【第3話】みつき登場
──いよいよ夏も本番というような、晴天のある日のこと。
「うへぇ〜、クサ〜い……」
自宅玄関の上がり框に腰掛け、伊香保するめは呻いていた。
「どうかしたんですかい、お嬢?」
たまたまこの家に顔を出していたヒトデのアスティが、するめに尋ねる。
祖父母は漁協の会合、父親は仕事、母親は買い出しに出掛けていて、家にはするめ以外の人間は誰もいない。
するめは、その肩にかかるくらいの長い黒髪をいつものように頭の後ろ側でお団子に纏めていた。
服装は、すっかり部屋着兼戦闘服として定着した、お古の体操服を着ている。
その手には、水棲少女に変身する際にいつも履いている、赤地に白いラインの水陸両用スニーカーが握られていた。
「これ、少しの間洗うのを忘れてたせいで、臭いがすごいことになってるんですよ〜……」
そのスニーカーは、元々はするめが海遊び用に所有していた自前のものだったのだが、水棲少女になってからは戦闘服の一部として使用頻度が急激に高くなった。
海水に浸かるものなのでなるべくこまめに洗濯するよう心がけていたのだが、油断するとつい洗うのを忘れてしまう。
そのスニーカーからは、磯臭さを煮詰めたような、なんとも言えない臭いが漂っている。
「うわあ、やっちゃいましたねぇ。
普段海に住んでてそういう匂いには慣れきったワタクシからしても、この臭いはなかなか……」
「そうですよねー……。
天気は終日良さそうですし、今日のうちに洗っちゃいましょう」
するめは立ち上がると、家の奥、風呂場を目指して歩き出した。
そこには、洗濯機とは別個にタライも常備していて、少量の洗濯物ならその中で洗ってしまえる。
「洗濯用洗剤でしばらくつけ置きして、その後タワシでゴシゴシですかねー」
ガラガラガラと、するめが浴室の扉を開ける。
すると、そのタイル張りの床にはお目当てのタライが置いてあった、のだが……。
「ぎゃあああ!?」
浴室から聞こえてきたするめの悲鳴を聞きつけ、アスティが駆けつけてきた。
「どうかしやしたか、お嬢!」
するめは、脱衣所と浴室との敷居を跨いで尻餅をついていた。
浴室の中、タイル張りの床に置いてあるタライを指差している。
中には、半透明の薄ら白いスライム状のものがフニフニとたゆたっていた。
その動きには生物的な意思が感じられ、その丸みを帯びた盛り上がりに浮かんだ二つの目が開くと、するめとアスティの存在に気が付いて様子を窺っているようだ。
「な、何か、タライの中に変な生き物がいるんです!
もしかして、敵の襲来なんですか?!
まさか、私の家まで嗅ぎつけていたなんて……!」
しかし、アスティはタライの中を確かめると、すっかり落ち着いた様子でその中身に話しかけていた。
「なぁんだ、みつきちゃんじゃないですか。
脅かさないでくださいよぉ」
「えっ?」
言葉の意味が分からず、アスティとタライの中のスライムとを交互に見比べる。
「この子も、お嬢と同じく水棲少女なんですよ」
すると、そのスライムはグニュニュニュと躰を盛り上がらせたかと思うと、人間の女の子の肢体を形成し始めたではないか。
背丈は、するめよりも5cmほど低いだろうか。
人型に近づくにつれ、半透明の白色から、徐々にその水棲少女としての体色に戻っていくのが分かる。
この海沿いの街の子供としては珍しく、するめと同じく色白のようだ。
スライムの頭だと思っていた部分は、実はその女の子のマッシュルーム・ボブの髪型であった。
耳とうなじが隠れる程度の長さのふんわりとした黒髪のボブカットは、ミズクラゲの傘を彷彿させた。
上半身はするめと同じ丸首体操服に包まれているが、するめの場合とは異なり、水棲少女の形態でもその生地はゆったりと余裕のあるサイズ感をキープしている。
その袖口をよく見ると、水中を漂うクラゲの傘のように、フワリフワリと拍動しているのが分かる。
胸部にはやはり大きな名札が縫い付けられており、身体が形成されるに伴って、黒マジックで大きく記された『倉下』という名前が、まるでクジラがその巨大な瞼を開く時のようにヌルリと浮かび上がってきた。
するめと比べると、胸のサイズにはボリューム感があることが、ゆったりとした体操服の上からでも分かる。
ショートパンツを履いた両脚の上から、さらに白いヴェールがスカートのように膝下までをふんわり包み込み、そこから繋がる袂のようなものは腰の前で緩く結ばれている。
両脚が若干透けて見えるその白いヴェールには、横一線に細い赤のラインが一本入っている。
色合いから見るに、このヴェールはどうやら、腰に巻いた学校指定の体育用ジャージが変化したものであるらしい。
よくよく見てみると、そのヴェール全体もフワフワと拍動していた。
クラゲという生き物は、実は体に心臓を持たない。
その代わり、拍動によって体中に酸素や栄養を行き届かせているのだ。
体全体が心臓の役割を果たしていると言っていい。
その娘の身体も流石に心臓までなくなっている訳ではないのだが、本物のクラゲよろしく、そのバイオリズムを拍動によって表しているのであった。
足元は、膝下までの長さの白靴下に学校で使っているような白地に赤い爪先の上履きを履いている。
水棲少女としての姿形が構成されると、最後の仕上げといった具合に、丸首体操服の袖口と白いヴェールの内側から、白くて細いシルク糸のような触手が無数に生え出てきた。
身体の拍動に合わせて、まるで水中にいるかのようにユラユラと揺れている。
こうして、みつきの水棲少女としての姿が現れた。
女の子の全身の随所にクラゲの意匠が散りばめられた、まるで人間とクラゲがフュージョンしたような見た目をしている。
彼女はクラゲの能力を持った水棲少女なのだ。
クラゲの体の成分は、その95%以上が水分で構成されている。
その特性を水棲少女としての能力を使って引き出すことにより、みつきは身体をほとんど液体化させた状態で活動することができる。
先ほどのスライムのような形態は、それを利用したものだったのだ。
スライムの中から浮かび上がった女の子の容姿を見て、するめは驚いた。
その顔に見覚えがあったからだ。
「隣のクラスの、倉下さんじゃないですか!」
果たして、クラゲの水棲少女の正体とは、同じ学校に通う同級生、『倉下みつき』であった。
一緒のクラスになったことはなく特別親しいわけではないのだが、するめもみつきとは何回か話したことがあった。
その丸っこくて可愛らしい顔立ちと、いつも綺麗に整えられたツヤのあるボブカット、ふんわりおっとりとした雰囲気に、見かけるとつい目で追ってしまう女の子だった。
「お疲れさまー。
するめちゃんも最近水棲少女になったって聞いたから、通りがかったついでに寄ってみたんだよー。
お風呂の窓が開いてたからさー」
学校で話す時と同じゆったりした口調で、みつきはするめに来訪の理由を告げる。
「玄関から入ってくれないと、ちゃんとおもてなしできないじゃーん。
ていうか……」
するめは、繁々とみつきの水棲少女としての姿を眺めている。
「倉下さん、可愛すぎ!!」
「おぉう」
思わず、みつきの身体に横側からムニュっと抱きついてしまう。
水中を漂うクラゲの姿には、人間に一種の“癒し”をもたらす視覚効果があることが、科学的に証明されているそうだ。
その効果と、みつき自身が元々持ち合わせた愛くるしさとが相乗し、するめの中の『愛でたい!』という欲を刺激していた。
前々から、こうしてお近づきになりたいと、内心思っていたのだった。
変身しているのもあってか、みつきの身体はプニプニと柔らかく、非常に抱き心地が良い。
しかし、その可愛らしい見た目とは裏腹に、その触手には危険が潜んでいる。
するめはうっかり、みつきの袖口から生えている触手ごと抱きついてしまっていた。
──チクリ。
「あいたっ!」
するめの腕から全身にかけて、電気が走ったような痛みが駆け巡った。
まもなく、身体が痺れて、みつきから手を離してしゃがみ込んでしまう。
「うへぇ〜、痺れて動けにゃい〜……」
「なーにやってんですか、お嬢」
アスティが呆れてするめを見上げている。
「ごめんねー、するめちゃん。
これ、自分じゃコントロールできないんだー。
そっちで気をつけてもらわないとー。
あと、同級生なんだし、みつきって呼んでいいよー」
みつきはツンツンと、自分の身体から伸びた触手で、するめをつついている。
説明するまでもないが、クラゲの触手には毒針が仕込まれている。
水棲少女としてもその能力は健在で、触れた者を一時的に麻痺させて動けなくさせてしまう。
どうやらその出し入れに関しては、みつきの意思を介さず反射的に行われるらしい。
「そもそも、なんでみつきちゃんはタライの中にいたんですかい?
もしかして、お嬢を驚かせようと隠れてたんですか?」
「そーゆーつもりはなかったんだけどねー。
あんな感じで何かの器の中にすっぽり収まってた方が、姿勢が楽なんだよねー」
みつきは、あまり深いことは考えていないような様子だ。
そういえば、クラゲという生き物は、なんと脳も持たないという。
みつきの身体から脳がなくなっている訳では流石にないのだが、その掴み所のないホンワカとした雰囲気も相まって、彼女がクラゲの水棲少女としての適性を持ち合わせていることにはどこか頷けるものがあった。
そんな風に話をしていると、するめの手から転がり落ちた五角形のエネルギーコンパクトが発光、明滅し始めた。
どうやら、近くの海域に敵が現れたらしい。
「ありゃあ、よりによってこんな時に……。
みつきちゃん、あいにくお嬢がこんな具合なもんで、今回は代わりに戦ってくれませんかねぇ?」
「うん、いいよー。
みつきの良いところ、するめちゃんに見せちゃうもんねー」
ぞい、とガッツポーズで答えてみせる。
早くも、今回もまた戦わずに終わるオチが見えてきた、するめであった。
✳︎
幸い、敵が出現したエリアは家のすぐ近くの沿岸だった。
三人は、敵の様子が窺える磯浜の付近までやって来ていた。
するめは身体が痺れて上手く動けないので、みつきが押す台車に乗せられてなんとかここまで辿り着いた。
海沿いの舗装道から遠巻きに沖合いを見てみると、上空には何羽もの海鳥が、縦横無尽に飛び交っていた。
この地域では見かけない種類のものだ。
一見して、体格もかなり大きい。
「うーむ、どうやら今回の敵は、あのバカデカい鳥達のようですねぇ。
悪玉の連中め、とうとう鳥類まで使ってきやがりましたか」
するめが持ってやっている望遠鏡を覗き込み、アスティが苦々しく呟いた。
そのレンズに映っていた敵の正体とは、ペリカンの大群であった。
通常、本邦周辺の海域では、ごく一部の例外を除き生息は確認されていないはずである。
野生の個体が群れをなしてこの付近の海を飛んでいるということは、まずあり得ない。
あのペリカン達は悪玉軍が召喚したものと見て間違いないだろう。
全ての個体がおよそ穏やかではない目つきをしている。
その様子のおかしさが、以上の推論を裏付けている。
絶対、そうに違いない。だって、顔が怖すぎるもん。
「襲われたら危ないから、するめちゃんはここで見ててねー」
するめは少しずつ身体の痺れが引いてきたものの、まだ万全な状態ではない。
ガードレールの陰にするめを乗せた台車を退避させると、水棲少女に再度変身し直したみつきは、あの恐るべき海鳥たちを待ち構えるべく磯の方へパタパタと歩いていった。
「それにしても、みつきちゃんが水棲少女だったなんて驚きましたよ。
なんで、アスティさんは私にそのことを教えてくれなかったんですか?」
台車に腰掛けたするめは、アスティに尋ねた。
手持ち無沙汰そうにギシギシと台車を揺らしている。
前々から、するめ以外の他の水棲少女、その存在を仄めかすようなことをするめはアスティから聞き及んでいた。
まさか、ここまで身近な人だったとは思わなかったが。
海の代表者による強力なバックアップのおかげで、戦いの中でそこまで恐い思いはしていないのだが、自分一人だけで敵に立ち向かい続けるのは、単純にまだ年端も行かぬ少女にとっては心細い。
みつき本人が言うには、彼女が水棲少女になった時期は、するめのそれよりも少し前だった。
どういう事情で教えてくれなかったのかは分からないが、紹介してもらえるだけでも心細さが多少は紛れたかもしれないのに。
アスティは、少し答えづらそうに言葉を探している。
「別に、隠していた訳じゃあないんですがね……。
ほら、あの娘って、あの通りいつもおっとりしてるじゃないですか?
シンプルに、戦力の確実な頭数として計算に入れるのは、かなり難しいというか……」
アスティの視線の先には、磯のど真ん中に突っ立ったみつきの後ろ姿があった。
上空を飛び回るペリカンの群れを、ボケーっと眺めているように見える。
「うーん、あまり水棲少女としての戦闘能力には恵まれていないって感じですか?」
「そういう訳じゃあないんです。
むしろスキルに関しては申し分ないんですよ。
あの液体化能力を持った身体は物理攻撃を軒並み無効化してしまいますし、伸ばした触手から毒針を打ち込んで敵の足を止めることもできます。
ただ、やっぱり良くも悪くもマイペースなんですよねぇ……」
アスティの佇まいには、くたびれた中間管理職のような哀愁が漂っている。
「マイペースっていうのは、具体的にはどんな風に?」
「……例えば、『敵が出現しやしたぜ、出動願いやす』と連絡したとするじゃないですか。
そこからみつきちゃんは出かける準備を始める訳ですが、その準備の最中にふと違うことを考えてしまうと、そっちに意識が引っ張られちゃうみたいなんですよねぇ。
すると、『出動しなきゃ』というタスクを忘れちゃうみたいなんです。
『あれ、そういえば、なんで体操服に着替えてたんだっけ?』みたいな感じで……。
そういうことがちょくちょくあるんですよねぇ……」
「あぁ……」
するめは、普段学校で見かけるみつきのおっとりとした様子を思い浮かべて、至極納得してしまった。
容易にその姿が想像できてしまう。
まるで、水の流れに身を任せてゆったり波間を漂っているクラゲのような、あの姿。
ある意味、そういう性質こそが、クラゲの水棲少女としての適性、その根幹を成しているのかもしれない。
「ああいう肝の据わり方は、戦いの中では一種の長所です。
戦闘のセンスも、実はなかなかのものなんですよ。
ワタクシが彼女を上手くマネジメントできれば強力な味方になるはずなんですけどね……、大体は想像の斜め上に辿り着いちゃいますねぇ」
アスティの声色には苦笑が浮かんでいる。
さて、戦場に視線を戻すと、沖合いにいたペリカン達は、とうとう磯に立つみつきの真上まで迫っていた。
「するめちゃんに、先輩として格好良いところを見せちゃうからねー」
そう声を上げると、みつきの身体が俄かに“泡立ち”始めたではないか。
おそらくあれは、液体化能力を発動し、自分自身を人の形をした“波”に変化させているのだろう。
そこから、襲いくる海鳥たちに攻撃を叩き込もうとしているのかもしれない。
するめも、みつきのその戦闘スタイルを目に焼き付けておこうと、ガードレールの陰から固唾を飲んで見守っている。
やがて、みつきの身体が盛り上がっていき、上空に向かって手を伸ばそうとしていた、その時だった。
──ガバリ。
「おぉう」
ペリカンがみつきのすぐそばを通過した、その一瞬のうちに、彼女の姿はその場から消えていた。
一体、何が起きたのか。
二人が慌てて今通過したペリカンの方を見やると、なんとスライム形態のみつきがその喉袋に捕まえられ、はるか上空に連れ去られていくではないか。
「あーれー」
上下の嘴の間から、大して焦ってもいないような様子で、スライムが顔を覗かせている。
ペリカンは鳥類の中でもバチ◯ソ凶暴な食欲を有しており、飲み込むのが明らかに困難そうな哺乳類や鳥類まで捕食しようとする生態が確認されている。
もしかしたら、みつきを食料だと認識して、喉袋に捕まえてしまったのかもしれない。
「ああぁっ!?
大変ですアスティさん、みつきちゃんが連れて行かれました!!」
「は、早く変身して追いかけてくださいお嬢!!」
まだ身体に痺れが少し残っているが、そんなことを言っている場合ではない。
するめは急いで水棲少女に変身して、飛び去るペリカンを追いかけていった。
しばらく追いかけていった先、浜の上にはみつきを連れて行ったペリカンが墜落していた。
内側から毒針を打ち込まれ、思いっきり躰が麻痺してしまっていた。
どうやら、みつきが立てていた作戦は、身体をスライム化させることによって自分を“美味しそうに”見せてわざと捕食され、内側から確実に動きを止めるというものだった。
そうすれば敵の躰を必要以上に傷つけずに戦闘能力を奪うことが可能で、確かに理にかなってはいるのだが……。
「流石に、この群れ全てをその作戦で処理するのは非効率極まりやすよぉ……」
アスティはみつきの想定を聞かされて、呆れてしまっている。
結局、二人で分担して、ペリカンの群れを迎え撃つ羽目になった。
あまりの数の多さに時間はかかったものの、なんとか全軍を撃退しきることには成功した。
そんな訳で、みつき登場のドタバタに巻き込まれた結果、するめはその日もスニーカーを洗うことをすっかり忘れてしまったのだった。
おわり
新キャラが思いついたので、続きを書いてみました。
我ながら幻想的な思考回路をしているなと思います。
主な参考資料
◯平山ヒロフミ著・アクアパーク品川監修(2016).『ゆらゆら、ふわふわ。眺めて、癒される。ほんわかクラゲの楽しみ方』,誠文堂新光社
◯オールマイティ・ラボ.『ペリカンは何でも食べるの?』
(h ttps://www.youtube.com/watch?v=PEF9bpmTimI)(2023年5月2日閲覧)