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 まさか、数年前まで住んでいた寮の近くにこんな喫茶店があるとは知らなかった。モダンという表現しか思いつかないが、アンティーク調の仕様とゆったりした空間が落ち着く。

 四人掛けのテーブルに一人で座りながら、手の中で白球を転がす。あの試合のウイニングボール。まだかな、まだ来ないかな。

 入口のベルが鳴る。ちらり目を配ると、俺のお客がやって来た。立ち上がって、手招きをする。

「犬神さん」

「おう。悪いなぁ、遅れて」

 紺色のウインドブレーカーを羽織り、頬に赤みを帯びさせながらやって来る。テーブルに手をつきながらさっと座席に滑り込んだ。

「待ったか?」

「そうでもないす」

 相変わらずそっけない態度をとるのに、犬神さんはにこにこしている。ほっほっと白い息を小刻みに吐きながら。

 待ち合わせの場所を指定したのは犬神さんだけれど、そもそも誘ったのは俺だ。梅野以外の誰かを呼び出したことなんて初めてで、緊張する。互いにコーヒーを注文して、間を持たせる。

「……それで、話って何だ? ていうか、何で俺なんだ?」

 他に誰かいるのかと辺りをきょろきょろするから、テーブルを叩いて視線を引き戻す。

「犬神さんにしか分からないことなんです」

 口の中に溜まった唾を飲み込み、身体を前かがみにする。変化した俺の態度に、犬神さんの顔色も若干青白く変わる。

「何だよ、怖いな」

「何でですか。ちょっと聞きたいだけすよ」

「だから何だよ」

「あの……少ない打席で、一発で仕留めるコツって何ですか」

「……え」

 犬神さんの黒目が固まって、数秒の沈黙の後に唇を金魚のようにぱくぱくさせる。「え、いや、えっ。何だよ、急に」

「あるんでしょ。コツ」

「コツってそんな簡単に言うなよ……てかお前、そんなことを聞くってまさか」

 犬神さんが気付き、はっとする。その顔が面白くて思わず口元が緩んだ。二、三度頷いてから静かに話し始める。

「俺は、ずっと野球しかしてこなかった。まぁ、プロ野球選手ならたいがいそうだと思いますけど。とにかく、野球漬けの毎日だった。生活の全てを野球に繋げてきた。だけどもう、俺がしてきた野球はありません。戻ることも、取り返すこともできない」

 犬神さんは黙ったまま唇を噛む。

「でも、それでいいんです」

「え」

「俺の野球人生は、ずっと同じじゃない。キャッチャーになりたかった俺がいて、キャッチャーになれなくてピッチャーになった俺がいて、先輩の甲子園を台無しにした俺もいて、優勝した俺もいた。そのことは世間に忘れられていって、俺自身も何も思わなくなる。だから、今までプロの舞台で投げたきた俺のことも、みんないずれ忘れるでしょう」

「安藤、それは」

「だから、それでいいんです」言葉を遮って、きっぱり言った。「いいんですよ。それが当たり前のことだから。世間の流れはすごくはやい。過去のことはすぐに置いてけぼりにされる。だけど、だけどですよ」

 ぎゅっと、球を握りしめる。もう二度と離さないように、二度と零さないように。

「俺自身は、消えていなくなるわけじゃない。俺は……これからの俺の野球を考えます。俺はまだまだま生き残りますよ」

「それって……」

「言っときますけど、バッター転向とかじゃないすよ。俺はピッチャーです。このポジションを譲る気はないす」

「じゃあ、お前―」

 犬神さんの腰が浮く。ただ黙って、大きく頷いた。

「俺が無失点で抑えて、俺がホームランを打って、試合に勝つ。一回やってみたかったんすよね。出来ないことないと思うんすよ。打たれてもとってくれるバックがいて、一打席のチャンスを逃さない代打の名人にバッティングを教われば、不可能じゃないと思うんす」

 なるべく強気に、不敵に、にやりと笑って見せる。犬神さんは呆気にとられたようにしばらく瞬きを繰り返す―。

「そりゃ、不可能じゃねーよな」

 口の右端を上げて、俺と同じように笑った。

 犬神さん。あんたの話を聞いて、あの一打席を見て、俺も考えたんだ。あれもしたい、これもしたいと常に欲はある。だけど、それを叶えて、なおかつ続けることはとても難しい。プロになりたての頃はあんなに開けていた先の道も、進み出せばいつからか狭まって、明りも少ない。

 それでも。それでもさ。歩める道があるなら。

 分かれ道もないけれど。

 か細く心許ない道だけれど。

 舗装もされていなくて転びやすいけれど。

 花も草も見当たらなくて寂しい道かもしれないけれど。

 急な坂に苦しめられるかもしれないけれど。

 それでも、道があるなら歩き続けたいんだ。どんな歩き方でもいいから、進みたいんだ。いや、進むしかないんだ。そう、考えたんだ。

「まぁ、バッティングのコツはまた今度聞かせてもらいます」

「何だ。人を呼び出しておいて、もう行くのか」

「すみません。これから、もう一人会わなきゃいけない人がいるんで」

 席を立って一礼する。話は終わった。俺なりに、この人への義理は果たしたつもりだ。だけど―まだ何か言い足りていない気がする。

 レジへと向かう足が、止まった。

「犬神さん」

「ん」

「犬神さんは、俺を替えのきかない先発ピッチャーだって言いましたよね」

「あぁ」

「犬神さんも、替えのきかない代打だと思います」

 帽子も被っていないのに、つばをつまんだ振りをして軽く頭を下げる。それから、店の出口へと向かう。

 代わりの代わりはいないなんて、随分可笑しな言い回しに聞こえただろう。だけど、そう思ったのはきっと俺だけじゃない。あの球場にいた人達が、あの試合を見ていた人達が、みんなそう思ったはずだ。

 それはあの一瞬で、時間が過ぎれば意味もなくなるのかもしれない。

 それでもまた、この人は新しいを奇跡を起こしてくれるだろう。

 なぜなら、野球には夢があるから。

 店を出て、冷え切ったアスファルトに足をかける。梅野から送られてきたメールを見て、越川監督の家がある住所を確かめる。

 あの人にもいくつか言っておきたいことがある。伝えなきゃいけないことがある。言い残すことがないように。

 住宅路を抜け、広い道に出る。景色もひらけて、よく見渡せる。

 暗くなるのが、ずいぶんと早くなった。

 横断歩道の向こうで、青いランプが点滅している。

 もう間に合わないだろうか。

 いや――。


 足先に力を込めて、走り出す。

 体は重いし、スピードが上がる気もしない。息も若干、苦しい。

 それでも、俺は走った。走った。走ろうって、決めた。

 俺の人生は、まだ終わらない。続くよ。続けられるところまで、とことん。

 中嶋、言ったよな。

 野球は、何が起こるか分からない。

 だから、傲慢になってはいけない。

 それでも、どんな結果が待っているか分からない。

 だから、希望を捨ててはいけない。

 俺がこれから考えることは、傲慢か、希望か。どっちなんだろうな。

 今でも聞こえるよ。肌寒い秋の自転車で下る坂に響く、空回りで虚しい音。からから、からから、からからって。けれど、その隙間から聞こえるんだ。とても遠いところからだけれど、はっきり聞こえるんだ。

 試合開始の鐘の声。

 俺のプレイボールは、まだ鳴りやまない。


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