十月騎士団の伝書鳩・新人文官騎士のハシュ
「――ハシュ、その書類を届け終わったら、つぎは五月騎士団の内務府にこの封筒の届けを頼むぞ!」
「は、はいッ」
「何だ、ハシュ。五月騎士団に行くのか? だったら、ついでに皇宮の四月騎士団まで立ち寄って、我らが十月騎士団団長の裁可押印が必要な書類を丸ごともらってきてくれ」
「は、はいッ」
日々、大量の書類が跋扈する十月騎士団の本庁舎。
ここまではいつものノリで、ただ言われたことに対して反射的な返事をしてきたが、――いや、待て。
いま誰か、さりげなく四月騎士団まで顔を出してこいと言わなかっただろうか。
四月騎士団――と聞いて、十七歳のハシュはハッとする。
「あ、あのッ! 俺の立場では皇宮に上がることはかないません! ましてや皇宮諸事の一切を取り仕切る四月騎士団の庁舎に立ち入るなんて……」
さすがに十月騎士団に正式入団したとはいえ、まだ三ヵ月目の新人騎士でしかないハシュにとって上官に「行け」と言われれば、たとえ火のなか、水のなか、どこであろうと……と若さみなぎる気骨を見せたいところ――正しく言うのであれば、否応なしに見せねばならぬところ――ではあるが、さすがに皇宮は無理だ。
――あそこは火のなか、水のなか、どころではない。
あそこは国の要であり、唯一皇帝の居宮――御座所であって、三つの精鋭騎士団が城郭以上の堅牢で日々親衛護衛を務めている絶対の聖域なのだから。
皇宮内に庁舎を持つ騎士団に所属する以外の者に立ち入りが許されているのは、外部の騎士団では相応の権限を持つ上層部だけ。
それ以外は門前の両脇に立つ衛兵が持つ装飾槍を目の前で交差され、表情に一片の変化もない彼らによって、お決まりの門前払いを喰らうことになる。
それを知らぬ上官たちではないというのに、
「入門を拒絶されました!」
「それがどうしたッ? 俺は書類をもらってこいと言ったんだぞ!」
「申し訳ございませんッ! ―――(時間経過)再度向かいましたが、やっぱり入門を拒絶されました!」
「馬鹿か、お前はッ! そういうときは、書類よこせ! と門前で叫んででももらってこい!」
などと、こんな報告のやりとりだけで一日を費やしたいのだろうか。
この国にある十二の騎士団各庁舎に書類や伝令を受け取り、伝え、渡す……そのくり返しを日々の業務とする伝達係――通称・伝書鳩としての扱いを受けて、早三ヵ月。
新人が最初に就く必須業務とはいえ、誰もが避けては通れぬ新人恒例の受けるだけの洗礼はたっぷりと受けてきたので、このやりとりもすでに想定の範囲内だ。
――そもそも!
この国の政治の中枢である五月騎士団の庁舎――そのなかに総務府や外務府、用件を言いつけられた内務府もある――と、皇宮の権威である四月騎士団の庁舎の場所は真逆。馬を走らせても往復するのに二時間は要する。
地図上でいえば、両騎士団の庁舎は真反対に位置するのだ。
その距離と所在地を「ついでに」と表現するとは、ここの上官たちは鬼なのか、それとも距離計算ができないバカ……もとい、大雑把にもほどがあるだろう。
ハシュは思わず、むぅ、と表情を浮かべてしまう。
一方で、毎年おなじような表情を見せる新人騎士たちを目にする上官たちも充分に心得ており、ハシュの表情をたっぷりと正確に読み取ると、これも現場教育だと思い、これ見よがしに理不尽に怒鳴ってくる。
「お前の脳みそは臓器以下かッ? 思考のひとつでも人間並みに残っているのなら、それを使って考えろ!」
――いやいやいや……。
人間最後の砦である臓器はもちろん、すでにハシュの骨身には充分すぎるほど書類に命をかけている文官騎士の恐ろしさが刻まれている。
こちらもわかっているから、これ以上の負担は勘弁してほしい。
だからもう、世渡りの厳しさを強要しなくてもいいのではないか。
――やっぱり、文官は俺の憧れていた「騎士」とは全然ちがうッ!
そう思いながらも、ハシュが上官に言えるのは「仰せのままに」のひと言しかない。
ハシュはうなだれるように頭を下げて、深いため息を吐き出さずにはいられなかった。
□ □
ハシュの容姿は一見して柔和で、そこそこ端正に整っていた。
現在は十七歳。年相応の少年らしい快活な髪形は暗めの橙色で、瞳も同色に美しく染まっている。
身長は平均よりやや低く、その体躯も細身。
性格は明るく、よくも悪くも感情が顔に出やすいため、どこか子どもっぽい印象もあるが、左目もとにあるほくろがちがう意味で表情の豊かなハシュの印象に一役買っている。
そのため、青年期を迎えるころに憧れの「騎士」らしい精悍な体躯に整うのは難しいだろうが、このまま文官として過ごすのなら、体つきはしなやかに優美に青年に仕上がっていくだろうともっぱら思われているが、
――剣よりも、書類を抱える姿がさまになる将来だなんて……ッ。
ハシュ本人としては、それは想像するだけで身震いがする。
思わず、ぞくり、と全身に鳥肌が立ってしまった。
「だいたい、そんなつもりで十二月騎士団に入団したはずじゃなかったのに……」
ハシュは、むう、と頬を膨らませてしまう。
そう。
ハシュは文官としての「騎士」になりたかったわけではない。
目指していたのは、剣を握る武官としての「騎士」だ。
その「騎士」に憧れて、ハシュは十五歳のときにこの国に配されている各騎士団への入団条件に必須である、少年兵を育成する十二月騎士団に所属し、二年間の厳しい鍛錬を修了。
その後、配属先となる騎士団が正式に決まり、晴れて一人前の「騎士」として新たな日々を送ることになったのだが……。
「はぁ……」
見上げる空は爽快な気分になるほど澄んだ青で、雲は遠景のほうで薄く伸びてきた。
それを見ながらため息をつくハシュの気分は、ずいぶんと重い。
国に四季はあるが均等には訪れず、ハシュがいる皇都地方は国のなかでも夏が短い。
その夏もすでに秋へと傾きはじめ、日中の日差しもずいぶんと楽になり、昼夜の気温差も少しずつではあるが体感するようになってきた。
街に出れば、彩りもよい季節特有の野菜や果物が露店に並びはじめているだろうが、それをゆっくりと目にする時間は新人騎士であるハシュにはない。
「世の中、きっとどこもこうなんだろうなぁ」
夢と憧れ。
それを手にしようとする現実までの道のりには、微妙な枝わかれが絶えず複数とあり、とくに生まれ持った才能がものをいう実力社会で発揮する能力は、じつに予期せぬ方向へと当人たちを導いてしまう。
ハシュの才能が何なのか。
本人としてはいまひとつ理解に追いつかなかったが、彼もそうやって自身でも想定外の現実に着地を余儀なくされてしまった。
――ほんとうは……。
ほんとうに幼いころから憧れていた「騎士」になりたかった。
武官騎士が着用を許される鎧を纏い、風になびくと見栄えも増す外套を背に、武の強さを象徴する剣を手にして……。
だから幼いころから剣を振る稽古に励み、「騎士」になるためには入団必須の十二月騎士団に所属し、授業での鍛錬はもちろん、空き時間も惜しまず稽古に励んだ。
おかげで剣技は不得意ではなかったが、間の悪いことに同期には並大抵ではない剣技の才能を持つ少年たちが軒並みそろってしまい、ハシュの技量では必死に喰らいついても彼らの一律均等には並べず、一歩後退の枠組みから抜け出すことができない。
当然、負けてなるものかと努力を重ねたが、その熱意に奮闘するのは自分だけではないので剣技はあっという間に技量に差がついてしまい、努力だけでは追いつけぬ距離まで離されてしまった。
それでもハシュの剣技は、けっして武官騎士に不向きの判を捺されるほどではなかったにせよ、学術と特技においては群を抜く分野もあったため、それに目をつけた騎士団がハシュを文官として欲しがり、採用申請を行って獲得。
――文官とは。
文字どおり、剣技や馬術に長けた戦闘を第一とする、武芸達者が所属する騎士団のことを指す。
――一方の武官とは。
最低限の武芸は修養時に身につけるものの、主に政治面で国を動かす頭脳集団が多く所属する騎士団を指し、一部の騎士団は国府とも称されている。
この国では「騎士」がそのように二分し、国と民を支え、頂点に立つ唯一皇帝に忠誠を誓っている。
ハシュをその文官として欲しがったのが晴れがましいことに十月騎士団だったものだから、母や親戚は泣いて祝福してくれたし、いくつか年の離れた兄も驚愕しつつも喜んでくれたので、こんなふうに身内が心底喜々に湧くこと自体は嬉しかったが、それでも当人であるハシュだけは膝をついてその辞令に落胆した。
――けっして、十月騎士団そのものに不満があるわけではない。
十二ある騎士団のなかで――厳密に言うと、少年兵を一人前の騎士として仕上げるために徹底して鍛錬する十二月騎士団は除外なので、実際の対象は十一の騎士団だが――直截望まれて入団したのだから、それ相応の才覚が自分にもあったのだろう。
――出世栄達まちがいなしと謳われる、十月騎士団。
けれどもそれは「武官」の最高峰ではなく、「文官」の最高峰。
自分は武官としての「騎士」になりたくて、これまで努力を重ねてきたというのに……。
年だって、まだ十七歳だ。
これから成人を迎えて、長きにわたり活躍できる若さと希望で満ち溢れているというのに、現実は「文官に才あり」とハシュに烙印を捺した。
――それは同時に、「武官に才なし」と烙印を捺されたようなもの。
これがどれだけ悔しくて、落胆に値したことか……。
だが武官文官に関わらず、どの騎士団も入団後は永久所属になるともかぎらないので、何年かの割合で、あるいは成長の兆し、あるいはそのときにもっとも必要とされる持ち前の能力を買われて転属辞令が下ることもすくなくはない。
――現在十一ある騎士団のうち、武官の騎士団は五。
ひょっとしたら武官としての「騎士」のスタートは同期と比べて遅くはなるが、ひょっとしたら憧れつづけてきた「騎士」に、武官が集う騎士団に転属できる可能性もゼロではないのだ。
その可能性を励みに、まずは現時点で与えられた職務を正しくまっとうする。
それを評価してもらい、同時に、時間のあるかぎり剣技の鍛錬も欠かさずつづけていれば、きっと……。
――夢を捨てるには、まだ早い!
――だって俺は、まだ十七歳なんだから!
どんな状況でも前向きに。
どうせ最初から念願かなって武官の騎士団に入団できたとしても、所詮はまだ成人に満たぬ新人だ。戦地に赴く必要性がないかぎり、訓練と鍛錬の日々ばかりで数年は過ごすことになるのだろう。
それは少年兵として鍛錬に明け暮れていた、十二月騎士団に所属していたときとさほど変わりもないはず。
そこで出番がないと心を燻ぶらせているくらいなら、だったら潔く文官として世間の厳しさに揉まれて、経験だけは多く獲得していくほうがよほど健全だ。
そうやって腹を括り、落胆から顔を上げたというのに――。
――この三ヵ月。
新人として避けては通れぬ目まぐるしい日々に飛び交うのは、書類という魔物。
――決議のためには、裁可の判を!
――採用案を遂行させるためには、認可の判を!
――決定を得るまでには、とにかく承認の判を!
ハシュは、自分が憧れてきた「騎士」を支えているのは、己の技量である剣技と高潔なる魂ではなく、じつはそれが円滑に活躍できるようにあらゆる方向から後方支援を影で行う文官たちの最大の武器「上官の判子」だということを思い知る。
――世の中はすべて、採決の判子がモノを言うのだ。
どのような重要書類であろうと、その書面に最高責任者の裁可の押印が捺されなければ、ただの絵空事。
世の中とは、とんでもない現実によって支えられているのだ。
その現実だけがハシュに真実を早々に悟らせ、学ばせようと、軍船の砲門から放たれる砲弾や草原の合戦で放たれる弓矢以上の脅威で、目の前で飛び交っていた。
さしずめそれは、魑魅魍魎の跋扈と何ら差異はなかった。
いや――。
退治さえすれば確実に消えるだろうそれのほうが、よほど可愛げがあったかもしれない……。
□ □
複雑ではないが、一辺の距離が長い回廊をいくつか渡る。
ハシュが所属している十月騎士団の庁舎は、すでに長い年月を経ているが、その時間を感じさせない赤煉瓦を主軸に建築されている。
素材の性能上、建物に仰ぐような高さはないが――もともとこの国に高層を感じさせる建物は存在しない。どの建物も平均的に、室内にいると天井に高さを感じる二階建てていどがほとんど――管理敷地が広大なため、本庁舎をはじめ、多くの別館も存在するため、主要な建物は緑豊かな中庭や整地された池、散歩やひと息つくのにちょうどいい庭園を眺めながら渡ることのできる回廊でつながっている。
このほかにも資料館やいくつもの図書館、十月騎士団に所属する文官たちの宿舎や食堂なども点在するので、用件をひとつこなすにしても、足を運ぶ向きや回廊の行先、作業の手順をまちがってしまうと大変なことになる。
ここでの建物を往復する作業は、周囲の景観に癒されたとしても相当の歩数を要するのだ。
だが三ヵ月も散々に庁舎を歩きまわっていれば、建物の位置も部署も、最短の足取りも手際も即座に判断がつくので、ハシュもさすがに迷うことはない。
――だって……。
そもそも配属初日。
教育係である上官に、
「二時間、時間をやる。すべての建物内にある部署や部屋の間取りを今日覚える必要はないが、十月騎士団の敷地内にある建物の位置はすべておぼえろ。猶予時間後、見取り図を描いてもらうからな」
と言われ、文官特有のノリとでもいうのだろうか、「知識は当然、頭の回転、記憶力と応用力があっての文官だ!」と言わんばかりの研修からはじまったのだ。
幸い、これに落第した新人文官はハシュを含めてここ十数年ほど出ていないというのが、この要求が過剰ではなく最低基準というのだから、文官の存在もけっして侮れない。
最初はそうやって覚えた主要な建物を中心に、書類を手にする文官たちの姿も多く見られた回廊だったが、次第にその姿もまばらになり、気がつけばハシュの姿だけがそこを歩いていた。
庭園の木々はまだ秋に向けて色変わりするのには早く、夏の名残である濃い緑がまだまだ茂っている。
ハシュは回廊を渡り歩く区間が終わってもまだ進む足を止めず、いつしか直截地面を踏み歩いていた。
――土のにおいが濃いなぁ……。
そういえば、昨日は夜に急な雨が降っていたよな。
などとぼんやり思いながら、十七歳の少年は敷地内にある厩舎へと向かう。
十月騎士団の本庁舎や別館だけを渡り歩くのであれば、自身の足をとにかく駆使するだけですむのだが、その範囲が十二ある各騎士団庁舎を巡る規模となるとそうはいかない。
地図上で一見すれば、それらは皇都を中心にまとまっているが、いざ距離で測るとひとつひとつはずいぶんと離れており、その距離間で各騎士団の管理敷地や庁舎が点在しているのだ。
ハシュが厩舎に向かっているのは、伝書鳩に課せられた言いつけを遂行するには、人間の足だけでは時間に間に合わないからだ。
何せ、これから馬の脚力を借りて、往復二時間の距離を「ついで」に移動しなくてはならない。
それをそうと言いのけてしまう上官たちは、ほんとうに鬼か、ほんとうに地図を縮図すぎて覚えてしまったのか、――そのどちらかだろう。
ハシュが思うに、それは二択ではなく、総合一択でしかない。
「……ま、馬に乗るのは嫌いじゃないからいいけど」
こういうときは「騎士」の本領のひとつ、厩舎で騎馬を用いて出かけるというのが手段だった。