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くり返される朝

 布団を蹴り上げて、起き上がる。それから、枕の下敷きになっているスマホを引っ張り出して、画面を覗き込む。


 【九月九日(水)四時四十四分】


 まただ。

 また、繰り返している。同じ日を。

 小さく息を吐きながら、ベッドから足を下す。もう何度目の “この日の朝” なんだろうか。

 引退宣言をして、球団が受理して、書類にサインして、あちこちに挨拶したり話を聞かれたり答えたりしているうちに、引退試合の日はあっという間にやって来た。驚くほど、早かった。

 しかし、引退が遠い。

 なぜか俺は、この引退試合の日―九月九日を何度もやりお直している。いわゆる、 “タイムリープ” という現象だと推測している。馬鹿げているだろう。いや、馬鹿げているからこそ、この推測に行きつくまでにかなり時間を要した。そんなことは創造する世界の物語だけにあって、現実に起こることは絶対にありえない。だけど俺は科学者じゃない。ありえないことも、時々起きてしまうものなのかもしれないと思うしかない。否定するよりも受け入れる方が幾分気持ちは楽だ。

 それでも、毎度驚くことにも飽き飽きしてきた。だから、さも何気ない日常の明け方のように、トイレに行き、顔を洗い、水を飲む。

 さて。お次は反省会だ。昨日の試合は “何が駄目” だったのか冷静に振り返る。枕の下からシステム手帳を引っ張り出し、タイムリープするまでの試合内容をメモする。

「昨日は、えっと……」

 対戦相手は今シーズン序盤からリーグ一位のレイアンズ。俺は先発で、ホームゲームだから守りが先。ここまでは毎回決まっていることだ。

 問題は、俺の投球とタイムリープする瞬間が毎回違うことだ。昨日は、三回の表ツーアウトの……二球目のカーブをセンター前にヒットを打たれた瞬間に意識を失って時間が戻ったんだな。

 小さく息を吐きながら、前のページをめくる。このメモは、三度目のタイムリープをした時からしている。普通の選手でも投球後や打席後にメモをつけている人はいるが、俺は今の今までだってしたことはない。それでも、この不可思議な現象を止めるためのヒントを得るために思いついた苦肉の策だ。

 そしてメモをつけ始めてから、ある仮説を立ててみた。

 おそらく、タイムリープの原因は引退試合の内容だと。試合中の “何か” が引っかかっている状態で、一向に一日を終わらせてくれない。俺が、実は魔法使いとかじゃない限りの話だが。

 七度目……一回の表、相手・一番打者の一打席目からレフト方向にホームランを打たれて戻る。

 八度目……五回の表、ピッチャー返しの捕球が間に合わなくてセンター前に転がっていったところで戻る。

 戻るタイミングは全てばらばらだ。

 今までの試合で、あらゆる投球を試してみた。と言っても、毎回思い通りに投げられるわけではないし、そんな器用なことができるのなら引退など考えない。

 ホームランが駄目なのか。いや、ホームランを打たれなかった試合だってあった。

 五回降板が許されないのだろうか。それは監督の意向だし、引退する分際で完封はさせてもらえないだろう。何より、五回のマウンドに上がる前に時間が戻ったことは何回もあった。

 何が納得いかないのだろう。引退する人間には、かなりハードな課題だ。答えは単純には見つからない。

 ただ勝つか負けるか。それだけではないらしい。

 手帳のページの枚数を数えて、今回が十三度目のタイムリープだと改めて知る。いい加減、一人で考えるには限界があるような気がしてきた。元々、自分のことを他人に相談するようなタイプではないけれど、これは例外だ。しかし、こんな話を誰が信じてくれるのだろうと思うと考えると、安易に話すのもためらわれる。

 俺はただ、引退したいだけなのに。

 ベッドの上で仰向けになり、しばらく天井を見つめる。それから目を閉じて、壁時計の針が働く音に耳を傾ける。

 再び目を開けると、時計の針はすでに朝の五時を指していた。タイムリープをさせるくせに、それまでの時間は容赦なく進む。しっかり考えさせてくれる余裕もない。

 そろそろ、覚悟を決めるか……。

 俺はポケットからスマホを取り出した。そして、一人の男に電話をかけた。

「もしもし。俺。安藤だけど……うん。今から、家に来てくれないか」


                   ***


「お前、今朝の何時やと思ってんねん」

 電話で呼びつけた相手―チームメイトの梅野 良悟の両目は、ほとんど開いていない。そんな状態でどうやって車を運転できたのだろうと疑問に思ったが、電話をかけた張本人である俺が言うと殴られそうなのでやめておく。

 白のTシャツにグレーのジャージを羽織り、右手にはスマホ、左手に水入りペットボトルを持ってやって来た。急いで出てきてくれたのだろう。

「梅野、悪いな」

「……ほんまはそんなこと、かけらも思ってへんやろ」

 欠伸をする口に手を当てながら、さっそく毒を吐く。しかし朝は声が出ないのか、しわがれている。

「ほんで、人を朝の五時に呼び出してなんやねん」

「お前に話があるから」

「俺に?」ようやく右目の瞼が上がって、中に潜んでいる黒い瞳がぎょろりと動いた。引退の話すらされんかった俺に話って何やねん」

 あからさまに、棘のある言い方だった。しかも、冗談でなく本気で。

 引退の決断は、自分から直接チームメイトに告げなかった。相談もしなかった。なぜかと聞かれれば、昔からそうだったからとしか言いようがない。自分のことは、いつも自分だけで決めてきた。

 でも、この梅野はそれがものすごく不満だったらしく、しばらくは口も利いてくれなかった。

 梅野に言えなかったのは、他のみんなに言わなかった理由とは少し違って複雑なものだ。彼が昨年の秋に異例のトレードで他チームから移籍してきたばかりのキャッチャーで、プロの世界でバッテリーを組んだのは数回しかない間柄だから……というわけでは決してない。むしろ、俺と梅野の関係は非常に根深いものだ。そうでなければ、こんな失礼な時間に呼び出したりしない。

「とにかく、座ってくれ」

「それより、横になって寝たいわ」

 まだぶつぶつ言いながら、部屋の中央のソファにどかっと腰を下ろす。俺はその向かいの小さめの椅子に座る。

 来てくれてよかった。本当に。半分寝ぼけているせいで、頭が正常に働いていないせいかもしれないけれど。

「ほんで、何やねん。話って」

「梅野。驚くなよ。そして、信じてくれよ」

「だから、何がやねん」

「頼むから、信じるって約束してくれ」

「分かった、分かったから」

 やり取りが面倒くさいのだろう。降参、とでもいうようにあっさり両手を挙げた。「さっさと言えや」

 ごくり、口の中に溜まっている唾液を飲み込む。静まり返っている部屋ではその音すらもよく聞こえる。梅野の目の下の涙袋に視線を集中させて、ゆっくり唇を動かした。

「俺……タイムリープしているんだ」

 我ながら間抜けな話の切り口だと思う。だが、これ以外に思いつかない。梅野の黒目がぴたりと止まる。それから数十秒間、空中を当てもなく旅する。

「えっと……何やて」

「だから、タイムリープしているんだ。今日は九月九日だろ? 俺は、この日を何度もやり直しているんだ」

「あー、何やお前。最近そんな映画にハマってるんか? いや、つーかどうでもいい話や。お前の趣味なんて興味ないわ」

 案の定、すんなり信じてはもらえない。それでも、信じてもらはなくては困る。今ここで梅野を逃したら後悔する。

「梅野、よく聞いてくれ」俺はわらにもすがる思いで、実際梅野の膝に手を掛けてすがった。

「わっ、何やねん! きっしょっい! 離せっ……」

「頼むからちゃんと聞いてくれ。冗談だと思うかもしれないが、本当の話なんだ。ずっと、一日を繰り返しているんだ。今日、この日を、何度も……」

「そやな、そやな。ええな、タイムリープ。俺もしてみたいわ。やから、離れろ」

「梅野!」

 俺はたまらず立ち上がって大声を上げた。それから、小さな子供のように地団駄を踏んだ。驚いて見上げている梅野の顔は、もう寝ぼけていない。

「なっ、何やねん! お前、自分で今日が何の日か分かってるんか? しょーもない冗談言うとる場合じゃないやろ!」

「今日が何の日かは、嫌というほど知ってる! 俺の引退試合だ! ようやく、引退できる……なのに、もう十回以上、繰り返してきた! 俺は、永遠に引退できない……」

 今度は涙が出てきそうになった。右手で両目を覆って、俯く。もっと、落ち着いて話をするつもりだったのに。いざ誰かに―梅野に話したら、一人で抱えていた行き場のない混乱している気持ちが溢れてしまった。

「安藤。お前、ほんま大丈夫か? 一体どうしたんや」

 さすがに心配になったのか、梅野も立ち上がった。そして、俺の両肩に手を置いて軽く揺さぶる。手の指の隙間から、梅野の右手をちらりと見た。人さし指の第一関節に絆創膏が巻かれている。

「その絆創膏……」

「ん? あぁ、大したことない。これは―」

「昨日の夜、紙で切ったんだろ」

 梅野の呼吸が、消えた。顔から手をどけて確認すると、本当に一時停止しているみたいだ。

「何で、お前……」

 怯えたように、俺の肩から手を離す。そして、一、二歩後ろに下がった。

「昨日の今日のアップ中に言ってたぞ。その指どうした? って聞いたら、紙で切っただけだって」

「昨日の今日って……どういう意味やねん」

「俺は、今日を何度も繰り返している。昨日は今日だ。まぁでも、お前にとってはただの昨日か……」

 説明が難しい。梅野も混乱が続いている。

「はぁ? つーか、昨日は休みやったやん。お前にも会ってへん。なのに、何で紙で切ったなんて知っとんねん」

「だから、言ってるだろ。俺は、何度も今日を―九月九日を繰り返しているって。他にも、昨日の休みの日にしていたことを知っている。久々にバッティングセンターに行って、たまたま遊びに来ていた大学生に見つかってサインを求められたこと、実家から大量のみかんが届いて処分に困っていること、自分で造った本棚が崩れて、今も床には本が散らばっていること……今日のお前が、チームメイトや俺に話していた」

 覚えていることを、なるべく詳細に話した。梅野は口をあんぐり開けて呆然としている。どうやら、思い当たる節しかないようだ。そりゃそうだ。本人が言っていたことを、そのまま教えているだけなのだから。

「えっと……待てよ。あ、分かった。誰かに聞いたんやな? それとも、俺の後をずっと付けてたんか?」

「まさか。ちゃんと、お前から聞いたことだよ」

 首をこきこき動かすのと同時に、眼球も右にいったり左にいったり忙しい。でも、必死に状況を理解しようとしている証拠だ。

 俺はもう、口を挟まない。梅野は、考えている最中に横から茶々を入れられるのが大嫌いだ。

 数分後、自分で二回頷いて一息吐いた。

「お前……じゃあ、ほんまに?」

 ようやく、話を受け止めてくれる気になったらしい。改めての確認の問いに、俺はしっかり頷いた。

「あぁ。本当だよ」

「そんな……こんなんまるで映画やん。あれや。時をかけるおっさんやんけ」

「おっさんは言い過ぎじゃないか?」

「いや自分、けっこう老けたで。若い頃よりもハリもないし、目も死んどるし……」

「分かった、分かった。それでいいよ。それで、どうすればこのタイムリープを止められると思う?」

「は? 俺に聞くんか?」

「そのために呼んだんだ」

「ほあー」変な高い声を出しながら、天井を仰いだ。「お前のことずっと宇宙人やってメディアで言ってきたけど、ほんまにそうやったんやな」

「俺のことは何て言ったっていい。とにかく、はやく時を進めたいんだ。どうする?」

「いやいや。どうするって言われても。何で俺やねん。いや、こんな話、誰に言うてもみんなポカーンとなるやろうけど」

「こんなこと話せるのは、梅野しか思いつかなかった」

「今更ご機嫌取りしても遅いで。むしろ、こんな訳分からん話に付き合わされて大迷惑や」

「悪いと思ってる。でも、俺一人じゃあ、どうしようもないんだ」

「俺やって分からへんよ」

「分かってる。でも」

 梅野は困り果てた顔で頭をかく。それから目を閉じて、軽く唇を噛む。いつも、サインを考えるときの顔だ。朝の五時に呼び出され、タイムリープなんて冗談のような話を聞かされ、さんざん悪態をついて。

 それでも、こいつは考えてくれる。

 いっけん、粗暴で自己中心的な態度に見えるが、梅野は俺が今まで組んだキャッチャーの中で一番思慮深い選手だと思っている。相手打者の入念なリサーチ、対策にも余念がない。梅野は真面目で努力家だ。そのうえ、カメレオンだ。どんな投手と組んでも、その色に染まれる。

 ただ俺は、そういう評価を梅野に直接言ったことはない。言えば、あいつは必ずしかめっ面をするだろう。俺も、易々と口にするのも、誰かに聞かれて簡単にそう答えるのも、違う気がする。

 たぶん、お互いに分かっている。

 だから、いい。

 そういうスタンスでいる。

 すると、

「やっぱ、幼馴染みだから、以心伝心ってやつなのかもな」

 いつだったか、チームの誰かに羨まし気に言われた。

 俺と梅野は、小三の時から高校三年生までずっとバッテリーを組んできた。共にプロの志望届を出して、球団は違ったけれど、プロ野球選手になれた。同じ高校から、同じ年に、プロが二人。地元は初の快挙だと盛り上がった。帰省するたびに、ヒーロー扱いされる。

 今となっては、ずいぶん差がついてしまった。引退する身の俺と違い、梅野は今や日本球界の名捕手で、次のプレミアム大会の日本の代表候補者だ。

 しかし、そんなすごい奴の突然のトレードには世間もざわついた。うちのチームの若い内野手とのトレードだが、梅野ほどの実績もネームバリューもない。しかし、梅野は前々からトレードされることには薄々気付いてたようで、「いろいろあんねん。野球選手やって、普通のサラリーマンと変わらんねん」と、淡々と事実を消化している。

 それでも、うちの球団に来てくれたことはありがたかった。チーム内で経験のある捕手達は病気で引退したり、怪我で長期離脱していたりと困っていた。梅野は入団後即、正捕手として一軍の試合に出ている。事前に調べていたのか、投手全員の得意球や癖、性格や好きな食べ物、趣味まで把握していた。若い捕手達からも頼りにされて、すっかり兄貴風を吹かしている。

 端から見ていればとても充実しているように見える。しかし、本音は少し違うらしい。

「梅野はな、お前とバッテリーを組めるのを一番楽しみにしてたんやって。お前の球を受けたくて、仕方がないんだと」

 キャプテンからそう聞いた。

 梅野も結局、直に俺にそんなことは言わない。今までだってそうだ。俺と少し違うのは、いつも何かを通して伝えてくるということ。直接は恥ずかしがるくせに、俺がいないところでは恥ずかしがらずに言える。

 だからこそ、梅野が一番にためらわれたのかもしれない。引退すると決めた時、梅野だけにはなるべく遅く耳にしてほしかった。少しでも、彼の心の中では長く「最高のピッチャー」でいたかった。

 しかしそのくせ、こんな時に頼りにしたくなるのが梅野しかいないのだから矛盾している。

 梅野が唇を噛んでいる間、再び時計の針の音が異様に響く時間が続く。どれほど経っただろう。カーテンの隙間から朝日が差し込み、床を白く照らし始める。

「……ええわ」

 梅野は観念したように頭を振った。それから、右手の平を俺の方に向ける。

「今までのこと、全部話せや」

「じゃあ、信じてくれるんだな」

「ちゃうわ。このまま話しとっても埒があかんからや」勘違いするなと念を押しつつ、身体を屈めて俺の口元に自分の耳を近付ける。

「ええか。ちゃんと話せよ。起きた事柄、状況、行動、そこから推測できるお前の考え……一つも漏らさず、正確にな」

 外から、バイクが走り出すエンジン音が聞こえた。

 どうやら俺は、大事な協力者を手に入れることができたらしい。



「―安藤、笑うなよ」

 梅野が頬を引きつらせながら、俺の寝室から出てきた。俺が今まであったことを最初から全て話し終えた後で、梅野は「一人で考えたい」と部屋にこもったのだ。かれこれ一時間は経ちそうで、俺はドアの前でずっと右往左往していたところだ。

「どうした。変な顔してるぞ」

「うるっさいねん。そんな顔にもなるわ」

「何か分かったのか」

「いや……タイムリープの解決方法を考えるとかがすでにあほらしいねん。ほんで、今から話すことも、なんやおかしいっちゅうか……」

「何だっていいよ。俺は困ってるんだ」

 二人でリビングのソファに座り直す。梅野が自分で持ってきたペットボトルの水がなくなったので、冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに注いで渡した。

 梅野はひと口飲んで、乾いた喉と唇を潤す。

「ええか。ちゃんと聞けよ」

「あぁ」

「なんちゅうか……あー、ほんまあほらしいわ」

「何だよ。案があるならはやく言ってくれよ」

「ほんま笑うなよ……」顔をしかめながらしつこいくらいに念を押す。「例えばやけど、今日を何回も繰り返す原因が、お前自身とは限らへん……ってことはないやろか」

「どういう意味だ?」

「引退試合を終われへんのは、自分以外の誰かのせいかもしれへんって可能性や」

「それなら……何で俺がやり直しているんだ?」

「やから、お前の引退に納得してへん奴がおるとか。そいつが、なんかこう……終わらんように何かしとるとか」

「何かって、何だよ」

「そんなん分かるわけないやろっ。あれちゃう? 怪しい儀式でもして、お前のこと呪ってるとちゃうんか? いや、そんな幼稚なこと信じられへんけどな。とにかく、あくまで推測やで。お前の引退を拒んでる奴の仕業ちゃうんかなっていうのは」

 梅野は自分の見解を述べた後すぐに、「言っとくけど、俺は違うからな」と付け足した。

「辞める気満々のやつの投げる球なんて、駄々こねて引き延ばしてミットで受け取っても、なんもおもろないからな」

「あぁ、分かってるよ。でも、いったい誰が俺の引退に納得していないっていうんだ?」

「可能性やで。本当はやっぱ、お前自身に問題ありありなんかもしれへんしな。試合終わったらその場で死ぬとか」

「縁起でもないこと言うなよ」

「いや、案外その方が、その後の自分の人生にはありがたい話かもしれへんで。俺、お世辞にも安藤が野球以外の向いてる仕事をしとる姿なんて思いつかへんもん」

 肩をすくめながら、コップの水も飲み干す。冗談でもなさそうな口振に、おれも「そうかもな」と答える。

 五歳の頃から、ずっと野球をやってきた。生活の時間の全てを、野球のために使ってきた。そこから脱皮して、どこに羽ばたくのか。いや、羽ばたけるのだろうか。正直、自信はない。

「ほんで、心当たりないか? 引退に納得してへん奴。めっちゃ反対したとか、ぐちぐち言われたとか」

 顎に手を当てて考える。

 球団の上級職員に説得こそされたものの、あれは彼らにとって仕事であって個人的な感情は入っていなかった。

「さぁ……あんまりよく分からない」

「チームメイトとか、監督とか、他の球団の知り合いとか、家族とか……いろいろおるやろ? 自分に関わってる人間は。よう考えてみ」

 促されて、仕方なくもう一度考える。しかし、俺の頭には誰の顔も思い浮かばない。自分の引退について深く話し合った相手がいないせいかもしれない。

「梅野、悪い。本当に思いつかない」

「あぁもう!」梅野が自分の髪を荒らす。「人見知りやとかいうて、普段からみんなとコミュニケーションとらへんから、こういう時に困んねんで? いや、こんなタイムリープなんて滅多にあることちゃうけど!」

 早口の羅列文字の後に、一度息継ぎをする。それからぐるりと俺の部屋を見渡す。「この部屋がいい証拠や。見てみぃ。自分と野球のこと以外何も興味ない」

 俺からすれば十分散らかっているように見えても、他人から見ればかなり簡素な部屋らしい。大きめのベッドと、スマホや音楽機器のケーブルが置かれた丸テーブル、野球雑誌や栄養管理などの本が詰まれた棚、ネットで買った服が数着かかったクローゼット……俺にはこれ以上はとくに望むものがない。「高級マンションの十二階の無駄遣いやな」と、舌打ちされる。梅野は、中心街から離れた別のマンションに住んでいる。物が多くて狭いとぶつぶつ言っている声を聞いたことがある。

「安藤には人間味が足りへん」

「……入団時よりは、喋れるようになったと思うけど」

「どこが? お前、全然やで? 俺、チームに入ったばっかりやけど分かるで。特に、後輩なんか怖がってるやん」

 俺は否定しない。梅野がそう言うのなら、そうなのだろう。

 少年野球時代も、学校の野球部にいた時も、梅野にはキャプテン経験がある。俺に対して口は悪いが、他の人間に対してはわりと物腰が柔らかい。もちろん厳しく注意する時ははっきり言うが、それも筋の通った理論だからみんな納得する。周囲のこともよく見ているし、距離の詰め方もさり気なく上手い。今だって、九年間共にプレーしてきた俺よりも、あっさりチームのみんなと打ち解け合っている。

「年齢やプロ歴的にも俺らは中堅や。今更言うのもあれやけど、もっと後輩の面倒見なあかんやろ」

「俺には無理だ」

「天才は往々にして孤高やとは言うけどな、お前は天才でも何でもない。二軍落ちのピッチャーやで。駄々をこねんな」

「そこまでズバズバ言われると、逆にすっきりするよ。でもどれだけ悪口叩かれたって、出てこないものは出てこないんだ」

「ほんま、最後まで面倒なやっちゃなー!」

 窓辺のカーテンからさらに強く差し込む白い光をバックに、梅野が叫ぶ。「今から俺が考えるから、待っとれ! つーか、朝飯でも用意しとけや!」

 俺は小さく頷いて了解する。キッチンに移動して、冷蔵庫を開けた。中身は、昨日とまったく一緒。だから、俺が昨日食べた朝食をそのまま二人分用意する。

 料理は割と好きな方だ。プロになって自分で体重や栄養管理をし始めてからはずっと作っている。「誰かの手作りもいいもんだぞ」と、暗に結婚を勧められた時期もあった。たしか、入団して三年目くらいの頃から、先輩達や球団スタッフに女性がいる店や会合を紹介されたりしたっけ。頑なに断わり続けて、そのうち諦められた。ネットや週刊誌では今でも、たった一度インタビューを受けただけのアナウンサーやタレントと熱愛記事を捏造されるけど。

 正直、ある程度のことを自分でこなせていると必要性を感じない。一人が気楽であればあるほど、誰かと一緒に住むなんて想像できない。

 俺がフライパンを動かしている間、後ろの方ではボールペンが走る音と唸り声が交互に聞こえた。BGM代わりにして、淡々と作る。

 昨日よりも綺麗に出来上がった。盛り付けた皿をテーブルに乗せると、梅野は何も言わず引っ張ってフォークでオムレツを刺した。俺も自分の分の皿を持って、梅野の前に腰掛ける。

「どうだ。何か分かったか?」

「まぁ……この人ら、ちゃうんかな」

 フォークから半熟の卵をぼたぼたこぼしながら、ノートの一枚を破った紙を見せる。そこには、俺がタイムリープする原因をつくっているかもしれない容疑者? 達二人の名前が記されている。俺は一目見て、すぐさま首を横に振った。

「いや……これはないだろ。ありえない」

「タイムリープなんてしとるとかふざけたことぬかす人間が、ありえへんとか言うな。ムカつくわ」

「そうだけど、でも」

 紙に記されているのは、「犬神 誠二」と「越川 登」の二人の名前。犬神さんは俺の六年先輩の三十四歳。そして、もう一人は高校時代の野球部の越川監督だ。

「何で……何で犬神さんなんだ? 接点なんてほとんどない。俺が一軍に入った時には、腰の怪我で二軍にいた。ここ数年は一軍にいるけど、起用はすべて代打だ。マウンドでも、ダッグアウトでも会話することなんてほとんどない……犬神さんが、俺の引退にとやかく言うわけない」

「何や。やっぱ知らへんのやな」

「何が」

「犬神さんが、お前のことを許さないって言っとるって」

「俺、あの人に何かしたか」

「お前は何もしてへんつもりでも、周りは怒ってることいっぱいあんねん。犬神さんだけやなくても」

 心当たりがない―わけでもないから、それに対しては反論しない。子供の時から、無意識に他人の怒りを買うのは得意だったから。

 俺はもう一人の人物の名前を指さす。

「越川監督は何でだよ。高校の部活の監督だ。今の俺にはあまり関係ない」

「それはまぁ……」珍しく口ごもったかと思えば、「ていうか、何やねん。俺に考えさせといて文句ばっかりやんけ」と逆切れされる。

 まずい。梅野のもともと細い目がさらに細くなっている。

「悪かったよ。それで、俺はこの二人と会って……どうすればいいんだ」

「そんなん俺に分かるかい! 俺はどっかの博士ちゃうんやぞ。でもまぁ、なんかとりあえず、話したらええんちゃう? このあほみたいな現象を止めるヒントでも見つかるかもしれへん。もし納得していないようなら、納得させるとかすればええのかもしれへんし」

「でも、話すって……何をだ?」

「お前は一から十まで教えななんもできんのか。ほんまに野球バカやな。何でもええねん。少なからず、お前のことを頭の隅でも考えとる二人や。話してるうちに、なんかポロっと言うかもしれへん」

「でも俺ほんと、犬神さんとはあんまり話したことない……他の人もそうだけど。向こうから、ナイスとか言われて、うっすって答えるくらいで……」

「はぁ?」

「越川監督なんかは、高校卒業以来ずっと会ってないし……何より、俺のこと嫌ってるだろ。だから……無理だ」

「無理だも何もあらへん。もしタイムリープが本当の話で、今日もあかんかったら、また振り出しにもどる。ほんで自分は、俺にもう一回説明をせなならんくなる。ほんで、ほんで、俺はそれを信じて手伝うとはかぎらへん。今もちゃんと信じてへんけど」

 とんとんっと、人さし指の爪でテーブルを叩いて急かされる。確かに、梅野が何度も聞き入れてくれるとは限らない。

 つまり、チャンスは今日しかない。俺は、試合に臨む以上に腹をくくるしかないらしい。

「梅野の言う通りだな。ところで、越川監督にはどうやって会えばいいんだ?」

「それは俺に任せとき。今日の全体練習が終わる頃には会えるようにしたるさかい」

 梅野を疑うわけではないけれど、妙な自信に溢れているのがとても気がかりで、少し不安にも感じる。

「何かあるのか……? 監督と」

「ごちゃごちゃ細かいこと気にするやっちゃなあ。お前が一番気にせなあかんこととちゃうやろっ」

 いつの間にか食いつくされて、まっさらになった皿を突き出される。目を伏せてしばらくの間考える。

 今日という時間は短い。試合はすぐに始まる。梅野の言うとおり、大元の問題以外をいちいち気にする暇はない。

「仕方ないな」

 大きく息を吐き、皿をつまんで引っ張った。




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