バースデー(下)
■紹介
・ナーガ
生家を追われた貴族の次女。本名ナーガディシア・ピエロット・リーデア。
・転生の書
ナーガと会話するように自ら文字を綴る森羅万象を知るかのような書。
・フィリップ
父親ほどに年上の男性使用人。
・イゾルデ
母親ほどに年上の女性使用人。
・リナ
ナーガよりいくつか年が上の女性使用人。
ナーガは震えながらその隙間から廊下の物音を伺います。
するとなんと、フィリップとイゾルデが額や腕から血を流している姿で現れました。
息を切らしながら彼らはナーガに近づきます。
フィリップはその怪我に苦しそうな顔を浮かべつつ、ナーガの肩を掴みます。
「ナーガ。賊の集団だっ。
賊の集団が屋敷を襲っている……ここは安全じゃない、急いで逃げよう」
と声を落として囁きました。
イゾルデも必死にナーガを引っ張り、喧騒が響く方向から離れるように促します。
二人に引きずられるようにしてナーガは進みます。
廊下を進む中、心臓が鳴り響く、頭は拗れた糸のよう、そして視界が揺れて崩れゆくような感覚。
夢であろうか、幻であろうか、現実感が追いついてこないまま。
そして次の角を曲がった瞬間、そこに立ちはだかる大柄な男の姿が目に飛び込んできました。
その男、賊の男は血に染まった刃を握りしめ、冷酷な目で彼らを睨んでいます。
殺意を隠そうともせず、無言で彼らに近づいてきます。
しかし恐怖に怯えたナーガは、その凶器が振り下ろされる瞬間でも、動けず立ち尽くしてしまいました。
その瞬間、フィリップが咄嗟に前に出て、ナーガを庇うように立ちはだかります。
鋭い刃がフィリップの身体に深く突き刺さり、彼は呻き声を上げながら膝をつきます。
その致命的な刃を受けたにもかかわらず、彼はすぐにその体を振り絞って、あらん限りの力で賊を殴りつけます。
幾度も拳を賊の男に叩きつけながら、そのまま振り返らずに「早く行け!」と声を絞り出します。
イゾルデは躊躇することなくナーガの腕を引き、先を急ぎます。
後ろでフィリップの叫び声が響く中、二人は廊下を駆け抜けました。
◇
階下に降りると、すでに火が放たれ、激しい炎と黒い煙が舞い上がっていました。
燃え盛る火の熱気が肌に刺さるようで、視界も悪く、呼吸が苦しい。
それでもイゾルデは必死に気をつけながらナーガを導き、何とか出口に向かおうとします。
ですがガラガラと、突然天井が崩れ落ちて大きな瓦礫が二人に降り注ぎます。
「危ないっナーガ!」
イゾルデは咄嗟にナーガを庇いました。
その結果、瓦礫が彼女の肩に直撃したようです。
イゾルデは痛みに顔を歪めながらも歯を食いしばり「大丈夫…さぁ、ナーガ。先に進みましょう」とナーガに言いました。
ナーガは震えながらも彼女を支え、共に出口へ向かおうとしますが、背後から再び賊の追手の足音が迫ってきます。
出口へと向かう扉が目の前に見えた瞬間です。
「ナーガ、さぁ、急いで!」
イゾルデは強く言い放つと、ナーガを部屋の中に押し込み、その扉を閉ざしてしまいます。
追っ手を阻む門として、そして彼女自身が賊を止める番として。
ナーガは戸惑いながら閉ざされた扉へと振り向きます。
「お願い、イゾルデ、開けて……」
ナーガは涙を堪えながらそう訴えかけますが、扉の奥からは強い覚悟を持った声が返ってきます。
「早く逃げて。私を困らせないで」
押し開けようとするナーガですが、その扉はビクともしません。
ナーガは何度も扉を叩きますがイゾルデの声は聞こえません。
「どうして? 私は、あなたにまだまだお返しをしきれてないのに…」と、彼女は喉の奥で言葉を詰まらせます。
ですが扉は固く閉ざされたままでした。
ナーガは一人取り残され、ふらふらと足取り重く出口に向かいます。
その胸には締めつけられるような思いが駆られれていることでしょう。
彼女との思い出は、ナーガが彼女を困らせたことから始まっていました。
それを思い返すと、ここでイゾルデの意思を無視するわけにはいかない。
ナーガはその覚悟を胸に刻み、一歩一歩前に進みます。
◇
広間に出るともう出口は目の前です。
その時ナーガはふとリナのことが脳裏をよぎったのでしょう。
「リナ…リナは無事かしら…」
ナーガは不安に駆られ小さく呟き、その身を案じているようです。
ですが答えは目の前でした。
男の呻くような声が響き、その方へ視界をやると広間の奥で蠢く影がナーガの視界に映り、彼女は息を呑みました。
それはリナの身体に覆いかぶさるようにする賊の姿。
リナの胸には深々と刃物が突き刺さっており、彼女はすでに絶命しているようでした。
その上で彼女の体を貪る様子はまるでカラスが腐肉をついばむような光景です。
その賊は3人。
彼らはリナに夢中で、ナーガの存在に気づいてさえいませんでした。
「彼の者たちを追いし者よ」
「命をいただき暖をとらん」
「火のない家に火を灯し」
「得たもの皆で分け合わん」
彼らは楽しそうに歌いながらその凶事に手を染めています。
ナーガの血が逆流するかのように凍りつき、その心に芽生えた黒く重い感情が、彼女の瞳に宿ります。
その感情は震えるナーガを、手頃な位置にあった棒切れを手に取らせる力がありました。
彼女の手に握るそれ、そしてその瞳は彼女の確かな意思となっています。
彼らに忍び寄るナーガの耳に賊たちの醜い会話が届きます。
「お頭、なんですぐに殺しちまったんだよ」
「いいだろ? リーデア家だとか、苦労している俺たちをのほほんとしながら馬鹿にしている貴族だろ?
そこに仕えるやつも同罪だ。そういうのを見るとイライラするだろ?」
無遠慮なその言葉に、ナーガの全身が震え、血の気が引いたように表情が冷たいものへ変わっていきます。
そしてその言葉の元となっているお頭と呼ばれた大柄な男。
ケタケタ笑いながらリナの尊厳を踏みにじるように弄ぶ様子に、怒りが限界を超えたのです。
ナーガは静かに棒切れを握りしめ、魔力をその表面に注ぎ込み始めます。
魔術による機能強化と呼ばれる行為。
今回高めるのは「殴る」という機能の力です。
魔力を注ぐ際に発する淡い光、スカートの中に棒を隠すようにしながら、ナーガはお頭に忍び寄ります。
ナーガの心に湧き上がる憎しみを押し殺すように歯を強く食いしばります。
確実に初撃で葬るため、怒りの声を抑えつけるように。
静かに近づいたナーガは、棒をしっかりと構え、お頭の頭に狙いを定めます。
パァンと。
一瞬の間でした。
次の瞬間、彼女の棒はお頭の頭に直撃していました。
膨らんだ袋が弾けるような軽やかな音。
それと共に、その者の頭は水風船が割れるように弾け飛びました。
そのしぶきがナーガの体を染めます。
お頭の頭だったものから壊れた蛇口のように血が飛び散る中で、怒りが体を支配したナーガはその怨嗟を喉から絞り出すように叫び上げました。
「お前たちが、私の大事な人を、よくも────っ!!」
お頭が崩れ落ちると同時に、彼女はリナに覆い被さっている男に向けて棒を振りかぶります。
ですが、男はすんでのところで気づき、体をひねってリナから離れます。
するとナーガの攻撃は男の腕を掠るように通り過ぎます。
触れようとした部分の肉は削がれ、腕からは血が噴出しました。
しかし男の行動を阻害するまでに至らず、激怒した男は呻き声をあげながら反撃に転じます。
ナーガは男の一撃を避けきれず、腹部に激しい衝撃が走り、その場に崩れてしまいます。
男はナーガを押さえつけ、馬乗りになって殴打を繰り返します。
顔面に降り注ぐ容赦ない大人の男性による拳の衝撃に、ナーガはなす術もないままでした。
数発の打撃を浴びせると彼女は反応が鈍り、男の目からはまるで大人しくなったかのように見えたのでしょう。
男はその様子を確認しながら、息を荒げて笑った。
「なんだよ、綺麗な女じゃねえか…もったいねえことをしちまったなあ」
と彼の声は不気味な調子に変わりました。
舌なめずりをしながら拳を振りかざす真似をして「暴れるんじゃねえぞ」とおどしかけます。
男はその思うまま次の行動のために体勢を整え始めます。
その瞬間、ナーガがかすかに身じろぐのを気づき、男は苛立って再び拳を振り下ろそうとしました。
「暴れんなって言っただろ!」
と怒声をあげながら拳を下ろします。
しかしナーガは反射のままに、手に握られた棒でその拳を阻みました。
「ぎぃっ…!?」
その棒には破壊力を増すように魔力が籠められていました。
その力は直撃した男の拳を砕き、骨が激しい音を立てさせます。
痛みで呻き、男は地面に倒れ込んだようです。
その隙をナーガは見逃しませんでした。
震える体を奮い立たせて立ち上がり、今度こそ葬ってやろうと勢いよく棒を振りかぶります。
そして体全体を使うように渾身の力を込めて、ナーガは男の頭を吹き飛ばしました。
その男の頭は文字通り粉砕され、赤い血と白みがかった粘体が飛び散る中で男は動かなくなりました。
ナーガはゆっくりと男の頭に埋まった棒を引き抜き、体勢を立て直します。
痛みに歪む顔をしかめながら、口の中で何か硬いものが転がっているのに気づいたようです。
彼女はそれを指でかき出し、床に吐き捨てました。
それは折られてしまった奥歯でした。
そして鼻に詰まった鼻血を一息で吹き出して、残る一人の方に視線を向けます。
その残りの男は、つい今まではナーガが抑えつけられているのをのんきに見て笑っていました。
ですがいまや自分が危険にさらされると悟ると、怯えた様子で後ずさり、やがて大慌てでその場を逃げ出します。
「そんな覚悟でリナを…」
おそらく彼にとっては戯れをしていただけ、という考えだったのでしょう。
命の清算を行っているという自覚すらない、あまりにも未熟で利己主義の考えを前にナーガの胸に怒りが燃え上がったのです。
彼女はおたけびを上げながら男を追いかけようと駆けだします。
「……ッ!?」
しかし足がもつれ、床に倒れてしまいました。
何かに引っかかった、と見ると、それはリナの冷たい遺骸。
熱くなりすぎて、無残なリナに追い打ちをかけるように足蹴にしてしまった自分に気づいたようです。
その気づきがナーガの心に燃え上がっていた怒りを一瞬にして冷え込ませるのでした。
悲しみがナーガに襲い掛かったのでしょう。
その感情に負けまいとナーガは涙を浮かべさせて「逃げたあいつを殺せる魔術はないの!?」と怒りを奮い立たせるようにして、転生の書に叫びかけます。
すると、書は静かな声で応じました。
『冷静になりなさい。今のあなたでは、そのような魔術は扱えません。
それに賊は三人だけではありません。
彼らが本気になればゲームオーバーです』
「……ッ!!」
その言葉にナーガは嗚咽と共に、さらに大粒の涙をこぼしました。
「ゲームって何!? 私の人生も、みんな、リナもゲームなんかじゃない!!」
『失礼、口を滑らせてしまいました。
とにかくあなたは生きなければなりません。
ここから逃げるのです。
あなたを守った使用人たちの命を無駄にしないためにも』
ナーガはその言葉に、どうしようもない現実を突きつけられた表情を浮かべます。
屋敷はじきに完全に火に包まれることでしょう。
その中でリナの遺骸を、フィリップを、イゾルデを残していかなければならないことが、彼女の心を深く苦しめたことでしょう。
ですが、歯を食いしばり、涙を飲み込むようにして逃げる決意をします。
「みんな…ごめんね……」
唇を噛みしめながら別れを告げ、ナーガはその場を後にしたのです。
◇
ナーガは屋敷を見通せるほどに離れた場所から、ふと振り返りました。
炎が屋敷を包み、赤い光が空に立ち上っている様子が瞳に映っています。
かつて彼女が成長したその場所は、もう燃え盛る瓦礫と化していくだけの光景となっていました。
生家に続いて、ナーガはまたも第二の故郷を失ってしまったのです。
「自警団にでも駆け込めたら何か変わったのかしらね」
『ホクカントリーの治安機構は脆弱です。賊の討伐は期待しないほうが良いでしょう』
ナーガは書の冷静な発言を見ながらその胸に無力感を抱えているようでした。
燃える屋敷を見ながらぼんやりと言葉を続けます。
「あなたは全能の書のように思えた。
でもどうしてこんなことを防げなかったのかしら?
あなたのおかげで私は生き延びたと思うけど、みんなは……」
ナーガの口から、悲しみと怒りがこぼれ出ました。
彼女は心の中で書を責めずにはいられなかったのです。
転生の書は、冷静な言葉だけを返しました。
『そうですね。現実というものは思いもよらない結果を引き寄せることがあります。
ナーガディシア。この結果については非常に残念です』
ナーガはその返答に何かに嘲るように歪んだ笑みを浮かべました。
「そうね、未来でも知っていない限り、それは無理な話よね」
彼女は一人納得しながら肩の力を抜きました。
すると、転生の書は静かに言葉を告げます。
『ナーガディシア』
ナーガは深く息をつき、視線を遠くに投げかけました。
「帰る場所を失った。生家にも戻れない。
もう私はナーガディシア・ピエロット・リーデアとしては生きられない。
私はただのナーガよ」
彼女は静かに決意を固めた瞳で告げました。
「転生の書よ、今後はナーガ。そう呼んで」
その言葉に転生の書もまた了承するように、短く「ナーガ」と応えました。
それは彼女が自らの過去を切り離して新たな道を歩む覚悟の現れでした。