まさか、騎馬隊を止めた理由がそれ……?
通称こそお散歩だが、これは歴とした十二月騎士団所属の少年兵のための馬慣らし――騎馬隊列だ。
しかもそれを最先頭で率いるのは十二月騎士団団長本人で、馬にはまだ不慣れが多い新入生の隊列で「止まれ」の合図を突然送るとは……。
彼らにとってこれは危険な行為だというのに。
正直、この場で誰よりも監督生が一番意識を混乱させていた。
――理由は……わからない。
だが「止まれ」の合図を出された以上、最後方でお散歩全体のようすを見守る役目の監督生はそれに従うしかない。
監督生はあわてて乗馬用の手袋を外し、親指と人差し指を丸めるように口に入れて吹く、騎手よりも軍馬を強制的に操る口笛での号令、「止まれ」の合図を緊張感を持ってひびかせた。
幸いなことに監督生はこの指口笛が得意なほうであったし、音もよく通る。
新入生たちを騎乗させている軍馬も経験豊富な老兵たちだったので、突然の号令にも動揺せず「やれやれ」と言ったようすでため息をつきながら従ってくれた。
人も、馬も。
いい方向で老熟すると、かえって味わいが増して悠然さが出るのかもしれない。
トゥブアン皇国にある十二の騎士団に所属する騎馬たちは、用途や種類を問わず、この指口笛で動くよう徹底的に調教されるので、いざというときは騎手に号令をかけるよりも騎馬たちの動きを一時的とはいえ強制的に操れるので、利点があるといえばそうだが……。
――その一方で。
馬術の授業では、まだ指口笛のことは口頭でしか聞いていない。
実際の騎馬隊列の最中でそれを耳にするのは初めてのことだったし、音の高さで号令の意味や種類があるなんてこともまだ知らない。
そこにきて突然、自分の意思とは関係なしに老兵軍馬たちが歩みを止めはじめたのだ。いったい何事なんだ、と新入生たちは驚愕と動揺でいっぱいになってしまう。
監督生は即座にそれを悟り、自身の騎馬だけを前へと歩かせて一騎ずつに声をかけていく。
「大丈夫、手綱をしっかりにぎって。いまの口笛は騎馬を止めるための合図なんだ。馬のほうが理解しているから、きみたちからも止まれの合図を出して」
「は、はい!」
「と、止まれッ」
「そう、あわてなくていいから」
すぐにそれが上手くいかなくても、眉根を寄せたり、叱るような監督生ではない。
とにかく大丈夫だから、と騎手である新入生たちの動揺を自分の声で収めていく。新入生たちはぎこちなくも、それに従う。
「ちゃんとできている。――上手いじゃないか」
これは騎馬を止める動作ができていることを褒めて、同時に突然歩行をやめる騎馬の動きで身体のバランスを崩しても、落馬する新入生がひとりもいなかったことに心底安堵し、自身に対する危険回避の配慮が上手くいったことへの安堵の言葉だった。
「みんな、すごい上達じゃないか」
監督生はひとりひとりをよく見て、心底ほっとする。
「よくやった。ちゃんと手綱をにぎれたじゃないか」
監督生は、先ほど騎馬に不安が隠せない新入生のひとりを正確に見抜き、ハシュが近づいて声をかけていた新入生のとなりに並び、ほとんど泣きそうな顔をしながらも、どうにかして周囲とおなじように騎馬の歩みを完全に止めることができた彼を労う。
彼は最初、自分だけに監督生がしっかりと寄ってきたので、何かの不手際で叱られてしまうのではないかと身を竦ませたが、「ちがう」と言って、監督生は頭を振り、表情を柔らかくする。
「ハシュ先輩から教わったこと、ちゃんとできたな」
「こ……これで、いいのでしょうか……」
「もちろん」
新入生はようやくのことで緊張から解放されて、気が抜けたように姿勢もふらついてしまったが、「おっ……と」と咄嗟に監督生が腕を伸ばして支えてくれたので大事には至らなかった。
監督生はしっかりと新入生の顔を見て、うなずき、肩を叩いてやる。
周囲をぐるりと見やると、さすがに直線状だった騎馬隊列は崩れて、右に左に、前後と騎馬の位置は乱れてしまったが、それだけで済んだのならあとは進めの合図のときに正していけばいい。
無理に隊列を直そうとはしなかった。
――それよりも……。
いかなる理由があろうと「止まれ」の合図は隊列を乱し、騎手を混乱させる。
それを知らぬはずもないというのに、ほんとうに、どうして?
ひょっとすると……と、監督生は神妙な顔つきになる。
――この近辺に、何か自分たちに危険を及ぼすものでもいるのだろうか?
トゥブアン皇国は根本的に気風のいい国民性なので、逢魔が時に乗じて何かに狙われるということはほとんどない。
こちらはまだ少年兵の集団だが監督生は剣技にも秀でているし、最先頭のバティアは十二月騎士団団長だ。剣技はもちろん、大抵のことなら武芸にも秀でているから、万が一、無頼に遭遇しても新入生たちを護ることはできる。
幸いなことに、彼はいま帯剣している。
いや、そもそも十二月騎士団を襲って利点がある輩など、このトゥブアン皇国には存在しない。
――だとしたら、人ではない?
そうだとしたら……。
皇都地域は比較的安全な平野で、大型の野生動物との遭遇はすくないが、牙や爪に威力がある獰猛な獣との遭遇は山岳地域なら珍しくもない。
ひょっとすると平野まで迷い込んだ狼か、熊……その類がいるのだろうか。
相手が獰猛な獣であれば、さすがに騎馬も平然とはしていられない。
でも、これの遭遇も可能性としてはかなり低い。
だが油断はできないと、いくつか考えられる「可能性」を排除せずに脳裏に浮かべ、監督生は周囲の気配に鋭敏になろうと眼つきを険しくさせるが――。
「――へ?」
これからの動きに指示を仰ごうとして、監督生は最先頭にいる団長のバティアを見やるが、――「それ」が目に入った瞬間。唖然、呆然としてしまい、目に映る状況に判断力が追いつかず、どう正しく理解したらいいのかわからなくなって動揺してしまった。
えっと、えっと、と自分を落ち着かせようとするが上手くできず、目を大きく開いて、まばたきを何度もくり返してしまう。
「だ、団長ぉ……?」
監督生の目についたのは、背後では新入生が隊列を乱しながらも指示に従い停止したというのに、それがまったく目に入っていない状態で、互いに騎乗したまま、十二月騎士団団長のバティアが十月騎士団の新人武官騎士のハシュの手を自身の両手で優しく包みこんでいるそれ。
「バ、バティ団長……何で……ッ」
――包みこんでいる? いや、にぎっている?
――別れを惜しんでいるのか?
――先輩たち、仲良かったもんな。
――いやいや、先輩たちは同性だし!
――そういう関係じゃないはず……だし!
刹那に脳裏を駆けたのは、状況に対してどう理解しようかとする解釈の文言。
だが脳裏の状況精査はどれも正しくて、結果としてハシュとバティアは――いや、どちらかというと一方的にバティアがまるで離したくないようすで恋人の手を取る……それに近いしぐさをしているものだから、監督生は結論を絞り込めなかった。
何せ、どちらもあまりにも自然体なのだ。
仮に……。
仮に! 互いに恋仲なのであれば!
別れ際に手を取り合ったところでこの雰囲気に問題はないのだが、ふたりはそんな間柄ではない。
――ふたりの関係は、親友!
そうであると、監督生は下級生のころから知っている。
十二月騎士団修了時にそれ以上の親密な関係になった……などとは耳に届いていないし、そもそも人目も憚らず団長のほうから手を伸ばして相手の手を包みこむ、そのようなことを団長が、バティアの性格を考えれば絶対にあり得ない。
ただ――。
少年期から青年期へと変じる危うい年ごろは、金髪碧眼の見目麗しい容姿に拍車をかけて見栄えがあるし、軍装は彼の高潔さをあらわす団長職の黒衣。
加えて、まだ若い白馬に騎乗しているものだから、これほど絵になる若き「騎士」もそうはいないだろう。
もし、日ごろから団長に黄色い声をかけている女性たちがこれを目撃すれば、たちまち卒倒してしまうだろう。
それほどまでに手を取るバティアには雰囲気があったし、その一方でまったく状況が掴めていないハシュが、きょとん、とした顔をしているものだから、こちらもこちらで奇妙な危うさを醸し出しているから困りものだ。
彼の左目もとのほくろがそれを絶妙に演出している。
――それでいて、ふたりとも見つめ合っているものだから、周囲はたまったものではない。
監督生は何かの恋物語を見ているような気分になって、鼓動が早鳴り、顔も真っ赤になってしまうし、「ただの親友」だとふたりを知る自分がこうなのだ。
何も知らず、ましてやまだ十五歳ほどの年齢でしかない新入生たちにとってこれは勘ちがいの要素しかなく、ふたりの自然な姿がかえって刺激も強く、やはり顔を真っ赤にさせている。
騎馬を強制的に停止させられた挙句、いきなりこのようなシーンを見せられたのだ。こればかりは無理もないだろう。
もしかすると情操教育にはまだ早いのでは、と監督生は思い、「顔を逸らせ!」と奇妙な気遣いを号令するべきか本気で悩みはじめてしまう。
だが――。
完全にふたりだけの世界にいるようすを見れば、雰囲気を損なうような真似もできない。
――いや……ッ、でも、まさかバティア団長が、そんなッ。
彼がハシュの手を取るためだけに、騎馬隊列を止めたなんて……。