陽光の二人
休日。
柔らかな陽光が窓から斜めに、部屋の中にくっきりとした陰影を作っている。
あくびをひとつ。僕は着替えてすぐにテーブルに向かい、明日使う書類の作成に取りかかる。
今日はどこにも出掛けない。出かけられない。そんな予定がそもそもない。
淹れたてのコーヒーの香りは朝日が作る区切りでストライプになり、天井へと工場の煙の如く立ち上っている。
時計の針と、キーボードをたたく単調な音が支配する世界に僕はたった一人社会の歯車として今日も密かに稼働する。
ちなみに、昨日「彼女」を見て「彼女」と言ったのは「彼女」という意味ではない。
英語でいうところのshiだ。
そう、別に意識などとしてはいない。
ふと、キーボードの手が止まる。
スペル、間違えてるな…。
ワードを縮小し、Web検索。どうも最近物忘れがある。ボケるにはまだ早いと一人ほくそ笑む。
シー 彼女。
エンターキーを押して、コーヒーをすする。
現れた候補に僕は深いため息をつく。
ディズニーシーで彼女に買うべきお土産21選。
大人カップルにおすすめ! 彼女が喜ぶディズニーシーデートプラン5選。
デートならこれ! ディズニーシーで彼女と行くべきアトラクション13選。
カップル限定! ディズニーシー…。
無言でノートパソコンを閉じる。
……。朝食でも食べるか。
立ち上がり、キッチンへと向かおうとしたとき、スマホが鳴った。
僕には休日に会うような人間はいない。仕事とコーヒーだけが友人のはずだ。
僕は構わずキッチンへ向かった。
子供のときは朝にトーストが食べれるなんておしゃれなもんだと思っていたが、別段おしゃれでも何でもないことにこの年で気がついた。栄養素や味からして、完全に納豆と味噌汁。あとは炊きたての白飯があればそれこそ素敵だ。もしかしたら栄養素があるだけ味も素っ気もないサプリメントの方がよほど体には良いのかもしれない。
コーヒーで喉を潤す。
さて。
ノートパソコンを再び開く。
もちろん忌々しいあの画面だ…。カーソルをキャンセルに持っていき、クリックした時だった。
作業には全く使わないスマホがコーヒーの湯気がたつマグカップの脇でぼんやり光った。
誰だ……?
恐る恐るスマホを手に取り、画面を見ていく。緑のアイコン。何故か最近よく使うLINEアプリ。赤い丸で「1」と表示がある。
開く。
相手は風間さんだった。
「今日休み? 奥手の君のことだ。約束を守るとも限らない。今日から君にミッションを与える。守らなければまた前の給与に逆戻りだ。どうする?」
既読という言葉に酷く気を使うこのアプリを僕は未だに使いこなせないようだ。迂闊にも早速既読をつけてしまった。
こういう厄介事は僕なら知らない素振りでやり過ごす。常套手段だ。だがこの既読という文字は相手にも見られるらしい。
僕は仕方なく文字をうち始める。
「どうかしましたか?」
当たり障りない、靄のような不透明な回答。あとはむこうが忙しい状況であるのを祈るだけ。
たが、この淡い期待を聞きなれない音が消し去った。
着信音(初期設定)。
「はい。もしもし。」
「おはよう、今日休み?」
大通りに面した喫茶店にでもいるのか、通行人の歩く音とティーカップを置くような音が入り乱れている。
「そうですが、何か?」
「君はあまり行動に移すのが苦手みたいだから僕の方から指示を出そうと思ってね」
「あ、でも今明日使う書類を」
「そういうのは明日までに間に合えばいいの。息抜きが出来ない奴は仕事も出来ない」
お待たせいたしました。
店員が何か持ってきたらしく、何かをすする音と「いつ飲んでもやっぱり旨いな。ありがとう」とわざわざ店員に言うことでもない言葉が聞こえた。声からして店員は女性だ。
「で、君。今日デートしようか」
突然の発言に眉間に皺がよる。
「もちろん僕とじゃなく、うちの」
「あの、そういう言い方されると正直こちらもやりづらいんですが」
「ああ、そうか。ごめんごめん」
「で、梢が好きな舞台のチケットが今手元にあるから、それを取りに来てもらえないかな? もちろんそのあと梢を誘ってデートするからそれなりの格好でね」
それなりって…。
ぐるりと部屋を見渡す。
主に使っている部屋は白を基調としたシンプルな壁紙に、脇にテレビが一代とテーブルを挟んでベッドがある。隣の部屋の収納ボックスには一昨年買ったジーンズや雑多な服が詰め込んである。家と会社の往復の日常ならこうなるのは当たり前。
まぁ、別に付き合えって言われてる訳じゃないし、どうなろうが結果月給が上がったままであればこちらとしてはあとはなんだって構わない。裸じゃないんだ。服ならなんだっていいだろう。
「わかりました、場所は?」
「大通りのカフェ。今コーヒー飲んでるから早めに来て。待ってるから」
僕は収納ボックスから外出着を引っ張り出して外へ出た。
普段僕はこの大通りは避ける。
なぜなら最近出来た流行りの喫茶店に集うOL。某有名デザイナーが手掛けて作ったと言われる巨大なアルファベットの形のオブジェの前で彼氏との待ち合わせする大学生。
移動すらスマートにしますからと言いたげな顔でロードバイクを乗りこなす通勤途中のサラリーマン。
喧騒。流行。色恋沙汰。
嫌いだ。
だから避けてきた。
到着。だが。
よりにもよって今日はスケープゴートがいない。ましてや、この場合普通に入って店員になんと説明をつければいいんだ?
なんとなく、背中に周囲の視線を感じる。
何あれ? あの人なんで立ち止まって店の中見てるの? きも。
つか、服装。ウケるんですけど。
居たたまれない心から、僕は正面入り口ではなく、大通り側の一番嫌いなルートから風間社長を探すことにした。
いくつものパラソルの下にその数だけの木製で出来た丸いテーブル。観葉植物。大学生。感じの良い外壁。まさにカフェ。
それにすら嫌悪感を覚える。
とにかく、一刻も早く用事を済ませよう。そうすればあとは自由のはずだ。
顔をあげると、一番奥のパラソルから手が上がっていた。
「おーい、こっちこっち」
新聞片手に僕を呼んでる。ドラマみたいな光景に笑いが混み上がるのをグッと抑え、僕はそのパラソルへ駆けていった。
「なんで入り口から来ないの?」
僕はその質問は無視した。
「チケットは?」
そんな僕に驚きもせずに、風間社長は上着から二枚チケットを取り出す。
「ところで着替えは?」
着替え? 服は着てるだろ。
「まさか、その服装で行く気じゃ…」
なめ回すように爪先から頭の先まで視線を巡らす。
そして、ばつが悪そうに頭をかく。
さらに、はっと何かにひらめいた顔をして僕の両肩に手を置いた。
「そうだ。その手なら一石二鳥」
「……何がですか?」
「舞台はいい、今から梢を呼び出してブティックへ行こう」
……どうしてこうなる?
数十分後、僕は彼女と近くの「ブティック」に来ていた。
連絡は僕が彼女にした。と、彼女は思ってるはずだ。
本当は風間さんが僕からスマホを奪い取り、僕になりすまし、連絡を取った。
【今から、会える? この前、勝手に帰っちゃったお詫びに君に服を買ってあげたいんだ。よかったら僕の服も見繕ってくれると嬉しいんだけど】
彼女が旦那である風間さんの存在を隠して僕に接してくるならこれで来るはず。
僕はそう笑って話す風間さんから現金が入った茶封筒をもらった。気前がいい風間さんはそのお金で服も買えと僕に渡してきた。
「この間はごめん。事情も知らないくせに言いたいこと言って」
待ち合わせの時間。彼女は意外にも僕の事情を察してくれたらしく、頭を下げた。
僕は内心その事はどうでもよかった。彼女にわかってもらえるはすがない。そう思っていたからだ。ただ。
「いいんだ。こっちこそ迷惑かけてごめんね。さ、暑いし早く店へ行こう」
ああいうメッセージを送ってしまった以上こちらも合わせなくてはなるまい。棒読みだったとおもう。慣れない様子を隠すこともなく、僕は彼女と店内へ。
いらっしゃいませ。
店内は揺ったりとした雰囲気。木目調の壁に、天井は悠然とファンが回転している。
所々あしらった観葉植物がブティックという小型コミュニティに窮屈さを感じる僕に癒しをくれた。
「これ似合う?」
試着室からカーテンを払い退けるように出てきた彼女は嬉々としている。
「似合うと思うよ」
素っ気なくはない。率直に言うと彼女を見れないのだ。
初夏の太陽からの熱視線とは無関係なほどに透き通った肌。スカートから覗くししなやかな足首。両手に収まりそうな胸の膨らみ。
僕の心臓は言葉数とは裏腹にどんどん心拍数をあげていく。
「ちゃんと見て」
顔を押さえつけられ、真正面の彼女をみる。
「どう? 可愛い?」
最早目の置き場なんてわからなかった。
そんな僕に彼女は。
「ちゃんと。私を見て。どう? 似合ってる?」
見据える瞳に移る僕を見て、また僕は店内の何倍も明るい外を見る。
「うん。似合ってる」
じっと僕を見つめていたはずの彼女は、急に試着室から出ると別の服を剥ぎ取ってまたカーテンへ消えた。
呆然とする僕は胸ポケットで振動するスマホにより、現実に引き戻された。
【どう? 順調?】
風間さんからのラインだった。
【彼女の服を似合ってるって誉めたら、なんか急にその服取っ替えちゃって……】
【梢は?】
【今、試着室の中です】
なんだってそんな気にするんだ? 僕は顎をさすりながらスマホを操作する。
【ちゃんと視線合わせて話した?】
【どうも緊張しちゃって外眺めてました】
会話のように流れるメッセージのやり取り。
【次に顔を出して訪ねられたら色を誉めるんだ。その服の色は君を引き立たせている】
何か戒めの意味でもあるのだろうか? 数分遅れで届いたメッセージに妙な汗がにじんできた。
「着替え、終わったよ?」
見たい? って聞きたいんだろうな。そんな彼女の望みを僕は素直に聞く事にした。
「うん」
開かれたカーテンから出てきた彼女に例の言葉をかけてみる。
「君の魅力を引き立てている。よく似合っているよ」
真っ直ぐ、彼女を見据えて言った。
その言葉に驚いたのか、少し照れ臭そうに笑う彼女に僕も気づけば笑っていた。
彼女は僕の手を引き、試着室に引きずり込んだ。
「何? 急に」
「しっ。いいから」
彼女はなにやら外の気配を探っている。
小さく開いた隙間から、目だけをキョロキョロ左右に。
「ちょっと無理して劇団休んできててさ…。」
意識が硬直して血圧が上がっているみたいだ。艶やかな黒髪からの匂い。しなやかなシルエット。白いうなじ。
「ねぇ? 聞いてる?」
小首をかしげる彼女に、僕は現実に引き戻された。
「先輩がさ、買い物に来てるみたいだからしばらくここにいなきゃだね……」
「そうだね」
心臓の音が聞こえるほどの至近距離。彼女の甘えるような視線を、僕はなるべく遮る。
設計上人一人ようやくたてる場所に二人。しかも6月ともなれば否応なく汗もかく。
暑いと言わんばかりに、僕はシャツをパタパタと指でつまむ。もちろん視線は合わせない。
肘が僕の腕に当たり、思わず彼女を見やる。
と、彼女はシャツのボタンを少しずつ外していく。
ち、ちょっと。
首もとから滴る汗が迷路をたどるように鎖骨から胸元の膨らみへ。
「ちょっと。なにみてんのよ」
「別に見てなんて」
「梢?」
会話を遮るタイミングで、外から確かに彼女を呼ぶ声がした。
狭い試着室に緊張が走る。
「ねぇ、王子様だっこ」
「え?」
「足元。このままだと一人には見えないでしょ?」
なるほど。確かに。このままだと二人分の足が外から見える。不自然だ。
でも。
「それだと、君にいろいろ触っちゃうし、それに」
「いいから、先輩に見つかっちゃう」
掬い上げるように、ふくらはぎを持ち挙げる。同時に彼女の背中に腕を回し、抱き上げる。
「手」
眼下の彼女が小さく呟く。
「おっきいんだね。意外」
感慨深く手を握っている。
柔らかな感触。
「お客様。試着のほうはおきにめしたでしょうか?」
一瞬、彼女の体はひきつったように全身の筋肉が固くなった。それは僕とて同じこと、こんな状態で開けられては誤解を生む。
2、3秒の間。僕たちは小動物のように辺りを警戒し、固まったまま時が流れるのを待った。
「お客様……?」
「「だ、大丈夫です」」
声が重なり、険悪な空気がさらに広まる。僕たちは再び固まりあった。冷たい汗が背中を伝う。
「……他のお客様の目もありますので、確認させていただきますね?」
カーテンの隙間からすっと細い指が入り込み、少しずつ光が差し込んでいく。
僕はここ最近、これほどまでに神様に祈りを捧げたことはない。
神よ。どうかお救いください。このままでは完全に勘違いされます。
そして、覗いた店員の顔は明らかに軽蔑の顔をしていた。
「お客様、そういった行為はそれなりの施設でお願いします。他のお客様の目にもはいりますので、お引き取り願います」
羞恥心と、不道徳からの罪悪感で胸が締め付けられる。彼女は顔を赤くして、うつむいた。
「あの」
とっさに僕は踵を返し、カウンターへ消え去ろうとしていたその店員を呼び止めていた。
いぶかしめな表情で店員は振り向く。
「僕が誘ったんです」
沈黙の冷たさは全身を刺した。
見るものすべての視線が痛い。
「嫌がる彼女を僕が誘いました。だから」
「梢?! あんたやっぱりここにいた」
長身、長髪の黒髪。目鼻立ちはキリッとしている。モデルみたいな女の人が驚いたようにこっちを見ている。
「ちょっと、こっちに来なさい」
うつむいた彼女を僕から引き離し、モデル体型の美人は鋭い視線を飛ばしてくる。
「無理矢理誘われたって、あんた、そもそも稽古はどうしたの?」うつむいたままの彼女が気の毒になり、恐る恐る声をかける。
「あ、あの」
痛みと同時に僕は真横を向いた。
「最低」
目を赤く腫れさせた彼女が僕に一発見舞っていた事に気づく頃には、彼女はもう暑い日差しのなかにいた。