!


 と、普段のハシュであればそう思ったが、いまはとてもそんな思考までたどり着くことができない。


「下に食堂がある。少しそこで休みなさい。――立てるか?」


 ハシュの目もとがいよいよ虚ろになりかけているのを察し、文官は周囲を見やって大きく手招きし、救護の要請をかける。扉前で腰を下ろしたまま意識を失いかけているハシュを見るなり数人が駆けつけて、心底同情するようにそれぞれが自身の額に手を当てた。

 彼らの深いため息が、四月騎士団団長の日常と性格を物語っている。


「団長の笑い声が聞こえたから、何事かと思っていたけど……」

「とにかく部屋前から離れないと。――団長は気配に聡い。いつまでも扉越しで呆然としていたら、それこそ今後も格好の餌になる」

「この子、団長とは初見ですよね。なのに、あそこまで高笑いさせるなんて、何をして気に入られたのです?」


 ――気に入られた……?


 彼らはいったい、何を言っているのだろう?

 ハシュは残る意識のなかで聞き捨てならないことを耳にするが、それに対しても、もう口も動かない。

 そんなハシュを見やり、自立歩行は無理だろうと判断して、周囲のなかでもわずかに体格に優れた文官が見かねてハシュを抱き上げる。

 ハシュは目に見えて小柄ではなかったが、十七歳の標準的な少年として見るには細身だったので、あっという間にその身体は文官の腕のなかに収まってしまった。

 先ほどはじめて四月騎士団の庁舎内の足を踏み入れ、周囲を見やったとき。

 誰もが淡々としていて、行き交う姿に「スマートだな」と印象も抱いたが、それでも全体的にどことなく冷たい印象を感じたのも否めなかった。

 だが、ハシュがこうして意識を失う寸前にいると、どこかで寝かせたほうがいい、いや、何かを飲ませるほうが先だ、などと半ば真剣に議論しているようすに本来は人情味があるのだなと思えるものがあった。

 きっと、彼ら文官があまりにも淡々としているように見えたのは、ひとえにこの四月騎士団の長が「彼」だからという理由の一択だろう。

 彼を頂点にして、動きに無駄を作ることのできる者などいやしない。


 ――ああ……。


 ほんのすこし……。

 ほんのすこし、目を閉じていたい……。

 そう思ってハシュは目を閉じると、一気に頭の先から緞帳が下りるような感覚が全身に伝わる。その重みに沈められるように、ハシュは意識を失ってしまった。


「――おいッ、大丈夫かッ」


 ハシュを抱き上げている文官とはまたべつの文官が頬を軽く叩いてくる。

 完全に意識ごと脱力したハシュに、その触りはまったく感じることはできなかった。



□ □



「――ッ!」


 ハッと気がついたとき、ハシュは見知らぬ文官の腕のなかに収まっていて、彼の膝の上に横抱きにされるような姿勢を取っていた。

 武官も文官も、軍装の基本は詰襟。どういうわけか、その首もとの着衣が鎖骨付近まで緩められている。


「――気がついたか?」

「へ――? え、あ、あの……?」


 至近からの声がけに、ハシュは不思議に思えてまばたいた。

 ハシュは、自分がわずかな間とはいえ意識を失っていたことを知らない。

 あわてて現状を理解しようとして、まずは自分を膝の上に乗せている文官から離れようとしたが、まだ上手く意識が働かない。身体もうまく動かなくて、ハシュはぼんやりとした目もとを回復させようとしながら周囲を見やる。


「きみはね、団長の執務室を出たらすぐに意識を失ってしまったんだよ」


 自分をその執務室まで案内してくれた文官がそう言って、


「ここは、我々四月騎士団の庁舎内にある食堂だ。ほんとうは仮眠室に連れて行ってやりたかったんだが、きみがうわ言で、書類、書類とうなされていたから」


 そう言ったのは、いまもハシュを膝の上に乗せている文官だった。

 横抱きにされている姿勢のまま文官の顔を見やると、まるですこしだけ年の離れた兄のようなしぐさでハシュの頭を撫でてくる。彼は文官にしてはどこか野太い印象があった。


「伝書鳩はほんとうにご苦労な職務だな」

「……え、えっと……」


 ――書類がうわ言だなんて……。


 いったい、何の夢を見ていたのだろう?


「す、すいません……、俺、その……」


 ハシュは顔を真っ赤にしてしまうが、周囲の文官たちは思いのほかそれを冷やかす真似はしなかった。

 文官になれば、誰もがその悪夢を経験する。

 しかも一度や二度ではない。

 ゆえに彼らはハシュに対して同情的であったし、わずかに顔色悪く意識を失っていると、どこか優美に近く整った容姿と左目もとのほくろが奇妙な雰囲気を醸し出して、彼らの庇護欲を一瞬で掴んでしまったらしい。

 ただし、彼らの内情をハシュが知る由もない。

 どうやら自分は、四月騎士団団長の執務室を出たあと、極度の緊張と恐怖から解放されてわずかの間意識を失っていたようだった。

 それで仮眠室に連れて行かれて寝かされそうになったが、「書類」とうわ言をつぶやいてうなされるようすがあまりにも不憫だったようで、起きたらすぐに何かを口に入れられるよう、四月騎士団の文官たちが利用する庁舎内の食堂に運ばれて、その意識が戻るのを待っていてもらったらしい。

 それでも意識が戻らなければ、いまごろ傍らには医師が呼ばれて脈を計られていたかもしれなかった。

 ハシュの周囲には四、五人の文官がいて、長テーブルのひとつを囲んでいる。

 いまはまだ就労の時間なので、食堂を利用している文官たちの姿はすくない。

 食堂は一堂に会することができるよう天井の高い大広間のようなところに長テーブルが並び、それに沿うように長椅子が置かれている。正面には厨房があって、いい匂いがしているのは夕食の仕込みも大詰めを迎えているころなのだろうか。

 ハシュの目の前にはレモン水が用意されて、「まずはこれを飲みなさい」と促される。

 そのそばには具材を柔らかく煮込んだ、簡単なスープが。

 それもおいしそうな匂いがしていたし、鼻をくすぐられると小腹も空いてきたが、ハシュはわずかに乾いた唇と喉を潤そうと思い、恐縮そうにレモン水のグラスを手に取った。ひと口飲んで、もうひと口味わって、それで深いため息をうなだれるように吐ききると、ようやく思考の働きも戻ってきた。

 さすがに、これ以上文官の膝の上に座りつづけているわけにもいかなかったので、もう大丈夫です、と言ってハシュは腰をずらしてとなりに座りなおす。


 ――これから忙しくなる。


 ひょっとすると、今日は夕食をどこかで食べる時間も取れないかもしれないから、いま、目の前にあるスープも食べてしまおうか。

 せっかく用意してもらったのだから……と思う一方で、なぜ自分がやたらと時間を気にするのか。ハシュは、はて、と思ったが、次第にその心理と思考が一致する。


 ――そうだよ、俺ッ!


 スープはこの際食べてしまうが、ここで呑気に時間を過ごしている場合ではなかった。

 十月騎士団に戻って、大急ぎで五月騎士団の内務府に走って、それから十二月騎士団の宿舎に向かって……。

 そう言えば、自分が戻るのを待っている一月騎士団の衛兵が、この四月騎士団の庁舎の玄関ホールにいる。彼にも職務があるのだからこれ以上待たせるわけにもいかないし、自分をここまで連れて来てくれた騎馬……黒馬も早く迎えてやらないといけない。


 ――ああ、もう! やることが多すぎる!


 あと……。

 あとは……。

 何か肝心なことが記憶から抜けていたが、それも唐突に思い出すことができた。


 ――そうだよ! 探さないとッ!


 名前は確か……、何と言っただろうか……?

 そう、確か――。

 ハシュは勢いよくスープを口にして味わうのもそこそこ、ごくりと飲み込むと、つぎの開口一番に求めたのは、まだ見ぬ人物に対する切実な情報提供だった。


「あ、あのッ、クレイドル、っていう人を知りませんかッ?」

「クレイドル?」


 ハシュは身を乗り出して、うなずく。

 これだけ人がいれば、すぐに「彼」にたどり着けるかもしれない。

 最初に「クレイドル」を「彼」……男性だと目途をつけることにしたのは、その名前が女性には付かない名前であったからだ。


「お、俺、四月騎士団のロワ団長に人探しを命じられたんです。――クレイドルっていう名前の人なんですけど!」


 皇宮内ではどのように各騎士団の立ち入りが制限されているのかは知らないが、それでもここに所属する騎士団は、武官の一月騎士団、おなじく武官の二月騎士団。

 そして――。

 それら武官を統括し、皇宮諸事の一切を取り仕切る文官の四月騎士団と構成されているので、全体の人数でいえばけっしてすくなくもない。

 その統括の長である四月騎士団の団長が呼び出しに指名するくらいなのだから、「彼」はすくなくともここに出入りしている「騎士」だというのが推測できる。

 ならば、立場もハシュのような新人ではないだろうし、団長に呼び出されるとなると立場もそれなり、もしかすると上層部に近い存在かもしれない。

 ひょっとすると「彼」は四月騎士団の文官かもしれないし、皇宮内全体で考えれば、四月騎士団は当然、一月、二月騎士団の面々と顔の馴染みもあるだろう。

 ハシュは自分を囲む文官たちの面識に一縷の望みをかけたが、


「……その人を呼びに行けばいいのかな?」

「ロワ団長には、どこに所属している人だと聞いている? 教えてくれれば、かわりに呼びに行ってあげよう」


 ありがたいことに周囲の文官たちは協力的なようすを見せてくれたが、ハシュに情報を尋ね返すことによって、かえってハシュを絶望に追い込んだ。

 レモン水とスープと。

 ようやくのことで喉と唇を潤し、小腹も満たされて目も冴えてきたというのに、


「――え……?」


 四月騎士団の文官たちは「彼」を知らないようすだった。

 生気を取り戻そうとしていた顔色は、ふたたびハシュから遠のいた――。

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