すっかり憑かれて、「ダメったらダメですッ!」
そのころ。
秋はじめの風に吹かれた濃い橙色の髪は、すっかりぼさぼさになっていた。
だが手を当てて簡単に調える暇もない。
――とにかく急がないと!
乗馬用のブーツを脱いで、あわてて通常用の靴に履き替えたので、紐の結びは甘く、足もとは見ていて転ばないのが不思議なくらい危なっかしかった。
厩舎から十月騎士団本庁舎に向けてかかるいくつもの回廊を渡り、夕暮れの黄昏色に染まりはじめた中庭を見る余裕もなく全力疾走していたハシュは、何度か冷静になろうと思いつつも、帰路の最中での脳裏は四月騎士団団長のロワの顔と笑い声でいっぱいになってしまい、十月騎士団に戻るなり途端に慌てる方向に意識を持っていかれて、完全に脳内はパニックを起こしていた。
――手にするのは、書類がわずかに数枚入っているかどうかの薄い封筒が二通。
四月騎士団庁舎で欲しかったのはこれだけだったというのに、――なぜ、余計な重責を背負わされてしまったのだろう?
夕暮れ近くなった十月騎士団の本庁舎内は、これまで各部署で書類整理に追われていた文官たちが明日の仕事を円滑にするために、同騎士団内庁舎で受け渡しを必要とする書類をはじめ、他の騎士団に届ける必要がある書類、または伝達係の伝書鳩たちが集めてきた他の騎士団から届けられた書類をまとめるのに右往左往としていた。
終業時間ぎりぎりまで慌ただしさとは縁も切れないようすは、やっぱり「決断の長」を団長として掲げる十月騎士団特有の光景なのか。
それとも皇宮という聖域、神域の護り手である四月騎士団の、規律はもちろん風景や空気さえも乱さぬ職務のようすがスマートすぎるのか。
おなじ文官でも両極端すぎる日常に、ハシュはすっかり面喰う。
だがそれは後日に得た感想で、いまはほんとうにそれどころではない。
赤煉瓦造りの本庁舎をはじめとする十月騎士団敷地内の建物は、どんどん西へと傾く黄昏色の日差しを受けて幻想的な風合いを見せていたが、建物内はすでに影となる部分が多くなって薄暗く、廊下や室内に灯りを足さないと鬱蒼さが増して、書類を見るのも嫌になってしまう。
「――何だ、ハシュ。まだ五月騎士団の内務府に行っていなかったのか?」
「ダメですッ」
「ハシュ、そういえば内務府の警備局のところなんだが」
「ダメですッ」
「すまない、ハシュ。内務府に持っていける書類が仕上がったんだ。ついでにこいつも届けてもらえないだろうか?」
「ダメったら、ダメですッ」
「いや、届け先は一緒だぞ?」
「ダメですッ!」
――今日はもう、「ついでに」なんか聞きたくない!
――これ以上、余計な足どりを増やさないでッ!
ハシュの姿を見るなり上官たちが声をかけてくるが、ハシュは名を口にされようと足を止めることなく、自身にかかる声を気迫で拒絶し、本庁舎に入るなり声に捉まらないようさらに疾走する。
自分がいま!
どれだけ忙しくて必死なのか!
見てわからないのだろうかッ!
――もうダメッ、もうダメッ!
これ以上物事が増えてしまうと、もう、どこから手をつけたらいいのかわからなくなる。
とにかく今日は、このあとすぐに五月騎士団の敷地にある内務府の庁舎に向かい、書類を受け取って、そのまま十二月騎士団を訪ねて、学長に心底詫びを入れながら明日の朝、四月騎士団団長のもとまで訪ねてほしいと頭を下げて……。
それから……。
「あと、それから……」
その最中も、四月騎士団団長に連れてこいと言われた「クレイドル」なる人物を探すため、できるかぎり声をかけて聞き込み……。
そう、五月騎士団ではこの聞き込みに時間が欲しい。
あそこは国府、政治の中枢なのだから、知らないと言って首をかしげる者はそういないだろう。
できることなら直截本人に出くわしはしないかと都合よく考えたいが、この世に都合結果などありはしない。そこまで高望みはしないから、せめて本人に会えるだけの近しい情報が欲しい。
有力な手がかりを持つ場所は、今日はもうここしかない。
ここに期待を賭けるしかない。
だが……。
同時に政治を担う文官たちさえ「彼」の存在が不確かだったら……と思うと、期待の質量の二倍で不安がのしかかってくる。
「彼」はほんとうに存在して、ほんとうに見つかるのだろうか、と。
――ああ、帰りはどうしよう……?
夜の道はさすがのハシュも騎馬を走らせるのは怖いので、できたら十二月騎士団敷地内にある少年兵や教官たちが暮らす寄宿舎に、片隅でもいいからひと晩泊めてもらうことはできないだろうか。それを頼んでもいいものかと、ハシュは葛藤しはじめる。
でもその場合は、誰に頼めばいいのだろう?
学長に請えば、優しい老爺はうなずいてくれるだろうが、気が引ける。
そもそもこれはハシュの失言――だいたい、意見を求めてきてそれを返したというのに、どうしてそれが学長呼び出しの失言として受け取られるのか!――から事が大きくなった、いわば私用の不始末のようなものなので、厚かましいというか、頼みづらい意識も働いて、そうなったら野宿か……と、思考はどんどんと暗くなる。
「おお、ハシュ。戻ってきたか」
「ダメったら、ダメッ! ダメですッ!」
自分に対して声をかけられると、ハシュはもう、内容云々、条件反射で拒絶の言葉しか返せない。
あまりの拒否の気迫に上官は一瞬たじろぎ、
「いや……、菓子をもらったからあげようと思っただけで」
「もうダメッ……じゃない! 失礼いたしました、ありがたくいただきます!」
「あ、ああ。ハシュの好きなナッツ菓子だ。食べなさい」
「はいッ!」
差し出された手のひらほどの大きさに包まれた菓子を受け取るなり、形状崩れも気にせずズボンのポケットにやや乱暴に押し込める。
ハシュはどちらかというと、押しや圧しに弱いタイプだった。
周囲はそうとハシュを認識している。
当人も心のなかでは散々文句も言うが、なかなか要領のいい口ごたえをするのは難しい性格ではあるし、何より新人の文官騎士として上官に仕事を言いつけられたり、頼まれたりすれば、まず断ることができない。
それが仇となって、ほんの数時間もしない前は五月騎士団の内務府庁舎に赴くだけで今日の業務は終わったものの、なぜか十二月騎士団では学長を訪ねて、自分で「ついでに」というのも腹立たしいが、「クレイドル」という刻限付きの人探しまで付随してしまっている。
おかげでハシュはすっかり「ついでに恐怖症」になってパニックになり、すっかり気が立っていた。
――何があったのかは知らないが、あのハシュが拒絶を口にするとは……。
ハシュの置かれた状況を知らない周囲の上官たちが顔を見合わせていると、ハシュはギリっと彼らを睨みつける。
「上官ッ! 五月騎士団内務府から預かる書類は明日のお渡しでもかまいませんね!」
「あ、ああ、必要なのは明日だが、でもハシュ。お前は明日非番だろう?」
だから今日のうちに書類を取りに行ってきてほしいと頼んだのだが、
「一刻先も見えない状況で、明日なんか語れませんッ! もう非番なんかどうでもいいから、明日でいいのなら明日提出します!」
「いや……休みはきちんと取りなさい。そのぶん、今日は無理をさせるが」
「いいですッ、明日の提出許可、ありがとうございますッ!」
いや、語ったのは必要の都合までで、許可した覚えはないぞ?
上官は思ったが、どうにもハシュのようすがおかしすぎる。
たしかに書類は明日の始業時間ごろに手もとにあればいいので、今日無理に手もとに用意させる必要もないが、ハシュはいったい、何を突然明日までの時間を欲しがるのだろう。
「どうした、ハシュ。何があった?」
「もうッ! ついでばかりのせいで俺、今日は帰れなくなりました!」
「帰れない? 五月騎士団までの往復ならまだ帰れるだろう?」
「帰れないんですッ!」
ハシュの思考はもう、自分でも制御できないくらいに限界だった。
もはや意固地に拒絶ばかりを口にするハシュに、直截の上官はいよいよ怪訝がる。
上官は立場上、単純に伝達係の伝書鳩の行動把握を正確に掴みたかったのに、ハシュはもう拒絶の一点張り。
それもそのはず。
「俺ッ、四月騎士団団長からいろいろ頼まれてしまったので、もう無理なんですッ!」
しまいには想定外の人物、天下の宝刀の一直線抜きのような人物の名をハシュが口にするので、周囲の顔色も一斉に……悪い方向へと変わってしまう。
誰もがぎょっと目を見開いた。
「し、四月騎士団……ッ?」
「しかも、あの団長から直々にッ?」
「ハシュッ! いったい、あの方に何の失礼をしたんだッ?」
などと。
上官たちの動揺とざわめきで、四月騎士団団長の人となりがどれほどのものなのかが容易に伺い知ることができた。
できることなら、その重要情報は数時間前に教えてもらいたかった。
無論、上官たちも書類を取りに行かせただけで、まさか新人の伝書鳩が「彼」に目通りするなど想像もしていなかったので、彼らも途端に状況把握が困難になってしまう。
普段、厄介なのは上官たちだというのに、その当人たちの動揺ときたら。
――ああ……。あの人って、ほんとうにヤバい人なんだ……。
ハシュが自分を気焦りさせる黒幕を暴露した途端、周囲はもうハシュに声をかけるということはしなくなった。むしろ、ハシュが廊下を通りやすいよう道さえ開けてくれる。
その心情動作は明らかに、巻き添えは喰らいたくない、という保守的な身の表れだった。
「もうッ!」
ハシュは両の手に拳を作って震わせ、もう一度大きく叫ぶのだった。
□ □
ハシュが厩舎に戻ると、すでに厩務員がつぎに騎乗する栗毛色の軍馬を用意していた。
栗毛色は矜持こそ高いが、ハシュにとっては口やかましくても何だかんだと言って世話を焼いてくれる先輩のような感覚なので、この栗毛色が一緒なら心強いと思い、安堵するがそれもつかの間だった。
よろしく、と言って、それでも最低限の礼儀で栗毛色の鼻先を軽く撫でる。
あとはもう飛び乗るように栗毛色の背に跨ると、
「用意、ありがとうございましたッ。 ――俺、今日はもう帰りませんので!」
そう言って、ハシュは顔馴染みとなった厩務員や傍らにいた同期の伝書鳩に疑問を残すだけ残して、持ち前の馬術で軍馬に瞬発力を与えて、十月騎士団の敷地を飛び出した。
見送るふたりは、半ば唖然とする。
先ほど黒馬に乗って四月騎士団庁舎から戻ってきたとき、ハシュの顔色は奇妙なほど気焦りか何かに囚われていて、出かける前に上官たちの人使いの荒さに文句を垂れていたときと比べてもはるかに調子が悪そうだった。
ハシュは一度、四月騎士団で気を失って倒れている。
そんな事情があるとは知らないが、それでも休ませてもらったほうがいいと思えたので声をかけたが、それが聞こえるかどうかも怪しいほどに、帰着するなりハシュは乗馬用の手袋とブーツを放り投げるように脱いで、書類の入った封筒を手に本庁舎へと一目散に駆けていった。
その本庁舎から戻ってくるまでさほど時間もかからなかったが、今度はその足で朝帰り宣言をして飛び出していってしまうとは……。
「ハシュのやつ、いったいどうしたんだ?」
「……さぁ?」
尋ねられても、ハシュと同期である伝書鳩もいまほど戻ってきたばかり。
理由などわかるはずもなく、ただ首を貸しけることしかできない。
通常であれば、どんなに鬼の上官でも、まだ成人を迎えていない伝書鳩に夜道を走らせるような仕事を言いつけることはないのだが、これまで多くの伝書鳩たちを見てきた厩務員はふと「ははぁ」と何か思いついたように自身の顎に手をかけ、おもしろそうに撫でる。
「まぁ、ハシュもまだ十七歳だが、一応は騎士の号を得た文官だ。伝書鳩で皇都中を走り回っていれば、可愛い娘さんと出会う率も高くなる。――さては仕事が押して、デートの時間に間に合わなくなって焦っていると見た」
厩務員は急に色めいた発想に至り、ニヤニヤとするが、
「いや、デートで朝帰り宣言はおかしいでしょ?」
――このおやじ、急に何を言い出すかと思えば、そっち方面の推理かよ?
どうして中年はすぐにそう冷やかしの発想をしたがるのだろうか。
ハシュの性格をよく知っている伝書鳩は、それはないと断言する。
「あいつ、同期のなかでもそっち方面は奥手というか、潔癖ですよ?」
同期のよしみ。
伝書鳩は一応ハシュの身の潔白を証明してやろうと擁護するが、厩務員にしてみればそれこそ「ガキの馴れあいだ」と言いたげに、にやり、と笑ってくる。
「何だ、お前さんもまだなのか」
「まだって、何に対しての意味ですか?」
そりゃあ……と、厩務員はこの場にハシュがいたら真っ赤になって倒れてしまいそうなことをいくつか例に挙げ、
「俺が新人のころは十月騎士団の所属を餌に、そりゃああちこちで娘さんに声をかけたもんさ」
などと、かつての武勇伝を語りはじめる。
唐突に聞かされる身になった伝書鳩は呆れるように目を細め、
「それは、とんでもない職務怠慢の暴露ですね」
「何、俺は要領がよかったからな。仕事で鍛えた庁舎回りを応用して、二股、三股なんかもう――」
それはどういう応用だ、と伝書鳩は思ったが、
「体験談としては最低ですが、やり口としては興味があります。暴露の評価次第では、師匠、と呼ばせていただいてもかまいませんか?」
素直すぎるハシュとはちがい、普段は毒を含む物言いが目立つ伝書鳩ではあったが、年ごろとしては興味に誘われてしまう。まんまと釣られてしまった。
途端に真面目な顔をして厩務員を覗きこむと、彼はさっそく弟子入りを許可するように同期の伝書鳩の頭を撫でてくる。交渉は成立したようだった。
「お前さん、そういうところは可愛げがある。――で?」
「じつは俺、気になる子がいるんですよ。ふたり……」
「ほぉ? 本命はどっちだ?」
「べつにいます」
「よし、その意気だ」
厩舎の騎馬たちはそのやりとりにいよいよ呆れ、大きなあくびを漏らしながら背を向ける。
たしかに十五歳のときから二年間、剣技と学問を徹底して叩きこまれる全寮制の十二月騎士団に所属している以上、少年たちには等しく異性と出会う機会は恵まれない。
修了しても各騎士団に配属が決まってしまえば、文官も武官も、新人騎士には本格的な事務作業や鍛錬の日々が待っているので、それを差し置いて異性に対して顔を向けるなど、とても余裕がない。
それを考えると、立場は伝書鳩だが、自由に――厳密には過密な用件を熟すために――十月騎士団の敷地から飛び出し、各騎士団の庁舎を回り、皇都地域の皇道を走り回るので、新人騎士のなかでは一番に異性との出会いに恵まれる確率をハシュたち伝書鳩は持っている。
――とはいえ、やっぱりハシュにそれはなぁ……。
絶対にあり得ない、と同期は再度断言した。