病室の約束
「お前は相変わらず自分のことばかりだな。いい加減、後輩の手本になれ」
高校二年に進級した春、越川監督は俺に言った。
お前は、自分のことばかり。
そりゃそうだろ。ピッチャーなんだから。自分のことだけに集中しないと、いいピッチングなんてできない。野球のポジションは、ただ適当に名前が振り分けられているわけじゃない。そこには、それぞれの役割がある。ピッチャーの仕事は、自分の最高のパフォーマンスをマウンドを下りるまでこなすこと。周りにいちいち気を取られていたら、自分に集中なんてできない。
プロの世界に入ればなおのこと。いつ、だれに、マウンドを取られるか分からない。自分勝手で何が悪い。自分のことを考えて、何が悪い。何が悪いんだ。
それでも―こんな俺でも、自分以外にも報われてほしいと思った人はいる。目立たなくても、その時は無名でも、いつか、その名前が野球を愛する人間達に愛されてほしいと。
中嶋 優也は、その中の一人だ。
四年前までのチームメイト。俺と同い年で、同期入団。一軍合流は俺の方がはやかったけれど、中島が上がってきてからはどの試合でもバッテリーを組んできた。
端からすれば、特筆して秀でているものは分からないかもしれない。俺も最初は分からなかった―というか、とても苛々していた。
「お前はすごいよ」
試合後によく、中嶋はそう口にする。嫌味やお世辞でもなく、素直な感想として。
「すごいよ、ほんと」
「何それ」
「俺なんかが受けるのが、もったいないくらいだ」
初めての言葉に、俺は人生最大に戸惑った。今まで組んだキャッチャーはほぼ梅野だが、あいつは俺の投球が良ければ良いほど悔しがる。俺達はポジションは違えど、こと野球に関してはいつも競い合っていた。片方がいいプレーをすれば、もう片方は負けじとギアを上げる。二人の目標は常に、勝つことだ。いい球を投げた後ほど梅野の口数は少なくなる。その顔を見るのが楽しみで、逆に上手くいかなかった時に思いっきり怒鳴ってくる奴の声は耳を塞ぎたくなるほどうざかった。
梅野とはほぼ真逆といっていいタイプの中嶋。彼の少しだけ寂しそうな笑顔に、口元が苦くなる。
「あのさ、普通は……普通なのか分からないけれど、キャッチャーってそういうこと言うものなのかな」
「あ、ごめん」
「謝らなくてもいいけど」
「ごめん、って、また謝っちゃったよ。俺、昔からこんなんなんだよ。なんつーか、いつまでも俺が一番駄目なんじゃないかって……。この試合に勝ったら、次の盗塁を阻止出来たら、俺は自信を持てるのかなって……でも、全然駄目だ。勝っても、成功しても、自分に納得できない。グラウンドには、俺の存在なんかすぐに忘れられてしまうようなすごい選手がいっぱいいるし……」
じめじめした空気が俺を包み込む。何だ。何の話をしているんだ。ものすごく、苛々する。
「なんか悪いな。暗い話して」
中嶋が荷物をまとめる。やっぱり、苛々する。俺には合ってない。試合中もけっこういらいらさせられる。キャッチングの時にミットは動くし、何よりテンポが合わない。俺があれを投げようと構えているのに、まだ斜め左下を向いてずっと配球を考えている。やっとサインを出したと思ったら、俺の意思と全然違うし。リズムが狂って、苛々して、力んだらワンバウンドになって、中嶋が後ろに逸らしてワルイドピッチの記録がつく。
苛々する。全部無駄に感じて、いらいらする。そう考えると、梅野はずいぶん俺に合わせてくれていたんだと思う。そして俺は、そのことを当たり前に感じ過ぎていた。
「じゃあ、お疲れ……」
手を挙げて帰ろうとする。なんか、言わなきゃいけないと思った。これから、こいつと組むことは何度でもある。その時失投する度に、キャッチャーのせいにするのは格好悪すぎるし、そんな不甲斐ない奴になりたくない。
梅野がいない今、何も言わずボールを握っているだけというわけにいかない。
「あのさ」
「ん」
「今日の、フルカウントからの内角ストレートのサイン、良かったと思う」
その日の試合唯一、俺が中嶋に対して苛々しなかったことだ。
中嶋以外でチームで組んだことのあるキャッチャーは、外角寄りのサインが多い。振らせて三振にしたいのかもしれないが、どこか逃げているような気もして投げている俺はあまり気持ちが良くない。中嶋もよく要求してくる。けれど今日、中嶋はなぜか苦しいカウントで内角を要求してきた。俺は首を振らなかったし、不覚にもその要求に絶対応えてやりたいと熱くなった。バッターは見事三振。ベンチに戻る時、掛け合わせたグローブの向こうで中嶋はにやりと不敵な笑みを浮かべていた。何だ。けっこう強気なんじゃないか。試合中にそう感じ始めていた矢先の試合後の謝罪。訳が分からない。
しかし、俺の「良かったと思う」と思うの一言に、中嶋の顔はとても輝いていた。
「良かった? 本当に?」
「うん」
「あんな感じでいけばいいってことか?」
「まぁ。その時にもよるけど」
この際、全部言ってしまうか。
「俺、テンポが速い方が好きだから。判断もうちょいはやく。あと、キャッチングの時ミットが動きすぎ。ストライクでも、審判にボールに見られるから気をつけて」
「分かった」
中嶋は素直に頷いた。そしてその日から、よく俺に話しかけるようになってきた。試合前でも、試合後でも、試合がなくても。
偉そうに言うと、中嶋は著しい成長を遂げていった。俺が言ったことは、必ず次の試合には修正してきた。だんだんと、息もテンポも合ってきた。俺がマウンドであれこれ考える負担が少なくなってきた。
それでも、やっぱり、がつっとはまったなとはっきり思えた瞬間があった。
スコアは三対二の一点リード。九回の裏、走者三塁でツーアウト。引き分けになれば延長で、うちのチームは絶対的抑えが故障で二軍にいる状況だった。
延長なんかにしない。ましてや逆転なんかさせない。俺が完封して終わらせてやる。打席に立っているのは、今日猛打賞のバッター。カウントはツーツー。中嶋のサインは、低めに落としたストレート。
いやいや。今日は低めのコントロールがいまいちだから駄目だって。ワイルドピッチで、ホームを踏まれたりでもしたら最悪だろ。
サインを無視して、俺は高めの外に投げた。ボールカウント。すると、中嶋がタイムをとって、こっちに走ってきた。
「安藤」
「仕方ないだろ。今の状況じゃ―」
汗を拭ってから振り返った中嶋の顔には、いつもの穏やかさはなく真顔だった。
「何に遠慮しているんだ?」
「遠慮?」
「この回になってから、腕の振りが小さい。球に力もない。打たれたいのか?」
柔らかな目元は変わらないのに、ぴくりとも動かない黒目の迫力に気圧される。しかしすぐに、苛立ちが湧き上がる。
「あのな。俺だってちゃんと考えてるんだ。今日は低めのボールがいまいちだ。ワイルドピッチにでもなれば―」
「俺がとる」
「え」
「後ろに逸らさない。絶対に。どんな球がきたって、必ず取る。俺のプレーの心配をして、安藤が自信を失くすことは許さない」
淀みなく言い切られる。怒っている。中嶋は怒っている。俺は初めて見た。
「別に。自信がないわけじゃないけど」
「じゃあ、低めに投げてくれ。さっきみたいな高めは危ない」
マスクを被り直して、ピッチャーズサークルを下りていく。その姿が、梅野と重なった。あいつもよく言っていたな。「お前に気ぃ遣われるようなキャッチャーなんてごめんやわ! お前はお前が思う通りにがつっと投げてこんかい!」って。あいつの場合は本気で殴りかかってきそうな勢いだったけど。
中嶋が位置につき、再び低めストレートのサインを出す。俺は頷き、投げた。頼む、と球に祈りを込めて。バッターは慌てたようにバットを出した。球はすり抜けるようにして落ちて、中嶋が縦に構えたミットの中に収まった。
この日、俺は正式に中嶋とバッテリーになったと思ったんだ。
俺が投げると時は、中嶋が受ける。チームの暗黙の了解で、首脳陣も納得してくれていた。楽しい。中嶋に向かって投げていると、単純にそう思えた。梅野とのバッテリーは、もっとスリリングでまるで生きるか死ぬかのギャンブルをするような興奮に包まれる。中嶋は、まるで野球を始めた頃の少年のような気分にさせてくれる。負けても、次は大丈夫と希望が持てた。次は勝つ、もし負けても次がある―そうやって、失敗と成功を繰り返して、これからもっと成長できるような明るい未來を示してくれる。
ある試合の後、中嶋はこう言った。
「野球の神様って残酷だよな。野球が好きでも、まずプロになれるかなれないか、そこでふるいをかける。たとえプロになれても、試練が山のように用意されている。怪我による長期離脱、原因不明のスランプ、周囲からのプレッシャー……野球を続けたくても、続けられない奴はいるんだ。でも、だけど。たぶんだけど。野球の神様ほど、執念深くて諦めが悪い人間に味方したがる物好きいないんじゃないかな……そう思うよ、俺は」
その時の俺は、中嶋の言っている意味がよく分からなかった。誰に向けて言っているのかさえも。
でも、その数日後に分かった。いつも通りやってくる、 “次の試合” のマウンドに、中嶋はいない。自宅で倒れて、病院に運ばれた。大腸癌だった。他の内臓器官への転移の可能性もあるらしい。中嶋はもう二度と野球ができないどころか、長くは生きられない身体になってしまった。
おそらく、こうなることを予見していたんだろう。だから、あの言葉は中嶋が自分自身に向けて言ったんだ。
野球の神様ほど、執念深くて諦めの悪い人間に味方したがる物好きはいない。
本当にそうだとするなら、これほど残酷なことはないだろう。なぜ神様は、どこまでも前向きで、どこまでも熱心な中嶋の味方をしてくれなかったのか。
監督が、いつものミーティングの前に中嶋のことをチーム全員に話をした。中嶋を可愛がっていた先輩も、仲の良い同期も、慕っていた後輩も、みんなショックを受けた。すすり泣く声も聞こえた。けれど、誰もが最後に俺を振り向くことを忘れなかった。
俺は泣かなかった。ただ、淡々と事実を受け止めていた。
中嶋はもういない。いないんだ。一緒に野球はできない。そうだ。
中嶋はいなくても、次の試合はどんどんやってくる。俺はいつも通り、淡々と消化していく。それも勝ち星ばかりつく。中嶋が受けなくても、勝てる。絶対あいつじゃなきゃ駄目なんてことはなかった。誰かが言った。あいつはすごい奴だ、と。称賛とも、批難ともとれる言い方だ。
中学生の頃飼っていた、一匹の黒猫を思い出す。子猫からずっと可愛がっていたオス猫だったけど、ある日家から出て、それっきり帰ってこなくなってしまった。
俺はそれほど悲しがらなかった。毎日毎日、野球と勉強の日々。だけど、ふっと立ち止まって顔を思い浮かべると、途端に泣きそうになった。
悲しくないわけじゃない。ただ、なるべく考えないようにしているだけなんだ。
猫のことも、中嶋のことも。
***
病院は嫌いだ。
昔からそうだった。下を俯いてばかりの患者が集まるロビーや待合室。医療器具が忙しなく働く声。看護師や医師の制服が擦れる音。自分に何もなくても、急に胸が痛くなったりする。唐突な不安に、襲われたりする。絶対に、病院慣れしてやるもんか。そう決めてから、自分の健康には気を遣った。力をつけるために量は食べても、栄養バランスは考えた。お菓子や炭酸ジュースを口にすることはやめた。必死に練習はしても、怪我につながらない程度にちゃんと身体を休めるように心がけた。
自分じゃなくて、友達やチームメイトが怪我や病気で入院しても見舞いに行かなかった。だからよく、薄情だと言われた。監督に自分のことばかりだなと言われたのも、たしか、一年先輩のピッチャーだった人が怪我で入院した時期だった。俺は先輩の代わりに試合で投げることになって、調整で必死だった。先輩の代わりに、試合で投げる。投げて勝つ。それが一番いいことだと思った。だから、みんなで見舞いに行くという誘いもきっぱり断わった。そしたら、監督に後でそう言われた。
病院には嫌な思い出がいっぱいある。だから、嫌いだ。
中嶋が倒れて入院した後も、直接見舞いに行ったことはなかった。弱弱しくベッドに横たわっている奴の姿なんて見たくない。俺の頭の中には、元気で明るいままの中嶋の姿を残しておきたかったし。
しかし、全く無視するというのは気が引けて、電話をかけて容体を確認したことはあった。電話の向こうの中嶋の声はわりと元気で、「何だ。意外と大丈夫なんじゃないか」と勝手に安心した。
だけど、本当はそれほど楽観的なものではなかった。回復の見込みはなく、余命何年と知ったのは、誰よりも多く見舞いに行っている村山さんの話からだった。
中嶋が、自分の身体について俺に話したかったどうかは分からない。それでも、気を遣わせていたことは事実だ。電話口でさえも。
だから、決めた。引退を決意した時は、一番に中嶋に話そう。そう思って、決意して、俺は病院に行った。
中嶋が入院している病院は都心にある、比較的新しい建物だ。正面玄関の自動ドアをくぐると、ひらけたロビーがどんと構えている。白い受付カウンター、水色のソファ、四隅に置かれた観賞植物、どこからともなく聞こえるピアノ曲。いかにも病院らしい病院だ。
そんなロビーを早足で突っ切り、エレベーターに乗り三階のボタンを押す。降りてすぐのナースステーションもすぐ曲がって、まっすぐ中嶋の病室に向かった。
―あった。
三〇七号室の扉の前で、立ち止まる。銀色の取っ手をつかむと、生暖かった。もしかしたら、中に他の来客がいるのかもしれない。奥さんの夏帆さんかもしれない。いたら、また出直さなくてはいけないな。
力を込めて、扉を引いた。中には、中嶋一人しかいなかった。白いベッドの上で、上半身だけを起こした状態でこちらを振り返る。
「安藤」
ずいぶん、驚いているようだ。会うのは、かなり久々だ。俺もどう反応すればいいのか戸惑ってしまう。ずいぶん痩せてしまったようで、入院着はだぼだぼだ。ただ、訳の分からないごつい機械に囲まれたり、全身を変なチューブにつながれていなくてよかった。普通に話せそうでよかった。
「よお」
「おお」
短いラリーをしながら、距離を縮める。シューズを床にこする度に、キュッキュッと真新しい音がして、変な気分だ。
視線のやりどころにあぐねていると、ベッドの側にある棚の上の黄色い花が気になった。
「いい花だな」
「夏帆が、花屋で買ってきてくれた」
照れくさそうに名前を口にする。中嶋の奥さんの、夏帆さん。高校時代から付き合っていて、お互い二十二歳の時に結婚した。幼稚園の先生をやっているらしい。俺も中嶋の紹介で何度か顔を合わせたことはある。小柄で、ショートカットで、目がぱっちりしている。無愛想な俺にも気さくに接してくれるところは、中嶋によく似ている。
「何て花?」
興味があるわけじゃない。話の切り口を見つけるまでの時間稼ぎに、何とはなしに尋ねてみた。
「えっと……何だったかな。言ってたんだけど、忘れた」
「ひどいな」
「黄色だったら、何でもいいんだよ」
「お前、好きだもんな。黄色」
中嶋は、グラブにも手袋にも黄色の刺繍を入れていた。自分のラッキーカラーなんだと言っていたな。
「とにかく、座れよ」
棚の前にある丸椅子を顎で示されて、座ってみる。案の定、幅が小さくて当然のごとく尻がはみ出る。転ばないよう、腹に力を込めた。
ようやく落ち着いた格好になった俺に、中嶋は淡く微笑んだ。
「本当に久々だな。調子、どうだ」
「中島」
「どうした」
「俺、引退するよ」
中島の眼球の動きが、ぴたりと止まった。それから「あぁ、そうか」とゆっくり頷く。
「だから最近、寂しそうに投げているのか」
「……そう、見えるか? ていうか、見てるのか」
「これでな」すぐ横の棚の引き出しから、A4サイズの青いパソコンを取り出した。「見れる試合は見てる。一軍のでも、ファームのでも」
「それで、俺が寂しそうだって?」
「個人的な意見だよ。ずいぶん、悲し気にボールを放っているなって」
「違うさ。自分に呆れているだけだ」
「そうか。それで、いつ引退するつもりなんだ?」
中嶋は、話をすんなり元に戻した。ズボンのポケットに突っ込んでいる手をぎゅっと握りしめた。
「来シーズン中には」
「球団には?」
「まだ」
「そりゃお前……」
握った白いシーツに皴が寄る。「必死こいて止められるだろうな」
「そうかな」
「そうだろ。チームに必要な投手が抜けるのは、どこの球団だって痛いだろ。なぁ。何で焦るんだ? 調子が悪いなら、少し期間を置くことだってできる」
「……そんなに待ってもらえるほど、俺は必要とされているのかな」
俺は薄く笑った。
「本当の意味で必要とされていたことなんて、あったかな。いや、必要とされようと頑張ったことなんてあったかな」
「珍しいな。お前がそんなこと言うなんて」
「弱音はあんまり言いたくない。誰かに助けられるのも、励まされるのも……好きじゃない。でもそれは、自分が恵まれた立場にいただけだったから。いざ、ぼろぼろ崩れて、自分がずっと一人だったことに気付くと……なんか、な。俺はそれほど、チームに愛されていたわけじゃないんだって」
キャプテンや、青西さん、村山さん、みんなチームやファンに愛されている。俺もひたむきに野球はやってきたけれど、チームのために頑張っていたとは言い難い。
だから、こんなにもあっさりと辞める決意をできるのかもしれないけれど。しかし、中嶋は首を横に振る。
「何言ってるんだ。お前は、今までチームの一勝のために必死に投げてきただろ」
「違う。俺は、自分を蔑ろにされたくなかったから必死だったと思う。周りがどうかなんて気にしたこともあんまりない」
「それは皆同じだ。誰だって、自分を蔑ろにされたくない。だから必死だよ。安藤は、強さを求めた。そしてそれは間違いなく、チームにとって必要な戦力だ」
「俺は兵器じゃない」
中嶋の指がぴくりと震えた。
「あぁ、分かってるよ」
「分かってない。誰も……兵器は使えなくなれば捨てられて、新しいものに変えられる。本当に必要なものは取り替えがきかないんだ。俺は、俺は……」
「安藤、落ち着け」
中嶋が腰を浮かし、俺に向かって手を伸ばす。そして肩をさする。これじゃあ、どっちが病人か分かりやしない。なぜ、そんなことを口走ったのか自分でも分からない。本当にどうかしている。
「中嶋。俺ずっと、大丈夫じゃないっていうのが怖かった。いや、今もだ。言えば、すぐに捨てられるだろうって。大丈夫じゃないって言って、周囲に信じて待ってもらえる勝ちが、俺にはない」
うな垂れながら、言葉を落とす。中嶋はしばらくすると肩から手を離し、「こりゃ重症だな」と呟いた。
「理由、聞いてもいいか? 引退する理由」
「簡単だよ。俺には、力がない」
「そんなことない」
中嶋は即答する。力強く、真っ直ぐな響きだ。けれど、俺はその言葉を飲み込むことはできない。
「いいや。本当に、そうなんだ。子どもの頃―小学生の時でもさ、憧れた選手の落ち目とか限界のラインとか、わりと分かるもんだったろ。あぁ、もう投げられないとか、打てないとか。大人になると、もっと鮮明に分かる。俺はこれ以上のいい投手にはなれない。以前のようなピッチングもできない。潮時だ。そう、思ったんだ」
「……本当に、そう思ってるのか? 高卒一年目からローテーションに入って、二桁勝利まで成し遂げた奴が」
「そんなの昔の話しだ。記録はいつか誰かが塗り替える。中嶋。俺さ、子どもの頃から、ある程度のことは器用にできた方なんだ。勉強とか、絵とか、野球以外のスポーツとか」
「だろうな。不器用で泣きむしって生い立ちじゃないのはたしかだ」
「でも、一番は続かない。あっという間に追い越される。今までは輪の中心でも、追い越されればあっさり輪の外に弾き出されて惨めに指をくわえて眺める羽目になる。そうならないためには、そこそこじゃ駄目なんだよ。圧倒的に強くなくちゃ駄目なんだよ。俺は一瞬、そうなれたような気がした。でも……幻だった」
「自分の勘違いだから、辞めるっていうのか」
「あぁ」
「後悔はしないか」
「どうかな。たぶん、しないだろ。辞めてしばらくしたら、分かる」
中嶋の唇の際が、さざ波のように揺れた。
彼のように野球をしたくても諦めざる終えなかった選手がいる中で、パフォーマンスが落ちて自分に自信を失くしただけで辞めようとする決意なんて、甘ったれもいいところかもしれない。
それでも、投げることに苦痛しか感じない。ネットやテレビでふと見かける自分の姿が無性に腹立たしくて、情けなくて、電源の線を引っこ抜くだけじゃ足りなくなって、自分自身を粉々にぶっ壊してやりたくなる。
―才能が、ない。
つい、そんなありきたりな台詞をぼやいてしまう。
「腑抜けた話しだよな。でも俺には、泥臭くしがみつく根性もない。駄目な奴だ。その程度の奴だ」
言葉を重ねて、俺は俺自身をさらに奈落の底に突き落とす。中嶋は、反応に困っていた。頷きかけて、それから頭を振った。
「引き際なんて、みんなそれぞれだ。何がよくて悪いかなんて誰にも決められない。それに……腹に積もった苦しみも、比べられるものでもないよ」
俺の心の内を見透かしたような言葉を並べる。いっそ、「俺の立場も考えてみろ」と怒鳴り散らしてくれた方がいいのに。
俺が諦める分の野球時間を、中嶋が諦めざる終えない分の野球時間に譲ることはできないだろうか。そうすれば、ほんの少しでも、自分の存在意義を見つけられるような気がするのに。
「……よかったのに」
「えっ」
「俺と、中嶋が逆だったら、よかったのにな」
「何を馬鹿なことを」
「俺がベッドで寝ていて、お前が見舞いに来る……それだったら、よかったのに」
嫌味じゃない。違うんだ。本当に、そう思ってるんだ。
「そうしたら、きっと……」
「駄目だ」
中嶋は語気を強め、きっぱり言う。「絶対に駄目だ」
「……悪い」
「そうじゃない。このベッドは俺の物だからだ。病室も、花瓶の花も。俺の人生の付属品だから、お前には譲れない。そういうことだ」
強がっているようではない。淡々と、事実を述べている。
俺は唇を噛みながら頷いた。
そういえば、最初にちゃんと喋った時以来、中嶋の口から弱音や泣き言を聞いたことはない。倒れてしばらくした後、病気のことを球団やチームメイトに直接説明しに来た時も、現役引退の花束を受け取った時も、ただ「そうなんだよ」と穏やかに笑っているだけだった。
「中嶋。やっぱり、お前はどこにいてもお前らしいな」
「安藤。お前はお前らしくないな。なんていうか……安藤の愚痴とか弱音を聞くのは新鮮だな。思うことはあっても、直接口に出したことなんてほとんどなかったろ」
責めるのではなく、労わるような優しい口ぶり。心の奥にしまっていた段ボールの蓋が勝手に開く。
「中学の時さ」
「ん?」
「野球部で、ベンチ入りできなかった同級生が三人いたんだ。普通に練習もしていて、普通に真面目な奴らだったと思うんだけど、ベンチには入れなかったんだ。その三人がロッカーの隅に集まって、楽しそうに愚痴を吐きまくってるのたまたま聞いてさ……なんか気持ち悪くなったんだ。こいつら、もう駄目だなって。沼みたいに、ずるずるハマっていくんだろうなって……俺は絶対、ああはならないって思ったんだ。傷を舐め合うくらいなら、一人になってもいいから練習し続けようって」
「立派な心掛けだな。大人でもなかなかできないぞ」
「いや、今ならあいつらの気持ちが分かるよ。どうしようも乗り越えられない壁の前に立たされたり、光の見えない底に落とされた時、自分を保つのは―すごく、しんどい」
その三人の横を通り過ぎる時、俺は絶対に視線を合わせなかった。でも、俺を見ていたのは知っていた。その時の目は、きっと今の俺と同じ目をしていただろう。
「そんなことがあったんだな」
「ん。まぁ、その三人は後で、キャプテンだった梅野にしめられていたけど」
「はは。目に浮かぶな」
「あいつは、そういうの絶対許せないタイプだから」
話し終えて、俺は結局何が言いたかったのだろうと自分に疑問を投げかける。
たぶん、言いたかったのは一番最後の部分だけ。すごく、しんどいということ。
中嶋もすぐに理解してくれたのか、「引退の話だが」と本題を口にする。
「お前がそれでいいと思うなら、俺は何も言わないよ」
「うん」
「お前のことだから、考えて考えて出した答えなんだろう」
「あぁ」
「だけど」
ここでいったん、言葉を区切る。
「俺、倒れて入院する前に、少年野球の試合を見に行ったんだ。高校時代の友人が、監督をしていてな」
なぜか、話が横に逸れ出した。でも、黙って耳を傾ける。
「その監督の息子もチームの選手なんだ。でも、なんていうか……いるだろ? 監督の子どもでも、一生懸命練習していても、レギュラーになれない子っていうのは」
まるでその子が近くにいて、はっきり耳に届かないように遠回しな言葉を選んで話す。分かるよ。そういう子、いるよな。俺は無言のまま頷いた。
「でもまぁ、素直で明るくて。率先して声を出していたよ。ひねくれたところもない」
「俺とは真逆だな」
皮肉めいた茶々を入れると、中嶋も笑いながら「そうだな」とさらっと同意した。
「でも、その子は、小学生最後のその試合で、野球を辞めるんだと。友人は……親は、何も言えなかった。努力しても実らないものはあると知っているから。親なら励ますべきなのかもしれない。頑張れと鼓舞するべきなのかもしれない。でも、少年はすぐ大人になる。誰かが言わなくても、いずれ自分で気付く。いや、もう気付いていたんだ。だから、言えなかった」
「そうか」
「試合は二点差で負けたまま、淡々と進んでいった。監督は、もう点がとれないと思ったらしい。今までレギュラーになれなかった子達を代打に出した。九回の裏、ツーアウト、ランナーなし。すると、何人目かの代打の子が一、二塁間のヒットで塁に出た。そして次の代打の子が、センター前ヒットで、走者は三塁、一塁……ここで、監督は自分の息子を打席に送り出した。でもそれは、決して前向きな気持ちで送り出したわけじゃない。もし、この大事な場面で、ヘマをするのがほかの子だったら、親から猛攻撃がくるだろう。だけど、自分の息子なら……そんな最低なことを考えて送り出したそうだ」
なんとなく想像はできる。野球少年は、当の本人よりも親の方が熱心だ。俺の両親は比較的自由にやらせてくれていた。けれどチームの中には、凡打の直後に観覧席にいる母親から怒鳴られる子もいれば、試合後に腕を強く引っ張られながらみんなの前で反省会をさせられている子もいた。
熱心が故に、批判の対象が子供ではなく監督になる親も大勢いた。中嶋の話のように。
二点差でツーアウト。土壇場の連続ヒットで、得点圏にランナー。もしここで長打が打てれば、ヒーローになれる。けれど、ヒーローになれない子の方が圧倒的に多い。レギュラーになれなかった子達なら、なおさら。失敗すれば、周囲は大きくため息をつく。子供の心に傷がつく。親は自分の子供を守るために、監督に詰め寄るだろう。どうして最後にうちの子を出したんだ、と。
「それで、どうなったと思う?」
中嶋は両目をくりくりさせながら尋ねてくる。俺は、さぁとでも言うように肩をすくめ、話の続きを促した。
「どうなったんだ」
「その子……監督の息子は、二球目のストレートに手を出した。打った瞬間の音で、分かったよ。球は引っ張られるようにスタンドに入った。ホームランだ。それも、さよなら逆転ホームラン。今までスタメンにも入れず、野球を辞めようとしている子が、最後の最後にチームを勝たせた」
「ドキュメンタリー番組にしたら、視聴率がとれそうだな」
また、皮肉を言う。中嶋はそれには答えず、穏やかな顔つきのまま静かに語る。
「俺は、あの試合を見て思ったよ。やっぱり、野球は絶対じゃないって。良くも、悪くも。あまり、決めつけてはいけない。野球は、何が起こるか分からない。だから傲慢になってはいけない。だけど、どんな結果が待っているかも分からない。だから、希望を捨ててはいけない」
「つまり、何が言いたい?」
「何も。ただ、それだけの話だ」
右の口角を上げる。同時に浮き上がるえくぼに、俺は目を細めた。
中嶋は、中嶋だ。マウンドじゃなくて、病室のベッドにいても。ユニフォームじゃなくて、入院着を着ていても、何も変わらない。
決して、自分の人生を他人にだぶらせようとしない。夢を託すなんて、おこがましさもない。
だから、今の話は、俺自身に何かあるのだろう。
そう、言いたいのだ。
わざと長めに息を吐く。
「俺には、分かるよ。引くべき時に引かないと、ずるずるなるだけだ。その少年のような奇跡は起こらない。俺には、きっと」
そう言いながら、窓の方を向く。中嶋も、同じ方向に顔を向ける。ぶわっと風が吹き込んできて、黄色いカーテンが揺れる。ぱたぱた、ぱたぱた。裾の裏がめくれては、隠れていた黒ずみが目に入る。
「引退試合だな」
唾液の粘り気が混ざった声で、中嶋が呟く。
「きっと、惜しみない拍手の中で去っていくんだろうな。でかい、花束をもらって」
「そんな都合よくいくか?」
「みんなきっと泣くさ」
「大袈裟だな」
「もちろん、ノーヒットノーランで、完封だろ?」
「無理だよ」
「できるさ。ていうか、しろ。そんな老いぼれた体じゃないんだし。達成して、引退するには惜しい選手だと世間に見せつけて、マウンドを下りるんだ……あぁ、そうだ。最後の最後に、ノーヒットノーランをしてお前がチームを勝たせるんだ。安藤の投球で、チームを勝ちに導くんだ。きっと、拍手喝采だ」
まるで今の要望をすでに達成したような輝きを目に映して、俺を見る。
「注文が多いな」
「続けろと言われるよりマシだろ」
「そうかもな」
奥歯で言葉を噛み締めながら笑う。ふつふつと、沸騰し始める胸の奥。
「中嶋」
「何だよ」
「俺も一つ、注文していいか」
「何」
「どうせ死ぬなら、俺の引退試合を最後まで見てからにしろよ」
「……なかなか値の高い注文だな」
「生きろと言われるよりマシだろ」
先ほどの中嶋と同じように言葉を返した。ふっーと鼻から抜ける空気とともに、中嶋は白い歯を見せた。
「……あぁ、そうする。たとえ片目しか開けられなくなっても、たとえ耳しか聞こえなくなっても。間に合わなかったら、何度でも蘇ってくるさ」
「何だそれ。さすがに、そんなことできるわけないだろ」
「精一杯、神様に土下座するよ。約束する。必ず、最後まで見届けるよ。お前の―人生を」
「どういう意味だよ、それ。ただの、引退試合だ」
中嶋は、淡く微笑んだ後に首を横に振った。そして、その問いに答えてくれた。
「―といっても、引退までまだ時間はある」
「あっという間さ」
立ち上がり、身体半分を扉に向ける。「また、来る」
「えっ」中嶋の睫毛が揺れる。「病院は嫌いじゃなかったのか」
「案外、そこまで気味悪くもないよ。それに、野球を辞めれば行きたくない理由もつけられないしな」
口の端を上げながら答える。なぜか中嶋は、怯えたように眉をひそめた。どうしたんだろうと思いつつ、これ以上の長居は良くないと思いシューズの先を真っ直ぐ出口に伸ばす。
扉の取っ手に指をかけ―、
「安藤」
中嶋が名前を呼ぶ。振り返ると、起こしていたはずの身体を寝かせて目を瞑っている。俺は途端に、顔が青ざめた。
「どうした。具合、悪いのか」
「ここにはもう、来るなよ」
「え。面会できないってことか」
「俺のことじゃない。お前のことだ。本当に引退するまで、ここには来るな」
「何で急に……」
「俺に会って、何を話しても、聞いても、たぶん、答えは見つからない」
「何の話をしているんだよ」
「俺は、元野球選手だから。お前とは違う。今のお前のことを分かってやれるのは、同じ時間を過ごして、同じマウンドに立ってプレーをする野球仲間だけだ。そいつらともっとよく話せ。だから、ここには来るな。お前が欲しがっている答えはもらえない」
目を閉じたまま、強く言葉を繰り返す。ここには来るな、と。
そうか。そういうことか。誰も、俺の決断を受け入れてくれない。中嶋でさえも。結局お前も、俺のことを理解してくれないんだな。今の苦しみを、分かった振りをして味方に見せかけて、結局は反対するんだな。あからさまな奴らよりも、よっぽど質が悪い。
「……分かったよ。二度と来ない。でも一つ言っておく」
「……」
「答えなら、もう出てる」
捨て台詞のように言い放って、今度こそ扉の取っ手に指をかけた。乱暴に開けて、乱暴に閉じた。訪れた時よりも、扉は重く感じた。
わざわざ苦手な病院にまで来たっていうのに。分かったよ。もうお前には会いに来ない。思い出すこともない。野球をやっていなければ所詮、俺達は赤の他人だ。
怒りなのか、虚しさなのか、寂しさなのか。とにかく、苛々してたまらない。必要以上に廊下の床を激しく踵で蹴りながら、一階まで駆け抜ける。
ロビーを突っ切って自動ドアを抜けた先の外の景色は、とても灰色だった。
中嶋にはこの日以来、本当に会わなかった。
思い出すことも、しなかった。
***
「おーい、安藤。何固まってんねん、おーい」
眼前で、梅野のでこぼこの手の平がぼやけている。
行かなくては。
今すぐ、中嶋のもとに行かなくては。あいつならきっと、俺が欲しがっている答えを知っている―。
「梅野」名前を呼びながら、俺はすでにスパイクを脱ぐ。
「おおっ、何やってんねん。今度はばたばたしよって」
「俺、今から病院に行ってくる」
「はぁ? どっか、体の調子悪いんか? あ、まさか、怪我でもしとるんか?」
「俺は大丈夫だ。中嶋に会いに行くんだ」
「中嶋……」
梅野が一瞬、呆気にとられる。しかしすぐに、強い力で押し返すように俺の肩を掴んだ。寄せる眉間から、どこからか噴き出た汗が垂れている。
「さっきも名前を呟いとったな。お前まさか、中嶋のこと聞いたんか?」
「聞いたって、何をだよ。俺はただ、話をしに行くだけで……」
「あっ、あかん。それは無理やで」
梅野の焦って裏返った声が通路に響く。試合中はポーカーフェイスを貫けるけれど、マウンドを離れると途端にぽんこつになる。
梅野は、何かを隠している。俺の肩を掴んでいる奴の手首を掴んだ。
「どうした。中嶋に、何かあったのか?」
「いや。何でもない……あいつのことが心配なんは分かる。せやけど、試合も大事や。お前の引退試合やぞ? 今から話しに行くなんて何考えてんねん」
「だから、中嶋がどうしたんだよ!」
普段出さない声を、張り上げる。おかげで、すぐに喉がひりひりしてきた。静まり返る空間。俺はもう一度、ゆっくり尋ねる。
「中嶋に、何かあったのか」
一文字に結ばれた梅野の口を、睨み続ける。固く、しっかり閉ざされている。しかしそのうち、細かく震え出した。そして、微かに開く唇のトンネルの向こうから、蚊の鳴くような声が聞こえる。
「安藤……こんなこと聞いたかて、お前にとっていいことなんて何もあらへん」
分かっている。梅野が、意地悪で教えてくれないわけじゃないことくらい。
「俺は大丈夫だ。だってそうだろ。一日を何度も繰り返す……これ以上の悪いことなんてそうそうないだろ?」
慣れない冗談に、きょとんとされる。「何やねん。お前が冗談言うとか。しかもこんな時に。卑怯やわ」梅野は文句を呟く。それから、大きく息を吐いた。
「実は、一昨日の夜に吾妻監督が中嶋に会いに行ったんや」
「監督が? 知らなかった」
「一時は面会謝絶になってたんやけど、急に面会自由の許可がおりたって。何やおかしいなって、監督は思ったらしい。ほんで、案の定、中嶋の奥さんにばったり会うて……」
「それで」
「もう、明日明後日が峠やろって医者に言われたって。だから、最後に誰でも自由に会えるようにしたって……実際見にいったら、目もうっすらしか開いてなくて、呼吸も浅くて……このことを知ってるのは、監督だけや。みんなを動揺させたらあかんと思って、口を結んどる。やけど、俺はたまたま監督と奥さんが電話してるのを昨日聞いてもうて……」
唾を飲み込む梅野の喉が、大きくうねる。
「たぶんやけど、中嶋はもしかしたら、今日―」
話し終える前に、俺の身体は勝手に走り出していた。
「ま、待てや!」
だからだ。
何度も、何度も、引退試合を繰り返す理由。
今日、中嶋は死ぬ。だけど、俺の試合を最後まで見届けようと踏ん張るから。会話の端で生まれた約束のために、神様にお願いして何度も蘇るから。
こんな話、冷静な頭なら信じられるわけがない。でも、信じるしかない。
「安藤! 戻ってこい! 試合はどうすんねん!」
「試合前には必ず戻る! みんなにはうまく言っておいてくれ!」
「あ、ちょ!」
梅野の声を背中に、俺は出口に向かって走った。
道の途中でタクシーを拾い、再びあの病院に向かう。
中嶋に、会うために。
「中嶋!」
病室に飛び込むと、真っ先に目に入ったのはベッドの傍に座っている夏帆さんだった。
「安藤さん。どうしてここに……」
ふらっと立ち上がって、ゆっくりこちらに近づいてくる。その顔は、すでに濡れている。たぶん寝不足で、とても疲れている。
それでも目の前の俺の存在に、瞬きが多い。おろおろ、動き回る。
「あの。今日は……今から試合なんじゃ……」
「はい。でも、試合前にどうしても来なくちゃいけなくて」
ベッドのすぐ横―中嶋の耳に張り付くように設置されたパソコンには、中継配信前の静止画が映っている。
「試合、つけてくれてるんですね」
「主人に言われていたんです。たとえ目が開かなくなっても、息があるうちは安藤さんの試合をつけておいてくれって。安藤さんと約束したから、と。けんかしてしまったから、あいつは覚えてないと思うけどって……」
夏帆さんが気まずそうに目を伏せるから、慌てた。
けんかじゃない。あれは、けんかなんかじゃないだろ。何言ってるんだよ。自分を落ち着けるように深く呼吸する。
「試合、分かるんですか」
「先生が、今は、耳だけは聞こえているからって……」
じっと、ベッドの上で眠っている中嶋を見つめる。
「あの。少しだけ中嶋と二人にさせてもらっても、いいですか」
「あ、あの、主人はもう……」
「知ってます。本当に、少しだけでいいんです」
「……はい」
夏帆さんは小さく頷き、そのままぱたぱたと病室を出ていく。二人きりの病室になると、あの日のことが蘇って、すぐさまセピア色に染まる。
一歩、一歩、一歩。少しずつ、近付く。さっきまで夏帆さんが座っていた椅子に腰をかける。ベッドの淵に横たわる中嶋の腕を取り、自分の手に重ねる。乾いているけれど、とても温かい。昼下がり、外で干している布団のように。太陽の光を明一杯含んで、香ばしく、優しく。
「当たり前だよな。生きてるもんな」
もうピクリとも動かない目を見ながら、話しかける。
「中嶋。今日の調子はどうだ」
見舞いに来た時にそう聞いたのは、お前の方だったな。思い返せば、俺から「調子どうだ?」なんて聞いたことは一度もなかったような気がする。いつも朗らかなお前は、毎日ずっと元気なんだと思っていたから。
だからこそ、癌だと聞かされた時のショックと動揺は半端なくて。飲み込まれまいと、必死に平静を装ってろくに言葉もかけられなかった。
「本当に、俺はつくづく嫌なチームメイトだな」
手の中の温もりを転がす。
「悪かったな。来るなって言われてたのに、来てしまって。約束、破ったな。破らない自信、あったのに」
すっ、すっ。浅すぎる胸の沈み。かちっ、かちっ。病室の時計の針の音が重なる。
「けんかとか言うなよ。夏帆さん、心配するだろ。けんかだったら、俺の試合なんて見ないだろ」
すっ、すっ、すっ。かちっ、かちっ、かちっ。
「俺もけんかなんて思ってないから。だから、もう一つの約束はちゃんと守るぞ。お前が生きている間に、必ず試合を勝って終わらせる。ノーヒットノーランをして、俺がチームを勝たせる。拍手喝采を浴びる。それが、お前の注文だったもんな。俺、頑張るよ。だから、あと一回だけ、あと少しだけ、お前も頑張ってくれ」
中嶋の力のない指をなるべく優しく折り曲げて拳をつくる。そして、自分の拳とこつんと合わせた。
これが最後だ。お前との、試合開始の合図だぞ。
病室を出ると、夏帆さんは壁にもたれかかりながら廊下の窓を見つめていた。ひどく呆然としていて、「あの」と声を掛けるまで俺が出てきたことに気付かなかった。
「すみません。少し、ぼっとしていて」
「いえ。こちらこそ……大変な時に、ありがとうございました」
「……主人、何か言っていましたか?」
ほんのわずかな笑みを浮かべながら、優しい声で尋ねる。その丸い瞳に溜まっている涙が零れないようにこらえながら。
分かっているはずだ。中嶋にはもう、言葉を話せる気力はない。それでも、聞きたいのだ。すがりたいのだ。期待したいのだ。
どう答えることが正解か分からない。だから俺は、今の俺に中嶋が言ってほしい言葉を答えにした。
「大丈夫だ、と」
夏帆さんはじっと俺を見つめる。それから、言葉を飲み込むように深く頷いた。頷きと同時に必死に我慢していた涙が瞳から溢れ出す。
最後に深く頭を下げて、走ってその場を離れる。真っ直ぐロビーを抜けようとして、中央の大きなテレビに足が止まった。
今日対戦するチームの先発ピッチャー、越野さんがインタビューを受けている。過去に二度の沢村賞、二度の五冠王に輝いた生きたレジェンド。投手の手本となる投手。関わりは少ないが、一度だけ一緒に自主トレをしたことがある。
「越野選手、今シーズンはすでに十五連勝中ですね! 今日の試合で対戦する先発ピッチャーは、かつて自主トレも一緒に行ったことがある安藤選手ということですが。残念ながら、安藤選手にとっては引退試合……いろいろと複雑な気持ちはあると思いますが、勝つ自信はありますか?」
意気揚々とマイクを伸ばすインタビュアー。いつの間に、こんなことをやっていたんだろう。俺がらしくない行動をし過ぎて一日の出来事が変わっているせい―いや、違う。単に俺が気付いていなかっただけか。
一見平凡な質問に、なぜか越野さんはあからさまに顔をしかめた。
「……これ、毎回同じこと聞かれるんですか」
「え?」
「もう同じこと聞かれるの嫌なんで、先に断言しておきます。俺には、試合に勝てる自信なんてないです。いつも、どんな試合でも。俺だけじゃない。他のどんな選手だって、身体も心も万全にして試合に臨めることなんて少ないでしょう。だけど、それでもやるのがプロなんです。無理をしなくていい野球人生なんてありません。自信がなくても、格好悪くても、苦しくても、マウンドに上がって自分の仕事をこなすことがプロ野球選手で、そしてエースです。ただ速い球や良い球を放るのは誰だってできる。それができなくなって自信を失くしたら終わりだなんて、おかしいでしょ」
「えっ、えぇ……」
インタビュアーはずいぶん、困っている。そりゃそうだ。想像していた答えとは違う。無理もない。越野さんは質問に答えたわけじゃない。たぶん。たぶんだけど。俺に向かって、言っている。
大丈夫だよ、越野さん。言われなくても、ちゃんとマウンドに上がるって。訳が分からない一日に何度も振り回されて、今日は慣れない人達と喋りっぱなしで、中嶋のあんな姿見て、気持ちはぐちゃぐちゃだ。
だけど、マウンドに立つよ。俺はまだ、プロ野球選手だから。
病院を飛び出す。そして、球場に向かって走った。