幼女誘拐事件
全身ずぶぬれで体を拭くものもなく、もちろん着替えもない中で、即席で火を起こして暖を取る。そんなありえない体験をした翌日も、風邪気味であっても出勤しないといけないのが日本人としての性。というか、会社。
数奇な体験をした僕を、さぞ好奇な目で同僚たちは見てくるだろうと思っていた。
実際、ドアノブに手をかけて中に入ると新卒で入社してきた事務の田島さんがぎょっとした目で僕を見てきた。
でもそれは、好ではなくまじりっけなしの完全な奇の目だった。
給湯室に向かう彼女と目が合う瞬間おびえられて、挨拶しようとしたら逃げられた。
なんだ? 僕が言った何したっていうんだ?
周囲に意識を向けると、察した同僚たちが僕から視線を避けるように営業所の中であわただしく業務をこなす。
角倉所長は午後から出勤らしく所長席に誰もいない。主をなくして安価な椅子は、主がいないがために窓際に飾られた観葉植物とともに存在感を増していた。
せっかく所長がいるという緊張感から解放されているにも関わらず、営業所は慌ただしく動いている。……ように感じる。ただ、なんだかみんな僕を避けているような節がある。電話対応しようと手を伸ばせば、汚いものでも触ったときのような反応で同僚は手を引っ込めたしあからさまに僕から視線を外している。
受話器に伸ばしたままの手が、目的をなくしてさまよっていた。僕も、この自分ではよくわからない車内の空気に迷子のように困惑していた。何か大きなミスでもない限り、こんなことになるはずが……。
大きなミスという言葉が、大きくのしかかり、僕の心に巣食って、その大きく黒い体が僕を飲み込んでしまうような不安が込み上げる。
気づくと僕は、机を見ることしかできない体の大きな子供みたいになっていた。不安と恐怖といたたまれなさで、ここから一刻も早く消え去りたい。そう思っていた。
「お前、噂ホント?」
不躾に声をかけてくる輩。多田だ。でも、今はそんな存在すらありがたい。机に突っ伏してしまった僕は、多田の声に体を起こして何事もなかったかのように作業に取り掛かる。
「何の話だ?」本当に何の話だか僕にはわからない。
「……お前なんも知らないの?」
精神的な負荷もあって、僕の動きはとても緩慢でまるで重病人かのような振り向き方をしてしまった。
「ちょっとここじゃなんだし、一息入れに外にでも行かないか?」
僕がこの誘いを断る理由が何一つなかった。二つ返事でいつもの屋上に逃げるように営業所を後にする。
「幼女誘拐!? 僕が!?」
「あほ、声がでけぇって。まぁ、お前みたいな根性なしがそんなことするわけないとは思っていたが、やっぱ違ったか」
大きく声を出したせいもあるかもしれないけど、それ以上に事件性しか感じないその四字熟語が自分の身にふりかかっていたと思うと心臓が跳ね上がった。
「角倉所長の娘にお前なんかしたか?」
「なんかってほら、ニュースにもなったろ? 鉄砲水でほら」
翌日の朝刊でも大々的に僕ら二人の遭難事故は取り上げられて、僕は救出されてから何社かのマスコミにマイクを向けれれていた。
「その中でだよ。例えば服脱がせたとか、まさかその先なんて……なぁ」
「馬鹿言うなよ。相手は小学生だぞ!?」憤慨する僕に、多田の奴は嘲るように「だよな」とフェンスを背もたれにこちらに振り向く。
「びっくりしたよ。一応精密検査を病院で受けてから出勤しますって許可とって出勤してみたら、みんななんか態度が違うし。なんかミスしたんじゃないかって」
「仕事上のミスよりなんなら厄介だろ。今頃所長、警察に相談にでも行ってるんじゃないか?」
「警察!?」
「そりゃそうだろ。普段仕事仕事でかまってやれないって言っても、愛娘だぞ? しかも最近、お前になんだか敵対心燃やしてるじゃないか。あれか? 例の棚ぼた」
風間社長の一件は、社内では棚ぼただななんて不名誉な名前で呼ばれていた。
「ほんとはお前、その子になんかしたんじゃないか? 裏で横流しにでもすればいい金入るらしいじゃないか」と口にした多田は、何かを感じ取ったらしく一瞬だけ眉間に皺を寄せた後、はっとした表情になり「まさかあの車」などと僕の予想を超える発言をしてきた。
「勘違いするなよ。あれはちゃんと……」
「ちゃんとなんだよ」
風間社長のことは口にするわけにはいかない。梢と浮気をすることを条件にお金をもらっているなんて。唐突な質問に言葉を亡くした僕は視線を泳がせることしかできなく、「とにかく」と言葉を遮ることしかできなかった。
「あれは、違うから……。副業、そう副業でなんとかしたんだよ」
「お前何自分に言い聞かせてんだよ? てかうち副業禁止だぞ?」
「……仕方ないだろ。欲しかったんだから」
「女でもできたのか?」
「まぁ、一応」
言った瞬間梢を思い出し、まだ付き合ってもいない彼女に少し罪悪感を抱くも、不思議とその言葉がなんのためらいもなく自分の口から出て生きたことに驚く。
「なんだよ。俺まだ紹介されてないぞ?」
「紹介も何も、まだそんなんじゃ……」
「え!? お前まだ付き合ってないの? なんだよぬか喜びさせやがって……。とにかく、お前マジで気をつけろ。面倒ごとに巻き込まれたくなければ、所長より早く帰れ」
「気遣いありがとう。でも僕には理由がない」と言いつつもこうして熱を帯びた夏の夕方の風を浴びてもなお、悪寒がする。体の節々が冷たく痛み、くしゃみを一つ。
「それが理由でいいだろ。所長には俺から言っとくから無理すんな」
罪悪感というものは時に人を孤独にすることをこの歳になってようやく理解した。
多田がああ言ったものの、角倉所長を思うと、どこからか誰か僕に害をなす存在に見られているのではないかなどと余計なことが頭をよぎって、読みかけの小説すら頭に入ってこない。ちなみに僕は紙媒体派。
幼女誘拐事件解決の糸口見えず。
ぼんやりと見上げたつり革広告が目に留まった。
深いため息とともに、互いの指を交差した両手をそのまま顔へ。
僕は誘拐なんてしていない。幼女に対する特別な感情もない。ましてあの門倉所長の娘だぞ? なんでそんな小さな娘を僕が……。そんなことしたって何の得もないことぐらいどうして誰も分かってくれない。
……着替えさせたのは確かだ。仕方ないだろ、そうでもないと風邪をひきかねない。でもそれだって廃墟となった無人の家でタオルを探し回って、彼女が意識を取り戻してからの話で、ってそんなことを回想している時点で僕はもしかして結構やばいやつなのかもしれない。
でもだからってさぁ……。
「どうやったら角倉所長の誤解を晴らせるのか……ていうかなんであいつ僕のことを弁解してくれないんだよって?」
はっとして隣を見ると誰もいない。あるのはくたびれた表情の吊革につかまるサラリーマンとトンネルに入る瞬間の車窓。
「こっち! 気づけ馬鹿」
声はさらに下の方からして、視線を下方に修正する。
「あんたのせいでこっちまで劇団帰ることになったんだから」
まっすぐドアのほうを見据えた桜ちゃんがいつの間に僕の隣にいた。
「別に僕のせいじゃないだろ。っていうか本当になんで弁解してくれないんだよ。おかげで会社じゃ僕のいる場所がないよ」
「だから帰ってるの?」
【そうじゃない】の意のくしゃみがタイミングよく出る。そして悪寒で震えた僕をさくらちゃんは冷たい目線で眺めている。
「よくよく考えてみたらさ、確かにあんたに世話にはなったけど、だからってあんたに私の居場所を譲ってやるのは癪なのよ。あたしの裸見たわけだし。犯罪だよ。犯罪」
「見たわけじゃないって。あぁでもしないと風邪ひくでしょ? 濡れた服のまま乾かせって?」
「でも見たんでしょ?」
返答に困る質問に窮した僕は、言葉をなくして反撃の意思も潰えた。
「反論位しなさいよ。でなきゃあんた本当に犯罪者なんだから……」
「そっちが言いふらんしたんだろ?」
「私は別に言いふらしてなんかいない。……助けられた時の服装違ってたからパパがそう勘違いしただけ」
「だったらなんで……」
「少しくらいいいでしょ? パパが私をそうやって心配してくれるのはそうそうないんだから」
抑揚のあるアナウンスが車内を流れ、進行方向に重心を持っていかれ、金属音とともに減速する。同時に桜ちゃんはたちあがる。
止まったのは僕が知らない、僕にとって何の用事もない無関係の聞いたこともない駅。
「そうね、弁解ならしてあげる。ただし、一日私のいう事を聞くこと。次の土曜は予定空けといて。いい? 遅刻なんてしたらあんたを首にだって出来るんだから」
「ちょっ……!」
僕の返事を待たずして、僕と目を合わせることなく桜ちゃんはそのまま炭酸の抜ける様な音の向こう側へと消えて行ってしまった。
どこで何をするのか聞くのを忘れたことに気が付いたのは、部屋のドアノブを握ってから。僕にとって部屋のドアノブというのは、これから安全地帯に入れるという合図のようなもので、何か重要なことは大体この瞬間に思い出す。……仕事のミスとか。
しまった、やっちまったと今にも雨が降りそうな曇天を扇いでいたらスマホがなって、背筋にいやな汗が一筋流れた。
梢との日々でこの瞬間の苦みをすっかり忘れていた僕は、ポケットを弄る気分にはなれなかった。どうしても。
まして今、僕には幼児誘拐だなんて不名誉なレッテルが張られている。もしかしたら角倉所長かも、まさか多田のやつが何か良くない情報でも……、いや、風間社長が僕の噂を聞きつけて幻滅して僕に電話をよこしたのかもしれない。
僕は結局その電話に出ることなく、ドアノブを引いて自室に入った。靴を脱ぎ、ネクタイを緩め、冷蔵庫の扉を開けて、中からキンキンに冷えたビールを一本。それを持ったまま、いつも休日に仕事をしているローテーブルに向かい、居間の照明につながるスイッチを押す。
これを開けてしまえば、もう僕は今日仕事なんて出来ない。プルタブに手をかけるというのは、僕がその日の仕事から責任逃避することを意味するように思えた。そうして一分もの間ローテーブルの上に置いた缶ビールを眺めていた僕に電話の主はついに折れた。それと同時に僕の正義感みたいなものも。
そもそも今日はもう仕事から帰ってきてるわけで……。確かに咳だって出てるから、熱はないにしろ病人だ。病人は仕事をしない。
……いや、僕は逃げたかった。起こった現実から。
プシュッと細かい泡立ちが開けたプルタブからはじけ飛び、僕は生唾を飲み込むのも忘れてそれを口に含む。苦みが咽喉を過ぎるあたりで、それがうまみに変わっていく。
罪悪感など冷えたビールがすべて洗い流してくれていた。だから余計に人の気配を感じ取れるものが動くと、オーバーな反応をする。
油断していた。まさか僕のスマホが二度目の電話に揺れるとは。
飛び跳ねて仰け反り、膝を床に強打し、まだ引っ越すつもりのない自室を痛めてしまったことと、階下の人に迷惑が掛かったんじゃないかという思いは、間抜けに光るスマホの液晶画面に表示される名前がかき消した。
風間 梢
どういうわけか僕は居住まいを正していた。目の前に誰か大物の俳優でも出くわしたみたいに。
コール①
僕はその名前をじっと見る。
コール②
もしかしたら彼女は僕の噂を何か聞いているのかもしれない。そうなったら僕は……。
コール③
そうなったら僕は、二度と彼女に会えない。いや、そもそもこの状態がおかしいんだ。
コール④は鳴らなかった。安堵が心に広まっていく。これで彼女に嫌われなくて済む、彼女の声を聴かなくて済むと。
でも、彼女は僕との連絡を止めようとはしなかった。すぐに軽快な音声とメッセージ受信の報告がスマホに表示される。僕はそれに気づくのか遅かった。
LINEを起動したまま、僕は再びビールに口をつけようとした瞬間、また電話が鳴り響いた。
今度は焦る暇も迷う暇もなかった。あわてふためいた僕は、意図ぜず受話器の上がるアイコンに触れてしまったからだ。
「もしもし……? 起きてた?」
彼女がどこに居るのか、少なくとも建物の中なのか外なのかくらいの検討はついた。
遠ざかっていく電車の金属音。人の雑踏。単調なアナウンス。
「今から家、行ってもいいかな?」
スマホを耳から外してみる時間は、しっかりと19時を過ぎていた。
何をするつもりかわからないけれど、僕のアパートは会社からかけ離れたさびれた町にある。
終電なんて早くなくなることを、彼女は知っているのだろうか。




