夢
野球には、夢がある。
とある映画か本か―細かいことは忘れたけれど、とにかく何かでそんな台詞を聞いたことがある。「夢」と書いて、「ロマン」と呼んでいたかもしれない。
俺もよく、野球の夢を見る。一種の職業病かもしれないが、プロ野球選手なら誰でもあることだろう。明日良いピッチングができる、明日試合に勝てる、そうだそうだ俺はできる奴だ。そんなイメージトレーニングの延長戦の夢。実際、そんな夢を見た日の試合は上出来だった。
しかし、ある日から恐ろしい夢ばかり見るようになった。
ホームランをいやというほど打たれまくる夢。
一つもアウトがとれない夢。
チームメイトからも、ファンからも、見放される夢。
夢から覚めた自分は、まさにその通り。
マウンドに上がりたいという欲求よりも、上がるほかないという義務感の方が日々増していく。
苦しくてたまらない毎日。
仕事には嫌なことがつきものだが、これは俺が選んだ仕事だ。ずっとそうなりたくて、叶えた目標だ。
それなのに。なのに。
いつから俺は、野球をすることについてこんなにつらく思うようになったんだろう。
***
「引退します」
リーグ戦を四分の一ほど終えた六月、球団のオーナーとジェネラルマネージャーに現役引退を申し出た。
本当は、もっとはやく言えばよかったのかもしれない。シーズン前とか、オフシーズンとか。決断して、それを自分の身体に理解させてからにしようと引っ張っていたら、なんとも中途半端な時期になってしまった。
それでも、オープン戦最下位や、開幕三連戦全敗中は避けるくらい、空気は読んだつもりだ。
「引退させてください」
「どうして急に……」
二人は不思議そうに顔を見合わせる。嘘くさい演技だ。思い当たる節はあるくせに、それでも実際口にしようとはしない。喉の奥で猫が威嚇するような声を鳴らし、ようやく次の言葉を絞り出す。
「まだ……はやすぎるだろ?」
当然、予想していた。反対する理由としては、一番大きいかもしれない。二十七歳で、現役引退。四十歳を過ぎるまで現役を続ける選手も当たり前のようにいる中で、この決断は早計だと思われても仕方ない。
それでも、年齢と能力は決して比例しない。選手としての衰えを、数字では測ることができない。
「君はいなくてはならない存在だ」
「チームの勝利に必要だ」
「若手の手本に」
書店の自己啓発本が詰められた棚ばりに、励ましの言葉を順に並べられる。まったく心が浮つかなかったといえば、嘘になる。でもいつか、それら言葉自体が噓のように消えてしまう。
だんだんと、前向きな言葉が虚しく聞こえてくる。周囲の「そんなことない」と、自分の「そんなことある」の差がいつまで経っても埋められない。
それはきっと、自分で分かっているからだ。
俺はいつか、消える。
俺はいつか、捨てられる。
お前なんかいらないよと言われ、誰にも気に留められなくなって、消える。たなびく雲が薄くなって空に混じって溶けるように、誰の目にも映らなくなる。
その日は、きっと遠くない。
昨シーズン前に二軍に降格されてから、その日は着実に近づいている。どれだけ投げ込んでも、球が思ったコースに入らない。入っても、綺麗に打ち返される。センター前、三遊間を突き抜ける鋭い当たり、スタンドインのホームラン。一試合、一イニングで三本ホームランを打たれたこともあった。
遥か彼方に飛んでいく白球。それを見つめながら漏れる、野手や外野陣の呆れたような鼻息。ダッグアウトの慌てふためく様子。観客のがっかり落とした肩の音、抱え込む頭。いろんな景色や音が、目や耳に飛び込んでくる。
お前は、グラウンドにいらない。いらないんだ。ドアが軋む音が日に日に大きくなるように、周囲の本音もはっきり届いて胸に残る。
ドラフト一位で入団して、春季キャンプは即一軍合流したあの頃は、前しか見ていなかった。一年目のシーズンからローテ入りして、二桁勝利をあげて、その年の新人王にも選ばれた。二年目は球団史上最年少の開幕投手。その後毎年のように二桁勝利を達成。チームはAクラスとBクラスを行ったり来たりして安定はしていなかったけれど、俺は自分の投球とチームの成績については別物と考えて、一人素直に喜びを噛み締めていた。
そして五年目のシーズンは、まさに絶頂期だった。
“奇跡の十八連勝”
“無四球完封”
“百五十キロ台後半のストレート連発! 大きく曲がるスライダーを決め球に、連続三振記録を更新!”
“最年少で偉業達成”
誰も俺を止められない。
俺は、これが “自分” だと確信した。完璧な投球で、完璧に相手を抑える。監督やチームメイト、ファンの期待以上のパフォーマンスを見せる。それが、俺だと。
このまま突き進む。止まっている暇なんてない。もっと、もっと、誰もやり遂げたことがない記録を残して、それで、それで―。
今なら思う。苦しくても、走り続けられるほどの幸せはない、と。
翌シーズンのオープン戦、初登板に異変は起こった。投げると、右腕に痛みや張りなどの違和感を感じた。途中降板してその後診断した結果、右肘の炎症が発覚。おそらく、今までの疲労が溜まっているせいで、休めば治ると言われた。
入団してから初めて、開幕スタメンを外された。スロースタートになり、五月から二軍での実践登板となった。焦る必要なんてなかった。大きな怪我をしたわけでもない。手術をしなくてはいけないわけでもない。分かっていた。いくらでも挽回できると。昨シーズン頑張った分の休養だと思えばいい。
だけど、誰かが完全試合を達成しただの、連勝中だの、期待のルーキー大活躍だの、十年に一人の逸材だの、そういう情報を目にするなり耳にするなり、危機感が募り始める。
俺は、ゆっくり休んでいていいんだろうか。毎日毎日、別の誰かが活躍するなら、昨シーズンの俺なんてすぐに忘れられるんじゃないだろうか。必死に投げて更新した記録も、明日にはあっさり抜かれてしまうんじゃないだろうか。
自分がどんどん落ちていく気しかしない。微かな不安は、胸の中で巨大な恐怖の風船に膨れ上がってぱんぱんになる。
早く、戻らなくては。まだ肘に違和感はあったけれど、二軍の試合で圧倒的な投球を見せた。その時二軍監督だった、現一軍監督の吾妻監督は少し難しい顔をしていた。本当は、どこか本調子ではなく無理やり力でねじ伏せたところが見えたのだろう。しかし、チームが連敗中だったこともあって、首脳陣からお呼びがかかり予定よりも早く一軍に合流できた。
久々の一軍のマウンド―とても味気ない景色だった。でも、俺の気持ちなんてどうでもいい。投げなくては。勝たなくては。あの時のように、完璧に投げなくては。大丈夫。二軍であれだけ投げられたのだから、大丈夫。
だけど、俺の放った球は一軍の選手達には通用しなかった。何年もプロにいて、俺は知らなかった。一軍と二軍には、圧倒的な差があることを。
初回から連続ヒットを許してフォアボールで押し出し、あげくホームランも打たれた。結局、五失点して三回途中で降板。監督やピッチングコーチからは、徐々に感覚をとり戻せばいいと言われたけれど、安心できなかった。改めてグラウンドを見渡せば、この世界がものすごいスピードで進み変化していることを実感する。今まで俺の球にかすりもしなかった選手が、ヒットを量産する。名前も顔も知らない新人が、あっさりホームランを打つ。
取り返さなくては。早く、早く。でも、そう思えば思うほど、フォームは崩れていく。完璧に投げなくては。そうやって焦れば焦るほど、球は大きく外れる。狙ったところに投げられない。サイン通りに投げられない。肘の炎症ももう治っているのに。ストライクゾーンに入っても、すぐに打たれる。おかしい。何かがおかしい。でも、分からない。
気が付けば、そのシーズンの最多与四死球投手になっていた。初めて、二桁勝利もかなわなかった。何度も試合を炎上させた。誰かの囁き声が聞こえた。「あいつのピークは、過ぎたな」と。
その翌年も、調子を取り戻すことはできなかった。過去の実績を考慮されてWBCの代表メンバーに選出されたが、メンバー発表の三日後の登板戦で四回七失点という不甲斐ないピッチングを見せてしまった。俺は、辞退せざる終えなかった。
そしてその次の年、二軍降格を受けた。ただの調整なんかじゃない。正式な降格。
「たった一度や二度、二軍に降格になったからって……」
周囲は呆れるだろう。どんな選手にも波はある。良い時も、悪い時も。順調な野球人生を送れることなんてない。原因不明の悪循環にハマることだって、したくもない怪我をすることだって、きっとある。
大事なことは、どん底に落ちた時にもう一度這い上がること。
俺だって分かっていた、はずだ。いつかそんな時が来ても自分は大丈夫だと。頭の切り替えくらいできるさ。調子が悪くなったって、必死にもがいて必ず活路を見つけるさ。怪我をして手術することになっても、再生の道を突き進むさ。
大丈夫。自分は大丈夫。俺は死ぬまで、野球選手だ。
でも――違った。
実際立ち止まってしまうと、どこに進めばいいのか分からない。道は四方に開けていて、おそらく邪魔するものは何もないのに、足が動かない。
どこを向けばいい?
どれが自分が進むべき道だ?
何をどうすればいい?
がむしゃらに頑張ればいいのか、いったん落ち着いて冷静になればいいのか。どうすることが正解なんだ。
俺は、マウンドで自分を見失った。明りが消えて真っ暗になったキッチンみたいに。何も見えない。
あの頃思い描いていた自分と、実際にそうなれた自分。あれは神様が気まぐれで見せた白昼夢。奴はもう、いない。たとえ底に落ちても這い上がれると信じていた自分の輪郭は白くぼやっと曖昧な線に変わり、最後は泡になって弾けて、消えた。後に残ったのは、誰でもない誰か。
いらない。そんなやつ、いらない。
その現実を自分以外の誰かに突きつけられる前に、マウンドを下りよう。幸いなのか、俺には家族がいない。妻のためとか、子どもに失望されたくないとか、そういう無理やりにでも引きとどまらせる “何か” もない。まったくもって、自分本位な理由だ。
自分から「辞める」と言い出すのと、周囲から「もう辞めろ」と言われるのとでは、その後の苦しみが違う。たぶん。少なくとも、プロ経験と名目のついた無駄に重ねた年数分のプライドは保てるはずだ。
走れば間に合う横断歩道の青いランプが、道の向こうで点滅している。それを、呆然と遠くに感じるように。からから、からから、漕がずとも坂を回り下る自転車の車輪は勢いばかりよく聞こえるが、その実ただ空回っているだけ。そんな虚しい音ばかりが、耳の骨を撫でる。
もう何もかもどうでもいいとあきらめるように。全てを手放すように。
俺は、歩みを止めた。
「引退、させてください」
同じ言葉を繰り返し、頭を下げる。
つまり簡単に言えば、俺は逃げたんだ。