北国と使用人(上)
■紹介
・ナーガ
生家を追われた貴族の次女。本名ナーガディシア・ピエロット・リーデア。
・転生の書
ナーガと会話するように自ら文字を綴る森羅万象を知るかのような書。
あれからいくばくかの時が流れました。
北国の寒風が絶え間なく吹きつける荒涼とした土地。
その一角に佇む古びた館で、再び物語が動き出します。
鋭い刃のように冷たく吹きすさぶ風が、部屋の窓を激しく叩きつけます。
一年の多くを冬で過ごすこの過酷な環境に、ひとりの少女がいます。
漆黒の髪が波のように揺れるその少女の名は、ナーガディシア・ピエロット・リーデア。
ナーガはまだ幼いながらもまるでこの厳しい風土に染まったかのように、その瞳には冷たく鋭い光を宿していました。
家族の手により生家より追放されてしまったナーガ。
彼女はこの館に閉じ込められるようにして、外の世界とほとんど断絶された生活を送っています。
館の使用人たちは、彼女をはれ物のように扱い、必要最低限の接触しか持とうとしません。
ナーガが食卓についても、使用人たちは無言のまま料理を運び、ただ頭を下げるだけ。
その物を言わない所作には、冷えきった距離感とかすかな恐れが入り混じっていました。
しかしナーガ自身は、それを気にも留めていない様子でした。
彼女には頼れる存在があるからです。
それは「転生の書」と呼ばれる、古びた黒い装丁の本。
まるで生きているかのように、ナーガに語りかけ、導きを与える不思議な存在です。
そして、今日も書は彼女に囁きかけるのでした。
『ここは痩せた土地。この北の地では、力なくして生き残ることはできません。
あなたは強くならねばいけません』
その言葉に従い、ナーガは孤独の中で黙々と鍛錬を重ねていきます。
朝日が昇る前から夜の帳が降りるまで、書に記された知識を習得し、修練に励みます。
広い館の中、彼女がいる一室だけは、夜が更けても灯りが消えることはありませんでした。
そして、いつもより夜更かした日には、決まって狼の遠吠えが聞こえてきます。
冷たい風に乗って、その不気味な鳴き声がナーガの部屋まで届くのです。
怒りに満ちたような、恫喝するかのような鳴き声。
ナーガはその声が聞こえるたびに身を震わせますが、それでも鍛錬の手を止めません。
『力がすべてです。力がなければ、この厳しい地では何も得られません』
と、書は怯えるナーガを励ますように淡々と教えるのでした。
◇
別の日もナーガは館の一室で、ひとり黙々と魔術の鍛錬に励みます。
古びた「転生の書」がそっと開かれ、淡々とした言葉で彼女に語りかけるのです。
『魔術というものは、人の内にある「気」。
くわえて空気を構成する「大気」の揺らぎから生まれるものです。
「気」が「大気」に働きかけることで、その揺らぎが魔術という形で現れるのです。
そして、その揺らぎは自然界にとって不自然な動き。
魔術を使うとその痕跡が残る理由にもなっています』
ナーガはその言葉を心に刻んだのでしょう。
彼女は自身の内側に流れる「気」、命や意志といった力を感じ取るよう努めます。
呼吸を整えて心を集中させると、館の冷たい空気の中にかすかな揺らぎが生じ始めました。
彼女の「気」が「大気」に触れ、その形を変えようとしているのです。
『大魔道士と呼ばれる者たちは、内に強大な「気」を持ちます。
それによってより多くの「大気」に働きかけて操ることができるのです。
しかし、覚えておきなさい、ナーガディシア。
たとえ「気」が少なくともそれを巧みに操る者は、「気」が強い者をも凌駕できるのです。
単純な力の多寡がすべてではありません、制御できる力こそが重要なのです』
その言葉に耳を傾けながら、ナーガは自分の手のひらに小さな光を生み出す魔術を試みました。
冷たく暗い部屋に、徐々に暖かい輝きが広がり始めます。
その光は、彼女の「気」と「大気」の揺らぎが生み出した、小さな奇跡なのでした。
『いいですよ、ナーガディシア。
次は暖かな熱を生み出してみましょう。寒さに打ち勝つための魔術です』
ナーガは、再び集中して息を整えます。
彼女の手のひらから柔らかな温もりが広がり、館の一室に占めていた冷たい空気がじんわりと暖かくなっていきます。
転生の書が言うにはこれらはごく簡単な魔術。
ですがナーガにとっては大きな一歩となったでしょう。
『あなたの力は、まだ始まったばかり。
しかし、今にもっと強大な魔術を手にする時が来るでしょう。
力を磨き続けることを忘れてはいけません』
ナーガは周囲の人の温もりを避けるようにしながら、書が語る言葉だけを支えにしました。
夜の寒さが増す中、その館の冷たい一室で彼女はひとり黙々と鍛錬を続けるのでした。
◇
あれからさらに時は流れます。
北国の寒さが館を一層包み込んだ年でした。
ナーガは10歳を迎えていました。
そして相変わらず孤独に鍛錬を続けている生活を送っています。
そんなある日、フィリップという男が使用人として館にやって来ます。
彼はこれまでの使用人とも違い、声が大きくていつも笑顔、まるで館の静寂を打ち破るかのような存在でした。
館の使用人たちも、初めは彼を異質なものとして見て距離を置いていました。
ナーガもそんな様子を見て書を抱えながらつぶやきます。
「ほら見なさい。あんなに騒々しい男なんて、この館には似合わない」
しかし日が経つにつれて、状況が変わっていきます。
気づけば使用人たちはフィリップと笑い合い、楽しげに会話を交わすようになっていました。
遠巻きに見ていたナーガも、その変化に驚きを隠せない様子です。
「あんなにみんなが打ち解けるなんて……どうして?」
彼女には、その理由がよくわかりませんでした。
フィリップが一体何をしたのか、どんな言葉をかけたのかナーガには理解できない。
ただ分かるのは彼の周りには、いつも温かな空気が流れていることでした。
◇
ある日、特に冷え込む夜のことでした。
ナーガはいつものように一人で鍛錬を続けていました。
そこへ年を召した女性の使用人の一人がスープと暖かな上着をそっと持って、ナーガの部屋にやって来ました。
「お嬢様。今日は特に冷えますので、これをお召しになってください。
それから、温かいスープもどうぞ」
しかしナーガは顔を上げることもなく、無表情でその言葉を聞き流しました。
スープも上着も、そこにあることさえ気に留めず、ただ鍛錬に没頭しています。
使用人は少し困ったようにほほえんで、静かに部屋を後にしました。
その光景をたまたま目にしたフィリップ。
翌日にナーガのもとへ来て、わずかに険しい表情を浮かべこう言います。
「ナーガ。昨日のことだが、あの使用人、イゾルデが君に心を込めてスープや上着を持ってきたのに、君はどうして何も言わなかったんだ?」
ナーガは首をかしげますが、あの年を召した女性の使用人を指しているのだと察したようです。
その上でナーガは冷ややかに答えました。
「私は貴族ですから。彼女が私に仕えるのが当然で、私から何かを言う必要はないでしょう?」
その言葉を聞いたフィリップは、しばらく無言でナーガを見つめてから声を抑えて言いました。
「貴族だから? それは関係ないんだ、ナーガ。
私は貴族に言っているのではなく、君に言っている。
人として感謝の気持ちを持つべきだろう、と。
使用人たちだって本当は君を大事に思っているんだ。
聡い君ならそれは分かっているはずだ」
その言葉にナーガは戸惑いました。
これまで自分が持っていた価値観が突然揺さぶられるような感覚を覚えたのです。
しかし理解が追いつかないナーガはどう反応すべきかもわからず、ただフィリップの言葉に耳を傾けるしかありませんでした。
夜にナーガはまた一人で鍛錬をします。
ですが、昼間の言葉が頭の中で反芻となり繰り返されて取り除けません。
すると書は優しく促します。
『無視してもいいのです、ナーガディシア。
彼の言うことは貴族のあなたには必要あるとは思えません』
けれどナーガはその時失われる前の学校での友達たちとのふれあいを思い出したようです。
心の奥底で何かが動いたのかハッと顔を上げます。
あの年を召した使用人が冷えた夜に暖かなスープを差し出してくれたあの行為、その表情が今になってじわじわと胸に響いてきたのでしょうか。
あくる日にナーガはフィリップの元へ行きます。
彼の背中に向かって、躊躇いがちに呟くように言いました。
「ごめんなさい。私は…あなたの言う通り間違っていた」
フィリップは振り返り、穏やかな笑みを浮かべて彼女の肩に手を置きました。
「思いを伝えることはとても大事なことだよ、ナーガ。
でもね、今本当に伝える先は俺ではないんだ。
さあ、一緒にいてあげるからその思いを伝えに行こう」
その言葉に促されるまま、ナーガはイゾルデの前に立って、深く頭を下げました。
そして、たどたどしくも感謝の言葉を口にします。
「あの……ありがとう」と。
そんなナーガにイゾルデは優しくほほえみます。
「お嬢様が私たちにお言葉をくださるなんて……私は幸せ者でございますわ」
その表情を見てナーガは熱くなるような不思議な感覚を覚えたようで、胸を抑えて大きく呼吸をします。
それはまるで凍り付いた大地が暖かな日差しで溶かされるかのような温かさだったことでしょう。
フィリップはそんな二人を見つめながら、しずかに嬉しさを表情に表します。
こうしてナーガは少しずつ変わり始め、フィリップ達使用人との間に徐々に信頼の絆が結ばれていきました。
◇
それからナーガはフィリップの間にとみに交流が深まっていくことになります。
はじめたどたどしくしていたナーガは、次第に彼と話す声色が軽快なものに変遷していきました。
一方で彼女と話をしていく内にフィリップは驚くことになります。
ナーガはまだ子供であるにもかかわらず、彼女が持つ知識と能力はとても卓越していたからです。
「ナーガ、君は本当にすごい子だ。一体どうしてそんなに賢いんだい?」
その問いに対して、ナーガはただ一言だけ答えます。
「この本のおかげで私は色々と知ることが出来たの」
ナーガは誇らしげに転生の書をフィリップの前に掲げます。
しかしフィリップは、それが英知をしたためているただの本と捉えたようです。
だから勉強熱心なナーガにとても感心をした態度を見せました。
また、期待ゆえか厳しい意見が出てきます。
「ナーガ。君はすごい知識を持っている。
でも、この世のものは本に書かれているものだけが全てじゃない。
実際に見聞きして得たものも重要だって分かるかい?」
ナーガは不思議そうに彼を見ましたが、特に反論することはありません。
彼女の知識はたしかに転生の書を通して得たものです。
それは現実の世界で見聞きしたものがほとんどない、という事実をナーガは認識しているからです。
その子供らしからぬ平静とした様子を見てフィリップは困惑したように眉を上げます。
ですがそれを振り切るようにニコリと笑みを浮かべて、彼自身がした冒険の話をナーガにし始めました。
彼は目を輝かせながら、この国のさまざまな地名について話をします。
「ナーガ、この世界は広い。
俺たちが住んでいるこの国、セントネシアがあるだろう?
今俺たちがいるのは国の一部であるホクカントリー地方だ。
だけど、他にも壮大な場所があるんだよ。
たとえば南にあるナンオーシャン地方というたくさんの島がある場所には、色とりどりの珊瑚礁が広がっていたりしてね。
そこでは、不思議な伝説だってあるんだ」
ナーガはフィリップの瞳をじっと見つめます。
興味を持ったその大きな目はわずかな期待を帯びて輝きを持ち始めます。
「『黒い帆船』の伝説って言ってね。霧が立ち込める海域にそれは突然現れるんだ。
真っ黒な帆に真っ黒な船体。それが現れると出会った船を飲み込んでしまうと言われているんだ」
「出会った船を飲み込んでしまう? 船が船を食べてしまうの?」
ナーガは思わず身を乗り出して、その疑問を口走ります。
フィリップはそんな彼女の様子に苦笑しながらも頷きました。
「そう、船を食べてしまうんだ。
実はこの船はとても大きなイカが壊れた船を背負って移動している姿でね。
そのイカと船にたくさんの大きな黒い虫が付いていて、まるで黒く染まった船に見えるんだ」
ナーガは想像するだけでも怖くなったようで、思わず身震いをしました。
「フィリップはその船を見たことがあるの?」
「ああ、一度だけ。ナンオーシャン地方の海域を冒険していた時の最大の危機だったさ。
這う這うの体で逃げ延びたけど、あれは本当に怖かった。今でも霧が出ている海を見ると背筋が凍る思いをしているよ」
そう言って彼は首をすくめて見せます。
ナーガは、彼に「もっとお話しして」とさらなる話を要求します。
すると喜んでフィリップはまた新たな冒険譚を話し始めます。
東にあるトーエリア地方には砂漠に眠る巨大な竜、ナーガが元々住んでいた西にあるサイランド地方の地下には迷宮があるという話も出てきて驚かせてきます。
「私、サイランドに住んでいたのに知らなかった!」
「身近なところにも冒険は転がっているんだよ。
たとえばこのホクカントリーにだって、不思議な場所があるのを知っているかい?
氷の断層って言うんだ。
そこは巨大な氷の洞窟なんだけどその地下深くを潜っていくと幽霊に遭遇するって話なんだ。
その幽霊に遭遇すると命を取られるって話で、実際に何人もの人が命を落としているんだ」
「そんな場所があるなんて……幽霊は怖い……」
ナーガは身震いすると、そんな彼女を彼は安心させるように優しい声をかけます。
「大丈夫だよ、ナーガ。その幽霊が姿を現す時は氷の中なのに暖かい空気が流れてくるんだ。
そして鼻を刺すような嫌な臭いといっしょにね」
「くさいの? いやだあ」
ナーガが思わず顔をしかめると、フィリップは笑いながら話を続けます。
「だからね。幽霊をおびき寄せないようちゃんと身を清めて清潔にしないといけないんだ。
あんまり鍛錬に没頭しちゃってお風呂に入るのが遅れるのはよくないんだよ」
「うう……わかった」
ナーガは恥ずかしそうに顔を赤らめて頷きました。
そんなナーガの仕草を見て、フィリップは優しく彼女の頭を撫でてあげます。
すると彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていました。
「でもフィリップの話す冒険譚はとても面白いわ。いつか私も世界を見て回りたい」
「きっと世界を旅できるさ。でもホクカントリーは痩せた土地だからね。
貧しいと人間は悪いことをしても平気になっちゃうものなんだ。
だからホクカントリーにはそういって賊になってしまうことが増えてしまって、襲ってくることだってある。
子供のナーガだとまだまだ危ない、だからね、ナーガがちゃんとした大人になってからそれを叶えよう」
それからも二人は時間を見つけては語り合うことが多くなりました。
ナーガにとって彼は信頼できる、夢中になる話をしてくれる大人の存在になったのです。