曲がった果実
20時からの残業を終え、僕は職場があるビルの入口から街の街灯を眺めていた。残業を終えて自宅へ帰る同僚たちがタクシーを捕まえようと、身振りを大きく手を挙げている。
気の早い街はまだ七月にもなっていないのに七夕ムード。織姫と彦星は愛し合っているが、年に一回しか会えない。僕と彼女は愛し合っているわけでもないのに年に一回あっただけで処罰を受ける。
僕は迷っていた。
時刻はすでに22時まで残すとこあと15分と言うところ。街の夜景がなんか冷たい。
無視するか? 幸い向こうはこっちの連絡先は知らない。でも、僕が行かないとなると何をされるか分かったものではない……。現に脅しめいた言葉も言っていた。だけど向こうは強張るなっていってたじゃないか。実はそんな深刻な話してはないのだ。
そう思うと気は一気に楽になった。考え込んでからしばらく息をするのを忘れていた気がする。のどのあたりの閊えもなくなって息をするのがなんだか楽だ。
足取りも軽快に一歩足を街に踏み出した。
帰りに酒とつまみとDVDでも借りて帰ろう。
僕の住む築20年になるおんぼろアパートまで例の居酒屋を通りすぎ地下鉄で10分。そこは巨大なアンティーク見たいで、不動産屋で見かけたとき一目で気に入った。
翡翠のような壁。街灯。木造の階段のきしむ音。そのどれもが生きていて、入社してからの枯れた生活に唯一癒しをくれた。そんな我が家に向かっているなんて、電話の主には言えない……。きっと忘れている、なんて都合のいい解釈をして僕は待ち合わせの居酒屋を通り過ぎて地下鉄に乗り込む。
地下鉄に揺られ、雑多に張り巡らされたメディアの広告の下、僕はまたスマホを見ていた。
「報告会」と彼女からの送られてきたラインの文面に考察してみる。
今日の電話の主は彼女の旦那で、彼女の旦那は何故かお金を払ってでも僕に会いたがっている。
彼女の報告したかったことはもしかして他にあるのではないか?
そんな考えが頭をめぐった。
スマホを鞄にしまおうとしたとき、聞きなれない音に焦り、僕は地味にスマホを落とした。
なんなんだよ今日は……。
くまなく座席の下を探すと、するすると僕のスマホが視界に入ってきた。
差し出された手には輝く指輪。手は色白で、内勤をしている人のように思えた。
「まさか同じ地下鉄に乗ってるなんて思いもしませんでしたよ」
誰?
僕は記憶のない目の前の男の情報を、どこかであった誰かもしれないと必死に頭の中のモンタージュをめくっていったけど、どこにもこの男の記憶はない。
「あぁ、すいません。申し遅れました。僕、柊の夫の……」
まさか……。同じやつに乗っていたのか……――。
「いやぁ、奇遇ですね。一応妻の卒業アルバムで写真をうかがっていたんですよ。時間に遅れそうだったんで連絡してみたんですけど、まさか目の前に座ってらっしゃるなんて」
不倫の疑いがある僕を前に彼はけらけらと笑っている。この状況でそんなに笑っていられるものか?
「今からご帰宅ですか?」
「え、えぇ。まぁ……。最近忙しくて……参ったもんですよ。うちの上司の出張に付き合わなくてはならなくて明日朝5時起きです」
苦し紛れにそうやってごまかしてみるけど、やっぱり見逃してくれる気はないらしく。
「おかしいな」
彼は斜め上の携帯会社の広告の辺りを見つめながら何か思い出している。
「今日は僕と居酒屋に行くはずでしょう」
取り敢えず、乾杯。
並々注がれたよく冷えたビールが口の中で弾けた。
僕は嘘をついた事に対する罪悪感をつかれて例の居酒屋にいた。
平日とは言え、駅前の居酒屋はサラリーマンでごった返している。
「あの……」
「あぁ、気にしなくていいよ。ここは僕が持つから」
テーブルの向かいの彼、彼女の旦那は久しぶりにあった旧友とあった時みたいに、特に何に気を使うでもなくお通しの冷奴を箸でつまむ。
うちの会社の大手取引先。風間システムの社長。風間貴俊。名刺を差し出されて、言葉をなくす。
「いやぁ、でも実際あなたみたいな方が妻と食事に行ってたなんて驚きですよ」
みたいな。僕は奥歯を噛んだ。
「だってほら、いかにも仕事しかしてこなかったみたいな? 昔で言うモーレツ社員みたいな?」
ほっとけ。別に好きでやってた訳じゃない。僕は黙ってビールを流し込む。
「たまには遊んだ方が仕事だってうまく行きますよ?」
その言葉が僕に火を点けた。ふざけんな。どいつもこいつも。グラスをテーブルに叩きつける。
「要件はなんですか? 僕はあなたの奥さんとはなにもやましいことはしてないし、後ろめたいとも思わない。第一誘ってきたのは向こうで……」
飲兵衛達が騒いでいるお陰で、その声が防音の壁になり、そこまで孤立した空気は流れなかった。小さく静まるテーブルに、指を交差させて僕を観察する風間さんがいた。
「だから、自分には非はないと?」
「……だから、別になにも」
風間さんが言うのは正論だ。確かにだからって僕に非がないわけではない。それに応じた僕も悪い。証拠はないが疑われても仕方ない。
「そもそも、結婚寸前って話は聞いてましたけど結婚したとはまだ聞いてないし」
「へぇ、妻がそんなことを?」
「えぇ、まぁ……」
僕には完全に最初の勢いがなくなっていた。彼女からは確かに昔「結婚寸前」とは聞いていたけど、まさか結婚していたとは……。そんな事を話しても信用はしてくれないだろう。この場合。僕は視線を落とし、スマホを見る。……帰りたい。素直にそう思う自分が、なんだか小さく見えた。
笑い声がそんな僕を一蹴した。驚く僕を風間さんはより一層笑い飛ばす。
「あっはっはっは! 妻が未婚だと言ってたんですか? そりゃそうだろう。あっはっはっは」
なんなんだこいつ? 僕の眉間にしわが寄っていたことは確かだ。
「だってほぼ家に帰ってないからね。飽きたんだよね、実際。でも僕にも体裁がある。そこで」
風間さんはそう区切ると、人差し指を一本立てて軽く息を吸い、
「貴方に是非うちの妻と不倫していただきたい」となんの躊躇もなく言い放った。
は? ますますこいつはなんなんだ? 疑問に頭を抱えるより先に、彼が僕の両手を包み込むように握ってきた。
その手を視線の高さに持ち上げ。
「もちろんタダとは言わない。君を明日行われるわが社と弊社の合同プロジェクトのリーダーに推薦しよう。そうすれば自ずと君の給与はアップだ」
「な、なんのためにそんな……」
「離婚したいんだ」
はっきりとした口調に僕は驚いた。
愛すべき妻の幸せを誓った記憶は?
思いでは?
「しかし、ただ離婚すると宣言したんじゃ慰謝料を請求されかねない。そこで君だ。どうやらうちの妻は君の前では未婚を演じているらしい。これは君にしかできない。頼む」
頼む事か?
開いた口がふさがらない。
「そうだ」
財布から何かを抜き出そうとしている。見えるお札に書かれていたのは福沢諭吉。それが五枚。
僕はそれを制した。そういう問題じゃない。
「受け取れません」
今度は向こうが唖然としている。何でも金で解決できる訳じゃないというのを社長職の風間さんにはわからないのだろうか。
「僕は今まで仕事だけをしてきました。いつか幸せになれるんじゃないか、いつか報われるんじゃないかって。僕はあなたと違って女性との交流を知りません。まして不倫なんて僕の柄では」
「それだけ?」
「え?」
「問題。それだけ?」
「だ、だって仕方ないでしょ? 働かないと食っていけないし」
「そうじゃなくて」
何か感づいたらしく、急に肩を寄せられる。ひそひそ話をする形だ。
「なんなら、僕がサポートしよう」
は? は? は?
話がなんだか明後日の方向に進んでいく。僕は了承していないのに勝手にそう解釈されている。
「い、いや。ですから」
「あ、わかった。好みじゃないとか?」
僕は思い出す。爆弾発言が多い唯一の女友達を。
白い肌に淡い唇。スラッとしたシルエットは誰が見ても美人だ。
「別に好みじゃないとかそういう訳では」
「はい決まり」
再び手を握られた。
今度は力強く、何かを決意したように。
「君は明日から表面上は僕の敵。妻の不倫相手だ。恋愛ベタな君にいい練習相手だろう?」
僕は圧力に押された。
もし、ここで断れば僕はもう一生あの上司の都合のいいようにふりまわされて昇格はしないだろう。
だけど……ここで。もしここでこの突拍子もない話を承諾してしまえば……?
僕の中の悪魔は、懐に入っている薄い財布の中身を考えさせた。