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黒い本(下)

 ナーガとマニーが心を通わせる。

 そんな幸せな時間は長く続きませんでした。


 その夜、リーデア家は普段とは異質の空気に包まれることになります。

家の中では器の割れる音、机を叩く音、そして怒声が飛び交うのが聞こえてきます。


 ナーガは暗い寝室のベッドの上で膝を抱え、震えていました。

寝室の外から聞こえる激しい声は、普段の静かな屋敷の音とは違っていました。


「ナーガ! ここにいるのか!」


 突然扉の外から父の怒りの声が響き渡り、ナーガは自身を抱き込むように腕を回します。

 ナーガには何が起こっているのか分からないのですから。


「いいえ……違う…私は分かってしまった…」


 そう、外の怒声が何を言っているのか、望まざるもナーガの耳に届いていました。


 甲高い悲鳴のような叫び声がしきりに「娘のマニー」「エフィージール家」という言葉を述べています。

その様子からマニーの母親、エフィージール家の夫人が、リーデア家に押し掛けてきたと想像が出来ます。


 兄のなだめるような声で夫人は少し冷静さを取り戻したのか、状況を改めて述べています。

その内容は、マニーが母親に「恋の相談」をしたことから始まったようでした。


「娘は言ったわ、お母様、私、好きな人ができたの、と。

 だから私は尋ねたわ、どこのご子息なのか、と」


 その相手が誰なのかを聞いたマニーの母親は驚いたと述べています。

母親は声を震わせながら言葉を続けます。


「あの子は言ったわ。ナーガは女の子なんだけど、男の子の部分もあるの。

 だから、私たち、結婚できるはずと……これがどういうことか説明なさいっ」


 そう、母親は愛する娘の思い人がリーデア家の()()であり、あまつさえ()()()である事実をも知ってしまったのです。


 マニーは、ナーガとの遊びの中で起こった出来事を悪気なく話してしまったのでしょう。

 しかし、マニーの言葉を聞いた瞬間、マニーの母は怒りと恐怖に駆られました。


 聖女候補である娘が「(けが)された」として、すぐにリーデア家に怒鳴り込んできたのが事の顛末(てんまつ)でした。


「聖女候補の娘がそんな異形(いぎょう)の者に手を出されるなんて、許されるわけがない!

 リーデア家よ! このことはすぐに教会にも伝えるので覚悟なさいっ!」


 家の中は彼女の怒声で満たされ、リーデア家の人たちの怯えるような声も混ざります。

 ナーガは寝室で、布団に包まりながらもその声がはっきりと聞こえてきました。


「あぁ、ナーガよ……なんとおぞましい…!」


 その声はナーガの母親のものでした。

元々疎まれていたとは言え、子供のナーガにその母親の心無い言葉は心を抉るには十分すぎるほどのものでしょう。


 ナーガは頭を抱えて「すべて自分のせいだ」「自分がマニーと仲良くしたから」「こんな自分がいたから」と自分を責めて、彼女の涙は止まりませんでした。


 夜が更けると共に、ようやく怒号が静まっていき、エフィージール家の者たちは帰っていったようでした。


 しかし、安堵する暇はありません。

 ナーガの寝室の扉は荒々しい音と共に開かれて、鬼のような形相の父の手により寝室から引きずり出されます。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」と悲鳴を上げながらも父は容赦なく引き立てて、ナーガは居間にいる家族全員の前に立たされました。


 父、母、兄、そして大好きな姉。

家族全員の厳しい視線が、ナーガに注がれています。

 その沈黙の空気が、ナーガに重苦しく覆いかぶさります。


「ナーガ…お前というやつは…どうしてリーデア家の邪魔をするのだ」


 父が、いつも以上に険しい表情で言葉を発しました。

その声には怒りと敵意が混ざり合っており、その重みはナーガにのしかかります。


 母は言葉を発することなく、ただ怯えた瞳でナーガを見つめていました。

その目は、まるで自分の娘ではない、恐ろしい獣を見ているかのようでした。


「本当におぞましい……こんなもの私の子じゃないわ!」


 そして兄が声を荒げ、ナーガを糾弾(きゅうだん)します。

彼は家の再興に全てを賭けているため、このスキャンダルが致命的だと感じているのでしょう。


「お前が何をしたか分かっているのか? 僕は確かに言ったよな?

 マニーは聖女候補だと。そんな相手にお前が触れるなど、許されるはずがないことは分かっていただろう!」


 ナーガは必死に説明しようとしましたが、声が震えてうまく言葉になりませんでした。

どうすればいいのか、何を言えば許されるのか、全くわからなかったのです。


 助けを求め、彼女は姉に視線を向けました。

いつも優しく接してくれた姉なら、きっと自分を守ってくれる、そう信じたからでしょう。


 しかし姉の表情は歪み、あきらかに嫌悪を浮かべたものでした。


「ナーガ…あなたどうにかしているわ……どうしてこんなことをしたの?」


 その言葉に、ナーガの表情は凍りつきました。

 姉の優しさはそこにはなく、冷たい言葉が突き刺さったのでしょう。


「私は…ただ…マニーと仲良くしたかっただけ…」

「あなたは妹、女の子だと思っていたわ。

 でもそうでないのね、女の子でも男の子でもない異常な人。

 ナーガ、あなたはやはりおかしいのよ」


 姉のその言葉は、ナーガの心を打ち砕くには十分でした。

大好きな姉からの拒絶。その冷たい視線と残酷(ざんこく)な言葉は、ナーガが最も恐れていたものの一つなのですから。


「お姉様…」

「声をかけないでちょうだい、けがらわしい、異常な獣」


 ナーガの目からは涙が溢れ、何も言えなくなりました。

 家族全員が自分を責め、理解してくれる者など誰一人いない。

自分は、リーデア家の中で完全に孤立してしまったのだという背筋の凍る思いが彼女の心を満たしたのでしょう。


「ナーガ、お前にはもうここにいられる場所はない。

 リーデア家はこの一件でエフィージール家に誠意を示さなければならない。

 お前がここに居続ければ、リーデア家の名誉は取り返しのつかないものになる。

 だから…」


 兄は、冷たい目でナーガを見つめながら、静かに、しかし重々しい口調で告げます。

一瞬、言葉を詰まらせた兄は、深く息を吸い、再び口を開きました。


「本来は数年後に地方の館に行く予定だったが、この件でその時期を早めざるを得なくなった。

 日が明けたらすぐに出発をしろ。必要なものは手配しておくから、余計な物は持って行かなくていい」


 ナーガは何も言えませんでした。

 兄の言葉は現実的であり、且つあまりにも重くのしかかるものでした。


 自分がこの家にいることで家族に害を与えてしまう。

 ナーガを絶望の底へと沈める告示に加え、兄はさらに冷酷な一言を付け加えました。


「お前の存在は、リーデア家にとってこれ以上にない(かせ)だった。

 泣いている暇があるか? すぐに準備をするんだ」


 ナーガの目からは涙が止まりません。

何も言うことができません。


 ただただ家族の前で涙を流す自分が、さらにみじめで恥ずかしいと感じてしまうのでしょう。

しかし冷たい視線が責めてきて、嗚咽を交えながらも感情を飲み込むしかありません。


 それからナーガは一睡もしないまま、わずかな荷造りの準備をします。

母も父も、姉でさえも、誰も彼女を慰めに来ることはありません。


 家族に拒絶され、追い出されるという現実。

ナーガの胸に鋭く突き刺さり、心を(えぐ)っているに違いありません。


 そして日が明けるころに、館の前に馬車が用意されていました。

ナーガは自室で少しの衣類と身の回りのものを鞄に詰め、荷物をまとめ終えていました。


 そして最も大切なもの、腕に抱えているのは、唯一の友とも言える「転生の書」です。

全てを失ったナーガにとって、この書物だけが唯一の支えなのです。

 縋るようにそれを抱える様子にさすがに家族も(とが)める真似はしませんでした。


 そして馬車に乗り込む前、彼女はもう一度だけ家を振り返ります。

生まれて六年の歳月を過ごしたそこは、絆や温もりが得られると思ったそこは、ただ冷たいだけの建物に過ぎませんでした。


 家族は誰一人、見送りに来ることはありません。

まるでナーガの存在を完全に消し去ろうとするかのように。


 馬車が動き出すと、ナーガはその揺れに身を任せ、ただ呆然と窓の外を見つめていました。

心の中には、怒りも悲しみも、絶望も入り混じっていましたが、どう表現すればいいのかわかりませんでした。

不思議と涙も(こぼ)れなくなっています。


 彼女に今残っているのは「転生の書」だけ。

それをナーガは腕の中でしっかりと抱き留めていました。


 こうしてリーデア家の一員であるナーガディシア・ピエロット・リーデアは、家族からの追放という形で生家(せいか)を後にすることになりました。

馬車の揺れと共に遠ざかる生家はいつしか見えなくなるほどに小さくなっていました。


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