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あの……僕たちはお邪魔ですか?

 十月騎士団の伝達係――通称・伝書鳩である自分と、十二月騎士団団長の彼とでは、どれだけ同期と称しても立場にはすでに雲泥の差がある。

 けれども一番の友人で親友であるバティアは何も変わらず、こうして会うことができて、いつものように話をすることができた。


 ――そう、親友のバティアに会えた。


 そして後輩にあたる十二月騎士団の少年兵……新入生や監督生にも会えて、彼らの馬慣らし――通称・お散歩を見ることもできて、乗馬のようすを見ることもできた。

 監督生は上級生らしく成長してきたし、実際に面識はないがまだまだ雛鳥の顔つきである新入生たちを見ていると、何だか可愛い弟分が増えたなぁ、なんて微笑ましく思えてしまう。

 ひとり騎乗をかなり苦手とする新入生がいて、しばらくその子のことが気がかりになりそうだが、きっと自分のかわりに周囲が支えて馬術を教えてくれるだろう。たとえ上達できなくても、馬を怖がらないようになってくれればそれでいい。

 勿論、ハシュもうわべだけの言葉ではなく、ときおり彼のようすを見に十二月騎士団を訪ねてみようかなと思っている。自分もそうやって馬術の得意な先輩や上級生に教わり、ここまでこられたのだ。今度は自分が、という場面になるのは何だか「先輩」としての実感が湧いてきて、不思議とわくわくしてしまう。

 ただ……。


 ――本来であれば、ここで時間を使う余裕などハシュにはなかった。


 周囲はもう陽が落ちて薄暗さだけが残るようになっているし、ハシュはまだ目的地である五月騎士団内務府にも到達していない。

 そこで預かってきた書類を渡して、あちらから渡される書類を受け取って。

 できればそこで「クレイドル」なる人物の情報を入手して。

 それから十二月騎士団に向かい、低頭謝罪をして……。

 やることはまだまだいっぱいだったが、伝書鳩として過ごした三ヵ月――、ずいぶんと気焦りだけが一人前になってしまったハシュにとって、彼らとの出会いは余裕という気息をとり戻すための、焦りを追い出す息を深く吐き出すことができたし、日常に対しての視野の幅もあらためて調整がとれてきたような気がする。


 ――自分で使った時間は、自分でまき返せばいい。


 いま騎馬としてあつかう軍馬の栗毛色にはそれが可能だし、ハシュにはその脚力をあつかう術がある。

 それに今日の寝泊まりを、バティアが十二月騎士団団長として快諾してくれた。これで野宿の危機は回避できたし、夜にまた会えると思うと嬉しいし、さらにいろいろなことを話してみたい。


 ――そのためにも、残りの仕事をがんばるぞ!


 そう思って栗毛色に瞬発力を与えようとした瞬間、


「あ、ハシュ! ――ちょっと待って!」


 と、バティアに唐突に呼び止められたのだ。

 ハシュも栗毛色も辛うじて止まることはできたが、バティアの声にはどこか切羽詰まるものがあった。これにはさすがのハシュもおどろいてしまう。

 バティアはいったい、何があって自分を呼び止めたのだろうか?



□ □



 ハシュがあわてて栗毛色と止まると、すぐさま白馬に騎乗するバティアが寄ってきた。

 栗毛色は軍馬としてずいぶん勇猛にあつかわれてきたので、気性も荒い部類だ。ハシュには比較的従順だが、見慣れぬ騎馬と騎手が極限まで近づけば大人しくはしていられない。

 刹那、不愉快を露わに鼻息も荒くし、まるで威嚇のように脚を鳴らしたが、ハシュが首筋を撫でながら「落ち着いて」と宥めている間に途端に大人しくなってしまった。

 通常であればハシュが何度か声をかけて渋々落ち着くというのに、どうしてだろう?

 栗毛色の首筋から目を離し、ふと横を見ると、いつものように微笑んでいるバティアがいる。そのバティアから栗毛色が顔を逸らしたものだから、ハシュは何となく不思議に思ってしまう。

 けれども、いちばんの不思議はバティアだった。


「バ、バティア? 何? 急に……」


 呼び止めたりして……とハシュが言葉にしている最中、バティアは心底心配そうな表情をハシュに向けながらゆっくりと手を伸ばしてくる。


「ハシュ……」


 名を呼ぶなり、バティアはハシュの片方の手を取って自分の手のひらの上に乗せて、もう片方の手で優しく包みこんでくる。そのまま愛しそうに碧眼をそっと伏せた。

 一方のハシュは、突然のしぐさに思考が追いつかない。


「――へ?」


 突然自分の手を取ってくるバティアに、ハシュは頭のなかを「?」でいっぱいになる。バティアはいったい何があって自分を呼び止めて、手を取ってきたのだろうか?


「バティア……?」


 と言って、尋ねるようにその顔を覗きこむ。

 ハシュが声をかけるとバティアはゆっくりと目を開け、しばらくハシュを見つめ、その左目のほくろを見つめていたが、


「――やっぱりそうだ。さっきからきみの手もとに違和感があったんだ」

「?」


 バティアが何とも言えない表情で息を吐いてくる。

 すぐに気づけなかったのは、自分の不備だとバティアは思う。

 ハシュとは並行しながら騎乗していたし、自身の顔に触れたり、会話のなかで手ぶりも見せたのに、どうしてその手を怪訝に思えなかったのだろう?

 違和感と言われたが、ハシュにはまだ定まるものが見えてこない。自分の手に何を見つけたというのだろうか。ハシュはわからずきょとんとしてバティアを見やり、ときおり小首をかしげてしまう。

 バティアとしては言葉と態度で最大限示唆したつもりだったが、ハシュのようすをみるとどうも気がついていないらしい。

 もしかすると常習なのか――、そんなふうに怪訝に思うのは嫌だったが、友人……親友として、十二月騎士団団長として問いたださないわけにはいかない。

 それでつい引き止めてしまった――。


「ハシュ。何できみ、乗馬用の手袋をしていないの? 素手で手綱をあつかうなんて」

「へ?」


 問うてくるバティアの言葉に、ハシュはそれでも理解できず眉根を寄せてしまったが、それを見たバティアが困ったような表情をしながら手にするハシュの手を上下に優しく揺する。

 あからさまに「手を見て」というしぐさにハシュの視線が動き、――そこでようやくバティアが何を言いがいのかをハシュは理解することができた。

 ハッとすると、バティアが両手に上質そうな作りの乗馬用の手袋をつけているのに対して、その両手に包まれているハシュの手は素手。


 ――あ、あれ……ッ?


 不思議に思ってバティアに取られている手とは反対の、手綱を握っている手を見やると、こちらの手も素手だった。近い将来武官を目指すには少々細く見える指や手のひらが、何も纏っていないのがはっきりと目につく。

 ひょっとすると、急いでいたものだから手袋のつけ方が緩くて道中で脱げて落ちてしまったのだろうか?

 いや、手袋の構造上、それはずっと手綱を握っているかぎりは不可能だ。

 せいぜい指の付け根あたりで、緩んだ手袋の生地が団子状になっているていどだろう。


「え、いや、その……」

「――ハシュ?」


 思わず動揺してバティアの視線から逃れるように視線を右往左往させてしまうと、普段は穏やかなバティアも訝しむように視線の意味を変えてくる。


「まさかとは思うけど、普段からこうなの?」

「そ、そそ、そんなことないよ! えっと、さっきまではしていたよ!」

「それはブーツも?」

「え――? あ! あれッ?」


 ――俺ッ、いつから手袋していなかったっけ?


 最初、黒馬に騎乗して四月騎士団の庁舎がある皇宮へ向かうときは、乗馬用の手袋もブーツもきちんと装着していた。けれども、いまの手は素手。足もともブーツではなく、通常勤務のときに履いている革靴だった。

 まさかブーツが脱げて、知らぬ間に革靴を履いていた……などというにはあまりにも説明がつかない

 だとすると……。

 四月騎士団から急いで十月騎士団へと戻り、そこで一度上官に受け取った書類を届けに行こうとしたから、そこで手袋を取って、ブーツも革靴に履き替えて、それきりだろうか?

 ハシュは思い出そうとしたが、何せあの前後は四月騎士団団長の顔ばかりが脳裏を支配していたので、冷静な思考など持ち合わせてはいなかった。

 騎乗の際に騎手に何か不備があれば、厩舎の厩務員がそれを即座に指摘してくれるのだが、ハシュは自分が指摘されたのかどうかも記憶にない。


 ――俺、相当あわてていたんだな……。


 さすがに裸足で騎乗していなかっただけよしとするが、馬術に心得あるものとしては素手に平常靴の姿で騎乗する姿は、正直なところ恥ずかしいかぎりだ。身なり不確かで、素人然にもほどがあると失笑されかねない。

 加えて「騎士」としては、あまりにも見栄えが悪すぎる。


 ――俺ッ、こんな格好で新入生の前を堂々と……ッ?


 ハシュはようやく気付いた我が身の恥ずかしさに、沸騰する勢いで顔を赤く染めたが、すぐそばまで顔を近づけているバティアにハシュの不備を咎めるようすはなく、むしろ心配そうにハシュの手のひらを見ている。


「ほら、もうこんなに赤くなっている。痛くはない?」

「あ、ああ……うん」


 そう問うてくるので、ハシュもバティアに包まれている自身の手のひらを見やる。たしかに指摘された手のひらは赤い。

 言われなければ気にもしなかったが、思えば、ときどき手のひらや手にまめができやすい指の付け根付近に擦れる痛みがあったような気もする。

 素手で騎馬を操るために手綱を握っていたのだ。手袋をしていなければさすがに擦れる。

 幸い皮膚はまだ赤みを帯びているていどで、摩擦で荒れたり、切れたりはしていなかったが、拳を握るようにして曲げた指先で触れてみると何となく熱を帯びているようにも感じられる。

 自覚してようやくひりひりと感じるものが継続しだしてきたが、だからといってすぐに処置が必要な痛さでもない。


「大丈夫だよ、これくらい。すこしくらい傷になったって、布でも巻いていれば……」

「――そういう問題ではないよ」


 ハンカチか何か、と、バティアの手が触れていないもう片方の手でポケットに何かないだろうかとハシュは探すが、その頓着のなさにさすがのバティアも咎めるように表情をすこしだけ強める。


「きみが馬術に秀でているのはわかるけど、もう少年兵じゃないんだから、すこしは自分の立場も自覚しないと」

「う……うん、そうだね。これじゃあ、さすがにだらしがないよね。でも――ほんとうに今日だけ、たまたまなんだ。いつもはちゃんとしているよ?」

「ほんとう?」

「ほんとうだって!」


 まるで子どもじみた言い訳をするが、それはほんとうだ。

 だが、その言い訳にバティアが複雑な表情をして着用と不備、どちらがハシュの日常なのかを判断つかずに迷っている。

 ハシュは恥じるように手を引こうとしたが、バティアが離さない。

 それどころか、どうも解釈ちがいをしているハシュに頭を振りながら、


「ハシュ。きみの手は、すでに国事や国政の大事を預かる大切なひとつなんだ。書類は封筒で保護されているけれど、直截触れなければならないとき、万が一手に負った傷で封筒を汚してしまったらどうするの? もっと細かく配慮しないと」

「う……」

「それに、手を痛めてしまったら馬にも乗れない。それでは大切なお役目も果たせなくなる」

「ご、ごもっともです……」


 馬術において装備が必要なのは、何も騎乗する馬に対してだけではない。

 騎手もおなじように指や爪、手そのものを手綱さばきで痛めないように専用の手袋をつけるのが必要だし、いざというときの保護も兼ねて足も平常靴ではなくブーツを着用しなければならない。

 それは、それこそ十二月騎士団の馬術の時間で徹底して教え込まれたはずだというのに。

 戦場を想定しての騎馬訓練に余念がない武官とは異なり、文官は距離の移動に馬の脚が必要なだけなので、乗馬に対する感覚も「乗れればいい」と安全に対する概念が薄れてくる。

 実際、「騎士」で乗馬による怪我は文官のほうが圧倒的に多い。

 ハシュにそのようなつもりはなかったが、実際、あわてて飛び出したときに「乗れればいい」という感覚だったので、この正しい指摘は耳に痛い。

 しかも普段は優しい親友のバティアに言われてしまえば、なおのことひびく。

 ハシュは、しゅんとうなだれてしまう。

 バティアはそんなハシュをしばらく見つめていたが、「そろそろ反省したかな」と、ころ合いを見つけて、いつもの優しすぎる穏やかな表情に戻る。

 そのまま微笑した。


「――まだ道中があるのだから、手は保護しないと」


 言うなり、バティアがようやくのことで手を離してくれて、自身の手袋を外しはじめる。

 ハシュが、はて、と思うと、丁寧に両方の手袋を外したバティアがそれを差し出してきた。どうしたのだろうと小首をかしげると、


「ごめん、持ち合わせはこれだけなんだ。よかったら使って」

「え……?」

「すでに着用しているから使い心地は悪いだろうけど、でも、ないよりはましだと思うし」

「でも、それだと今度はバティアの手が……」


 ようやくのことで差し出された手袋の意味を理解した。

 言葉どおりにバティアの手袋を拝借したら、今度はバティアの手が素手となって、帰りのお散歩道中の際に手を痛める可能性が出てくる。

 立場でいえば、バティアだってすでに十二月騎士団団長だ。

 責任でいえばハシュよりすでに重いものを背負っている。

 それこそ手を痛めて職務に支障が出たら……ッ。

 ハシュはあわてて手袋を押し返そうとしたが、バティアはその手袋を自身の膝の上に置くなり、手のひらを広げてハシュの手をふたたび包みこんでくる。

 今度は素肌と素肌の手が直截重なった。

 え? とハシュは思ったが、


「仕事の面で手を大切してほしいと言ったのも本心だけど、でも俺は、ハシュの手が痛むこと自体が嫌なんだ」

「バティア……?」

「もちろん、手を含めてすべてを大切にしてほしい。きみはときどき――本音は普段からそう思っているが、さすがにいまはその言葉は慎む――すごくそそっかしいところがあるから」

「う、うん……」


 ――バティアはほんとうに俺のことをよく知っているなぁ。


 さすがは親友。

 などとハシュは感心したが、そのそそっかしさは自覚する面もあるのでいまは何も言い返せない。


「ハシュが付けないかぎり、俺はここを動かないよ」


 しまいには、珍しく脅しのようなことを言ってくるので、ハシュは降参するしかなかった。バティアはこうなったら頑ななのだ。


「わ、わかったよ! 借りる、つける、使うから!」


 せっかくの厚意なのでハシュは「ありがとう」と言って、素直に手袋を受け取ることにした。

 受け取るのは礼儀的ではないよと伝えるために、ハシュはその場で手袋をつけて着け心地を確かめるように何度か手のひらを握ったり開いたりしてみせる。


 ――あれ? バティアの手……大きくなった?


 いまはまだ、互いに目立つ体格差はない。

 だから、手の大きさだって差があるようには感じられない。

 直截手の大きさを確認しようと重ね合わせたことはないが、実際手袋をつけてみるとハシュが馴染みやすい感覚よりやや大きい気がする。だがそれは、口にするほどではなかった。

 ハシュはバティアの前で「つけたよ」と言いながら手袋を見せて、着け心地も大丈夫だと伝えるためにうなずいてみせる。


「うん、さすがは十二月騎士団団長の手袋。いい生地を使っているね」

「そうかな? 普通の手袋だと思うけど」

「でも、これなら安心して使えるよ。何だかバティアと手をにぎって乗馬している気分になるから、心強いな」

「そ、そんな……」


 思ったことを素直に口にすると、わずかにバティアの頬が染まった。


 ――ん?


 自分は何か冷やかすようなことを言っただろうか?

 しかも困った顔をするなんて。

 何となく不思議に思えてしまったが、それからふと気がつく。


「ああ、借りた手袋は洗って返すからね。今度届けに来るよ」


 今夜は寝る場所も含めて、バティアが日ごろを過ごす十二月騎士団を訪ねるのだが、夜の再会時にそこで外した手袋をそのまま返すというわけにもいかない。

 今度――とは、そういう意味だ。

 すると、バティアはどこか嬉しそうに笑み、今度は彼にみたらかなり珍しい軽口を叩いてくる。


「ハシュ。そういうときは、今度の給金で新しいのを買って返すよ、って言ってくれないと」

「給金――……そっか、そうだよね。俺たちもう賜っている身だもんね」


 考えてみればそうだ。

 まだ新人給ではなるが、ハシュは「騎士」の号を賜り、国庫からそれを賜る身となった。

 つい最近までは、いつか正式な騎士団に入ったらそんなふうに誰かと言ってみる機会もあるのだろうかと思っていたが、それがもう、いまになっているとは。

 何だかおかしく思えて、ハシュは笑ってしまう。

 バティアもそれにつられながら提案してくる。


「だから、今度会うのなら街に出て、選んだりする時間を一緒に過ごしてくれないかな?」

「いいね、それ。じつを言うと、俺も皇都の街はよく歩いたことがないんだ」


 伝書鳩として騎乗しているときは人通りの多い公道は用いらないし、では休日……非番は何をしているのかと問われたら、つい寝過ごしてしまったり、それでも武官になる夢はあきらめないように、と剣の稽古をつづけている。

 周囲の同期である伝書鳩たちは楽しげ出歩いて、街中周辺も詳しくなってきたのに反し、ハシュは誘われなければ官舎の敷地からあまり出たことがないのだ。

 聞いて、ハシュらしいな、とバティアは思う。


「そうなんだ。じゃあ、迷子になってもハシュを頼りにすることはできないのか」

「あはは」


 ふたりはそのまま他愛ない会話をつづけるが、――さて。

 周囲はというと、じつはこの状況にかなり困り果てていた。とくに目のやり場が。

 ハシュとバティア。

 ふたりが十二月騎士団修了後も変わらぬ友情――なのかどうかは、もう判然もつかないが――を見せてくれるのは、これから二年間ともに過ごす新入生にとっても友人とは、親友とはどういう存在になるのか、それをいい意味で体現してくれるのは喜ばしいのだが、


 ――この人たち、俺たちの存在絶対に忘れているよな……。


 と、監督生は思う。

 なるべくふたりの会話を聞かないようにと心がけ、新入生にも一歩、二歩と下がらせたまではいいのだが、ふたりの先輩の距離は変わらず近い。

 どうやら手袋をつけていないハシュに対し、バティアが自身の手袋を渡したようすは見ていればそれとなく流れも理解できるが、


 ――だからといって!


 互いの額がつくのではないかと思うくらいに顔を自然に寄せ合い、ハシュの手袋の着け心地がほんとうに大丈夫なのかと心配して、その手をバティアがふたたび取る必要があるのだろうか!

 まさかほんとうに、このためだけに騎馬隊列に「止まれ」の合図を出したとは!

 ああ……と、監督生は自身の額を押さえてしまう。

 もとよりバティアの性格は穏やかだ。

 誰にでも優しく接することを、後輩である監督生はよく知っているが、いまハシュを間近で見やるその碧眼の穏やかさときたら……。

 勝手にバティアから離脱し、勝手に先に騎馬隊列を率いて帰れるものならそうしたいが、監督生ひとりではまだ新入生たちのお守りはできない。

 早く帰路を進めないと、騎乗にまだ不慣れな新入生たちを薄暗いなかで歩かせることになる。

 これ以上はふたりの世界に気は遣えない……ッ。

 監督生がいよいよ声を出して割り込もうとした、――そのときだった。


「あ、あの……」


 唐突に声を発したのは、バティアの後方すぐについて老兵軍馬に騎乗していた新入生。

 彼も、彼なりに状況に悩んだのだろう。

 意を決して声を出し、彼は頬を赤く染めたままハシュとバティアを見やって、ひと言、


「ぼ……僕たちはお邪魔でしょうか?」


 などと気を遣っているようで直球をふたりに投げるものだから、監督生は顔面を蒼白させる。

 よく言ったと思うと同時に、いや、もうすこし言葉を選んでほしいと思い、額を押さえてしまうが、そのひと言でようやくバティアのほうから現実に戻った。

 ハッとするなりまばたいて、あわてて周囲を見やる。


「――え? あ、ああ……。そうだったね、お散歩の途中だったね」


 そう口走るようすから、バティアはいまの立ち位置をすっかり忘れていたようだった。

 同時になぜ隊列が乱れたようすで停止しているのかも理解しておらず、監督生たちを見やって首をかしげている。どうやらバティアは、自ら指示した「止まれ」の合図も無意識で送っていたらしい。

 よくそれを咄嗟にまとめることができたな、と監督生は内心自画自賛してしまう。

 それから二拍ほど置いて、ようやくハシュも現実へと意識が戻ったようだった。

 ただし――。

 ハシュは彼らしく、無意識とはいえバティアに顔を寄せていたことに恥じらったのではなく、じつは自分が乗馬用の手袋とブーツを着用していなかったことを後輩に目撃されたことに恥じらって、それで顔を真っ赤にしてしまっているようだった。


「ご、ごご、ごめんね! みんな早く帰らないと! お腹もすいたよね! ――じゃあ、バティア。またあとで」

「う、うん。気をつけて」


 ハシュは自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、とりあえず自分がいつまでもここにいてはお散歩の邪魔になる、それだけは判断できた。今度こそ別れを告げる。

 それに気焦りはもう生まれてこないが、自分だってまだ職務の最中だ。

 早くしないと、五月騎士団内務府の終業時間までたどり着くことができなくなってしまう。武官とは異なり、お役所仕事の文官は終業時間には容赦がないのだ。

 ここで本末転倒を迎えるわけにはいかない。


「――行くよ」


 今度こそ騎乗する栗毛色の手綱に力をこめた。

 刹那、集中しようと自身の頬を叩く。

 それからまっすぐ前を向いて、その顔つきをどこか険しくさせた。

 途端の雰囲気の変化に新入生たちはおどろくが、一気に瞬発力をつけて騎馬を走らせるとき、ハシュの表情は凛とした顔つきになるのだ。

 栗毛色の表情もまるで競走馬のように険しく、騎手の緊張感と一体になる。


「はッ!」


 声を出して栗毛色の腹を蹴るなり、ハシュはあっという間に五月騎士団内務府へと向かう道へと飛び出した。

 その瞬発力と加速力。新入生たちからは感嘆の声が漏れる。

 彼の言ったとおりにきちんと修練に励み、愛情を持って騎馬を世話し、自信を持って手綱を握れるようになったら、自分たちもあのような走りができるのだろうか。それを思うだけで誰の目も敬慕でかがやいてしまう。


「ハシュ先輩――か」


 どうしてもその名を口にしたくて、新入生たちは敬意でハシュの名をつぶやくのだった。



 ――ただ……。


 この場にひとり残された団長の気まずさを思うと、監督生はいたたまれない。

 団長はどのようにして、あの顔の火照りを収めるのだろうか。

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