2-7 社長、脱獄を決意する
実の両親からはもらったのは、理不尽な暴力だけだった。
物心ついた頃には父親から殴られていた。
母親の連れ子に対して、再婚相手の男が暴力を振るうというのはよくある話だが、俺の父親は違った。今思うと信じられないが、ちゃんと血は繋がっていたはずだ。
父も母も若すぎたのだ。俺を身ごもったことを機に結婚した二人だが、それはまだ二人が十代だった頃の話だそうだ。……子供が子供を育てることは難しい。
責任なんて持たずに遊んでいたい。何事にも縛られずに生きていたい。そんな年頃。
つまるところ、二人とも俺という存在が鬱陶しかったのだ。
父親も母親も育児などそっちのけだった。ただ家の中でじっとして過ごす日々、食事もろくに与えられない。唯一の娯楽は母方の叔父が買ってきてくれた絵本だった。
それでも父や母と一緒に過ごすより、一人で過ごしている方が良かった。二人は顔を合わせばいつものように喧嘩をする。そしてその怒りをぶつけてきた。
『お前さえいなければ……!』
そんなこと子供に言うか? 普通?
子供にとっては両親と過ごす世界が、世界の大半を占めているんだぞ。
世界から否定される痛み。直接的な暴力よりもこちらの方が堪えた。
俺が弱者への暴力を憎むのはこの経験が大きく影響している。だからエルシィに対して、義憤ではなく私憤だと言ったのだ。自分が受けたような仕打ちを、自分より下の世代の子供達に経験して欲しくなかった。
そんな最低な幼少期を過ごしていたが、そんな生活もすぐに終わりを告げる————両親が死んだのだ。
バカみたいに酒を飲んだ後に、車で自宅まで帰ろうとしたところ猛スピードで電柱に激突したらしい。飲酒運転の末に誰かをはねた……ということではなくてよかった。バカがバカやって勝手に死ぬのは構わない。人を巻き込むからタチが悪いのだ。
……こんな最悪な生い立ち。それでも俺は自分を不幸だとは思ったことがない。
それに、俺にとって本当の人生が始まるのはここからなのだ。
「おじさんと一緒に暮らそう」
両親を失った俺を引き取ったのは叔父だった。
叔父もまだ二十代前半、そして何より独身で子育て経験も皆無。親族といっても叔父には扶養義務はない。それでも叔父は俺のことを引き取ってくれたのだ。
それからの生活は最高だった。
叔父の作る飯は美味かったし——————なによりも温かかった。
家族の温もり。俺はそれを叔父から教わったのだ。
「それがケータさんの子供の頃のお話なんですね」
自分の幼少期についてエルシィに話聞かせた。もちろん、この世界の常識と齟齬が生じそうな事柄については婉曲して伝えさせてもらっている。
「な、そんな楽しい話じゃなかったろ?」
「でも、ケータさんのことを知ることができて嬉しいです……それで叔父様との生活はどうだったんですか?」
「そりゃ最高だったよ。さみしいって思ったことはないし、稼ぎだってそんな良いわけじゃないのに本やおもちゃを買い与えてくれた」
今でも思い浮かべることができるキラキラした思い出。
あの時のことを生涯忘れることがないだろう。
「叔父様との暮らしがあったから、今のケータさんがあるんですね。……そういえば、叔父様はいまどちらにいらっしゃるんですか? まさかどこかの収容所に——」
「いや、それはないよ。おじさんは俺の生まれ故郷にいるよ。ただまぁ、うーんその、あんまり暗い気分にならないで欲しいんだけど、もう死んじゃっててさ。故郷にいるって言ってもお墓があるだけなんだよ」
「ご、ごめんなさい! 私そんなつもりじゃ……!」
「大丈夫、大丈夫。別にエルシィが何かしたってわけじゃないんだから」
おじさんは俺が一九歳のときに死んでしまったのだ。……過労死だった。
ちょうど大学に進学した時期のことだった。
いくら特待生として入学したからと言って、学費が全額免除ということではなく、また田舎から東京に出て一人暮らしをする必要があった。
当然のように金はかかる。バイト代だけでまかなうには厳しい額だ。
もちろん、奨学金を借りると何度もおじさんを説得したが、こういう時のおじさんは頑固で聞く耳を持たない。
おじさんは本業だけではなく、深夜のバイトまで増やして仕送りをしてくれた。
だが、そのせいでおじさんは…………。
まだ十分結婚や家庭を持つことを考えられる年齢で、甥とはいえ自分の子供じゃないのに、おじさんは俺に対して人生を捧げてくれたのだ。
そう、だから悪いのは俺なのだ。俺さえもっとしっかりしていれば。
「……後悔だけはしないと信じて進んできたが、やっぱりこれだけは後悔してもしきれない。おじさんの人生はなんだったんだろうな」
「ケータさん」
突然、エルシィに抱きしめられる。
さっきは顔を真っ赤にして倒れてしまったというのに……、女性ってすごいな。俺を抱きしめるエルシィの姿は慈しみにあふれていた。赤子をあやすような、我が子を労わるような……そんな慈母の愛。俺が一度も受け取ったことのないもの。
「叔父様の人生の意味は変わりません。『死』はただそれだけでしかない。けど、人はそこに意義を与えることができます。叔父様はケータさんという素晴らしい人間のために生きた、そういう意義を与えてみるのもいいんじゃないですか? その意義を変えることができるのは……ケータさん、あなたただ一人ですよ」
「ありがとう」
結局のところ、人は今を精一杯生きることしかできない。それは俺のポリシーであり信念だ。過去を悔やんだところでその事実は変わらない。
だが……エルシィの言うように、その解釈を変えることは可能だ。
俺はおじさんの人生を素晴らしいものだったとするために、これからも立ち止まることなく進んでいく必要がある。
「少しずつ……ケータさんを知ることができて嬉しいです」
「何だか、俺ばかり赤裸々な話をして恥ずかしいな。エルシィの話も聞かせてよ」
「私もケータさんに聞いて欲しい話があります。……けど、それはまた今度にしましょう。きっとキリエスさんとロブナードさんが心配していますよ」
「……たしかに、二人にはすぐにでもお礼を言わないとだよな」
二人の対処が遅かったら、こうしてエルシィと話すことも出来ていたかどうか。
「だから次です。今度は私の話をさせてください」
「わかった。またすぐに会いに行くよ」
「でも、大怪我してくるのは絶対にダメですからね!」
「善処するよ」
美女と会話して充電完了。
さて、そろそろ反撃開始といきたいところだ。
監房へ戻ると、オイラーと……ロブナードの姿があった。
二人は俺のことを視認すると、安堵の表情を浮かべる。オイラーはともかく、ロブナードにここまで心配されているとは正直驚いた。
「ケータさん! よかった! 今度ばかりは本当にダメかと思いましたよ!」
「心配かけてすまん。オイラーの尽力がなかったら危なかった。……それにロブナード、お前も協力してくれたんだろ? 二人ともありがとう、助かったよ」
「……べ、べつにお前のためじゃない。死人が出たら囚人全体の士気が下がるだろう」
「そんなこと言って、ロブナードさんさっきまでソワソワしてたじゃないですか」
「おい! キリエス! 余計なことを言うな!」
俺のいない間にこの二人が妙に打ち解けていた。なんだか微笑ましい光景だ。少しだけチームのようなまとまりを感じる。
「理由はどうであれ、俺を助けてくれたのは事実だ。本当にありがとう」
「…………無事でよかったよ。ただ状況はより厳しくなったぞ。ソーダ、お前はデンバーとクレットからマークされることになった。嫌がらせや暴力はこれからずっと続くぞ。今日は命が助かったが、やつらはお前が死ぬまで手を緩めないだろう」
ロブナードの言う通り、俺に残されている時間は少ない。所長、デンバー、クレットと看守側トップの人間に目をつけられてしまった。もう後にも引けなくなっている。
「そうだな。だが、光明は見えた。オイラー、予定通り二週間でここから出る。つまりあと六日以内にはこの収容所からはおさらばできる。で、ロブナード。お前はどうする? お前の協力さえあれば、ここから全員脱出させることができるが」
たしかに光明は見えた。しかし、成功へのピースはまだまだ足りない。現時点での成功率はよくて四○%程。とても命をかけられるような確率ではない。
だけど、ここで弱気の姿勢を見せてはいけない。自信のないトップなど害悪でしかないのだから。虚勢、ハッタリ、大言壮語……大いに結構。
時に自分を大きく見せることは必要だ。
そして実際にその虚像を実像に変えてしまえば、それは嘘にはならない。
「少し考えさせてくれ」
「……わかった。だが時間はない。明日だ。明日またお前の答えを聞きにいく」
「あぁ、分かった————おい、だれか向かってくるぞ!」
「どういうことっすか!?」
突然、ロブナードが警戒態勢に入る。
その様子にただならぬものを感じ、オイラーは驚きを隠せずにいるようだ。
「俺の能力は『索敵』だ。周囲にいる人間の動きを感知できる」
「だから、あのとき……」
はじめて、ロブナードの独房を訪ねた夜のこと。
俺が独房に近づき声をかけようとしたところ、ロブナードは俺の姿を確認できていないはずなのに、こちらの接近を把握しているようだった。
…………いけるかもしれない。これなら成功確率六○%くらいになりそうだ。
やはり、ロブナードが必要だ。
「そ、それで誰が迫ってきてるんですか!?」
「おそらく看守だろう……狙いは……」
オイラーとロブナードは揃って、こちらに目を向けてくる。
「ま、俺だろうな。大丈夫、うまくやるさ」
直後。
「おい! ケータ・ソーダ! 所長がお呼びだ! 来い!」
ロブナードの能力は確かなようだ。ひとまずこれを確認できたので良しとしよう。
いやーしかし、まさか所長直々の呼び出しとは…………。
高校生の頃、近隣の女子校に出向いてナンパをしまくっていたことがバレて、校内放送で校長に呼び出されたことが思い出されるな。
あの時は、「女子高生へのナンパ行為を続けるか、高校生をやめるか」の二択を突きつけられ、たっぷり三時間ほど悩んだ挙句、高校生であることを選択した。ナンパが原因で高校をやめたとなれば、学費を払ってくれるおじさんに顔向けできない。
しかし困ったな。あの時の呼び出しは命がけではなかったが、今回の呼び出しは下手したら命を失う可能性もあるぞ。
『ケータさん(ソーダ)……』
二人の心配そうな視線。
どんな用件は分からないが、行ってみないことには何もはじまらない。
「大丈夫、大丈夫。案外、一緒に酒を飲もうみたいな気楽な話かもしれないからな」