ハシュの国、トゥブアン皇国
ハシュが生まれ育ち、新人文官とはいえ「騎士」として忠誠を誓い、仕えている国の名は――トゥブアン皇国。
世界地図を広げると、いくつかある大陸のなかでは最小で島大陸とも言われているが、文化中心圏とされている西の大陸の中央諸国地域が丸ごと入ってもまだ余るほど国土は広大で、しかも建国以来一国で統制されている。
――頂点に立つのは、皇帝唯ひとり。
皇族や王族といった、歴々からの家系血筋を重んじる世襲制ではなく、おどろくことに選出制。
もともとトゥブアン皇国には王侯貴族といった身分制度や、地位や立場を代々受け継ぐ家系や家柄、特定的な継承対象がないので、唯一皇帝以下はすべて平民平等という考えが浸透し、そこから権力を有し、抜きん出ようとする者もいない。
勿論、業種によってはあるていどの上下関係の立場を必要とするが――これが顕著に表れているのが十二ある騎士団だが、それは職務上や統率面でのことで私生活までには及ばない――、一大陸に一国という破格の条件もあって、国内は長きにわたり平和、国民の気質は明るく、穏やかだ。
唯一皇帝の御座所である皇宮は、国の中心地域に置かれて「皇都」とも呼ばれ、国内ではもっとも人口が集中している。
おかげで住まう人々によって、絶えず活気とにぎわいがあった。
――同時に。
十二ある騎士団の庁舎が点在ではあるが皇都地域を中心に配されているため、武官、文官、それぞれの騎士団に所属する騎士も多く住んでいることもあって、じつは公私で彼らを目にすることはけっして珍しくはない。
近所のおじさんが、じつはどこそこの騎士団では上層部に立つ高官だったり、井戸端会議でにぎわうご婦人方の尻に敷かれている亭主というのが、じつは勇猛果敢な武官だったり……と、視線をひとつ変えて見やると他人事であるうちは結構おもしろい。
職務の最中は大変厳しい面もあるが、皇都も、騎士団も、所属する騎士たちも、その家族も。みなどこか馴染みやすく、鄙びた地方のように気負うことなくのんびりしていて、華のにぎわいというよりも、人々の持ち前の気質で皇都は彩られている。
地方の港町の出身であるハシュには、皇都はそんな印象があった。
――そして。
そんな人々の生活を日々見守るように鎮座するのが――皇宮。
トゥブアン皇国には、例えばゴシック建築のような高層を意識する建築文化がなく、どちらかといえば低層だがそのぶん横に長いか、いくつもの建物を回廊でつなぐ様式が多く、憩いを兼ねた水路も織物のように廻っているため、もし上空から見ることができるのなら、どの建物も紋様のように思えて美しいだろう。
とくに皇宮は穢れなき白亜で建造されているから、その美しさも格別だ。
ただそれは、遠景から皇宮を臨もうとしても適宜に高さのある樹木や城郭によって遮られ、普段は外観さえうかがい知ることもできないようになっている。
それでも十二月騎士団所属のとき、一度だけ公式見学でハシュは皇宮内を訪ねたことがあったが、建物は本宮をはじめ離宮がいくつもあり、それらを繋ぐ回廊、空間を活かした庭園や水路によって、想像以上の広大な印象があって目を丸くしたことを覚えている。
また、他国の宮殿や城を実際に見たわけではないのだが、いわゆる権威の象徴である華美贅沢や、絢爛のかぎりを尽くした豪奢な建物や外観、あるいはそれらに彩られた無数の調度品や宝飾品。それらに包まれた至福な生活、贅沢、色とりどりの華やかな庭園、色彩鮮やかな花園。――そのような印象はまったくなく、空気は粛々と、歴代をただ静かに受け継いでいる神域のような雰囲気があって、尊崇と敬意の念で自然と頭が下がる、そんな独特の空気を感じるのだ。
――それはただただ穏やかで、心地のよい静寂さだった。
むしろ――。
その皇宮を護るように皇宮内に所属する三つの騎士団の庁舎があるのだが、いずれも精鋭の騎士団であって、厳重に護衛警護をされているため、皇宮は彼らの存在のほうがはるかに威圧を覚えてならない。
――十二ある騎士団のなかで、武官のトップは海軍騎士の七月騎士団。
――文官のトップは、「決断の長」が座する十月騎士団。
そして……皇宮内に所属する騎士団のトップが、皇宮諸事の一切を取り仕切る文官の四月騎士団だ。
四月騎士団は武官の軍事面、文官の政治面、これらに一切関わることがなく、唯一皇帝の身の回りのすべてを行うのが日々の務めではあるが、立ち位置が文官のため、万が一の事態では唯一皇帝の身を護ることができない。
そのため管轄下に置いているのが、唯一皇帝の親衛隊である武官の一月騎士団と、皇宮内警護を務める武官の二月騎士団。
――一月騎士団は、十二ある騎士団のなかではもっとも花形で、「騎士」を目指す少年兵たちから絶大な人気と憧れがあり。
――二月騎士団は、つねに影よりの護衛が任務なので、構成も人員も素性か不確か。
この花形と影の騎士団が表裏として皇宮に揃っているだけでも充分に迫力があるというのに、その騎士団を手駒扱いに顎で使うのが四月騎士団。
その彼らに対して、「書類をよこせ」だの、「ついで」に書類を取りに行けと平然と言ってのける、ハシュの直属の上司である十月騎士団。
このとんでもない均衡勢力のなかを「行け」と言われたら「行く」しかない、ハシュたち新人文官の伝達係――通称・伝書鳩。
武官の騎士団に最初から入団が決まっていたら、まず一生味わうことがない恐怖の関係図の真ん中に立たされることもないから、人生経験を積むと腹を括れば、たしかに文官の神経も図太くなるだろう。
だがそれを、たかが三ヵ月の新人に強いるのはどうかとハシュは思う。
せめて皇宮内に面識のある先輩がいれば心強いのだが、あいにくハシュは単身で乗り込むしか術がない。
何せ、ハシュが見知るていどの顔ぶれでは、この皇宮内に所属する騎士団には入団することもできないのだ。
「ほんとうに、俺なんかが入れてもらえるのかな……?」
いまのハシュにできることは、ただひとつ。
とりあえず大きな深呼吸をして、気息を調えることだった。