『西村賢太論・・・収集していなかった「群像」』
『西村賢太論・・・収集していなかった「群像」』
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西村賢太の死後、その文庫本や単行本や掲載雑誌を、収集することに力を入れていることは、ここでも随分述べて来た。死後直後は、その体が強かったが、最近少し離れていたのである。しかし、能登地震での、西村賢太の墓が壊れたというニュースによって、また、収集の衝動が出て来た。
先日、Amazonで、良き関連本がないかと、探していたら、「群像」の2018年09月号に、西村賢太が、『羅針盤は壊れても』という小説を書いて居たことが分かり、Amazonの出品会社で、運良くその「群像」を買うことが出来たのである。
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この、『羅針盤は壊れても』は、単行本として、現在メルカリで、異常なまでの値の高騰が見受けられる状況であり、流石にこれは手が届かないと思って居た状況だったので、即購入し、無事届いた訳であるが、本の状態は、可もなく不可もなくという保存状態のものだった。
そもそも、自分は昔から、「文學界」を中心に、購入して来た人間である。時折、特集の面白そうなものを見つけて、「新潮」や「群像」に、手を伸ばす形で、関わって来た。しかし、この収集の習慣も、学生時代を過ぎた頃に始まり、一時中断し、またいつかからか、始めたもので、空白の期間があるのである。
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だから、西村賢太の寄稿雑誌というものも、受賞から数年集め、やがて空白に入り、その死の衝撃によってまた、集め出したものだから、「群像」の2018年09月号などは、到底手には出来て居なかったのだ。そういう訳で、取り敢えずは収集出来たことに、満足したのだが、さっと目を通すと、意外な感じを受ける。
まさに、『羅針盤は壊れても』というタイトル通り、あの私小説としての、文体の精緻を極めた揺るぎない文体に、いくらかの「壊れ」が見えた。2018年の西村賢太の、苦悩の様なものが、看取出来、何やら読むのが辛くなった程である。また、初めからじっくり読もうと思ってはいるが、この時の「群像」の西村賢太は、ただ事ではなかったのであろうと、推察するに至った、という話である。