「クレイドルを連れてこい」
「受け取れ」
「は、はいッ」
言われて、ようやくのことでハシュが顔を上げると、顔面に突きつけられたのは封筒がふたつ。厚みはなかったので、封筒に入っている書類自体は枚数もすくないのだろうというのが読み取れた。
――たった、これだけのために……。
十月騎士団に所属する伝達係は日々、「行け」と言われたら「どこへでも」の精神で奔走しなければならないのだろうか。
最初のころは当然、職務を忠実にこなそうと懸命だったが、それも慣れてしまえばたかが紙のために日々足を使い、馬を使い、疲労困憊に奔走するために憧れの「騎士」になるため、十二月騎士団で二年間の厳しい鍛錬を経て修了したわけではないのに……と、やっぱり思ってしまう。
無論、それはハシュだけではなく、伝達係を任じられてきた歴々が思ってきた事柄だろう。
だが――。
国事、政治、軍事、それぞれの面で重要とする書類の裁可押印は一枚とて疎かにはできないし、信用があるからこそ運ぶことを任されている。伝書鳩は軽んじられる職務ではない。
厩舎の厩務員にもそうと言われたが……。
「――だいたい、書類に判を捺すだけのことなら、伝書鳩を往復させずともヤツが判子を持って周れば済むものを。そうは思わんか?」
ふん、と手間を煩わしく感じるように鼻を鳴らし、四月騎士団団長のロワが同意を求めてくる。職務の不満を自分自身でつぶやくには問題もないが、他者に自分の役目を堂々否定されるのはさすがに切ない。
「……えっと……」
これは真っ向から伝書鳩の存在を否定する意思があるのか、それとも伝達経路の改善を何か模索しようとしているのか。
ハシュにそれは判然できるものではなかったが、だからといって自身が所属する十月騎士団最高位である団長に判子を持たせ、皇都地域に点在する十二ある各騎士団の庁舎を巡らせ、判子捺しのためだけに奔走させるような真似はできるはずもない。
内心の不満やぼやきとずいぶん矛盾もするが、十月騎士団団長を思えば彼の問いには同意できない。
でも、何か答えたほうがいいのだろうか……と、ハシュも悩み、
「じ……持論ですけど、それをお考えなのであれば週に一度……いえ、月に一度でもいいので、各騎士団団長が裁可に必要な書類を持ち寄り、互いに意見を述べあって、そこで十月騎士団団長が最終的判断で押印すればいいと思います」
「ほぉ?」
もしかしたら十月騎士団の裁可経由が必要で、他の騎士団同士の取り決めを行いたいときに即決権がある団長が互いに同席していたら、それだけで物事も円滑に進むような気がする。
「議題の内容によっては、もちろん即日決定にいたらないものもあると思います。でも、ときには一堂に会して物事を進めたほうが効率的かと……」
極論を言えば、この国にある十二の騎士団それぞれの最高位である団長が定期的に集い、そこで会議し合い、最後に採択裁可に必要な物事に押印が下されればいい。もちろんハシュに具体的策など浮かびもしないが、伝書鳩として日々を奔走しているとそんなふうに思えることもあるのだ。
ただ、実績も何もない新人騎士の文官が何をえらそうに持論を口にするなんてと思い、ハシュはあわてて口を塞ぐ。
それを見て、四月騎士団団長は黒縁眼鏡の奥にある鋭い目つきをつまらなそうに細めてくる。問うたほうにしてみれば、落第点だったらしいのが見てとれた。だが、その目つきが妙に突き刺さる。
「つまりそれは――伝書鳩を廃止し、職務多忙な団長自ら足を使え、と。その単純発想で上層部だけが国事を担えと、貴様は言うのか?」
「い、いえッ、そういう意味ではなくて」
「では、――どういう意味だ?」
「どう、と言われても……」
――だいたい、似たような持論を先に口にしたのはそっちなのにッ。
鋭く問われてハシュは返答しようとしたが、言葉が浮かぶはずもなかった。
無論、十二席に着座することができる各騎士団の団長を軽んじて言ったわけではない。国事、政治、軍事、それぞれに権限を持つ長が集うからこそ円滑に物事が進むような気がしただけなのだ。
そう思ったから口にしただけで、論理的に納得がいく基盤など考えてもいない。
ハシュは深々と謝罪の低頭をする。
「申し訳ございませんでしたッ。短絡でした」
「何が短絡だ、それ以下だ。まったく――十二月騎士団の教官連中は少年兵の雛鳥たちに何を教えているんだ?」
「そ、それは……」
――あれ?
いまの会話で、どうして「騎士」の基礎を徹底して修練させる十二月騎士団の教育方針に飛び火するのだろうか。
ハシュは低頭したまま眉根を寄せる。
だが、四月騎士団団長の口は止まらない。
「どうやら雛鳥だけが説教の対象だと思いこみ、気が緩んでいるのかもしれないな。だとしたら、貴様の短絡は教育の成れの果てということになる。――これは由々しきだ」
「……」
もう一度考えてみるが、どうしてそのような発想につながるのか。
ハシュには彼の独特の思考がまったく読み取れない。
しかし、言動からしてすでに雲行きが怪しい。それだけは直感できた。
もしかすると、自分の発言が原因となって教官らの教育方針云々に綾がつき、何かしらの咎を受けることになるのだろうか。いや、まさか。でも……。
ハシュは恩師たちに彼の叱責が向かわぬよう願ったが、目の前の四月騎士団団長がどれほどの性格の持ち主なのか、――ここで身をもって知ることになる。
「伝書鳩、さっそく用件ができた。喜んで受けるがいい」
「へ……?」
――たしかにこき使ってやるぞと一方的に言われたけど、まさかほんとうに?
刹那、反射的に顔を上げてしまったハシュは自分がどんな顔をしていたのかわからなかったが、そのハシュを凝視したまま四月騎士団団長が薄く笑ってくる。
「何、貴様とは初対面だからな。急に難題を押しつけるほど私も鬼ではない。――貴様がこのあとどこへ行くのか、それは私の知ったところではないが、どうせ方々出回っている身だ。ついでに十二月騎士団の宿舎に赴き、学長に伝えろ」
「――ッ?」
学長、と聞いた瞬間、ハシュの心臓が見事に跳ね上がった。
学長というのは、十二月騎士団の少年兵たちに教鞭をとっている学術教官、武術教官を束ねている、文字どおり教官の長だ。
少年兵の普段は敷地内にある宿舎で寝起きし、武術勉学に励んでいる。教官たちも同様に宿舎で生活をしており、老齢の学長も平素はそこで日々を過ごしている。
――まさか、ほんとうに叱責するつもりなのだろうか?
ハシュは目もと、口もとが急に痙攣しだすのを感じて、あわてて手で押さえる。それを見て、四月騎士団団長が心底高圧的にほくそ笑んできた。
「今後の教育方針について、四月騎士団団長であるロワが直々に下問すべきことができた、と。直截口頭での伝達を許可してやる。――いや、そこは省いてかまわん。明日の朝一番に、このロワに顔を見せに来いと、それだけを伝えればいい」
「……」
――う、嘘……。
――ああ、どうしてこうなるんだろう……。
ハシュはめまいを覚えながら、恩師たちへの飛び火に、心中で詫びに詫びを重ねる。
だが、ハシュにとっての直近の問題はここからだ。
明日の朝には顔を出すように伝えなければならないとくると、これは急務だ。学長も突然の呼び出しに覚悟を決める時間も欲しいだろうし、なぜそのような出頭命令を受ける羽目になったのか、その理由もすぐに知りたいだろう。
できることなら、この会話で四月騎士団団長の何の機嫌を損ねてしまったのか、学長に教授願いたい。
――でも……。
これからハシュは十月騎士団本庁舎に戻り、そこから騎馬を走らせても片道一時間はかかる道のりの先にある五月騎士団の内務府へと向かわなければならない。そして、そこで受け取った書類を上官に届けるべく十月騎士団へとまた戻らなくてはならないのだ。
ハシュの本業は、あくまで十月騎士団の伝達係。
どう考えても、直截の上官が必要とする書類を最優先で手元に届けるのがそうで、取って付けた他の騎士団団長からの命令は――この内容はどう考えても国事や政治性とは無関係なので、急務と思う必要はないのだが――後回しでもいいのだが、ハシュの本能がすでにその考えのほうが危険だと伝えてくる。
とはいえ、夕刻まであと数時間もないいま、さらに十二月騎士団の宿舎までの行程を付け加えるとなると、経路はかなりの複雑さを帯びる。
十二月騎士団の宿舎に着くころには、とっくに夜になっているだろう。
――しかもッ!
また「ついで」だ。
まったく、どいつもこいつもすぐに「ついで」と言って、まったく「ついで」ではすまない用件を言いつけて移動距離を拡大させてくる。
ほんとうに伝書鳩をこき使うようになると、上官というのは地図の縮図と現実距離の区別もつかなくなるのだろうか?
ハシュは思わず拳を握ってしまいそうになったが、
「貴様が自分で蒔いた種だ。それを私が肩代わりして刈り取ってやろうというのだ。初対面の上官に除草をさせるのだぞ? 感謝してこそ当然だというのに、よもや不服に震えているのではなかろうな?」
「そッ、そのようなことはけっして……」
「無論だ。初対面の伝書鳩に不服と思われるほど、私も安くはない」
――こ、この人との会話は疲れる……。
とりあえず、本来の目的であるここでの用は終わった。
上官から言いつけられた書類は受け取ることはできた。ここにはもう用はない。あってたまるものか!
あとはこれ以上の面倒ごとが起きないうちに退散するだけだ。
ハシュはすぐさま身を翻そうとしたが、
「――あと」
唐突に付け加えるような声を背中に受けて、ハシュはびくりとしてしまう。あとすこしで扉の取っ手に手がかかるというのに、足のほうが先に止まってしまった。
――まだ何か言うつもりなのか、この人はッ!
嫌な予感しかしないハシュは、ふり返るのが怖かった。
けれども背を向けたまま言葉を受けるのは、他騎士団とはいえ、この国に十二ある騎士団の十二しかない団長席に着座することができる相手に対し、さすがに不敬だ。しかも相手が悪すぎる。
ハシュはどうにかしてふり返ると、四月騎士団団長のロワは腕を組んだまま窓越しに寄りかかっていた。
それはただの姿勢だというのに、彼がするととことん相手を侮っているように思えてならない。だが同時に、不思議と彼だからこそ似合う姿勢にも見えてしまうから、印象というのはじつに怖い。
この場に長くいたつもりはなかったが、秋口の日差しのかたむきは思いのほか早く、室内に差し込んでいた陽光は薄い黄金色となって日差しの位置を変えていた。夏とはちがう高さで東のほうを向いている。
――そうだ、日の入りの時間を忘れていた!
これまですっかり夏の日差しで時間を計っていたので、すでに陽のかたむきがこれでは五月騎士団を出るころにはあたりも夜の色へと転じているだろう。
皇都の中心部は町や人家の明かりで周囲を見やるのに不自由はないが、点在する敷地間の道中に夜を不安に感じさせない灯りはない。
これ以上用を言いつけられては、完全に夜道を騎馬で駆るしかない。
馬術は得意だが、灯りのない夜道を駆るのはさすがに怖い。
――ああ、逃げたい!
そんなふうに思って、ぎゅっと目を閉じると、
「これは急ぎではないから、二日待ってやる。――クレイドルを連れてこい」
「……は?」
――……?
「えぇ……と……」
いま、彼は何と言ったのだろう?
これまでの会話から、また唐突に話が逸れた。
――誰を連れてこいと?
しかも拒否権なしの命令口調ときた。ハシュは思わず目を開けてまばたいてしまう。
「お、恐れながら、ロワ団長。あの、いま誰を……いえ、どちらの方をここまでお連れしろと?」
――クレイドル?
ハシュにとってその名は初耳だった。
珍しい名ではないと思うが、すくなくともすぐに顔が浮かぶ相手ではなかった。
この流れでいうと、明日の急な呼び出しが決定してしまった十二月騎士団の学長の名前でないのは確かだが、だったら誰だろうか。
なぜ、いきなり?
恐る恐る尋ねると、四月騎士団団長は呆れたようすで思いのほかの柳眉を動かしてくる。
「何だ、伝書鳩は一度では言われたことを理解できないのか」
「も、申し訳ございません……。その、そうではなくて、自分には面識のない方のお名前でしたので、どちらにいらっしゃる方なのかな、と」
「それはいま、私が貴様に教えなければならないことか?」
――いやいやいや。
教えてもらわないと声のかけようもないし!
ハシュは心中で不満げにつぶやくが、これ以上余計な口を開いてなおのこと叱責を重ねるわけにもいかない。不満をぐっと堪え、
「不勉強で申し訳ございません。ですが、存じ上げない方のことですので……万が一まちがっては失礼にあたります」
どうしてここで、自分が謝罪に頭を下げなければならないのだろう。
理不尽極まりない彼に、ハシュは怒りとめまいが同時進行をはじめてくらくらとしてきたが、四月騎士団団長から口を割るようすはなかった。
それどころか、
「伝書鳩。貴様はどうして労と取ることを厭うのだ? 私が犬か猫に会いたいとでも思っているのか?」
「い、いえ、そのようなことは」
「だったら、奴を知っている誰かを探し、奴の居場所を聞いてたどり着けばいい話だろう」
「ごもっともですが……」
――その「奴」とやらを断定する必要があるから、尋ねたというのに……ッ。
「そうとわかっているのなら、なぜ聞く? ――貴様は馬鹿か?」
――何でそうなるんだッ!
ハシュはほとんど叫びたくなった。
ただでさえ伝書鳩の日々は時間に追われているというのに、名前だけを頼りにどこの誰とも知れぬ相手を正しく探し出し、「四月騎士団団長がお呼びです」と伝える暇などあるものか。
今日はもうそれどころではないというのに、「二日待つ」ということは、じっくり探す時間を得たとしても中一日しかない。
だいたいそれは、ハシュでなければ都合が悪い事柄なのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
だが、受けた覚えはないが受けた以上、与えられた猶予までに探しきれなかったときは、いったい自分はどうなってしまうのだろうか。
それは考えただけで身の毛がよだつ。
――あとは……。
数時間前、上官に「臓器以下」と罵られた脳を最大限に駆使して、受諾よりも拒否に話を巻き返せないだろうかと必死に逃げ道を探ったが、――四月騎士団団長はすぐそばの机の引き出しに手をかけて、一通の封筒を取り出してくる。
そして、ずいぶんと意味ありげにそれをハシュに見せてきた。
「伝書鳩。――これが何かわかるか?」
「封筒です」
見た目のまま素直に答えると、一瞬鼻白むようすの彼がいたが、
「じつを言うと、こちらが最優先の書類でな。貴様に渡しそびれたことをいま、思い出した」
「それって……」
絶対に嘘だッ、と今度こそ声に出かかったが、実際叫んだところで彼の有利が揺らぐわけではない。むしろハシュの不利が増えるだけだ。
「二日後に渡してやると言ったら――やる気も出るだろう?」
「~~~~~ッ」
そうして、声に出さずとも不利に不利が重なっていく。
こき使われることを宣言されたハシュには、すでに拒否権というものが存在しなかった。
いったい、初対面の伝書鳩を苛めて何が楽しいというのだろう……。