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「――きみはまだ、馬は怖い?」 ちょっとだけ馬術指導

 ふと時刻が気になって懐中時計を見やると、この時刻でもうこの暗さになるのかというほど周囲の夕暮れも進んでいた。

 空にはもうほとんど陽光はなかった。

 日の入りを迎えていて、西の空に広がる残光が染みる黄昏色だけがいまの明るさのすべてだった。

 周囲の木々は森ほど鬱蒼とはしていないが、わずかに離れた木々の奥はもう闇。それがゆっくりと近づいてきている。

 バティアとはもっとたくさんのことを話していたかったが、ハシュにはハシュの、バティアにはバティアの職務がある。

 とくにバティアは、騎馬に不慣れな新入生の騎馬隊を連れている。

 バティアと最後方の監督生は暗くなりかけている道中も慣れているだろうが、新入生たちはそうではないだろう。まだ少年兵だけの騎馬隊に、ランタンのような灯りを持たせて歩かせることは許可されていない。

 それに厩舎に戻っても、騎馬たちの世話をする時間も必要だ。

 これ以上バティアを独占するわけにもいかなかった。


「ごめん、バティア。すっかり話し込んじゃって」


 ハシュは名残惜しそうに言う。

 けれども、会う機会が極端に減ってしまった親友にこうして再会できたのは嬉しい気持ちになるし、やっぱり声をかけずにはいられなかった。

 本来の時間はかなり押してしまったが、もうあの不必要なほどの気焦りは生まれてこない。


「ううん。俺たちのほうこそ、十月騎士団伝達係の職務を邪魔してしまって、申し訳なかった。――ごめんね、ハシュ」

「い、いいよ、職務なんて、そんな……」

「もし遅くなって上官に何か言われたら、俺に言って? 十二月騎士団団長が引き止めてしまったからってお詫びに行くから」

「そんな、大丈夫だって!」


 大変なのはつぎからつぎへと「ついでに」の用件が増すときぐらいで、距離間のある移動もそれに適した騎馬ががんばってくれるおかげでどうにかなっている。

 話し込んだのは自分なのだから、とハシュはあわてて頭を振る。

 もしバティアが頭を下げに来たものなら、上官も周囲も騒然とするだろう。


 ――俺、上官に縛られて逆さ吊りにされるかも……。


 バティアはそれを聞いて、くすりと笑ってしまう。


「何だかんだ言って、ハシュは楽しそうに仕事をしているんだね。よかったよ」

「え? いまの会話でそんな節あった?」


 この解釈にハシュはおどろくが、そんなバティアを見てすこしだけ考えてしまう。

 ほんとうは先ほどの会話のなかで何度も言おうと思っていたが、いまひとつ言い出せるタイミングがなくて、ハシュはどうしようとどこかで迷っていた。

 自分の不始末? のせいで、これから十二月騎士団には迷惑をかけに行く。

 その自覚があっただけに最後まで迷ったが、バティアならきっと……と思い、ハシュは口を開くことにした。


「あと……別れ際にごめん。ひとつバティアにお願いがあるんだ」

「お願い? 俺でよければ何でも言って?」


 ――バティアが戻る先は当然、十二月騎士団の敷地内にある寄宿舎。


 そこには百人単位で集う少年兵のほか、多くの教官や彼らの生活の面倒を見ている寮母や世話役――例えば、食事の用意をする料理人など――なども多く別棟で過ごし、馴染んでしまえばいわば大家族で過ごしているような雰囲気にもなる。

 そこには教官たち教師陣の筆頭である学長も在籍している。

 ハシュの本音の本音は、十二月騎士団団長であるバティアに会ったとき、心のどこかで四月騎士団団長から受けた「学長の明日の出頭」を彼に伝言役として頼み、ハシュはこの忙しい時間をすこしでも短縮させようと頭のなかにその考えを浮かべていた。


 ――バティアは、信用も信頼もおける親友。


 けれどもほんとうにそれを頼んでしまったら、十二ある騎士団のなかでもっとも重要な書類の受け渡しを任され、預かることができる十月騎士団の伝達係……通称・伝書鳩の意義と信頼を自ら失墜させることになる。


 ――それだけはできない。

 ――どのような用件も「自分」が頼まれた以上、「自分」が完遂しなければならない。


 ハシュの、伝書鳩としての矜持がそうやって自身を厳しく叱咤したので、それについて口を開くことはなかったが、


「じつを言うと、このあと十二月騎士団に向かわなければならない用があって、そのあとではさすがに十月騎士団……自分の官舎――ハシュの現在の生活基盤は、所属騎士団内にある官舎の一室――には帰れないから、どこでもいいから十二月騎士団に泊めてもらいたいんだ」

「――え?」

「あ、ごめん、そうだよね。いきなり泊めてって言っても無理だよね」


 一瞬、何を言われているのか認識できないようすで目を丸めたバティアに、ハシュは急な来客訪問を言われても困るよねと解釈し、いまのはなしと言いたげにあわてて手を振るが、バティアのおどろきはそうではなかったようで、


「いや、泊まるのはかまわないんだけど。ハシュ、きみがこれから行くのは五月騎士団だよね?」

「う、うん」

「その五月騎士団から、十二月騎士団まで足を伸ばすの?」

「うん。まぁ……いろいろあって」


 いま彼らがいる位置は、どちらかというと少年兵たち十二月騎士団のほうが近い。

 地図でいうと五月騎士団は対面の位置にあたるが、中央には大きな森があるため、ここからでもかなりの迂回を余儀なくされる。

 それは当然、距離も時間もかかることを意味し、夜はハシュの都合が終わるまで空に明るさを残してはくれない。

 バティアは妙に怪訝がる。


「――まさか、国事に変事でも?」


 たしかに伝書鳩とは想像を超える激務と機動力のようだが、その彼らが正式な騎士団を行き交うのならまだしも、国事、国政の五月騎士団を訪ねたあとで少年兵ばかりが集う十二月騎士団にまで向かうとは何事だろうか。

 ここ直近の話ではないが、過去には敵国との戦争――海戦のための人手不足を補うために少年兵たちが出兵を余儀なくされたこともある。その決断を迫られた当時の十二月騎士団団長は、相当苦悩したと聞かされている。

 その話を知るバティアはそう解釈して一瞬顔を険しくしてしまったが、ハシュにはそれこそとんでもない勘ちがいをされてしまい、完全否定の頭を振る。


「いや、そういう話じゃないんだ。ほんとう」

「でも、来るにしても夜になるよ?」

「まぁ……そうだけど。端的に言うと、学長にちょっと面会が必要になって……」

「?」


 いまはこれ以上のことは言えない。

 変に口を開いてしまえば、あの四月騎士団団長のことだ。もしかするととんだ地獄耳を持っていて、ひょっとするとバティアにまで被害が及んでしまうかもしれない。これは避けなければならない。

 あとは察してほしいと、ハシュは目を逸らしてしまう。

 十月騎士団の伝達係……伝書鳩には守秘義務や他言無用、門外不出といった特定の相手にしか用件を話すことができない秘匿性がある。

 学長、と聞いたとき、他の騎士団とほとんどかかわりのない彼に伝書鳩が何の用件をもたらすのか疑問も浮かんだが、ハシュたち伝書鳩が持つ特性上深くは聞けない。

 バティアは何となく理解したようにうなずいてみせたが、ほんのすこしだけ残念に思う気持ちも同時に浮かんでしまう。


 ――ハシュが夜道を押してでも会わなくてはならない相手が、自分ではないのか……。


 と。

 ふいに出た感情が何を意味するのか。

 バティアはまだよくわからない。


「――わかった。激務のきみがゆっくり休めるように、寮母さんに伝えて来客室を用意してもらうよ」

「え? いや、来客室は……」


 ハシュとしては、寝泊まりさえできれば食堂の長椅子でも寝床に借りて……と夜露をしのげればという気軽さだった。

 まだ修了して三ヵ月。二年間を過ごした十二月騎士団の時間のほうが長いので、ちょっとした里帰り気分で懐かしさも込みあがるが、


「だって、あそこは出るって……」


 ハシュは口ごもる。

 伝書鳩の日々とはいえ、この身はすでに正式な文官「騎士」として十月騎士団に入団した伝達係。世間的には文官騎士のなかでは最高峰の騎士団に所属しているため、新人とはいえ疎かにはあつかえない。

 その配慮でハシュは来客室を提案されたが、――あそこにはそういう噂が流れている。勿論、噂にすぎないだろうが、寄宿舎には他にもさまざまな噂があって、ハシュはそのほとんどを知っている。

 来客室の「出る」は、そのなかでも有力説の筆頭だった。

 わずかに顔色を変えるハシュに、バティアは微笑する。


「大丈夫だよ、ハシュ。あの棟には俺の団長私室もあるし、毎晩夜の廊下を歩いているけど、ハシュをそんな顔にしてしまうモノと遭遇したことなんかないよ」

「で、でも……」


 その怖いものがどういう類なのかはわからない。――わかりたくもない。

 もしかすると、バティアはおどかし甲斐がないから出ないだけで、さぞ甲斐もあるだろう自分がいたら、きっとそれは嬉々として……。

 それを思うだけでハシュは身震いしてしまうが、


「もしそうだとしたら、これを期に俺が成敗するよ。ハシュの安全は俺が護るし、ひとつ怖い噂が消えれば、みんなも安心するだろうし」

「バティアって……そういうとこ妙に張りきるよね?」

「ええ? そうかな?」


 本人に自覚はないだろうが、いまのバティアは妙に楽しげな顔をしている。

 これも要らぬ気苦労を背負う気質のひとつなのだろうか。


「じゃあ、気に入った部屋を用意させるから。それでいいかな?」

「う、うん。ごめんね、急に頼みこんじゃって」


 かまわないよ、と言ってくれるバティアにほっとして、ハシュは交渉成立に安堵した。

 学長には早く会わなければならないが、それでも時間ばかり気焦りする必要がなくなっただけ身動きも軽くなりそうな気がする。

 よし、と小さくつぶやいて、ハシュは気合を入れようと自身の頬をかるく叩いた。そんなハシュをバティアが見送る。


「じゃあ、ハシュ。――まずは気をつけて。待っているから」

「ありがとう。早くは帰れないと思うけど」


 本来であれば、ここで交わすのは「また、いつか」という別れの挨拶だった。

 でも、今日は四月騎士団団長という不慮の事故――とでも言うのだろうか――のおかげでバティアに会えて、このあとも確実に会うことができる機会を得ることができた。

 久しぶりに会えた親友だ。


 ――会ってしまえば懐かしくて、また会いたくなる。


 この気持ちにそれ以下も以上もないが、また会えると思うだけで心が弾むような感覚になるのは、ハシュとバティア、どちらの気持ちだろうか。

 ようやくのことでハシュが騎乗する栗毛色は、騎手に「行くよ」と指示を受けて疾走に再熱を込めようとしたが、それは栗毛色が見据える前方ではなくて、なぜか大きな反転をするよう指示を受けた。栗毛色は怪訝に思う。

 この伝書鳩が急ぎ目指すのは、前方だというのに……。

 おい、と思ったが、この栗毛色の疑問にハシュが悪戯っぽく耳打ちしてくる。


「……ねぇ、ちょっとだけ格好つけて?」

「……?」


 唐突に何を言われたのか理解できなかったが、栗毛色は壮麗な式典、祭典での騎馬として用いられたことがある。そのように動けというのか、と咄嗟に理解するなり、栗毛色は軍馬でありながら優美に反転する。

 これには騎手の姿勢や体幹、手綱さばきが重要で、自分の身体のように小回りの反転を騎馬にさせるのは何より馬術の技量がものをいう。

 それを乗馬に不慣れな新入生の前で、苦もなくハシュは行う。

 その見事な足さばきに、バティアのすぐ後ろにいた新入生たちが「おお!」と目前で見る技術に感嘆の声を上げてしまう。

 ハシュはその声に笑んだ。

 栗毛色の尾の振りも、心なしか「当然だ」と言いたげに機嫌よく揺れている。


「ごめんね、お散歩の最中に急に割り込んできて」


 ハシュは言って、そのまま十二月騎士団の新入生が隊列するお散歩と逆行するように栗毛色を歩かせながら声をかける。


「今日、きみたちにも会えてよかった。――俺もね、このお散歩で初めて馬に乗るようになったんだ。世話や馬具の手入れもあって、最初は不慣れも多いだろうけど、大丈夫。きみたちならちゃんとした騎手になれるよ」


 などと優しく激励を送ると、新入生たちはおどろき、喜び、そしてとても素敵だと思える若き文官騎士に対してどう言葉を返したらいいのか、礼儀の返答が浮かばず戸惑ってしまう。そのようすが何とも言えず、ハシュは先輩として「可愛いな」と思い、微笑する。

 年齢的にいうと、ハシュは彼らとそう変わりはない。

 差はあっても二歳かそこらだ。

 だが、新入生の少年兵にとってはその二歳……二年間ですべての鍛錬を習得した技術の差は大きく、しかも年若き正式な「騎士」が目前にいれば緊張するなと言われても難しい。

 そうまでかしこまられてしまうと、何だか照れるな、とハシュは頬を掻いてしまうが、一度は最後尾まで逆行をつづけ、最後方にいる監督生に大きくうなずいてみせると、また栗毛色を反転させて、ふたたびお散歩の隊列にゆっくりと並行する。

 こうも騎馬を自在に操れるとは……。

 失礼ながら、どうしてハシュが騎馬隊で構成されている八月騎士団へ入団しなかったのか、不思議に思えてならない。

 監督生はその動きに惚れ惚れとしてしまう。


「――きみはまだ、馬は怖い?」

「え……?」


 この隊列のなかで、もっとも騎乗が不安定な新入生がいたのが最初から気がかりだったので、ハシュは彼のそばに寄って並行する。

 ハシュとしては穏やかに会話をしようと思い、一応「騎士」だけど文官だから怖くないよ、とよくわからない持論じみた気配を全開にしたのだが、当の新入生は突然声をかけられて、それを見抜かれたことにすっかり恐縮してしまい、あっという間に顔を青ざめさせて身体を震わせてしまう。

 見たところ彼の性格は気弱そうで、馬術が苦手なのも自覚しているようだった。


 ――それに……。


 自分が「先輩」という見知った顔の上級生として後輩に声をかけるのと、対面もない入れちがいで十二月騎士団に入団し、突然今日出会ったばかりの文官「騎士」に声をかけられ、指摘されるのとでは受け止め方もまったく異なる。

 彼の震えはこれから叱られるんだと思いこんで、その恐怖でいっぱいなのだろう。それがよく伝わる。


 ――バティアが言っていた言葉の気遣いって、こういうことか……。


 文官だから怖くはないのに。

 自分自身まったくえらくもないと自覚しているので、ハシュは気軽に声をかけたのだが、それが早々にしくじるとは。

 しまったなぁ、と思いながらもハシュは彼と並行をつづける。

 そして自身が騎乗する栗毛色に、騎手としてやや強い気配を発しながら、


「――絶対に、この子の騎馬に威嚇するなんて真似はやめてね」


 そう小声でつぶやき、ハシュはそのまま新入生の騎馬ぎりぎりまで近づいて、


「ごめんなさい。あなたの騎手と話がしたいんだ。すこしの間だけ近づくことを許してほしい」


 今度は新入生が騎乗する老兵軍馬に距離を詰めることを詫びる。

 老兵軍馬はハシュの声に聞き覚えがあったのか、老熟練磨のゆったりとしたようすでうなずき、自ら栗毛色と目を合わせないようにする。

 幸い、この老兵軍馬にはハシュも十二月騎士団の少年兵時代に世話になっていたので、そのまま「ありがとう」と言って、ほんとうに騎手同士の足が触れてしまうのではないかと思われるくらいの距離まで詰め寄る。

 これは騎手が下手に接触しては騎馬をおどろかせる危険が充分にあるし、互いに信頼関係がない騎馬同士も急速に接近されては落ち着かなくなる。

 騎馬の不安定は、つねに騎手の落馬につながりかねない。


 ――それを知らぬハシュ先輩ではないというのに……。


 最後方で見やる監督生や、ハシュが気にかける新入生の後ろを騎乗で歩く新入生たちもひやりとするが、ハシュはすでにどちらの馬も制しているし、となりの新入生が不安定な歩行を見せても、ハシュも絶対に接触しない絶妙な間合いを取っている。

 それは三ヵ月前まで少年兵だったとは思えないほどの、天性の技術だった。

 すごい、と新入生たちは声にしてつぶやいてしまう。

 ハシュはその並行をつづけ、老兵軍馬に跨る彼の手をにぎろうとやや身を乗り出して自分の手を伸ばす。

 新入生は自分の手に――直截ではなく、馬術用の手袋の上に――ハシュの手が重なったことにおどろき、目を見開くが、ハシュはにこりと笑んだまま。

 間近で見ると、左目もとのほくろが印象的だった。


「手綱はね……こう。ただ持っているだけじゃ騎手の意思がないのと一緒だから、それではこの馬にきみの心は通じない」

「で、でも、そうすると馬が……」


 力強く首を振って身体が揺れるので、そのまま振り落とされるのではないかと思えて怖いのだ――と、新入生は青ざめながらつぶやく。

 だから力をこめるのが怖いのだ、と。


「あはは。わかるよ。俺も最初は力加減がわからなかったし、ちゃんと持っていなかったから、二度は落馬したもん」

「落馬……」


 新入生は思わず足もとを見やり、この高さから……と地面までの距離になおのこと顔をこわばらせてしまう。

 このままでは落馬する、などと急に怖いことを言われてしまえば、誰だってそうだろう。だがハシュは、彼の手をにぎったまま。優しく指先だけで、ぽんぽんと安堵させるように叩き、


「幸い、どちらも大事には至らなかったけど、でも教官より馬に叱られたよ。それじゃあ何を言っているのかわからないって」

「馬に、ですか?」

「うん。すっごい顔をしながら睨みつけてくるんだ」


 老兵軍馬は基本的に老爺のようにのんびりと優しいが、いざ馬術の授業になると教官よりも厳しい一面を見せて、少年兵を一人前の騎手として育てようと意気込む面もあるのだ。

 馬に睨まれる――ハシュはやや揶揄して言ってみせたのだが、思いのほかこれも逆効果だった。

 それにさえ新入生は怯えてしまい、ハシュは内心困ってしまったが、


「大丈夫。怖いなら、怖いって言っていいから。わからないって言えば、かならず先輩や教官、きみたちの団長が教えてくれるから」

「けど、尋ねて叱られたりはしないでしょうか?」

「そりゃあ、叱られるさ。怖いって教えてくれなければ、どうやってきみを心配したらいいのかわからないもん」

「……」


 叱られる、という言葉に新入生は反応してしまったが、


「俺もそうやって教えてもらったんだ。最初は覚えもコツもうまくつかめなくて、何度も聞き返すのが申し訳なくて……」


 言って、ハシュは新入生をにぎったまま「こういうふうに手綱をにぎって」と手を重ねたまま力加減を教える。

 力をこめることに怯えている新入生の手は震えているが、ハシュは何度も「大丈夫」と顔を寄せて安堵させようとささやく。


「どうしても尋ねるのが怖いのなら、俺が教えてあげるよ。俺も散々仕込まれたから、騎乗も教えるのもちょっとは得意かな? でも――さすがに毎日は通えないけれど」

「あ……」


 ――この子はきっと、こういう性格なんだろうな。


 そう思い、ハシュは最後方の監督生にかるく振り返る。

 監督生からハシュたちまでの距離はわずかにあって、何を話しているのかは聞こえなかったが、ハシュが新入生に助言や指導を与えているのは理解できた。

 目が合うと呼ばれたのかと思い、自身の騎馬にすこしだけ前に出るよう脚を速めようとしたが、ハシュはかるく首を横に振るだけ。


 ――この子をよろしくね。


 そう伝えるような視線を送ると、監督生もハシュの意を正確に読み取ってくれたのか了承したとうなずき返してくれる。

 ここから先は監督生の仕事だ。


 ――彼ら新入生を見ていると、当時の自分を思い出すなぁ。


 ここでさらに時間をかけてしまったが、騎乗に不慣れな新入生……後輩を見つけておいて、あとは慣れだ、がんばれ、と心中で激励するだけで終わりにすることはできなかった。


「大丈夫。ゆっくりでいいよ」


 だから、怖がらなくていい。

 ハシュは彼が安堵できるように笑んで、ゆっくりと手を離す。

 そして、あらためて別れを告げるために最先頭を歩くバティアに並ぼうと栗毛色の脚をすこしだけ早めた。


 ――こうも自在に、自分の脚のように騎馬を扱いこなすなんて。

 ――以前、教官が褒めそやしていた修了生とは、もしかしたら……。


 もしそれが「彼」だとするのなら……!

 その馬術を間近で見ることができた新入生たちは、瞳に敬慕を浮かべてかがやかせる。


「バティア、あの子のことよろしくね」

「こちらこそ。少年兵への温かな指導、感謝する」


 挨拶を向けると、親友としてではなく、十二月騎士団団長としてバティアが挨拶を返してくるから何だかおかしい。

 ハシュとバティアは互いを見やりながらすこしだけ笑う。


「じゃあ、これで。――また後で」


 今度こそ栗毛色に速度を与えて、一気に五月騎士団内務府まで向かおうとハシュは思ったが、


「あ、ハシュ! ちょっと待って!」


 ようやくのことで何かに気がついたようすのバティアが、ハッとして呼び止め、かるく合図を送るように左手を上げた。

 いつからだろう。


 ――ハシュの手もとには、何となく違和感があった。


 最初それが何なのか探れなかったが、いまはようやく違和感の謎が解けた。


「へッ?」


 突然呼び止められて、ハシュはあわてて手綱を引いた。

 同時に止まれを余儀なくされた栗毛色は、突然足を止められたことで機嫌を急降下させた。どうにか姿勢を正すと、その場で何度か足踏みをしながら鼻息荒く威嚇するようにバティアを睨みつける。

 だが、刹那――。

 あれほど穏やかだった碧眼は、まるで人格が変わったかのような魔的な眼光を放ち、バティアは一撃で栗毛色を黙らせる。


 ――それが意識的なのか、無意識なのか。


 見損ねてしまったハシュにはわからない。


 ――ただ。


 これによってハシュ以上にあわてたのは、最後方にいる監督生だった。


「えッ?」


 最先頭のバティア――団長が上げた手、その指の合図は「止まれ」。

 突然、隊列全体を止めるように指示が出されたので、監督生はあわてて馬術用の手袋の片方を口に咥えながら外し、足もとに落とさないよう膝上に落とすなり、素手となった指――親指と人差し指を丸めるようにして口に入れ、よく通る音で口笛を鳴らした。

 口笛の合図は、騎手と騎馬に同時に送る「止まれ」の号令。

 だが、たいした速度もなく、まさに散歩然で歩いていたとはいえ、十騎の騎馬隊列が……しかも騎乗はまだ初心者の域でしかない新入生たちがすぐさまそれに従う動きをするのは困難だった。

 彼らは「へ?」「え?」と、突然のことに混乱してしまう。

 なので、監督生はつづけて、今度は騎馬である軍馬たちの動きを制するための口笛を高く鳴らした。

 止まれ、と。


 ――武官騎士になるのであれば、馬術の一環として必須となる、軍馬一斉号令。


 主に騎馬隊で構成される八月騎士団で用いられる口笛で、鳴らす音は数種類。

 広い戦場で隊長格が隊列を正し、つぎの体勢を整えるために「声」ではなく、「口笛」で軍馬の足並みをそろえるための号令方法で、軍馬の集団そのものを騎手に代わって強制的に操作する調教の一種なのだが、これが難しい。

 普段から口笛が上手くできないハシュにとっては、馬術の授業のなかで唯一落第点以下の不出来だったので、監督生として最後方を任されても最先頭からの合図を口笛では指示できなかったので、何度もあわてて大声で叫びながらお散歩の騎馬隊列に動きの指示を出していた。

 そんな恥ずかしい実績がある。

 それが突然聞こえればさすがのハシュもおどろいてしまうし、合図の権限を持つ最先頭……バティアがいきなり指示を出したことも信じがたいおどろきがあった。

 従わざるを得ない相手は、まだ騎馬に不慣れな少年兵だというのに――。


「バ、バティア?」


 いったい彼は何を見つけて、ハシュを呼び止めたのだろうか?

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