井上愛子
「井上愛子」
話は1996年にさかのぼる。夏季休暇で私は郷里の広島県三原市に帰省していた。母校第三中学の3年の時の担任だった美術教師今川雄一郎氏の定年退職を記念した油絵作品展が8月10日より15日まで市の施設リージョンプラザホールを借りて催され、多くの同窓生たちとこれを手伝ったのだ。私は12日に初めて顔を出し、ここで旧友たちと久しぶりの再会をした。みんなそれぞれの人生の大波小波を越えてきた訳であるが、一目で誰かわかる人たちと、変貌著しくすぐには私の保存してきた若き日の少年少女のイメージと符号できない人たちがいた。私は頭髪がめっきり薄くなってずいぶん変わり果てていたはずだが、どちらかというと前者に属しているらしかった。
さてその日は絵の鑑賞だけでおいとまし、その後はあらかじめ決められた当番日の13日と14日に自転車で展示会場へ行って手伝いをした。最終日の15日の5時頃に再び行ってみると展示会は早めに片付けられており、自転車置場で旧姓薬師さんに会い、彼女は、すでにみんな懇親会のもたれる駅の近くの国際観光ホテルに向かっていると言う。しかし懇親会の始まる時間までまだ小一時間あったので港の公園に行って、リコーダーの練習をした。懇親会で私が笛で伴奏して第三中学の校歌をみんなに歌ってもらうことを企てていたのだ。その為の練習であった。
練習が一段落終わって、こんどはオカリナを出して滝廉太郎の「花」を演奏していると、少女が走ってきてそばに立った。私が吹き終わると、それはなんという曲かと問うので答えると、それなら学校で歌ったことがあるという。何年生かと問うと、三中の三年生と言う。そこで私はまたリコーダーに持ち替えてすでに練習済みのその校歌を吹いた。彼女は驚いて、なんでおじさんその曲知っているのと言い、近くにいた男女の友達を呼んだ。三四人の少年少女が集まってきて彼らの校歌を聴いた。吹き終わるともう一度「花」を吹いてくれと言うので、それを吹いていると、やがて「さよなら」と言って去っていった。このことはその日の懇親会での校歌演奏の前のあいさつで皆に披露した。
さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。6時頃から始まった展示会後の今川先生を囲んだ懇親会で理科の先生だった内畠氏と英語の先生だった小早川氏と再会した。二人とももうすでに定年で教職を退かれていた。
内畠先生は私の担任教師となることもなく、ただ一二回臨時でわれわれのクラスに来て理科の授業をした程度で、懇意に付き合いのあったわけでない。劇画に出てくるような目鼻だちのくっきりしたハンサムな先生だったので顔はずっと覚えていたが、特に思い出すことがあるとすれば、それは私が高校入試に合格して数人の友とその報告のために午後に母校三中を訪れた時たまたま職員室におられて、しばらく談話したことくらいだ。したがって私は久しぶりに彼に再会した時、握手をしながら「ああ、これは赤畠先生久しぶりです」と名前を間違えて言ってしまった。実際そういう名の同年配でやはりハンサムな先生もいたのだ。
さて、私は二人の先生(内畠氏、小早川氏)と中学時代のことを話したが、話題がいかようにそちらにいったのかは忘れたが、やがて私はわれわれの同期生で一番の美人は福部啓子だったと思うがどうですか、と問うた。すると内畠先生が即座に、「いや君らの学年で一番の美人だったのは…だ」と答えた。しかし私はその名からその女性の顔を思い浮かべることができなかった。同期でトップクラスの美人の名と顔を一致して思い出せないというのは情けないことかもしれないが、われわれの学年は正確には覚えてないが少なくとも10クラスはあり、各クラスに50人弱の男女生徒がおり、われわれの学年は3年間、一階中央に正面玄関を有した二階建の校舎の一階に5クラス、二階に残りのクラスというわけで、3年間一階の教室にいた私は二階組の人たちの名前と顔を覚えるのは特に縁がなければ容易なことではなかった。したがって内畠先生の言われた一番は「…だ」の名前もその場でメモを取ることもしなかったので今は思い出せない。
「福部啓子なら結婚してから会ったことがあるが、随分色っぽくなっていたな」と内畠先生は付け加えた。私にとっては中学時代の彼女は十分色っぽかったので、更に色っぽくなったという彼女は想像を絶するものであった。彼女はいつも学年で一二の成績を争う秀才であった。私とは小学校もいっしょで、5年生の時、学芸会で彼女がこぶ取りじいさん役をやり、私が鬼の大将役をやったことがあり、その時この赤鬼は、絵の具でピンク色に染められた脱脂綿のこぶを頬に付けたじいさんの美しさにすっかり魅せられてしまった。特に学校の25メートルプールでの彼女の姿は、思春期にさしかかっていた少年にはまぶしく忘れがたいものであった。
しかし同じ中学で彼女よりも美しい人がいたとは思いがけないことだった。美男子の内畠先生が言うのなら、まんざら好みの違いというだけでは片付けられない。そこで私はそのとき、そしてそれからもしばらくこの内畠推挙の女性に興味を抱いた。
たいてい美しい人の名は知っていたので、その女性たちを消去してゆくとやがて一人の名を知らない女生徒の姿が脳裏にくり返しよみがえり始めた。それは二階のクラスの人で私は彼女と話をした記憶はないがそれでも顔は思い描けるのだからその美しさのゆえだろうか。体格はよく、性格の強そうな容姿は中学生にしては大人びた美しさがあり、それだけ色っぽさもある。なるほど彼女を福部啓子より上と思う人がいても不思議ではない、とくに大人の目には色っぽさが美しさの強い要素であるから内畠老先生が一推しするかもしれない。しかし当時の少年長光なら福部啓子の未成熟なるがゆえのサワーな美しさにやはり軍配を上げるだろう。
しかしその名も知らぬ美人が内畠元教諭の言う「…だ」であるかどうかは卒業アルバムを見て名前を確かめ、先生に改めて問うてみなければわからない。こんど故郷に帰るとさっそくアルバムを見てみることにしようと思いながら、月日がたち、そのこともやがて忘れ、いつも故郷の父母の家に帰ってもアルバムを見忘れるのだった。
1999年夏にも私は故郷三原に帰省したが、もはやアルバムの美人探しのことは忘れていた。その故郷での夏休みは、知人に会うこともなく、しばらく前に完成した尾道-今治間のしまなみ海道を自転車で往復したことを別にすると、郊外の須波の山腹にある景色のいい両親の家で日々をのんびり過ごして三原を去った。三原駅でヤッサ饅頭というお菓子を職場へのお土産に一箱買った。
さて私は東京にある会社の特許部に所属しているが、あるとき営業部の人が特許のことで相談にやってきて、私の上司の桑田氏と応接室で打ち合わせをした。それが終わりその人は特許部の広い部屋にやってきたが、ある休暇中の人の机の上にヤッサ饅頭が一個載っているのを見て、「えっ、なんでこれがここにあるの?」と声を上げた。桑田氏が「それは長光さんのお土産ですよ、広島県の、えーどこだっけ?」と言った。「三原です」と私が言うと、その営業マンは「えっ、私も三原の出身です」という。聞けばなんと中学と高校も同じで、私の3年後輩であった。「それならこの饅頭持っていきなさいよ」と桑田氏が休んでいる人の机の上の饅頭を彼に渡した。この営業マンは井上弘道という。
その後、互いに100メートル以上離れたビルに職場があったし、営業マンの井上氏は忙しく出張が多く、普段も外出していることが多く、会うことはなかった。ただ電子メールで彼と何度か交信するうちに、井上氏は、彼には3歳年上の姉がおり、やはり同じく第三中学と三原高校に通ったので私とは同期であるはずだがご存知ないかという。知っている名前ではなかった。しかし私はふと内畠先生が言った学年で一番きれいだったという女生徒「…」がなんだか井上…というような響きのする名前だったような気がしてきた。そうすると自分が思い描いた福部啓子に肩を並べうる名も知れぬ美少女は彼の姉であるかもしれないぞと思った。今度三原に帰ったら必ず忘れないでアルバムを調べてみようと肝に銘じた。
私は今手許に三原高校の卒業アルバムを置いている。2000年の正月休みに三原に帰った折りに両親の家から持ちかえったものだ。残念ながら中学校の卒業アルバムは見つからなかった。しかしこの高校の卒業アルバムに載っていた井上愛子はまさに私が思い描いていた「名も知らぬ美しき人」であった。彼女が高校も私といっしょだったということはおぼろげにも意識に残っていなかった。それほど受験勉強に打ち込んで周りに目もくれなかった、というわけでもないが、高校でも私は彼女と何の接点もなかったのだろう。クラスもやはり10くらいあり、近くの教室でもなかったのだろう。中学・高校と6年間同じ学校に通ってもとうとう名前を覚えないで学窓を巣立つことになった人は他にもいる。卒業アルバムを見ていて、ああそういえばこんな人もいたなあと初めて思い出す女性たちの中にあって、井上愛子は私がアルバムを見る前に「三中の名を知らない美しい女生徒」というキーワードの検索に応えて私のメモリーの中からただ一人姿を現わしたのだ。
井上愛子、今さら30年余り前のアルバムの中の名も知らなかった女性にひかれ恋ごころを抱き始めたのもおかしい。やはり6年間同じ中学と高校にいて、気がつかないうちに、私の記憶のスクリーンの上に彼女の遠くて美しい姿は確実に焼きつけられていたのだろう。忘却の淘汰を経てもかろうじておぼろげにも私の潜在層にて生き残っていた彼女は、内畠先生が、あの学年で一番の美人は…だ、と言った時から私の記憶の中で顕在層への階段をしっかりと昇り始めたのだ。自分は無意識のうちにこの名も知らぬ彼女に恋していたということであろうか。否、むしろ思春期の記憶力の強さのなせる業であろう。その頃学習したことは些細なことでもいろんな折りに触れて容易に思い出すことができることに似ているというべきであろう。
さて、あと残った問いは、内畠先生の言った「…だ」が本当に井上愛子であったか否かである。しかしそれはたいした問題ではない。仮に外れていたとしても、私における井上愛子の価値が少しでも減じられることはないし、仮に当たっていたとしても、それによって福部啓子がわれわれの学年で一番の美人だったという私の確信が少しでもぐらつくわけではないのだから。
後日談
2000年3月
さて、私は50歳のとき、三原高校の同学年合同同窓会に出席し、旧姓井上愛子女史に遭遇する幸運を得た。美しい人が何年たっても美しいとは限らない。しかし気品のある人は何年たってもその優雅さを失わない。井上愛子はいずれも保持していた。わたしは、勇気を出して、黒い透けた肩掛けを裸の肩にかけた彼女に、私の勤める会社名と、そこに彼女の弟さんがいないかと問うた。しかし彼女は私を怪しむかのような様子をみせ、自分にそのような弟はいないとそっけなく返事をした。私はたじろぎ、失礼しました人違いのようです、と言って、退却した。三原高校のアルバムでは同期で井上という女性は井上愛子しかいないので私の錯誤は故の無いことではない。しかし、冷静に考えると、井上弘道の「3歳年上の姉」というのが、必ずしも3学年上とはならないことだ。それに井上というのはなかなか個性に乏しい名前であることもいけない。やはり福部啓子のほうがいい。
2023年6月
今年久しぶりに三原高校の卒業生合同クラス会の案内を受けた。この年になって離婚訴訟に巻き込まれた私は、昔の人々を訪ねて帰省する余裕はない。若いころは福部啓子にも井上愛子にも劣らない美しい人であった妻は今は金欲に目のくらんだ老女となって私に挑んできたのだから。
2023年9月
離婚訴訟進行中。
判決が下りたら別のサイトで開示する予定です。