黒い本(中)
学校に初めて足を踏み入れた日。
ナーガは不安と緊張の入り混じった様子を見せていました。
書に勇気づけられたとしても、自分は家族から「忌み子」として扱われていた。
同級生たちがどう反応するのか怖い。
そんな当たり前の心理です。
しかし、その心配はすぐに消えることとなりました。
「ナーガさん、ほんとになんでも知ってるね!」
「僕、こんなかしこい人ははじめて見たよ!」
同級生たちはナーガを疎むどころか、彼女の賢さを称えるばかりです。
それは書が彼女にもたらした知恵と力のおかげでした。
ナーガはそんな同級生たちの力になろうとする度に、ナーガの中に自信のようなものが芽生えていくのを感じたようで日に日にその瞳に力が宿ります。
いつしかナーガは自然とクラスの中心的な存在になり、次第にみんなと仲良くなっていきました。
そしてある一人の少女と出会い、それがナーガにとって大きな転機となりました。
「はじめまして、ナーガディシア・ピエロット・リーデア。
私の名前はヒューマニーニ・シミュラクト・エフィージールって言うの、よろしくね!」
その少女の名前はマニー。
明るく元気で、誰からも愛される存在でした。
マニーの容姿はまるで大理石の彫刻のようで、白い髪は美しく輝き、少し切れ長な瞳は清廉さを湛え、長い睫毛がその瞳を一層引き立てている。
神聖さを感じさせるほどの美しい少女でした。
初めて彼女を見かけた時、ナーガは心の奥底から彼女に惹かれるものを感じたようです。
ナーガの視界には何度も彼女が浮かぶように、マニーという特別な存在を目で追っていました。
エフィージール家は代々聖職者を輩出する一族であり、この国においては非常につよい影響力をもっていました。
その中でも彼女は未来の聖女候補としてより特別な存在だったのです。
ナーガはマニーと話すたびに心が躍る思いをしていたようです。
ただナーガはきっとそれは彼女の持つカリスマのようなものがそうさせているのだろう、と納得していたとも話します。
だけどクラスメートと一緒にマニーと遊んで一緒にいて、そして彼女が自身の手を握った瞬間に大きく弾む胸の鼓動。
それが何なのか、ナーガにはまだ分からないもののようでした。
分からないことはナーガにとってたまらなく不安を覚えるものとなっていました。
ですのである日の朝、ナーガは転生の書を手に取り助言が欲しいと願いました。
このマニーへの感情が何なのか、彼女自身は理解できず、混乱していたようです。
すると書が、まるでナーガの心を読んだかのように綴り始めました。
『ナーガディシア、マニーに近づきなさい。彼女はあなたにとって重要な存在です』
ナーガは書が他人との関係について語ることに驚いた様子を浮かべます。
今まではナーガ自身を鍛えることや、知識を得ることが中心でした。
ですが今はマニーという少女についても具体的に言及してきたからです。
それでも、ナーガはその言葉を信じるように書を強く見つめます。
そしてその日の放課後、ナーガはマニーに声をかけました。
「マニー、少しお話ししてもいいかな?」
「もちろん、ナーガ! 何でも聞いて!」
すると二人でいくつもの話を交えることが出来ました。
学校生活や友人の話、聖女候補での苦しいことや、家族に関する悩みだったり、将来についての話。
それらを話して打ち解けていくたびに二人の仲は深まっていきます。
そしてマニーと話す時間が増えるにつれ、ナーガの心には新たな思いが芽生え始めていったのでしょう。
友情以上の何か、言葉にできない不思議な感情。
ある日、転生の書がまた綴り始めました。
『マニーともっと近づきなさい。彼女もあなたに対して特別な思いを抱いているはずです』
ナーガは、その背中を押す言葉に戸惑いながらも頷きます。
そして、ついにナーガは自分からマニーに提案しました。
「マニー、今度、二人でどこかに遊びに行かない?」
「えっ、二人きりで? ……うん、行きたい、どこに行こうか?」
マニーは目を輝かせて答えました。
ナーガは少し照れくささを感じながらも、彼女と二人だけの時間を過ごせることに胸を弾ませているようでした。
◇
ナーガはマニーとの仲が深まるのを感じて、それに伴い少しずつ自分自身が変わっていくのを感じていたようです。
彼女は家に帰ると談話室に向かいました。
そこで姉にマニーのことを楽しそうに話していました。
「お姉様、私、最近マニーという子と仲良くなったの。
すごく明るくて、私にたくさんの元気を与えてくれるの。
きっと私たち、すごくいい友達になれそうだわ」
しがみつくようにするナーガに姉は椅子に座ながら、彼女の頭を優しく撫でて微笑んで答えました。
「それは素敵なことね、ナーガ。
マニーさんと良い友達になれるといいわ。あなたにとっても良い影響を与えてくれるはずよ」
しかし、兄はその会話に割り込むようにして心配そうな顔で言いました。
「ナーガ、気をつけるんだよ。その子はエフィージール家の子だろう?
聖女候補という話も聞いている、とても影響力がある存在だ。
もしも、君の…その、体の秘密がバレてしまったらどうなるか分からないからね、慎重な判断をしてくれよ?」
ナーガは一瞬、心が締め付けられるような思いをしたのか表情を歪めましたが、すぐに姉が明るい声で兄を窘めました。
「お兄様、それは杞憂ですわ。子供同士の友情に水を差すのは紳士的ではありませんよ」
兄はバツが悪そうに口をつぐみました。
そんな兄の様子にナーガはわずかに顔を曇らせましたが、すぐに笑顔に戻って姉に抱きつきました。
「お姉様、ありがとう! お姉様は私の最高の味方だわ!」
姉の言葉にナーガは安心し、胸の奥の不安が和らいだのか表情の強張りはすっかり消えていました。
◇
数日後、ナーガはマニーと一緒に川へ遊びに行くことになりました。
川辺に着くと、そこには清らかな水がゆったりと流れていて、鳥たちがさえずり、風が心地よく吹いています。
「ナーガ、川で魚が泳いでるよ! 捕まえられるかな?」
マニーが興奮気味に川を指差しました。
ナーガは微笑んで、すぐに魚に関する知識をマニーに教え始めました。
「この川にいるのはタンスイギョって海にすめない魚なの。
あの辺りにいるのは、たぶんマスっていう魚の種類だと思う。
見た目とか住む場所で分かるんだ」
マニーは目を輝かせて「そうなんだ、ナーガはほんとうに何でも知ってるね!」とはしゃいで、何度も川の中を覗き込んだりしていました。
そうやって二人は一緒に魚を追いかけたり、水辺で遊んだりで、楽しいひとときを過ごしました。
しかし夢中になって遊んでいるうちに、足元が滑り、二人は思いもよらぬ形で川の中へ転がり込んでしまいました。
「きゃーっ!」
「わっ!」
冷たい水が二人を包み込み、気づけば全身ずぶ濡れになってしまいます。
お互いを見合って一瞬驚いた表情を浮かべた後、二人は思わず大笑いをしました。
「ナーガ、服がびしょびしょになっちゃったね!」
マニーは笑いながらも、ちょっと困った顔をして言いました。
「このままだと風邪引いちゃうね。
今日はいい天気だし、このまま服を干して乾かしちゃおっか」
「服を干す……えっ、服を…脱がないといけないの?」
マニーは「うん、ほら、早く服を脱いで! ね!」と自分の服を脱ぎ始め、ナーガにも促します。
ナーガはためらいましたが、マニーの無邪気な勢いに圧倒され、結局彼女の手を借りて服を脱がされてしまいました。
「ほら、これで干しておけばお日様がすぐに服を乾かしてくれるはずだよ!」
マニーはにこやかに言う。
二人は裸で陽の下に立ち、服を広げて乾かすことになりました。
しかしナーガの裸を見たマニーの表情が変わります。
無邪気に笑っていた彼女の顔が、一瞬戸惑いを見せるのです。
ナーガはすぐにそれに気づいたのです。
彼女の視線が、ナーガの体の一部に注がれていることに。
「あれ? ナーガ…女の子なのに、どうして男の子の部分があるの?」
その言葉を聞いた瞬間、ナーガの胸が締め付けられるような思いが押し寄せてきました。
秘密がバレてしまった、マニーに気づかれてしまった。
自分が何者なのか、その事実を知ったマニーは、もう自分を友達として見てくれなくなるのではないか。
そう思うと、涙が自然と溢れてきました。
「ごめんなさい…ごめんなさいぃ…私…普通じゃないの…」
ナーガは泣きながら、言葉を絞り出すように続けました。
「生まれつき、私は…女の子なんだけど、男の子の部分も持っているの。
お父さんとお母さんから私を忌み子だって…すごくいやそうに思われてる。
きっとマニーも私をきらいになっちゃうんだよね…?」
涙で顔をくしゃくしゃにしながら話すナーガ。
心の底から、マニーに嫌われたくないという気持ちが溢れていたことでしょう。
今まで心を開いてきたマニーとの関係が、こんな形で壊れてしまうのではないかという恐怖に駆られていたのでしょう。
マニーはそんなナーガをじっと見つめたまま、黙っていました。
静かに彼女の話を聞いていたマニーの表情は、優しく微笑みを浮かべます。
「ナーガ…そんなこと、私は全然気にしないよ」
その一言で、ナーガの胸に溜まっていた不安が消えていくようでした。
「だって、ナーガはナーガだもの。
女の子でも男の子でも、私はあなたが好き、きらいになんかならないよ」
マニーは、そう言ってナーガの手を取り握ります。
ナーガはその言葉を聞いて、驚きと安堵が入り混じった表情を浮かべました。
「本当に…? 私をきらいにならない…?」
「もちろんそう、きらいになんてならない、ならない」
そう言ったマニーの笑顔を見て、ナーガはやっと安心することができたようで微笑みを浮かべます。
そしてマニーは続いてとんでもないことを言い出します。
「それよりナーガは女の子だけど男の子でもあるんだね。
それだったら私と結婚できるね!」
その言葉に、ナーガは驚きのあまり言葉を失いました。
しかし次第にその意味を理解すると、彼女の胸に溢れ出る感情が止まりらないようでした。
自分がずっと恐れていたことが、こんなに簡単に受け入れられるなんて思ってもみなかったのでしょう。
感極まったナーガは、思わずマニーに抱きつきました。
「マニー…ありがとう…ありがとぉお…」
二人はしばらくそのまま抱き合っていました。
涙を流すナーガに対して、マニーは優しく彼女の背中を撫で続けていました。
やがて、マニーは顔を離してナーガの顔を見つめました。
その表情は真剣で、どこか決意を持ったものに変わっていました。
「ナーガ、誓いの仕方、分かる?」
ナーガはその言葉に戸惑いながらも、マニーの目を見つめ返しました。
「誓い…?」
「そう、私たちが一緒にいることを誓うんだよ。じっと見つめ合って、そして…」
マニーはゆっくりと自分の唇を指で指しました。
ナーガはその仕草に導かれるように、自然と顔を近づけました。
そして、マニーの瞳を見つめながら、そっと唇を重ねます。
その瞬間、ナーガの心に溢れる喜びと感謝の気持ちが一気に広がります。
マニーとのこの瞬間は、これまで感じたことのないほどの幸福感で満たされていたことでしょう。