黒い本(上)
リーデア家という名門の貴族の家がありました。
この家はかつて広大な領地と数多くの財産をもっており、その名は遠くまで知られているほどでした。
しかし長い時を経て、リーデア家の栄光は過去のものとなりました。
彼らは骨董品や美術品、魔法の道具を蒐集することに熱を上げ、家の富を切り崩していくほどの放蕩ぶり。
それでも彼らはその品々を手離せず、領地を削り民を減らし、その上で税を増やして永らえるという生活を続けていました。
かつての威厳は失ったその名家に一人の子供が生まれます。
彼女の名前はナーガディシア、ナーガディシア・ピエロット・リーデア。
彼女はリーデア家の次女として生まれました。
しかし、彼女の誕生は祝福されるものではありませんでした。
ナーガディシアは女性であるもののその身には男性にしかないものも持ち合わせており、その両性具有の身は、家族から「忌み子」として扱われていました。
父や母ですら、彼女の存在を受け入れがたいものとしているほど。
かつてのリーデア家の栄光を取り戻すためには、ナーガディシアの異質さを恥として認識していたのです。
ナーガディシアは幼い頃から自分が両親に疎まれていることを感じながら暮らしていました。
幼いナーガディシアは漆黒の美しく波打つ長い髪を持ち、大きな瞳を持ち、意思を示す太い眉を持つ麗しい容姿の持ち主です。
しかしその瞳は不安で常に揺れており、眉は怯えによりひそめてしまう卑屈そうな少女となっていました。
彼女の兄妹である一番上の長男は学業に励み、リーデア家の経済的な危機を理解しています。
その兄はナーガに優しく接しているように見えましたが、はれ物のように扱う優しさであり、彼女の存在を認めるものではありませんでした。
「ナーガ。僕の目的はリーデア家の再興だ。
そのためにナーガの協力も必要になってくる。どうかそれを理解してほしい」
兄から告げられたその内容、それはナーガが二次性徴を迎える頃には地方の館に隠居をしてもらうということでした。
「君は女性でありながら男性でもある。今は可愛らしい少女だけど、将来のナーガの容姿が女性になるのか男性になるのか分からない。
それはリーデア家にとって大きな不利益にもつながるんだ」
だから、と兄は続けました。
「ナーガには遠く離れの家にひっそりと暮らしてもらいたい。だけどそのために君の一生分の生活費は我が家から出すつもりだ」
兄は真剣にリーデア家を想っているようでしたが、その想いはナーガには向けられていません。
幼いナーガにそのような話を告げるのは酷というものでしょう。
そんなナーガを優しく抱きしめてくれる存在がありました。
それはナーガの姉です。
「お兄様。お兄様もナーガをそのように扱うのですか」
ナーガの姉は、ナーガが物心ついた時からずっと優しく接してくれました。
「おねえさま……」
「ナーガ。私はあなたと離ればなれになるなんて考えられないわ。だってこんなにも愛らしい妹ですもの」
ナーガは姉が自分を想ってくれていることがとても嬉しかったのでしょう。
しかし兄はそんな姉を窘めます。
「妹よ。どうか分かってくれ。リーデア家を再び繁栄に導くには一片でも不祥事があってはならないんだ」
「まあ、お兄様はナーガを不祥事と扱うのですか! それはお兄様でも許されない侮辱です!」
ナーガは耳を塞ぎ目をつむりました。
いつもは仲が良い兄と姉はナーガのことになるといつも言い争いになってしまいます。
「おにいさま、おねえさま、どうかけんかをしないで」
ナーガの声は二人の耳には届いていたかは定かではありません。
◇
ナーガにとってリーデア家は窮屈な場所と感じていたことでしょう。
そんな彼女にとっての好奇心をくすぐる存在と出会うことになります。
それはリーデア家を自ら苦しめている蒐集品の一つでした。
「転生の書」と呼ばれる一冊の不思議な本。
ナーガは黒い装丁のこの書物を祖先の蒐集品の中から見つけていました。
初めてこの本を見つけて読んだ時、この本が語る内容はまるでナーガの生活を書き写すかのようなものでした。
その内容の確かさは、ナーガが誰かに監視されているのだろうかと恐怖の様相を見せるほどです。
しかし本を読み進めるうちにナーガは、この本は誰かの閻魔帳ではなく、生きているかのように自ら文字を綴る本だと気づきました。
それに気づくと本は手ずから1ページ目をめくり、ナーガに語りかけるように文字を綴っていきます。
『こんにちはお嬢さん』
それが始まりでした。
『あなたの名前はナーガディシア・ピエロット・リーデア。
あなたのことは私は知っています。あなたの苦しみを、両親に愛されていないその孤独を』
まるで誰かが目の前で語りかけているかのような書き文字。
ナーガは驚き、本を手放しそうになりました。
ですがその問いかけを読み上げていくごとに、その表情から恐怖の色合いが消えていきます。
むしろその文字を見つめるナーガの瞳は、好奇心と希望の輝きが灯っていました。
両親に疎まれ、兄から冷たく扱われる日々。
大好きな姉だけはいつも優しく微笑み、ナーガを守ろうとしてくれました。
それでも、姉の細い腕では、広い屋敷の中に渦巻く孤独から彼女を救い出すことは叶わなかったのです。
その中でこの本は、ナーガの悲しみを癒し、克服する術を知っているかのように語りかけてきたのですから。
『私のことは「転生の書」とお呼びください。
私はこの世の真実を語り、あなたを導く力を持っています。
あなたが求める答えを述べることもできるでしょう。
あなたが生きるために、私はあなたのそばにいます』
その言葉にナーガは身震いをします。
自分は何者なのか、何をすればいいのか、ずっと答えを求めてきたけれど誰もその答えを教えてくれなかった。
この本が自分に力を与えてくれるのかもしれないという、そのように芽生えた思いがナーガを本に引き寄せます。
「ほんとうにわたしのためにたすけになってくれるの?」
本を抱きしめるようにして問いかけると、新たな文字が綴られます。
『まずは学びましょう、そして得ましょう。
あなたは世界を知り、そして未来を切り開くのです。
そのために必要な知識と力を私はあなたに授けます』
◇
ナーガは「転生の書」に出会い、生活が変わり始めました。
書が教えてくれるものはこの国の歴史や地理、さらには複雑な計算、生物の成り立ちやこの世の成り立ちまで書が提供する内容は幅広いものでした。
さらには魔術の基本的な理論にも通じており、さらには剣の使い方や防御の技術までも教えてくれるものでした。
その書の教えはあまりに的確。
ナーガはその教えに対して貪欲な興味をもって、どんどん吸収していきました。
それからナーガが6歳を迎えた時でした。
楽しい日々が続く中、ある日のナーガは浮かない表情を見せています。
『どうしたのです? ナーガディシア』
転生の書はナーガに問いかけます。
「私、来週から学校に行き始めないといけないみたいなの」
ナーガは不安そうにため息をこぼしますが、転生の書の反応はそれとは打って変わったものでした。
『学校、それは素晴らしいことですね』
「そんなことないよ。私のことを知った人は皆私を嫌ったもの。
だから学校に行けばきっと皆私のことを嫌いになるわ」
ナーガの不安な様子に対して、書は安心させるように言葉を綴っていきます。
『それは間違いです。ナーガディシアにはそのようなことは起こりえません』
「どうしてそんなことが言えるの?」
『今のあなたは以前のあなたと違います。知を得て、力を得ています。
そんなあなたを皆が疎むことはしないでしょう。
きっとあなたは頼られる素敵な存在となるでしょう』
書の言葉にナーガは希望を抱いたのか、その瞳は輝きを秘めて揺れています。
「本当?」
『えぇ。そうしてあなたは学校に通い、友人を作ること。
これがあなたにとって大切なことになるのです』
ナーガは書との生活が充実していたので、外の世界と接する必要性を感じていなかったのでしょう。
しかし書の助言は常に正しいものであり、彼女はその言葉で勇気をもらうことができたようです。
「ありがとう、転生の書」
『ナーガディシアが幸せな日々を送れることを心から祈っています』