五月騎士団に到着
それからしばらくして――。
ハシュが騎乗する栗毛色の軍馬が息を弾ませながら五月騎士団の敷地に到着したとき、空の色は東から夜を告げる藍色が西のほうにまで伸びており、薄く残っていた黄昏色がいよいよ空からその色を溶かそうとしていた。
道中でバティアたち十二月騎士団の馬慣らし――通常・お散歩に遭遇し、思わぬ時間をかけてしまったが、彼らと別れたあと、栗毛色にはずいぶんと疾走してもらったのでどうにか視界がまだ周囲を捉える範囲の時間帯で着くことができた。
さすがは軍馬というところ。
栗毛色は体力、耐久ともにまだ疲労を浮かべることなく、その気になればまだ走ることも可能のようだったが、まさか五月騎士団の敷地内にある内務府まで速度を落とさず走らせるわけにもいかない。
ハシュはゆっくりと栗毛色の走りを緩める。
むしろ、ここまで集中を切らさず栗毛色を操っていたハシュのほうが息を切らして、はぁ、はぁ、と肩で浅く速い息をしている状態だった。
額からは滴るように汗が出ていて、栗毛色の脚がゆっくりとなるにつれて頬や顎へと垂れてくる。
ハシュは無意識にそれを手で拭おうとしたが、自分がいま付けている手袋を見てハッとし、文官の軍装の上着、聞き手とは反対の袖口で拭った。そのまま下を向いて、大きく息を吐く。思わず上唇をぺろりと舐めてしまうと、それだけでわかるくらいに乾いているのを感じて、ハシュは軍装の喉もとをすこしだけ楽にしようと詰襟の合わせを止めていたホックを外した。
「さすがに喉……渇いたなぁ……」
騎乗している自分がそう思うのだから、あれから一時間近くの道のりを平すら疾走してきた栗毛色はもっと喉が渇いているだろう。
「ありがとう。もうすこししたら、休ませてあげるから」
言って、ハシュはほとんど歩くだけの速度となった栗毛色の首筋をかるく叩く。
「きみの脚だから、ちゃんとここまで来られたよ」
何だかんだと言って、夕暮れの速度計算以外は頭のなかに浮かべた行動どおりの範囲で動くことができた。
自分で取った時間は自分で巻き返すことができた。
それを可能としてくれた栗毛色には、ただただ感謝しかない。
「――つぎは夜道で十二月騎士団までの道のりになるけど、平気だよね?」
このあともがんばってもらうよ、と告げると栗毛色は「当然だ」と言いたげに鼻を鳴らす。
ハシュはそれに笑った。
笑って、先ほどバティアから借りた乗馬用の手袋を見やってそっと撫でる。
「ありがとう、バティア。……おかげで手を痛めることもなかったよ」
言って、ハシュは大切そうに目を細めた。
□ □
このトゥブアン皇国の国事国政の中枢である五月騎士団の敷地には三つの府庁舎があり、内務府、外務府、総務府と庁舎が分かれており、そこからさらに細々と区分されている。
その府庁舎が管轄する敷地にもいくつもの建物があって、そこで働く文官たちの官舎や食堂、図書館や資料館、庭園などの公私を合わせるとこれまた複雑で、各騎士団から必要な書類が集まり、採決判断を下すことが主軸となる十月騎士団とは異なり、別称・国府とも言われる五月騎士団の敷地は総じて桁違いに広大だ。
――これはちょっとした町の規模にも匹敵すると言われている。
ただ――。
建物自体の造りは十月騎士団とおなじ赤煉瓦造りの低層階建てが主軸で、その風合いに目が慣れているハシュには馴染みやすい印象もあったが、国府だけあって土台にあたる石造りは見事で、階段の段差をいくつか必要とする高さもあるので、おなじ低層階建てであっても、こちらのほうが高さもあって威風もある印象が強い。
そのかわり、どれだけ敷地が広大でも境となる石壁がここにはない。
あえてそのかわりとなる背丈のある樹木が立っているが、これは周囲の森林とほとんど同化していて、それこそ堺がない。
正門、中門と呼ばれる門はあるが、その左右にはおまけていどの石壁があるくらいで、外部に対しての防御や侵入阻止の面としては役には立っていないと思われる。
――この大らかさが、島大陸の一国がもたらす国民性というべきか。
トゥブアン皇国において「外敵」は、主に西の大陸の文化中心圏とされている中央諸国地域がそれに当たり、豊富な資源と農産物、牧畜の豊かな実りで国政が賄えるトゥブアン皇国はつねにその中央諸国地域に狙われ、戦争を持ちかけられている。
幸いにして、島大陸は建国以来一度も「外敵」の足跡をつけたことがないため、トゥブアン皇国は国内の警備や防備は意外と手薄い。身内――この場合は国民――に対しての性善説が強いのも、この面が大きく意識づいているのかもしれない。
むしろ国府はつねに国民のために開かれている象徴なので、門はあっても衛兵や門兵は存在しない。
――もっとも……。
書類の受け渡しや、裁可押印に必要な書類を集めるためには鬼にでも蛇にでも文官はなれるのだ。
その総本山ともいえる文官で構成されている騎士団……庁舎に盗みを働くために侵入する命知らずはそうはいないだろう。
万が一、それを目論んだところで失敗してしまえば、刑罰は一睡もさせてもらえず書籍写本を千冊完成させなければ解放されないとも言われている。
これはきっと揶揄で、真偽定かではないが、文官なら平気でその罰を与えそうだなぁ、とハシュは本気で思えるようになってしまった。
文官を他人事のように思っているが、ハシュも書類を取りに行けと上官に命じられたら、たとえ火のなか、水のなか、を敢行する伝達係――伝書鳩のひとりである。
自分が命を懸けて受け渡しをしている書類に万が一のことがあったら……。
俺だったらどうしよう、などとハシュはぼんやり思う。
――すでにどこか朱に染まりはじめていることを、ハシュにまだ自覚はない。
とりあえず、もうここまで来たのだ。
これ以上急いだところで、今日はもう終わる。――終わってしまうのだ。
そんなふうに腹を括りながら、ハシュは騎乗のまま正門をくぐる。
門の前後、敷地内の道には街灯のような灯篭がいくつもあって、すでに蝋燭で火が灯されている。各建物にも明かりが巡っており、頭上に伸びた夜の暗さとは反して、敷地そのものは明るく感じられた。
懐中時計を取り出して文字盤を見やると、そろそろ文官騎士たちの業務終了を告げる時間になる。
この刻限までに上官から預かってきた書類を渡し、十月騎士団団長の裁可押印が必要な書類を五月騎士団内務府から受け取らないと、明日、朝一で受け渡しに来なければならない。
「わッ、これだけは早くしないと!」
いささか気構えものんびりしすぎた。
ハシュは「あわわッ」とあわててしまう。
そんな騎手を背負っている栗毛色は、「だから言わんこっちゃない」と言いたげに、呆れたため息を吐き出すのだった。
そんなハシュの周囲では、すでに業務を終えた文官騎士たちがそれぞれの持ち場である建物や庁舎から出て、自宅や官舎へと向かう足さばきをはじめていた。
これから所用で庁舎のなかへと向かうのはハシュぐらいだろう。
文官たちの往来が多くなる道のりで、ハシュは栗毛色から下馬し、ひとり周囲の流れに逆らうかたちで歩くことになった。
ハシュは伝書鳩としてすでに何度も五月騎士団を訪ねているが、顔を合わせれば挨拶ていどはするものの、誰かを呼び止めたり、あるいは呼び止められるほどの顔馴染みはなく、ハシュの歩みを止める者はいない。
「ついでに」という言葉がかからないだけ、歩く気分も心地がいい。
――あとは……。
ここに来て、やはり唯一時間を惜しむのは、帰路に向けて文官たちの多くが移動している姿を目の当たりにしたからだろうか。
国府である五月騎士団に所属する文官は、文官で構成される騎士団のなかでは最大数を誇る。
――さすがにここまで来れば、ひとりやふたりぐらい出会える確率もあるだろう。
そう。
――「クレイドル」という名を持つ者に。
五月騎士団を訪ねたのは、もちろん当初の目的である書類の受け渡しがそうだが、ハシュにはそれと同等に、四月騎士団団長に唐突に命じられた「クレイドル」と名を持つ者の手がかりを得なければならない。
五月騎士団に同期といった顔見知りがいないのは残念だが、
――贅沢は言わないから、せめて手がかりでも……。
四月騎士団団長に命じられたときは、一瞬にして心理的圧力のようなものに屈して最優先事項として気焦りばかりをしてしまったが、いざ腹を括り、落ち着きをとり戻してしまうと、本来はどこかのんびりとした部分もあるので、ハシュはかえって気が抜けてしまい、「いたらいいなぁ」ていどにまで途端に重要度が下がってしまう。
実際、手がかりは名前しかないのだから、これ以上力も入れようがない。
意識としてはいい切り替えなのか。
それとも悪い癖なのか。
「……とりあえず、今日は手がかりが優先。情報があれば明日、その騎士団に向かえばいいんだし。いてもいなくても――」
明後日には勝手に期限を決めた四月騎士団団長のもとを訪ねて、結果を報告すれば……さぞや高圧的な態度をとられて罵詈雑言を受けることになるだろうけど、それであの人との縁も切れるのなら安い砲火だ。
耐えきれる。――はず。
ほんとうは理不尽であろうと言われたことに対しては全うしたいと、素直に思う。だがその心情が捻じれて自分の気焦りを生んでいるのなら、手離したほうがいい。
何も、希望に添えなかったところで命を取られるわけではないのだから。――多分。
ハシュはこんなふうに構図を考え直していた。
馬番がいる簡易的な騎馬待機所に栗毛色を預けると、
「このあともがんばってもらうので、おいしい水と餌をあげてください」
と、馬番に頼み、
「ちょっと人探しもしたいから、ゆっくりしていて」
そう言って、ハシュは栗毛色の顔に自身の額をそっと当てる。
栗毛色は、口が利けたら時間に関してかなりの小言を吐きたいようすだったが、自分の脚力に素直に感謝しているハシュにそれ以上は言えない。
行ってこい、と言いたげに鼻先を使ってハシュを押した。
あはは、と笑うと、ハシュもうなずくのだった。