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引退試合

 実は中嶋にも、言っていないことがある。これは、俺と梅野しか知らない会話。

 WBCの代表メンバーに選ばれた三日後の試合で、四回七失点とぼろ負けして敗戦投手になった日の真夜中のことだ。

 俺は、梅野に電話をした。プロになって別の球団になってから、それほど連絡を取り合ったことはない。ましてや、自分から掛けるのは学生時代を含めてどれだけぶりだったか分からない。

 妙に緊張して、喉も乾いていた。けれど、どうしても聞きたいことがあった。

「……何や」

 どこにいるせいか、梅野の第一声はとてもくぐもっていた。ただ、どこか怯えているような、警戒しているような声色に聞こえた。

「何や……珍しいな……お前から掛けてくるとか」

「ちょっと、な」

 いざ聞こうとすると、急に胸が痛くなる。こんなこと、本当に聞いていいのか。でも、聞きたい。

「あのさ。どう思う?」

「何がやねん」

「俺」声が詰まる。

「WBCに出られるか」

 その一言で、梅野は察した。俺の調子がここしばらく悪いことは当然知っている。たぶん、今日の試合のことも。周囲の不安も。

 とても、長い沈黙だった。

「安藤」

「ん」

「俺は……」息を吸い込む音が微かに聞こえた。まだ、答えが決まっていないらしい。数十秒か、はたまた数分の間だったか。絞り出すような声で、「無理は、せんでええと思う」と答えてくれた。

 無理はせんでええと思う。無理はせんでええと思う。無理は、せんでええと思う。答えを舌の上で転がして、溜まった唾と一緒にゆっくり飲み込む。

「……そうか。悪かったな、忙しいのに」

「大丈夫や。ほんならな」

 俺よりも先に電話を切った。まるで逃げるように。スマホを置くと、全身の力が一気に抜けた気がした。風船を、針で刺したみたいに。

 窓の側に立って、外の景色を見つめる。黒い背景に、煌めく点がいくつも浮かんでいる。とても都会的で華やかだ。それなのに、目の奥に浮かぶのは、高校三年生の夏が終わった秋のグラウンド。夏の光が消えた薄い空の下、寂しい風が土の粉を吹き上げる、あのグラウンドが。

 俺は、自分でも気付かないうちに期待し過ぎていたのかもしれない。でもいい加減、知らなくてはいけない。もう、昔とは違うということを。甲子園の頃のように、俺が無理をして試合に出なきゃいけないほど周囲は困っていない。優秀で、勝てるピッチャーはいっぱいいる。

 もう、どうでもいい。何もかも、どうでもいい。

 世の中にある音が全て遠のいていく意識の中、俺は自分に「ほらな」と呟いて嘲笑う。決して、梅野が悪いわけじゃない。きっとそう言うだろうと予測していた俺自身に、がっかりしたのだ。

 他の誰でもない。俺が一番、俺を信じていなかった。


                   ***


「梅野!」

 出ていくまで俺がいた通路の途中で、目印のように立っていた梅野。俺の顔を見るなり、ほっと肩を下す。

「あー、やっと来よった! お前はほんまに……ストライキしたんやないかって冷や冷やしたわ。みんなに安藤はどうしたって聞かれるし、誤魔化さなあかんし……」

「悪い、遅くなった。あのさ、お前に頼みがあるんだ」

「はぁ? それ、何も悪いと思ってへん証拠やん! 朝から頼む頼むって。いつにもましてわがままやんけ。まさかお前、最後やからって何でも許されると思ってるんちゃうやろな」

「試合が終わったら、どれだけも謝るから! 頼む、聞いてくれ」

「もうええわ、ここまできたら。で、何や。中嶋には会えたんか?」

「あぁ。病室に入れた。夏帆さんがいて、二人きりにしてくれた。それで……それで、中嶋が……中嶋が、俺たちの試合を見ているんだ。いや、聞いてくれている」

「ほんまか?」

 梅野は目玉が飛び出しそうなほど驚いた顔をする。

「あぁ。だが、今晩が限界かも……中嶋だったんだよ。タイムリープの原因は」

「どういうことや?」

「俺は中嶋と約束していたんだ。引退試合で、ノーヒットノーラン達成して勝つって。中嶋はそれを絶対に見届けるって。神様に土下座してでもって……」

「じゃあ、お前は、ノーヒットノーラン達成するっていう中嶋との約束を果たさんと、タイムリープから抜け出せへんってことか?」

「たぶん、そうだと思う」

「まじで訳分からん……」

 梅野は唸り声を上げながら頭を抱える。無理もない。俺だって自分で話していて、混乱する。けれど、これしかないという確信もある。

「梅野頼む。信じてくれ」

「タイムリープの話を最初に聞かされとる上で、今更批判する気もないんやけど……そもそも何でそんな無茶な約束すんねん。引退試合やって分かってるんやろ?」

「最後だからこそって、中嶋が……いや、今は話し合ってる時間なんてない。やるしかないんだよ。点は、野手陣に頑張ってもらって……」

「待てや待てや。ほんまにノーヒットノーラン? 引退する人間がノーヒットノーラン?」梅野が何度も繰り返す。鼻息が荒い。

「そんなやる気あるんやったら、何で引退すんねん!」

 梅野の目は、まるで夏の太陽のように照っている。

「梅野、怒ってるのか?」

「怒ってるわ、ずっと! 甲子園で活躍したお前のおこぼれでプロに入ってから、ずっとな!」

「俺の……? どういう意味だよ、それ」

「言っとくけどな! 俺はお前に劣っていると思ったことあらへんで! やけど、周囲は違う。俺はお前のボールを受けていたキャッチャーやから、選ばれたんやとな。それを覆すには、お前と離れて、自分だけの力を証明するしかあらへん。お前と球団が違ってほんまよかったわ。俺は俺だけで、十分通用すると知らしめる。それが、俺の目標やった。トレードでここに来て、ようやく、プロの世界で、対等の力で、誰がどう見ても最高のバッテリーで試合できると思ったら、お前は引退宣言しよって……」

「梅野」

「それが引退試合で、ノーヒットノーランして勝ちたい? ふざけんなっ、勝手にも程があるやろ!」

「お前が怒る気持ちも分かる。でも今は―」

 ぼんっ。

 いつも俺が使っている、青いグローブを胸に叩きつけたれた。

「何しとんねん。はよ、準備せんかい」

「いいのか?」

「いいも何も。キャッチャーの仕事はピッチャーにいい球投げてもらうことや。不甲斐ないピッチングに怒鳴ることがあっても、ノーヒットノーラン達成なんて最高の仕事を拒否するキャッチャーがどこにおんねん!」

 勇ましく、そして鋭い声が飛ぶ。

「梅野」

「はよ勝って、中嶋に見せたいんやろ。野手陣には俺から言うとくわ。まぁ、一昨日の試合はみんなめっちゃ打ってたから、今日は打たれへん可能性大やけどな」

「野球あるあるだな」

「そん時は任し。俺、打てるキャッチャーやから……」

「おい。二人で何をこそこそしている」

 一軍総指揮官、吾妻監督がぬらりと現れる。俺達はまるで中学生のようにびくりと肩を震わせた。

「バッテリーのミーティングか。試合前の」

 そんな雰囲気ではないことに気付いているような口ぶりだが、こちらも気付かないふりをして梅野が「まぁ、そんなとこですわ」と適当に答えた。

「熱心だな」

「いつもですやん」

「こんな狭くて暗がりの場所でか」

「熱中してもうて。今、グラウンドに行きます」

「そうか。それで、いい話し合いはできたか?」

 どうやら、探りを入れられているらしい。口が上手い梅野でも、のらりくらりとはかわせない。

 吾妻監督は良く言えば自由人で、悪く言えば放任主義だ。試合前のミーティングやアドバイスは「長々と言ったって覚えられないし、実行できるわけがないだろ」と、要点の一つや二つしか言わない。試合後も、勝とうが負けようが選手に対する声掛けは薄く、それも一言二言程度だろう。

 しかし、その一言がとても効果的だ。それは、その時その瞬間に一番必要な言葉が何か分かっているから。現役時代、どの投手からも「阿吽の呼吸」と言われていた名捕手の洞察力がまだまだ生きているせいかもしれない。

 下手な誤魔化しは、この曲者監督には通用しない。俺は梅野を押しのけて、一歩前に出る。

「監督。今日は、何があっても俺をマウンドから下さないでください」

「最後だからか?」

「違います。ノーヒットノーランをするためです」

 ぴくり、身体が揺れた。胸の前でがっちり組んでいる腕を解き、顎を触る。考え事をする時の癖だと、青西さんが言っていたっけ。

 何を考えている。そんなことさせられるわけないだろって、思っているか。

「懐かしいな」

 予想外の言葉が飛び出してきた。俺と梅野は顔を見合わせる。

「俺が二軍のコーチをやっていた時だな。入団して一年目の若造のくせに、当時一軍監督だった永岡さんに、自分を先発で使ってくれと直談判したことがあったよな」

「そう、すね」

「最初にその話を聞いたとき、二軍に来れば一発くらい殴らなならんと思った。だが、お前は一向に来る気配はない。それどころか、どんどん成長していく。あぁ、なるほどと思ったよ。俺を使えなんて、そんなことを言える新人はそうそういない。それも含めて、お前という選手なんだってな」

 褒められているのか、呆れられているのか。たぶん、後者だろう。でも、昔話なんて今はどうでもいい。

「駄目ですか」

「俺が駄目だと言ったら、諦めるのか」

「そうじゃないすけど。でも」

 直談判はできても命令に逆らうことはできない。梅野だって、口を挟まない。

 口ごもっている俺を見つめながら、監督はやれやれというふうに首を横に振った。それから、再び腕を組み直す。

「ただ勝ちたいだけじゃ、試合は勝てない。必要なのは、明確な目標。どうやって勝ちたいか。そしてそれをチーム全員が共有すること。安藤」

 監督が、俺の顔を見て俺の名前を呼ぶ。

「今日の声出しはお前がやれ」

「え」

「今日の試合の方針を自分の口でみんなに伝えろ。みんなに納得してもらえなきゃ、俺は今日、お前を五回でマウンドから下ろす。お前にとっては最後の試合でも、チームにとってはリーグ戦大詰めの大事な試合だからな」

 監督の表情は変わらない。口調もいつも通り淡々としている。ちらりと横にいる梅野の顔を見ると、目をぎょろっとさせておかしそうにぐるぐる動かしている。俺は吹き出しそうになるのをこらえながら、「うす」と監督に頭を下げた。

 声出しか。最悪だな。試合をやるより苦行かもしれない。

 ほんなら行くで、梅野が先にグラウンドへと向かう。俺は行きかけて、でも、「監督」と、立ち止まって振り返った。

「ありがとうございます」

「何がだ。俺はただ、話を聞いただけだ」

「でも、何で信じてくれるんすか。ノーヒットノーランをしたいなんて」

「それが俺の仕事だからだよ」

 監督は平然と答える。「監督の一番大事な仕事だ。試合に出て戦う選手を信じること。野球選手にとっての敵は対戦相手でも、審判でも、ましてやチームメイトでもない」

「誰ですか」

「自分だよ。他人を信じるよりも、自分を信じる方がずっと難しい。それは、自分のことは自分が一番分かっていると思い込んでいるから。だからこそ、俺が信じなきゃ駄目なんだよ。自分以外の誰かに信じてもらえるっていうのは、時に実力以上の力を発揮する。安藤。お前はチームの選手で、今日の先発ピッチャーだ。だから、信じるよ。今までと同じように。まぁ正直、お前は扱いにくい選手だけどな。傲慢だし、気にくわないことがあるとチームの空気お構いなしに不機嫌になる」

 これは、今更だが謝った方がいいのだろうか。「す―」「謝るな」

「え」

「お前は、自分が口にしたことは絶対に成し遂げてきた。完封すると言えば完封したし、三点に抑えると言えば抑えてきた。監督として、こんなことを言うのは間違っているかもしれない。でも俺は、投手陣の中でお前をマウンドに送り出すのが一番安心できた。最近はずっと、成し遂げられる自信がなかったのか大きい口を聞けなかったようだが……久々に聞いた。俺は、嬉しいよ」

 ころりと笑った顔に皴が寄る。久々にしっかり顔を見て、初めてあった時から随分と時間が経過していることを知る。そして、それだけ長い付き合いになるのに知らないことばかりだ。

「失敗を恐れてマウンドに立つな。信じ先の結果に責任を持つのも俺の仕事なんだから、お前は余計なことを背負いこむな。お前らはただ、 “野球” をやっとけ」

 監督が俺の背中をぽんっと叩く。その弾みに乗っかるようにして、グラウンドへと走った。



「ええか。とにかく最初はストレート中心でいくからな。お前が今、どの程度の球を放れるか確認もしたいし」

 防具をつけながら、梅野は淡々と作戦を話す。

「すぐ変化球に逃げて甘い球放り投げたりなんかしたら、まじで―」

 梅野の声が、三塁側の歓声でかき消された。相手チームの先発投手―越野さんが肩を準備し始めた。

 抜群の制球力と緩急の使い分けで、打者を翻弄する―テレビではマウンドの魔術師と呼ばれていたこともあった。

 こちらか見る限り、調子は良さそうな雰囲気だ。

「点取るのも、なかなか難しそうやな」

「あぁ」

「その……昨日も、あんないい感じやったんか? 越野さんの調子」

「さぁ」

「さぁって何やねん!」

「梅野は知ってるだろ。俺、あんまり対戦相手のピッチャーのピッチングは見ないようにしているって。それどころじゃなかったし」

「はいはい。ほんならもう、ええわ」

 ダッグアウトが混雑してきた。気温は低いはずなのに、熱気がこもって空気は生ぬるく感じる。

「声出しするぞー」

 キャプテンがダッグアウトを出て手を叩いた。みんな輪になろうと集まりだす。梅野に「はよ行けや」とお尻を叩かれる。一度深呼吸してから、こそこそとキャプテンの傍に歩み寄る。

「あの、キャプテン」

「わっ。どしたん? いつもおるかおらんか分からんとこにおるのに……」

「えっと、いつもはそうなんすけど。あの……」

 言葉が続かない。でも、キャプテンは待ってくれている。

「あの、今日の声出し……俺がしてもいいすか」

「安藤が?」

 ぎょっと目を見開く。しばらく、石像みたいに固まっていた。しかし、ふっと息を一口吐くと、頬を柔らかく動かした。

「……ええよ」

 そっと背中を押し、自分と俺の場所を入れ替える。集まってきたみんなは俺とキャプテンを交互に見て戸惑う。キャプテンは何故かにやにやしながら、「今日の声出し、安藤がしまーす」とはっきり言った。

 膝を曲げ、腰を下し、肩を並べ、互いに顔を寄せ合う。円陣の形は出来上がった。後必要なのは、俺の声。たぶん、監督は後ろで聞いている。言わなきゃ。みんなに納得してもらえなきゃ、今日投げきることを許してもらえない。恐怖と恥ずかしさを、後ろに回した手の中に隠した。

「えぇ……あの……今日は俺、ノーヒットノーラン……します」

 相変わらず小声でも、この至近距離ならちゃんと聞こえる。その証拠に、むさくるしい肩の集まりが、まるで津波のように大きく揺れた。ベテランの青西さんが「本気か?」と鋭い目線を向けた。俺は、逃げずに真っ直ぐに見返す。

「本気っす。だから……」

 何故だろう。胸に空気が溜まってきて、とても苦しい。でも、嫌な苦しさじゃない。これはたぶん、興奮。

「だから、俺が今日はチームを勝たせます……」

 駄目だ。語尾はもう掠れてしまった。気合を入れるための声出しの輪の中も、複雑な息が混じり合う。

 無理か。今日引退する奴がノーヒットノーランなんて、ふざけているとしか思われないか―。

「おいっ! それ声出し違うだろ?」

 三潮さんが、明るく突っ込んだ。

「ノーヒットノーラン達成するぞー! ソイヤー! みたいにやらないと、ノレないだろ?」

「たしかに。珍しく声出ししたいって言うから、喉温めてきたんかと思ったけど、やっぱり声小さいし……もっと堂々と言わなあかんで」

「いやいやキャプテン。お前の声出しもそんなに大きくねーぞ」

 円陣の外にいるコーチやスタッフ達の笑い声も響く。

「やり直しだ! もっかい、もっかい!」

 村山さんの分厚い手が、俺の背中を三度叩く。

 みんな、声の出し方に駄目出しはしても、無謀な挑戦を笑ったり否定したりはしないのか。選手一人の想いは、チーム全員の想い。それがこの球団の、チームの、スローガンだ。達成出来たことのない学級目標と同じだと思っていた。でも、ここは違う。俺がいるこの輪の中は違う。ノーヒットノーランをすると言えば、チームでそうするんだ。

 周囲のことがよく目に入るようになったことは、余計なことだとずっと思っていた。悪魔が、俺を寄り道させて堕落させようとしていると。

 だけど、そうそう悪いものでもない。俺は知らなかった。俺の周りは、こんなに暖かい秋の木漏れ日に溢れていたと。

 肩を慣らして、明一杯息を吸い込む。ありったけの声を出す前は、こんなに心臓がばくばくするものなのか。でも、悪くないから。

「のっ……ノーヒットノーランするぞお!」

「おお!」

 やっぱり、喉がひりひりする。しかし、無駄に胸に乗っかっていた何かが消えた。肩の輪を解いて振り返った先に吾妻監督がいて、目で頷かれた。いいぞ。やってみろ、やれ、やるんだ。

 一塁側、大きなカメラが並ぶ隅で、梅野とキャッチボールを始める。平日のナイターだというのに、客入りが華やかだ。昨日の試合も、その前の試合もこんなに多くなかったと思う。いや、俺がちゃんと見ていなかったせいかもしれない。

 国歌斉唱の時間がやってくると、グラウンドのホームベースを挟んで両チームがそれぞれ一列に並ぶ。いつもは端に並ぶのに、三潮さんや村山さんに引っ張られて花形の列の中に押し込まれた。帽子をとって胸に当てながら、球場にはためく旗たちを見つめる。今日はライト方向に風が強いななんて考えつつも、チームの旗を見ているとよく分からない想いが込み上げてきて、顔が火照る。

 球場って、こんなに大きかったのか。いつも目に映るのは、キャッチャーのミットだけでそれが全てだった。球場の空気に飲み込まれまいとミットだけを見ていたら、視界はずいぶんと狭くなったらしい。

 改めて見渡すホームグラウンド。初めて一軍のスタメン試合に出た時のことを思い出す。幼い不安と、それを上回る高揚感。恐怖は、さほど感じない。

 気が付けば歌は終わって、列はばらつく。監督同士のスタメン表の交換が行われる。チアガールたちが花道をつくり、野手陣達がベンチを飛び出す。梅野も呼ばれて、先にマウンドに上がっていく。

 そして、最後に俺が呼ばれた。

 マウンドに向かって、走り出す。もう何度もこの場面を繰り返しているのに、今日はいつになく緊張する。頬を膨らませてからゆっくり息を吐く。それから、胸に右手を当ててユニフォームごとさする。緊張をほぐすルーティーン。そういえば、一軍に上がったばかりの頃はよくやっていたっけ。もういつから、こんな基本的なこともやらないようになったんだろう。

 ウグイス嬢の選手の紹介アナウンスが球場に響く。球審が梅野の後ろに立って、マスクの位置を整える。中腰に構え、右手を上げる。

 そして―、


「プレイボール!」


 きっと最後にする。

 プレイボールが、始まった。



「―両先発ピッチャー、さすがと言いますか落ち着いた立ち上がりを見せています」


「……とか、実況は言っとるんかな」

 タオルで汗を拭いながら、梅野が呟く。水を三口飲み終えたペットボトルを唇から離してから、「どうだろうな」と俺。

「全然落ち着いてへんわ、なぁ?」

「あぁ、やばい」

 三回の表の守りを抑えて、裏の攻撃。スコアはお互い0を並べている。梅野の言う通りだ。最初の胸の高鳴りは消えるどころかどんどん大きくなっていく。落ち着いてなんていられない。こっちは一つだってヒットを打たれるわけにいかないんだから。解説の野球OBあたりは、「もっと伸び伸びと」とか「意識し過ぎず、自由に」とか言ってるかもしれないが、正真正銘、自分の人生がかかってるから悠長なことも言ってられない。

「お前のリードのおかげでなんとか抑えられているけれど……」

 先頭打者から冷や冷やさせられている。一番センターの暮原さんも二番セカンドの吉井さんも俺の球を得意としているみたいだ。過去の対戦でも打たれている記憶の方が多いが、今日も迷わず初球からバットを振ってきている。

 元チームメイトの弱点を知り尽くした梅野の配球のおかげで、なんとか打ち取れている状況だ。

「それ嫌味か?」梅野がニヤリと笑う。「サイン通りのところドンピシャにぽんぽんボール放り込んできよって……何やねん。今日のお前は何から何まで今までと違う……意味分からん過ぎて興奮して全然落ち着かへんわ」

 彼なりに褒めている、のだと思う。自分の右手を開いたり閉じたりしながら見つめる。

 そういえば、今日はストレートの走りが悪くない。球速は百三十後半から四十前半くらいで以前ほど速くはないが、投げている感覚的には球はよく走っているように感じる。

 体重の移動もスムーズだ。肩も肘も無駄な張りを感じない。変化球を投げる指先も、言うことをちゃんと聞いてくれる。

 何より、投球中の雑音に苛立ちが湧かない。観客席の手拍子と太鼓の音に心臓が痛くならない。迷わず、梅野のミットに向かって投げられる。

「おい。肩冷えるぞ。キャッチボール」

「あ、ああ」

 はずしていたグラブを掴んで、立ち上がる。

「ええか。基本はこのままストレート先行でいくぞ。それから、カウントを取りにいく時のスライダーはちょっと力抜け」

「打たれないか?」

「まだ球にキレも力もある。打ってもファールか内野ゴロで打ち取れるやろ。ただし、確実にアウトをとる時は思いっきり投げろや。多少横振れしても、俺がキャッチしたる」

 梅野の指示に、黙って二回頷く。いつだって確信を持ってから口にする奴だから、今日の俺の球は大丈夫なんだろう。

「一球外して様子を見るなんてことはせんぞ。無駄球やからな。下手にボールカウント重ねてフォアボールにでもなったら最悪やし、向こうはこっちのことをよう知っとる」

「そうだな」

「まぁ、勝負に関しては向こうも同じ考えみたいやけど」

 マウンドで投げている越野さんの方に目線を変える。ちょうど、村山さんが外のスライダーに空振りをしてバッターアウトになったところだった。

 この回まで、越野さんも落ち着いている。投げた球はまるで絹の上を滑るように走り、打者のバットを嘲笑うようにするりと下に抜けて、キャッチャーのミットにおさまる。絶妙なコントロールを駆使したストレートと、決め球のフォーク・スライダーで難なくアウトを取りにいっている。

「越野さんも、相変わらずやな」

 一昨年のシーズンまで同じチームで、バッテリーを組んだことも何度もある梅野。なぜか、安堵の表情を見せる。

「お前、どっちの味方なんだよ」

「何言うてんねん。俺は野球選手全員の味方や」

「何だよそれ」

「状態のいい越野さんとのゲーム。先にヒットを打たれた方が間違いなく負ける。最高やん。プロ入って、なかなかないで……」

「楽しそうだな。こっちは人生かかってんのに」

 帽子を被り直しながら、マウンドに向かう。その背中を梅野がぽんと叩きながら、追い越していく。通り過ぎ様、ぼそっと聞こえた。「お前やって、楽しんでるくせに」

 楽しんでいるのか。俺は。自分ではよく分からない。

「なぁ。今聞くことちゃうんやけど……お前昔、越野さんと自主トレしたことあったよな」

「あぁ」

「トレーニングはいっつも一人でやっとたのに、何で一緒にしたんや?」

「本当に、今聞くことじゃないな」

 苦笑いがこぼれる。

 あの頃から、ずいぶん時間が経過したように思える。しかし、割とよく覚えている。シーズン中の試合よりも印象深かいかもしれない。

 俺からお願いしたわけじゃないのは、絶対だ。たしか、越野さんと親交のある上田っキャプテンを通じて向こうから誘ってきたんだ。どうして俺なんだろうと、まず疑問が浮かんだ。キャプテンは、「なんか、一緒にやりたいんやって」としか言わない。後輩が先輩に頼み込むなら、教えを乞いたいからだろう。その逆は何だろう。もしかすると、越野さんは俺に何か教えたいことがあるのかもしれない。それならば、普通は光栄と思うべきだろう。だけど、断わりたかった。実績のある越野さんにあれこれ言われたくもないと思った。尊敬できる人からの助言ほど、自分を狂わせるものはない。

 結局は、一緒に自主トレをした。なぜかという問いに対しての答えは簡単だ。うまく断われる理由が思いつかなかったから。野球は基本、縦社会だし。

 まるで野原のようなだだっ広いグラウンドで、本当に二人だけだった。俺がいつもやっているメニューに越野さんが合わせて、数日間ひたすらトレーニングを淡々とこなすだけ。世間の記事が騒ぎ立てるほどの特別なことは何もなかった。

 それに、越野さんは意見も助言も口にすることはなかった。俺について何か思うことはなかったのだろうか。何か教えたいことがあったんじゃないのだろうか。自主トレの最終日、沈黙の不気味さに耐えられずに思い切って聞いてみた。「俺に何か教えたいことがあったんじゃないですか」と。すると越野さんは少しだけ驚いた顔をして、笑顔で首を横に振りこう答えた。「俺が、教わりたかったんだ」と。

 その年以降、誘われることはなかった。俺も調子を崩し始めてからはそんなことを気にする余裕もなかった。だけど、誰かと一緒にトレーニングするのも悪くないなと思ったのは後にも先にもこの時だけだ。

「おい、おいっ、安藤。話聞いてんのか?」

 梅野はしつこく聞いてくる。マウンドはちょうど、こっちがスリーアウトになり攻守が切り替わるタイミングだった。

「聞いてるよ。でも悪い。忘れた。ほとんど覚えてない」

 嘘をついて誤魔化し、そのままマウンドへと走る。

 淡々とマウンドを下りていく越野さんの背中が目の上に映った。越野さんは覚えているかな。俺も聞いてみたいよ。あの時、聞けなかったことを。あの問いの続きを。「俺から何を教われたんですか―」と。

 そんなこと、とても恐ろしくて聞けなかった。

 でも、この試合に勝ったら聞けるかな。



 ―四回の表。

 一番の暮原をセカンドライナー、二番の吉井をキャッチャーフライで打ち取る。

 残りワンアウトで、三番の山下さんが打席に入る。一打席目は、ひやっとするような打球だったけれど、サードの村山さんが全身でカバーしてくれて助かった。

 でも、もう絶対に甘い球は投げられない。七年間もチームのキャプテンをやっていて、今シーズン二千安打を達成したバッターだ。少しでも油断すれば、長打を打たれる可能性だってある。

 梅野もそれは分かっている。サインは、いきなり変化球のスライダー。胸にグラブを構えて、一息吐く。球にかける指に力を込めて、投げる。

 あっ―、球が手元を離れた瞬間にしまったと思った。滑ってしまった。これじゃあ曲がりは甘い。ど真ん中もいいところだ。山下さんも見逃さない。脇を閉めて、バットを振る。

 わああとスタジアムの歓声が上がる。

 球は、遠くライト方向に飛んでいく。ぐんぐん、夜の空に上がっていく。スタンドを越えるか。ホームランになってしまうか。

 ライトの深山さんが身体をホームに向けたまま、後ろに下がっていく。ジャンプして伸ばしたグラブに、球がおさまるのが見えた。

 よかった―。

「深山!」

 センターの三潮さんが、ポジションを離れていく。ファインプレーと同時に、深山さんはフェンスの骨組みに背中を強打。そのままうつ伏せに倒れ、動かない。

 心配して駆け寄った三潮さんが、ダッグアウトに向かって救護を呼んでいる。

 どくどくどくどくっ! どくどくどくっ……。

 心臓が、嫌な音を立て始める。打たれてからのシーンが、頭の中で勝手にリピート再生される。

 あぁ。深山さんが取ってくれなかったら、長打コースでランナー三塁もしくは、山下さんの足ならランニングホームランもあり得た。

 でも、深山さんが取ってくれた。だけど、このまま深山さんが起きなかったらどうしよう。

 やっぱり、俺じゃ駄目なのか。こんな危ういボールを放って、あっさり長打を打たれるようなピッチャーじゃ駄目なんじゃないか。ノーヒットノーランなんて、達成できるわけがない。

 どくどく、どくどくどくっ。

 胃の奥に押し込んでいたはずの不安が、また込み上げてくる。

「大丈夫や、安藤」

 いつの間にか、すぐ横にキャプテンがいた。村山さんも、木浦さんも、梅野も集まってきた。

「大丈夫や、お前は何も気にするな」

「はい……」

 頷きつつ、俺の目はずっと、まだしゃがみ込んでいる深山さんの方を泳いでいる。大丈夫なわけがない。深山さんも、俺も。

 球は完全に捉えられていた。次の打席では、確実にスタンド外に持っていかれる。

「安藤!」

 キャプテンが声を張り上げた。慌てて視線を戻すと、いつになく鋭い目つきをしている。

「俺達、野手を舐めんなや」

「え……」

「ええか。俺らが毎日何のために守備練習してると思ってるんや。飛んできた球を取るためや。俺らは取れると思う球は全力で取りにいく。それは特別なことでも何でもない。それが俺達の仕事やからや。深山も自分の仕事をしただけや。だから、大丈夫や。安藤、お前も大丈夫や。お前は打たれてへん。今のはヒットでもホームランでも何でもない。ただのライトフライや。どんだけ大きな当たりでも、どんだけ鋭い当たりでも、それがスタンドの内側でグラブにおさまればアウトや。俺らが取り続けるかぎり、お前はヒットもホームランも打たれたことにならん。お前は負けてない。大丈夫や」

 キャプテンは力強く言い切った。俺は、ゆっくりその言葉を飲み込みながらグラウンドにいるチームメイトの顔を順番に見る。最後にライト方向を見ると、深山さんは立ち上がり、こちらに向かってグラブを振っていた。大丈夫、大丈夫。続けよう。そう言っているように聞こえた。ぼやける視界に笑顔も映った。

 救護班や審判達も深山さんから離れていく。観客席からは敵味方関係なく大きな拍手が起こって鳴り止まない。

「次は攻撃や。切り替え、切り替え」

 キャプテンが声を掛けて、俺達はベンチへと下がる。

 そうだ。切り替えろ、切り替えろ。切り替えろ。

 でも、やっぱり。打たれたらどうしよう。不安の残り火は、まだくすぶっている。

 裏の攻撃―キャプテンがセカンド強襲の打球を放ち、守備のエラーで一塁に出た。チームとしては久々の走者。

 次の村山さんが打席に立ち、カウントツーツー。越野さんが、五球目を投げる。

 その時だった。

 誰が予測しただろうか。そんな素振りなど見せていなかったキャプテンが二塁に向かって走り出したのだ。姿勢を低くして、ただ真っ直ぐに二塁ベースを目指す。キャッチャーの柴田さんが盗塁を阻止しようと、セカンドに向かって球を投げる。

 セカンドベースでは、捕球体制に入った山下さんとスライディングで突っ込むキャプテンが交差して激しい砂埃の嵐が起こる。

 みんなが固唾を飲んで、攻防の決着を見守る。

 じっと塁上を見つめていた二塁審判が、ようやく両腕を水平に伸ばした。

「セーフ!」

 ダッグアウトの中でホームラン並みの拍手が起こる。

 俺は、苦笑いする。キャプテンの盗塁、久々に見た。足の状態、悪かったんじゃないのか。すごいな。

「怖かったやろな」

 キャッチボールで離れていたはずの梅野が、すぐ傍にいた。

「梅野」

「それでも、走った。ほんで、結果的にセーフになった。怖くてもやるんや。やらなあかん。キャプテンはもう、切り替えてるで」

 腰を落とし、両膝に手を置いて、バッターボックスを見つめるキャプテンを見つめる。

 怖くていい。怖がっていい。ただ、それでも全力でプレーは続けろ。ゲームセットと審判が叫ぶまで、目の前のことに集中しろ。直接言葉はなくても、マウンドのシルエットから伝わる。

 数年前―まだ好調だった俺が先発で投げていた試合で、すでに三十八歳だった青西さんが盗塁をしたことがあった。相手バッテリーが油断していることに気付いて、初球から走って成功。ベンチは当然お祭り騒ぎ。

 しかし、俺は理解できなかった。下手すればアウトが増えて、攻撃のチャンスが減る。盗塁をがんがん狙えるような年齢でもないのに、なぜそんなリスクを冒すのだろう、と。

「梅野。キャッチボール」

「おう」

 今なら、理解できる。ベテランの無茶ほど、勇気が出るものはない。

 だから、そうだ。まだだ。まだ試合は終わってない。次の回の守備に備えるんだ。場面はもう変わっている。

 大丈夫。負けてない。

 キャプテンの言葉を、胸の内側で繰り返した。



 四回の裏の攻撃は、村山さんがライトフライにたおれて得点には結びつかなかった。けれど、キャプテンの盗塁のおかげで頭を切り替えられた。

 五回を終えたスコアボードにも0が並び、だんだんと張り詰めたような異様な空気の中での投げ合いが続く。と言っても、越野さんの方が要所要所できっちり抑えている感じだ。三振の数も多く、上手く打者を欺いている。おそらく、この調子なら完投させるつもりだ。エースの完投ほど、リーグ戦終盤で疲れが見えているチームに勢いづけるものはない。向こうは今日勝てば、最速でマジックが点灯する。

 一方、俺は梅野の配球に助けられながらの苦し紛れの投球で、際どいゴロやライナーでなんとか打ち取っている感じだ。

 守りを終えてダッグアウトに戻るたび、呼吸が荒くなっていく。六回の表を三人で抑えると、すぐさまスポーツ飲料を喉に流し込む。

「しんどいんか」キャッチャーマスクを脱いだ顔面をタオルで汗を拭いながら、梅野が確認する。

「別に……いや、ちょっとな」

「お前、俺のサインに全然首振らんしな」

「振らなきゃいけないようなサイン出してるのか」

「そうやないけど」

 不安気な瞬きが見えた。俺は、グローブでぽんっと肩を叩いた。

「正直、ボールをコントロールするので必死で何も考えられないんだ。それだけだ」

「何やねん。俺に配球、全部考えろっていうんか」

「俺はそれが一番だと思ってる」

 そうはっきり答えた。梅野は唇を尖らせながら「……まじで調子狂うわ……」と、ぼそりと呟く。

「まったく。守りも考えなならんし、打席立ったら打たなあかんし、ほんまキャッチャーはやること多過ぎるで」

 今度はヘルメットを被り、バットを持って、梅野が打席に向かう。それを追うように、俺はネクストバッターズサークルに行き、その場で素振りをしながら梅野を見守る。しかし、見事に三球で打ち取られる。

 ボール球を見送れる選球眼がある相手に対して、全て際どい隅にきっちり投げ込んで最後は見逃し三振。

 やっぱり、今日の越野さんから打つのは難しいらしい。

 梅野だけじゃない。今日の先発野手陣は今のところノーヒット。村山さんや上田さんは、あともう一歩でホームランという打球もあったけれど、風に押しやられたり、差し込まれていたり、点につながらない。

 この試合、俺がノーヒットノーランで抑えるだけでは意味がない。勝たなくてはいけない。そのためには、打つしかない。

 悔しがって歯ぎしりている梅野とすれ違い、今度は自分が打席に立つ。ピッチャーズサークルに立つよりもうんと機会は少ない。

 越野さん、あんなに大きかったっけ。グリップをぎゅっと握って、とにかくいつでも打つぞという構えは見せておく。正直、DH制にしてほしい。俺がそこそこ打てたのは高校生くらいまでだ。プロになってからはバントだけきっちり送れる練習だけ必死でやった。

 だが今は、送るランナーもいない。何でもいいから、当てなくてはいけない。ストレートだ。フォークもスライダーは手が出ない。ストレートを狙って―。

 ぱんっ。

 ぱんっ。

 二球続けて、フォークボール。思い切り振ったバットはかすりもしない。

 あっという間に、ツーストライク。

 やってしまった。なんてフォークなんだ。途中ぎりぎりまでストレートに見えて手が出てしまった。やばいやばい。でも落ち着け。次もおそらくフォークでくる。ピッチャーなのに、全球変化球で勝負してくる気だ。

 越野さんが高く腕を上げて、すっと腰を横に向ける。俺はグリップを握る指に力を込めて脇を締める。

 越野さんの指先を離れた白い球が、こちらに向かってきた。

 見逃し三振だけにはなりたくなくて、とにかくバットを振った。バットの先に当たった感触が伝わる。しかしこのままではサード正面に球が飛んでしまう―途中で止めたバットのせいでぼてぼての当たり。球はころころと三塁線に転がっていく。

 それでもいい。走れ。とにかく一塁に走れ。無我夢中で走った。もういい。突っ込め。突っ込め。足を蹴って、両腕を伸ばして、頭からベースに突っ込む。

「セーフ!」

 審判の声が聞こえてほっとする。土煙が口の中に入り込んでむせる。一塁コーチャーの鳥羽さんが手を取って立たせてくれる。

「大丈夫か」

「大丈夫す」

「よく、走ったな」

 ユニフォームにこすりついた土を払い落すけれど、すっかり汚れてしまった。

 塁に立つのはかなり久々だ。鳥羽さんがウインドブレーカーを寄こすように指示してくれたけれど、「大丈夫す、いらないす」と止めた。どくどく、体中の血管が波打っているのが分かる。アドレナリンだ。そのうち身体も冷えるだろう。だけどいらない。走るために、今はなるべく身軽な方がいい。

 三潮さんがレフトに打ち上げて、悠々と二塁に進塁。次の打席は青西さん。闘志を前面に出して、バットをくるくる振り回している。

 打ってさえくれれば、一気にホームまで走る。青西さんがバッターボックスに立って構えるのと同時に、俺も腰を落とす。

 青西さんは一球目からバットを出した。低めのストレートがかつんと当たる。誰がどう見ても、ピッチャーゴロだ。駄目か―俺の足の動きが緩慢になる。

 しかし、青西さんはバットを放り出して一塁に向かって全力疾走。腿を高く上げ、腕を必死に動かして。

 その間に、越野さんは落ち着いて捕球してファーストに送球。無駄なはずなのに、青西さんは頭からベースに突っ込んだ。

 審判は難なくアウトコールする。スリーアウトチェンジだ。越野さん達も、さっさとマウンドを去っていく。

 ゆっくり立ち上がった青西さん。しかし、顔は上げない。悔し気に俯いたまま、とぼとぼ歩き出す。俺はその姿に唇を噛みつつ、ダッグアウトへ走った。

 ちょうど、青西さんに並んだ時、「すまん」と声が聞こえた。立ち止まって振り返る。まだ肩で息をしていて、顔色も良くなさそうだ。

 今までの俺だったらどう答えていいのか、どんな言葉を掛ければいいのか分からず戸惑って、結局無視してしまう。

 必死で走ったんだ。俺も、青西さんも。絶対セーフになりたくて必死で走って、突っ込んだんだ。誰も、謝るような悪いことなどしていない。

 手を伸ばして、青西さんの肩についている土を払う。

「次すよ、次」

 青西さんになったつもりでなるべく明るく言ってみる。少しぎょっとした顔をされたが、「そうだな」と頷いてもらえた。



 七回は、互いに少ない球数で攻撃を終える。特に、越野さん。一人目の上田さんからセンター前ヒットを打たれた後の三者凡退は圧巻だった。村山さんも、オラも、木浦も、三球三振。かすりもさせない。

「ギア入ってもうたな……」

 キャッチボールをぴたりと止めて、梅野と二人で裏の攻撃を見つめていた。梅野の額からは汗が落ちる。俺はグラブを脇に挟み、右手で球をいじりながら唇を噛む。やっぱり、越野さんはすごい。かっこいい。抑えなきゃいけない場面で、絶対に相手にチャンスを与えさせない。これが、本物のプロ。

「すごいな」

「おお……いや、感心しとる場合か! こっちやって残り二回きっちり抑えなあかんねんぞ!」

「分かってるよ」

 脇からグラブを抜き取ってはめ直す。七回裏最後のバッター、木浦が戻ってくる。三球ともほんと、全然当たらなかったな。高めのストレートを二球続けられて、最後は緩めのカーブでアウトをとられた。

 でも、フルスイングだった。当たればホームランになるような、バットの空を切る音で球場を震わせてしまうような、そんなフルスイングだった。初めてちゃんと見たよ。犬神さんの言ってた通りだな。気合入り過ぎて、空回りしてんだよ。今日なんて、俺の引退試合なんだぞ。これからは赤の他人になるような男のために、無駄な力使ってんなよ。

 俯いていた顔上げた木浦。その瞬間、目が合った。でも、俺よりもはやく目を逸らした。さらに急いでダッグアウトに引っ込もうとしたから、引き止めようと駆け出して「木浦」と名前を呼んだ。

「……はい」

 振り返った顔は強張っている。何を言われるんだろうと、びくびくしている。俺は、何を言おうと思って引き止めたんだろう。

 あぁ、そうだ。

「ありがとな」

「えっ」

 絞り出した声は、あいつの耳に届いてくれただろうか。

 木浦に背中を向けて、今度は八回のマウンドへと走った。



「スリーアウト、チェンジ!」

 八回の表を打者三人で抑え、ほっと息を吐く。会場からは拍手とどよめき。苦し紛れだが、なんとか抑えられている。

 久々に、自分の空間にいる気がする。誰も―梅野でさえも、声を掛けてこなくなってきた。監督も腕を組んで座ったままじっと動かない。自分以外の人間と絶妙な距離が出来上がってきた。いい感じだ。集中している。

 だけど―振り返って、マウンドに上がる越野さんを見つめる。あの人だって、あと一段階でも二段階でもギアを入れられる。プレッシャーをかけられればかけれるほど、周囲をぴしゃりと黙らせるような投球を見せる。それが越野さんだ。

 九回の裏でさよなら勝ちなんて、そんな上手いことはいかないだろう。俺のキレの甘くなってきた球も通用しない。

 点を取るなら、もし取れるなら、この八回の裏しかない。なぜかは分からない。なぜかは分からない。けれど、この回で点をとれなきゃもう絶対に勝てない気がする。

 だが、打順は八番の梅野から始まる。たとえ梅野と俺がアウトになっても、一番の三潮さんには回るが、ツーアウトでは攻撃の幅が狭くなってしまう。

「梅野、あのさ……」

 自分なりの作戦を伝えようとしたら、手の平で止められた。

「分かっとる。お前が犠牲フライ打って十分なくらいのヒット飛ばしたるわ。焦るのもあかんけど、もうもたもた攻めとる余裕もないしな」

 手袋をはめながら、腰を浮かせる。気持ちに嘘はなさそうだが、どこかその声は怯えているようにも聞こえる。たぶん、俺と同じように、この場面を勝負だと感じているんだろう。

 俺も立ち上がり、ヘルメットを取りに―その時だった。

「ちょっと待て」

 ずっと無言だった吾妻監督が立ち上がって、ダッグアウトを出ようとする梅野を止めた。それから自分の方が飛び出して、球審に一言二言、何か話す。

 駆け足で戻ってくると、奥の方にいる宮代さんと犬神さんに向かって手の甲を振った。

「宮代、犬神の二人。梅野と安藤の代打だ。行って来い」

 すぐさま、二人の方を振り返る。宮代さんが「あ、はいっ」とばたばた準備をして、先にダッグアウトを飛び出していく。

 犬神さんは何も言わず、ヘルメットを被りバットを左手に持ち、大股でみんなの前を通り過ぎていく。

 自分の前を通る横顔は、頬がぴくぴく引きつっている。

「犬神さん」

 呼ぶと、すぐさま振り向いた。

「何だ」

「一つ、注文していいですか」

 不安げな瞬き。

 すでに切れかけている息。

 こんなこと、言っていいだろうか。

 でも俺は、信じている。

 信じたい。この人は、ただ者じゃないって。

「奇跡、起こしてください」

 言った瞬間、犬神さんの瞳に一筋の光が宿ったように見えた。

「分かった」

 深く頷き、ネクストバッターズサークルへと向かう。

 俺達は、宮代さんの打席を見守る。一球目、ボールを見送る。落ち着ている。二球目、振ったバットはバシッとはっきりした音が聞こえた。センター前に球は落ちて、宮代さんは一塁に到達。

 いける。いける。いけるぞ。ベンチの皆の腰が浮き立つ。試合の流れはこっちにきている。このチャンスを逃すな。

 いよいよ、犬神さんがバッターボックスに立つ。客席が一段と盛り上がった。バットの先でホームベースの隅に触れる。それからグリップを長めに持って、右膝をわずかに曲げる。顔は真っ直ぐ越野さんに向けて。

 一球目、ボール。

 二球目、ボール。

 三球目、ボール。

 越野さんらしくなく、ボールカウントが先行する。犬神さんはバットを動かす素振りも見せない。

 見極められている。大丈夫。大丈夫。勝負できている。

 四球目、高めストレートが決まる。犬神さんはバットを振らなかった。

 あぁ、やばい。越野さんがまた一段階ギアを上げたのが分かった。まったく。限界というものを知らないんだろうか。

 五球目、外に逃げるような球。バットの先に当て、カットする。

 あっという間にフルカウント。犬神さんも越野さんも、もうどこにも逃げられない。

 六球目、カット。

 七球目、カット。

 八球目、カット。

 誰もが固唾を飲んで見守る。

 九球目、カット。

 十球目、カット。

 終わらない。いや、終わるな。野球を愛する人間が、この打席に釘付けにされる。

 俺もつい、見入ってしまう。両親に初めて、プロの試合のスタンドに連れて行ってもらった七歳の少年のように。

 いつまでも見ていたい。でも、どっちが勝つんだ? はやく、はやく、教えてくれ。一体どっちが―。 

 かんっ。

 打った音で、分かった。

 球は高く、高く、ぐんぐん伸びていく。

 選手達は空に向かって顔を上げる。

 ライトスタンドの客達が空に向かって手を伸ばす。

 俺の右手は、勝手に拳を作って上に真っ直ぐ伸びている―。

「ホームラン!」

 審判の右手がぐるぐると渦を巻く。

 犬神さんは、ベースをひとつ、ひとつ、しっかり踏みしめながら、ホームに戻ってくる。ガッツポーズの一つくらい見せたっていいのに、訳の分からないことを叫んだっていいのに、犬神さんはグラウンドとにらめっこし続けている。

 ダッグアウトから真っ先に飛び出した村山さんを先頭に、チームのみんなが出迎える。頭やお尻を叩いたり、肩を組んだり抱き着いたり。

 やっとみんなに解放される頃には、顔も髪もユニフォームもぐしゃぐしゃだ。

 辺りをくるくる見回し、俺を見つけると真っ直ぐ向かってきた。

「犬神さん、ナイスです」

「あぁ」

 拳を出されて、軽くタッチする。

「注文通りだ。あとは、ちゃんとお前が代金を支払えよ」

「……っす」

 ポンポン。肩を軽く叩いて、またみんなの元に戻っていく。

 九回表。二点リード。

 俺は、帽子のつばを掴んで顔を隠すようにぐっと下げた。

「安藤」

 梅野だ。

「犬神さんは期待に応えてくれた。今度は俺らの番や」

「分かってる」

「何やお前……笑ってんのか?」

「違う」

「でも、にやけてるで。あっ、犬神さんのホームラン、めっちゃ喜んでるんやろ。感動しとるんやろ?」

「違うって」

 梅野を置き去りにしてマウンドに向かう。にやけてるわけでも、感動しているわけでもない。ただ、これがみんなの言う “野球” なのかと思っただけだ。

 励まされるのも好きじゃない。助けられるのも。ピッチャーは孤独だ。エラーをしてもフォローしてくれる仲間もいない。九人の中でたった一人、少し高めの円の真ん中に立たなくてはいけない。その日、その時間、その場面で、そこに一人立つ気持ちなど誰にも分かりはしない。それが当たり前で、それに耐えられる選手こそ、本物。

 だけど、今日は俺がチームを勝たせる投球をする。

 ノーヒットノーランをして、チームを勝たせる。

 俺は初めてそう意識して、気付くんだ。今更かもしれない。怒られるだろう。でも、分かったんだ。

 野球は一人ではできない。無理なんだよ。

 投げたボールを受けてくれるキャッチャーがいて、捕球してくれるファーストがいて、鋭い当たりを全身でカバーしてくれるセカンドやショートがいて、どしっと構えながらも常に声を掛けてくれるサードがいて、守りの最後の壁を怪我を恐れず守ってくれる外野陣がいて、ベンチには監督やコーチ、スタッフがいて、俺がいつでも代わってやるよと頼もしい中継ぎやクローザーがいて、いざという時に試合の流れを変えてくれる代打や代走がいて。そして、応援してくれるファンがいる。

 決して孤独ではない。誰にも理解されていないわけじゃない。

 俺は今まで、チームを勝利に導くようなピッチングをできてこなかっただろう。越川監督の言う通り、いつも自分のことばかりだ。

 だけどもし、許されるなら。

 キャプテンの言葉を借りるとして、みんなが球を取ってくれることで俺の投球が通用しているという証になるのなら。

 たった一つの打席で勝利の女神を微笑ませてくれるチームメイトがいて、俺に借りを返せと言ってくれるなら。

 胸の前で手を組んで祈ってくれるファンがいるなら。

 俺はまだ、このマウンドに立っていてもいいのかな。俺自身だけじゃなくて、周りの言葉を信じてみてもいいのかな。

 二点。

 グラブを胸に当て、後ろの電光掲示板に表示される数字を見つめる。

 その数字に、胸の内が梳かされる。いつか、中嶋が話してくれた少年の話が、今ようやく目の奥にくっきり浮かんでじわじわ熱くなる。

「おい。おいっ」

 呼ばれて振り返ると、いつの間にか梅野がいた。

「何ぼけっとしてんねん」

「別に」

「なんか、目潤んでへんか?」

 覗き込まれそうになって、慌てて帽子のつばを下げる。

「戻れよ。審判がこっちに睨んでる」

「どの口が言うてんねん! まぁ、ええわ。何が何でも、三人で抑えるぞ」

「……あぁ」

 梅野が戻っていく。俺は足を曲げ伸ばし、肩を後ろに逸らして、身体をほぐす。

 いつぶりだろう。

 こんなに足が軽いのは。

 こんなに肩がよく回るのは。

 こんなに興奮するのは。

 こんなに、勝負したいと思うのは。

 二点。

 必ず、守りきる。



 ―九回の表。

 先頭バッター、七番の林場さんがバッターボックスに立つ。

 梅野のサインはフォークボール。

 グラブの中で球を転がし、一番指がフィットする場所を探す。あった。人さし指と中指でぐっと球を挟み込む。踏み込んで、投げる。

 林場さんのバットが当たる。詰まった音がしたが、ボールが二・三塁巻方向に高波のように飛んでいく。抜けるか、抜けないか―。

「ショート木浦、ジャンピングキャッチ!」

 木浦が華麗に、ファーストに送球する。ポジションに戻る前に俺をちらりと見た。俺はグローブを掲げて手を叩く。

 まずは、ワンアウト。けれど、向こうも切り札を切ってきた。柴田さんの代打の城田さん。今シーズン、柴田さん交互に試合に出場しているキャッチャー。ホームランの一発も打てる勝負勘とパンチ力がある油断のならない人だ。

 梅野は深めに俯いて思考を巡らせる。出したサインは、内角低めのストレート。

 右足を踏み込んで、投げる。

 城田さんのバットが球に当たる。三塁方向に転がっていく。俺は走った。血管が切れるんじゃないかと思うくらい腕を伸ばした。

「あっ……」

 球はグラブの先に当たって後ろに弾かれた。やばい、やばいやばい。ぷつりと額に汗が溢れる―すぐそばで、球が誰かのグラブにおさまる音がした。

 村山さんだ。

 低い体勢のまま、ファーストにノーバウンドで送球する。球の行方を見守る―審判はアウトのコール。

 歓声の色が一段と濃くなる。長めに息を吐いて、ひやりとした心臓を落ち着かせる。くるりとこちらを振り向いた村山さんに、自然と右の拳を差し出した。

「あざっす」

 村山さんも拳を作り、こつんと突き合わせる。真っ直ぐ俺を見つめている。

「このままいくぞ」

「はい」

「さー! 残りワンアウトです!」

 実況者の声にも、さぞかし熱がこもっていることだろう。打席には最後にするバッター―越野さんの代打の亀岡さんが出てきた。俺と同じ、今シーズン引退を決めている三十九歳のベテラン。ここぞという時に打てるバッター。三塁側のファン達がうちわや弾幕を掲げて声援の色を強める。

 あと、一人。

 あとこの人一人を抑えれば、ノーヒットノーラン。完封勝利。

 いつの間にか空はずいぶん暗くなり、スタジアムのライトはより強くマウンドに光を浴びせる。

 終わりは近い。

 キャッチャー梅野が、サインを出す。

 俺は顎だけ小さく動かして、グラブの中で球を二回転がす。

 脇を閉めて、両手を胸元に引き寄せる。

 肩を上げ、左膝を曲げる。

 亀岡さんは体勢を崩しつつも、カットする。

 二球目もカット、三球目もカット、四球目、五球目―亀岡さんは食らいついてくる。そりゃそうだ。向こうは、これで最後にする気なんてさらさらないんだから。ここからでも伝わる。亀岡さんの意地が。このまま逃がすわけないだろ、って口が微かに笑っている。

 最高だな。この人を絶対抑えたい。自分の力全部使って、ねじ伏せたい。アクセルをぐっと踏み込む。

 梅野のサインが遅い。珍しく、長考している。グラブを胸にくっつけて、いつでも投げる体勢を整えて待つ。まだか。どうした。サインは。

 梅野が頷く。ようやく決まったらしい。俺に視線を変えて、ミットの下から黄色い爪を三本見せた。

 外に、一球外す―。

 そうか、梅野。お前はそう考えるか。そうだよな。さっきから簡単にカットされるのも、ストレートのキレは落ちてきているからだし。俺の感覚的にはまだ悪くないんだが、それでも、やっぱり、打たれるわけにいかないし、打たれるのは嫌だし。

 一度外して、呼吸を整えろ。むきになり過ぎるな。落ち着け。そう言っているのが耳に聞こえた。

 ほんと、俺のことよく見てくれているな、梅野。

 首を少し後ろに逸らして、それから顎を引く―。


 ―投げたいところに、投げてみろ。


 昼間の犬神さんの台詞が、耳の後ろから響いてくる。


 ―俺が、負けてるってことすか。

 ―違う。それ以前の問題だ。


 明らかなボール球を要求して、アウトコースに構える梅野のミット。

 あぁ、そういうことか。

 今、ようやく分かった気がする。

 構えを緩め、一度間を取る。サークルの土をスパイクで撫でながら、右手の中の球を握り直す。

 それ以前って、そういうことか。勝つか負けるかの前に、俺は勝負すらしてこなかったのか。打たれ続ける日々のせいで、いつも打たれない逃げ道ばかり考えていた。ストライクゾーンにも、狙ったコースにも球が入らないのは、原因不明の不調でもピークが過ぎたわけでもない。

 全部、違う。ただ、俺がまだまだ弱いだけなんじゃないか。

 なまじ、分かりやすく目に見える数字だけ残すと、周囲はすぐに「天才」だの「球界のエース」だの囃し立てる。そんなの俺には関係ないし、別に何とも思ってないしと突っぱねているくせに、実はその気になっていた自分がいた。

 だからこそ、思うように投げられない自分を、崩れ落ちていく自分を、俺はこんな奴じゃないと受け入れられなくて。

 そこから違うんだよ。俺はもともとこの程度の奴なんだ。決して自分を卑下しているわけではなく、事実そうなんだ。今日のたった一試合を通して分かった。キャプテンや、チームメイト達を見て分かった。俺がエースと呼ばれるには、足りないものが多過ぎている。

 急に弱くなったわけじゃない。だから、進むべきは道は最初から一つしかなかった。

 強くなること。ただ、それだけだ。

 梅野はサイン通り、一球外すためにアウトコース寄りにミットを構える。その小さな的をじっと見つめ、静かに息を吐く。

 強くなるとは、打たれないこと。打たれないためには、バッターを抑え込むこと。

 強くなるとは、点を取らせないこと。取らせないためには、粘って、粘って、粘り通すこと。

 強くなるとは、チームを勝たせること。勝つためには、勝利を呼び込む投球をすること。

 だから。

 振りかぶって、投げた。球はど真ん中に向かって走る。梅野が慌てて、構えていたミットの位置をずらした。

 白球の行方は、飛び出してきたバットに遮られる。

 ミットに届く前に球は弾かれて、そのまま三塁側ファールゾーンに消えていく。会場にどよめきが起こる。

 すぐさま、梅野が審判にタイムをかけてこちらに走ってくる。

「どうした」

「聞きたいのはこっちや。サイン、見えへんかったんか? ストレートはあかん。一回外すんや」

「無駄球は投げさせないんじゃなかったのか」

「それ今言うなや。ええか。さっきのファールも、今のファールも、風に押されて凌げたようなもんや。確実に捉えられとる」

「大丈夫だ」

「分かってんのか? これでもし打たれたら……」

「梅野。今日はどこにも逃げない。そうだろ? 勝負する。内角よりのストレートだ。絶対に外さない」

 梅野が眉をひそめる。それから、落ち着けと言わんばかりに、自分のミットを俺の心臓辺りに当てる。

「勝負に熱くなりすぎる場面ちゃう。確実に抑えるんや」

「確実って何だ? 向こうだって真剣勝負だ。何があってもおかしくない」

「何やお前。けんか売っとんのか?」

「違う。久々なんだよ。勝負に熱くなれるのが。こんなに抑えたいって思ったのは、久々なんだよ。だけど、冷静だよ」

「どういう意味や」

「亀岡さんは勝負する気満々だ。俺が逃げるような姿勢を見せれば、必ずその隙をついてくる。今日この試合、勝つためには正々堂々と勝負するしかない。チームが勝つには」

 神妙な顔つきで耳を傾けている梅野。その口がしぼむ。

「……もしヒットなら、塁に出すことになる。最悪、ホームランも警戒せなあかん」

 もっともらしい意見だ。

 でも俺はつい、口元が緩んだ。

「おい。お前はこんな時に何にやけてんねん」

「いや……さっきから、もし、もし、ばっかりだなって。そうやって考えるのは、俺の方だったのに」

「それは―」

「分かってる。俺のために選択肢を考えてくれていることは。だけど、俺は勝負する。絶対に打たせない。今日のピッチャーは、俺だ」

 梅野の黒目が大きくなる。分かったと、マスクを被り直して身を翻す―かと思えば、くるりと戻ってきて俺の顔に人さし指を向けた。

「言っとくけどな、俺はお前のこと考えてサインを出しとるわけやないで。俺はいつだって、チームの一勝が第一優先や。ずっと、ずっとな。やから、ちょっとでも甘い球がきたら、ぶっ飛ばすわ」

 毒を吐くことを忘れず、今度こそホームに戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、心の中で呟く。

 分かってるよ、梅野。じゃあ、何で俺のわがままを聞いてくれるんだ? って聞けば、お前もチームの一員だからだって答えてくれるんだろう?

 甘くなんか投げない。この一球で、必ず終わらせる。

 姿勢を整えて、打席を見つめる。観客席から、雨音のような拍手が零れ落ちてくる。

 いいな。いい空気だ。今この瞬間が今日一番の盛り上がりであることも、緊迫の場面であることも、この球場にいる全員が、この試合を見ている全員が、分かっている。

 野球は風邪に似ている。熱が人から人へうつるんだ。あぁ、いい雰囲気だ。ここが一番の、勝負所だ。

 グラブの中で、球と指を慣れ合わせる。しっくりくる握りを確認して、いよいよ構える。あぁ、このままじゃ駄目だ。身体が前のめりになり過ぎている。一度三塁側に目を切らせて、それから梅野の構えるミットに視線を戻す。よし。大丈夫。

 右の股関節に体重を乗せる。

 軽く脇を締めて。

 肘を上げる。

 右から左に体重を移動させ、たすきを掛けるように身体を捻る。

 そして、腕を振る。

「ピッチャー安藤、想いを込めて投げます!」

 よく、実況のアナウンサーはいい場面でこういう言い方をする。

 他の投手は知らないが、俺は球に想いを込めたことなんてない。込めるのは、今自分が持っている技術と最大限の力。それだけだ。

 あぁ、でも。今日は、ちょっと違うかもしれないな。想いと呼ぶにはあまりに虚しいかもしれないけれど、心が上乗せされてる。

 終わらせるって言ってるけど、本当は俺、まだ終わってほしくないんだよ。梅野が聞いたら、きっと殴られるな。

 試合、まだ続かないかな。

 まだ投げられるよ。

 延長に入ったって、投げられるさ。

 これで終わらせなきゃ。でも、終わるのか。

 終わりたくないな。

 そうか。

 そういうことか。

 俺は、やっぱり―。

 球は指先から離れていく。まるで、透明なトンネルの中を通り抜けるように、真っ直ぐと梅野のミットに向かっていく。亀岡さんの両目がぎょっとしているのが見えた。あきらかに反応がズレて、バットが振り遅れたのが分かった。球は糸に引っ張られるように、梅野のミットの中にしっかり収まった。

 球審の右手は拳をつくって、空に突き出される。


「スリーアウト! ゲームセット!」


 わぁと湧き立つ波のように球場全体が揺れた。全身の力が、ふっと抜けた―と思ったら、ドンッと後ろからタックルされた。村山さんの巨体がぐいぐい押してくる。二塁からキャプテンも走ってきて、ばんばん容赦なく背中をたたく。ダッグアウトにいた人達も飛び出してきて、土と汗の匂いにもみくちゃにされる。

 まるでリーグ優勝したような、まるで日本一にでもなったような、そんなマウンドの上。

 なんだかよく分からなくて。受け答えもできなくて。笑顔もなければ、涙も出てこなくて。嬉しいというより、ほっとしたような。すごく、疲れたような。頭の中にたんぽぽの綿毛が浮かぶようにふわふわしている。

 ふいにユニフォームを引っ張られて、その手の正体が輪の外側にいる梅野だ気付く。

 その顔はとても不安気で、一気に現実に引き戻されると頭がずっしり重くなった。

「おい。中嶋は」

 そうだ。中嶋は。中嶋は見届けられただろうか。

 我に返ると、俺は輪の外を飛び出した。一直線にダッグアウトへと走る。選手やコーチ、監督、スタッフ達はみんなきょとんとしている。

「安藤、お前どこに行くんだ」

「トイレす!」

 ダッグアウトに飛び込む、リュックのポケットからスマホを取り出す。裏に引っ込み、さらに狭い通路を走り抜ける。なるべく端まで進んだ。

 歓声の遠くなった暗がりの壁によしかかって、病院に電話をかけた。受付の人が、すぐに夏帆さんに繋いでくれた。

「もしもし……」

 鼻をすする音が真っ先に耳に飛び込んで、言葉を失う。ぐっと拳を作って、震える呼吸を整える。

「あの……中嶋は」

「ついさっき……息を引き取りました。安藤さんの試合が終わった直後に……」

「……そうですか」

 こういう時、残された家族には何て言うべきなんだ。分からない。ただひたすら、夏帆さんの嗚咽が止むのを待つ。

「あの」

「はい」

「主人には、言うなって言われていたんですが……」

「何ですか」

「安藤さんに、すまないことをしたと言っていました。安藤さんが最後にお見舞いに来てくださった後のことです」

 あの日―か。あいつ、夏帆さんに話したのか。

「あの、そのことですけど、俺達、けんかしたわけじゃないんです」

「分かってます。主人が―中嶋が、勝手なことを言ったんですよね。本人も分かってました……キャッチャーなのに、相棒なのに、信じてやれなかったって。たいした言葉もかけられなかったって。病気になって野球ができなくなった自分の言葉なんて、何の励ましにもならないだろうって……」

「そんな」

「それでもやっぱり、安藤さんには自分に正直であってほしいと。だから、つい、あんな言い方をしてしまったと」

 スマホを耳に当てたまま、首ががくりと折れる。そうか。やっぱり、そうなのか。お前はわざと、俺を突き放したのか。

「言えば、せっかくの決意を揺るがすかもしれないから言うなと。でも、本当は聞いてほしかったと思うんです。安藤さんと、ちゃんと話がしたかったと思うんです。主人は、安藤さんのこと、大好きでした。初めて褒められた時、野球をやっていてよかったと思ったって……何度も、何度も、同じ話を繰り返すんです」

 受話器の向こうから伝わる声に、彼女の勇気と優しさを感じる。夏帆さんは、中嶋の言葉ではなく、心を優先した。だから、伝えてくれたのだ。

「ありがとう……ございます」

 込み上げてくるものをこらえながら、お礼を言う。電話を切り、灰黒い天井を見つめる。これよりずっと、ずっと、ずっと上に。空を超えたずっと上に、中嶋はいる。

 おい中嶋、ちゃんと見ていたか?

 お前の注文通り、ノーヒットノーラン達成したぞ。

 勝って、惜しみない拍手をもらって、俺はマウンドを下りたぞ。

 約束、守ったぞ―。

「時をかけるおっさん」

 梅野だった。防具を外してすっかり身軽になった様子で、こちらに近付いてくる。

「タイムリープは……どうなった?」

「試合が終わっても戻らないから、たぶん、大丈夫だ」

「ほうか……じゃあ、これでお前も終わりやな」

 梅野は噛み締めるように言う。俺はただ、静かに頷く。

「でも中嶋は、何でここまで執着したんやろか。話を聞く限りやと、お前の引退をそこまで引き留めたわけやないのに」

 疑問を抱える梅野に向かって、静かに首を横に振る。

「中嶋は分かっていたんだ。俺が、滅多に行かない病院に、見舞いに行った本当の理由を」

「本当の理由……」

 中嶋じゃない。犬神さんでも、越川監督でもない。

 やっぱり、このタイムリープの原因は俺だった。中嶋は、自分が苦しい中でも俺の代弁をしてくれたんだ。

「俺は最低だよ。中嶋を見て……もう野球をしたくても野球ができない中嶋を見たら、もしかしたら、自分はもう一度立ち上がれるんじゃないかって。まだ自由に動く身体があって、明日死ぬ予定もなくて、まだチームに在籍していている俺なら、なんとか這い上がれるんじゃないかって……そうやって、中嶋の惨めさにすがろうとしたんだ」

 唇が震える。こらえようと、前歯で噛んでおさえた。

「でもあいつは、野球を好きな気持ちを綺麗に残したまま、ちゃんと前を向いていた。結局惨めなのは、俺の方だったよ。甲子園のスターなんて言われていた奴も、最後の最後はこんな様なんだ」

「……ほんまに、これで最後か」

 梅野が、おそるおそる尋ねる。俺を見つめる瞳は浜辺の波打ち際のように揺らめいていて、しばらくすると「やっぱり、あかんわ」と首を横に振った。

「安藤。お前、勘違いしとるで」

「何が」

「中嶋だけやない。プロの世界で活躍したい奴はいっぱいおる。それでも入れる人数は限られとる。実力が足りんかった奴。いろんな事情で諦めざる終えんかった奴。そんな奴らがぎょーさんおる中で、プロの世界に入れた選手は、なんちゅーか……もっと幸せに思わなならんちゃうのか? 俺は試合前に、お前のおこぼれで入れたなんて言うたけど、それが事実か嘘か、そんなことはどっちでもええ。俺にとって大事なのは、プロに入れたかどうか。そこから生き残るのはもっと大変やけど、あとは血が出るくらい必死にやるだけやった。俺は覚えとる。プロ入り四年目の春のキャンプ―一軍の名簿の中に自分の名前があった時、死ぬほど嬉しかった。その年のリーグ戦、六月十二日の試合でスタメンマスクを被った日のことは死ぬまで忘れへん。恐怖もあったけど、それ以上に興奮して身体が震えとった。俺は、この瞬間のために今まで野球やってたんやって……。安藤。お前は自分の実力でプロに入って、その後も結果を残してきた。大きな怪我もしてへん。そのお前があっさり手放すなんて……おかしいやろ」

 言葉の端々が震えている。怒りなのか、それとも―。

「高校三年生、夏の甲子園準決勝の前日のこと、覚えてとるか?」右手首を見つめながら、唐突に言い出す。「俺は手首を痛めてて、そのことをお前だけに話したやんな?」

「……そう、だったな」

「俺はお前の球は万全の状態で受けたかったし、お前だって中途半端なキャッチングされたら調子狂うと思った。やから、お前が出るなと言えば、監督に話して他の奴に代わってもらうつもりやった」

 覚えている。地元には帰らず、球場近くのホテルに泊まっていたあの日の夜。俺はホテルの一室のベッドに横になりながらグローブをいじっていたら、梅野が入ってきた。きっと、試合の打ち合わせだろうと体を起こすと、梅野は開口一番に「すまん」と言った。右の手首を見せながら、「怪我ってわけやないんやけど、手首が痛くてな……キャッチミスでもあったらあかんし……どうしよか?」と弱弱しい声で尋ねられた。あの時の俺は、今では最低だと思う。梅野の手首の調子よりも、翌日の試合のことを考えて青ざめていた。

「あの時、お前は俺にこう言ったんや。それでも、出てほしい―って。俺は、意外やった。不都合なことは何でも切り捨てるお前が、そんなこと言うなんてって。でも、その時俺は思った。絶対、絶対に優勝したるって。実際、準決勝を勝ち上がって、決勝で前年度優勝校を倒した。ほんで、プロのスカウトの目にとまって、プロ野球選手になれた。あの時の手首の痛みなんてもう忘れた。俺は、あの時のお前の言葉でここまで引っ張られたんや。アマでもプロでも、試合に出てほしいと言われることほど幸せなことなんてあらへんのや」

 違う。違うよ。言葉に出したくても、喉に何かが引っかかって声が出ない。違うよ、梅野。何で今、そんなこと言うんだよ。そんな泣きそうな目を見せるなよ。

 俺はただ、お前に受けてほしかった。それだけだった。その方がリズムが崩れないし、いつも通りいい投球ができると思ったからで―。

「そんで、WBCの選出メンバーが決まった時や。今度は、お前が俺に電話を掛けてきたよな」

「あぁ」

「今更かもしれへん。でも、やっぱり、考えてしまうんや。あの時……あの電話で、俺がお前に出てほしいって言えば、お前は今も……」

 梅野が、ぐっと唇を噛む。今度は、「違うよ」と首を横に振れない。決して梅野のせいではないけれど、あの時助けを求めたのは事実だ。

「俺は、俺は、お前に諦めてほしくてああ言ったわけやない」

「分かってるよ」

「分かってへんやん! だからこんなことになってるんや! 俺は、お前にはずっと長く、誰よりも長く、現役を続けてほしいからそう言うたんや。一度出られへんからって、全部終わるわけやない。調子が悪いのに、無理することないやろ。お前にはこれから、何度でもチャンスがある。まだまだ、獲ってへんタイトルもある。もっともっと、すごい成績やって残せるんや。俺の無責任な一言で、お前に無理させて、万が一取り返しのつかへんことになったら……そう考えたら、怖くてたまらんかったんや!」

 語気を強めて、荒く息を吐く。でもすぐに「やけど」と蚊の鳴くような声で呟いて、両目を手で覆った。

「やけども、それでも、こんなことになるんやったら……俺は、お前に……あの時……言わなあかんかった。表彰式で、金メダルを首にかけてもらっとる時も、ずっと変やった。何で俺がもらえて、お前がもらえへんねん……何でお前が、ここにおらへんねんって……」

 続かない言葉の代わりに、鼻をすする音が聞こえる。俺はしばらく、見つめていた。掛ける言葉を、必死で探すんだ。

「梅野、もういいよ」

 近付いて、そっと肩に手の平を乗せる。俺はどれだけ、こいつを傷つけてきたんだろう。自分ばかりが傷ついていると思い込んで、何も考えていなかった。出会ったあの日から、今までずっと。

 今もし、梅野の心を救える言葉があるとすれば。

 それが偽善ではなく、本心からの言葉があるとすれば。

「言わなきゃいけないなんて、そんなのただの義務だ。高三のあの時の俺は、心の底からお前に出てほしかったから、そう言ったんだ……でも、お前の言う通りだな。俺は何も分かってなかったよ。これからも野球を続けるためになんて、ちゃんと考えていなかった。お前が言ってくれた言葉の意味を、何も考えていなかった。ばかだよな」

「……分かってるやんけ……」

「俺さ、自分以外の誰かの気持ちを考えるのは下手なんだ。そのおかげで孤立したり、衝突したり」

「昔から、ずっとそうやん。何も変わらへん」

「うん。でも、もう一つ変わらないことがある。俺、野球が好きだ」

 たった一言。とても、とても、簡単な気持ちだ。でも、ずっと忘れていた気がする。いざ口にすると少し安っぽくも聞こえて照れくさくもあって。

「安藤……」

「俺も久々に思い出した。初めて一軍の試合に出た時のことを。ど緊張してて、すごく不安だった。プロの選手達を間近で見て、俺なんかに抑えられるのかよって自信もなくて。でもそれ以上に、やらなきゃならない、やるしかないって。だってそうしなきゃ、野球を続けられない。好きな、野球を」

 棚に一冊一冊丁寧に本を並べるように、頭に浮かんだ言葉を選んで区切る。梅野は瞬きをせず、じっと俺の口元を見つめる。

「それなんだよ。結局、それしかないんだよ。興味本位で始めた。だんだん好きになっていった。仕事にしたいと思ったし、それしか浮かばなかった。志望届を出して、プロになった。でも、好きだからこそ、苦しいんだ。なりたい理想の自分と、そうなれない現実の自分のギャップを埋められなくて。好きなものはいつだって綺麗でいてほしいから、それを自分の手で壊してしまうのが恐ろしかった」

 梅野が息を吸い込む。それを止めるように、肩の手に力を込めた。

「でもな、でもな。やっぱり好きだから、諦めきれなかった。敗戦投手になっても、途中交代させられても、いつだってマウンドが恋しかった。好きだよ、野球が。守備位置に走る仲間のスパイクの音、その後ろ姿、球がグラブにおさまる音、バットが空を切る音、ウグイス嬢のアナウンス、客席の歓声やため息、俺を包み込むマウンドの全てが、好きだ。梅野……俺、野球が好きだよ」

 何度も、自分に確認するように同じ言葉を繰り返す。

「中嶋が、言ったんだ。引退試合の話をした時に。最後まで見届けるよ、お前の人生をって……どういう意味だって聞いたら、あいつは、こう言ったんだ」

 鼻の隙間に冷たい空気が入り込む。

「だって、野球はお前の人生だろって」

 あの物静かな病室で、中島は囁いた。当たり前のように、昔からそうであるように。

「そうだ。野球は俺の人生だ。野球を辞めるっていうことは、俺の人生も終わる。分かってたんだ。野球を辞めた後の俺には何もない。死ぬことと、同じなんだ。なのに、あっさり辞めようとしていた……中嶋は、分かっていたのに……俺は、何度も繰り返さないと分からなかった……」

 中嶋の言う通り、あの頃の俺は寂しくて仕方がなかった。野球を辞めたら、失ったら、俺には何も残らない。野球を通して繋がった人間もみんな消えて、俺の知らないところでそいつらは野球を続ける。

 考えるだけでぞっとして、寂しくて、何でもいいから球を放っていたかった。そしてそれが何の意味もないことに気付いて、球に伸ばす手すら引っ込めていた。

 でもさ、でもさ。

「嫌だよ、梅野。俺、野球を辞めたくない。マウンドを下りたくない……長く、この世界にいたい。し、死にたくない。生きたい。生きたいよ……」

 もう、一人で立っているのは限界だ。涙や鼻水で重たくなった頭を、梅野の肩に乗せる。ごつごつしていて、汗臭くて、とても居心地がいいとは言えないけれど、それでもいい。梅野は俺の背中に手を回して、ユニフォームを掴んで握る。

「自分、ほんまガキやな、いや、ガキより性質悪いわ……」

 声が掠れている。

「あほやなぁ……ほんまに……そんなん、当たり前やん……ほんま、あほやで……」

 まるで、あの時のようだ。甲子園決勝、最後のボールを放って打者を三振で抑えた後、梅野が走ってきて俺達は抱き合った。嬉しいというよりも、お互いほっとしていた。終わった、終わったぞ。言葉は交わさなかったけれど、肩にかかる息遣いで理解し合っていた。

 梅野。俺も、お前と一緒だよ。

 お前には恥ずかしくて言えないけれど、お前がいないところでなら、どれだけだってお前のいいところをいっぱい言えるし、自慢できるんだ。

 それは、お前が俺にとっての誇りだから。

 この試合、お前に取ってもらったボールの感触が今でも指先に残っていて、興奮して、震える。

 ありがとう、梅野。

 俺と出会ってくれて。

 一緒に野球をやってくれて。

 続けてくれて。

 俺の球を受けたいと言ってくれて。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 中嶋、ありがとう。

 涙を出し切ると、互いに気まずそうに目を逸らし合う。

「あのさ。この際だから、聞いていいか」

「何やねん」

「お前、中嶋のことどう思ってたんだ」

 尋ねた瞬間、険し気に目を細めた。中嶋と梅野は比べられることが多かった。純粋な力比べというより、主に俺を挟んでという意味で。

 最初の頃は、甲子園優勝バッテリーの方がいいんじゃないかとか、梅野の方が良さを引き出せるとか、いろいろ言われていると中嶋が子供みたいに拗ねていた。しかし時間が経過すると、中嶋との方がいい球を投げるだの、高校とプロは違うだの、梅野が遠回しに非難されるようになった。

 中嶋が現役を退き、入れ替わる形でチームに入り正捕手の座を手に入れた梅野。これについても、世間では未だに勝手な憶測が飛び交っている。

 中嶋と梅野が、直接会話をしたことがあるかどうかは知らない。ただ、中嶋は分かりやすく梅野のことを羨ましがっていたし、目標にしていた。

 梅野は―中嶋の話題をあえて避けるようなことはないが、必要以上に口にすることはない。だから少し、気になっていた。

「……プロになってお前と初めて対戦した時、めっちゃ厳しいインコースばっか投げきよって、まじで殺す気かと思ったわ」

 中嶋のことを聞いたのになぜ今その話をするんだと疑問に感じたが、「殺すは大袈裟だろ」と言葉を合わせる。

「いいや。あれは絶対、そうやった」

「まぁ……そのくらいの気持ちはあったかもな。梅野だけには絶対打たれたくないし」

「ふん。なんとか、三打席目の二球目のスライダーを、センター前に放り込んでやったけどな」

「あれは指のかかりが甘かった」

「打ったら、マウンドでさぞ悔しがっとるお前の顔拝んでやろうと思ってたのに、球の行方追うのに必死過ぎて……それだけが心残りやわ」

「おい、何でこの話になったんだ。中嶋のことは?」

「だからやん。俺はあの時、ちょっと複雑やったんや。打てて嬉しいような、悲しいような気持ちになったんや。ていうか、ちょっと怒ってたで。俺みたいな打者に、あっさりヒットを打たれるような配球をした中嶋に。変化球かよ? まだ力もキレもあるのに、変化球かよって。俺やったら、ストレートで詰まらせてゴロにするのになぁとか思ったり。ほんでも、特に気にする様子もなくすぐに立て直したお前ら見て、なんや、ちゃんと気合ってるんやんって思ったり。なんか、あの時初めて見たかもしれへん。安藤が、プロに馴染んでいるって感じを」

「何が言いたいんだ」

「あぁ。あかん。いらん話してもうた。まぁなんや、ネットや新聞の記事では俺らのことをとやかく言うとる奴もおったけど。俺は正直、中嶋のことは可もなく不可もなくって思ってたわ。ブロッキングは頑張ってる感はあったけど、すんごい肩が強いわけでも、リードが毎回冴えとるわけでもあらへんし……やけど」

 梅野は壁にもたれかかり、天井を見上げる。

「やけど、幸せなキャッチャーやなぁって」

 幸せ―中嶋のことを表現するのに、初めて聞くフレーズ。誰もかれもが、中嶋は悲劇の、不幸の主人公だと語るのに。

「キャッチャーにとって一番の幸せって、何や分かるか?」

 黙って首を傾げると、梅野はいつになく優しい笑みを浮かべた。

「ピッチャーに必要とされることや。なんぼ肩が強くても、なんぼリードが上手くても、投げてくれるピッチャーに必要とされへんかったら意味あらへん。お前みたいにとにかく要求多くて、偏屈で、コミュニケーション取りづらいピッチャーなんて、偉そうにえり好みするやろ。やけど、お前が投げる時は絶対に中嶋が受けてた。中嶋は、お前に必要とされとった。たぶん、中嶋は嬉しかったやろうな。そしてそのことについては、俺はほんの少し負けとって、少し悔しかった」

 ちっと、まるですぐ目の前に中嶋がいるかのように舌打ちをする。本気で悔しんでいる。中嶋、聞こえてるか。舌打ちはともかく、お前のことを幸せなキャッチャーだって言ってくれる奴がいたよ。お前、幸せだったんだな。そっか、そっか、そっか。

 不思議な満足感に包まれると、止まった涙がまた出そうになる。だけど、いつまでも奥にこもったままの俺達を呼びに来た村山さんの怒鳴り声のおかげで引っ込んだ。

「いつまで何やっとんねん! 挨拶まだ終わってないぞ!」

「すんません! 今行きます!」梅野が素早く立ち上がり、先に走り出す。「おい。安藤、行くぞ」

「あぁ」

 帽子をしっかりかぶりなおして、梅野の後を追う。

「おいおい、安藤」

 村山さんが、一つの球を放る。

「ウイニングボール。お前の」

「ありがとうございます」

「慌ててどっか行くからさ。梅野と何やってたんだよ」

「……反省会っす」

 嘘をつき、受け取った球をぎゅっと握りしめながら来た道を戻る。

 マウンドに俺達の姿が見えると、大きな大きな拍手が湧き上がった。

 仲間が、ファンが、温かく出迎えてくれる。

 青黒い空の下、スタジアムのライトはホームの赤い土と緑の芝生を煌々と照らしている。

 歓声と拍手に応えるように、取った帽子を振る。晴れやかな心とは、こういうことを言うのかもしれない。身体中すっからかんで、でも、何かに満たされている。

 隣でじっと俺を見つめていた梅野が「これで、えかったかもしれへんな」と呟くのが聞こえた。

「何が」

「お前があのまま二軍におって、まぁこのままでもええかってずるずるおるよりよかったのかもしれへんなって」

「何でそうなるんだよ」

「人間、そう考える方が楽な時もあるやん」

「そう、か。んー……、そう思ったことは全然なかったな……。ていうか、そんな思考になったら、野球選手として終わってるだろ」

「はぁ? ついさっき引退試合終わらせたお前が何を偉そうに言うてんねん」

 ばしっと、思いっきり背中を叩かれた。火傷したみたいに皮膚がひりひりする。さすって痛みを和らげながら、思い返す。あぁ、そうか。これ、俺の引退試合だったんだって。だって俺、途中からちょっと忘れていた。

 ただ、一つの大事な試合。絶対勝ちたい試合。胸がざわつき始める。新しい欲求が湧き上がってくる。

 たしかに、終わった。

 俺の引退試合は、終わった。

 だけど―。

「やけど、やっぱ間違うとるんかな」

 自分達を取り囲むスタンドを、随分遠い目で眺める梅野。視線の先の果ては分からないが、俺も同じ方向を見つめる。

「安藤。お前が今まで成し遂げてきた記録は、事実やろ。今日の試合も。俺らがいるマウンドは、ただのまぐれで勝てるような、偉業を達成できるような、そんな軽々しい場所やない。よく言う奇跡やって、ちゃんと意味があって起こると思う」

 まだ手拍子を送る観客を見てそう言っているのか。はたまた小さな星が瞬き始めた夜空を見て言っているのか。それとも、いつかの日々のことを指しているのか。

「そういう意味では、お前はたしかにプロ野球選手や。紛れもない、正真正銘の」

 梅野のスパイクが、マウンドの土にめり込む音が聞こえた。

 この世界に飛び込んで、初めてそんなことを言われた気がする。誰もわざわざ口にしてこなかった。自分自身でさえも。

 だから今、ようやく長い夢から覚めたような気がする。今までふわふわくらげのように揺らいでいた頭の中も、隅々まではっきりしていく。

 白昼夢じゃなかった。

 神様の気まぐれじゃなかった。

 梅野がそう言うなら、そうかもしれない。今日の試合に勝てたのも、中嶋のことだけじゃなく、俺自身にとって意味がある奇跡のおかげなら。もしその意味を、追及したいのなら。

 村山さんが渡してくれたウイニングボールを転がし、ひょいと真上に投げる。汗や土にまみれているのに、夜空に浮かんだそれは白く光り、また手の中に戻ってくる。

 もう一度、顔をぐっと上げた。もう、視界はぼやけていない。ちゃんと見える。

 試合は終わった。だけど、ここは俺の居場所だ。



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