チャンスの神様に前髪は
――馬鹿野郎! 泳げる泳げねぇじゃねぇ! 泳ぐんだよ!!
――すいません!
磯の匂いと波の音がした気がした。そういえば、自社研修でなぜか無人島に来てて、三泊四日で所長とここで過ごすんだっけ……。通りでベッドがごつごつして冷たいわけだ。
鈍い体の痛みと、川のにおいと。ぼんやりとした意識の中で、ぼくが認識した最初の感覚はそれだ。
砂浜にはないであろう大きな礫の存在を伏せた体に感じると同時に、顔の切り傷が自己主張を始める。
「いっ……!?」
見ると傷口がまた広がったらしく、浅黒い血がそこから滴る。
ここは……? どこだ?
記憶を探るけど、霧がかかったような脳内でいったい何が起こったのか判別するにはまだ時間がかかりそうだった。ただ一つ覚えているのは、最期の瞬間僕は誰かに手を伸ばしていたこと……。
起き上がる。ずぶ濡れの体は川の生臭さが染みついていて、やっぱり流されたのかと落胆した気持ちになる。
体のあちこちが痛むけど、それでも僕が手を伸ばした誰かを探して一歩を踏み出す。
ここはどこかの森の中らしい。あたりを見渡す見慣れない僕に、驚いた鳥たちが木々から一斉に飛び立つ。
見渡す限り民家はない。僕の足元に流れる川以外水源も見当たらない。そして残念なことにもうすでに日没だ。助けを求めて歩こうにも、こんなところで夜道を歩いては逆に危険だ。
遭難した時に大事なことは三つ。
「水源、シェルター、食料。炎もあるとなお可」
去年行かされた研修で嫌というほど復唱されたサバイバル知識が役に立つ日が来ようとは……。
とりあえず、寒い。じゃりっと音を立てる川岸を歩きながら枯れ木を探してさまよう。
歩きながらスマホの存在を思い出して、ポケットをまさぐって電源を入れてみたけど、案の定ダメだった。
枯れ木とついでに使えると思いペットボトルも数本拾う。環境破壊だなんて騒がれているけど、こんな時に活躍できるなんてゴミたちも皮肉なもんだ。
視界の端で、蛍光色の何かが映って思い出す。
「さくらちゃん!」
駆け寄る僕に彼女はなんの反応も示してくれなかった。
もしかして、まさかそんな……!。
僕の心臓が一瞬だけ、動きを止めた。目の前の桜ちゃんをあきらめてしまった。救えなかった。守れなかった。その後悔と自責で、僕は膝を折って祈るように確認する。
まだ、息がありますように。そう願いを込めて。
「ん……」
口元に耳を寄せた僕に、彼女は少しだけ息を漏らしてくれた。生きている。僕はその五文字を心に刻み、ほっとする。
本当に良かった。そう思うと、少しだけ涙が出てきそうになって我に返る。こんな姿こんな小さい子に見せるわけにはいかない。深呼吸を一つ、心を落ち着かせて再び立ち上がる僕がとるべき行動。
――となると次は……。
田舎に生まれてよかった思ったことは一度もなかったけど、感を頼りに森のほうに歩をすすめていた甲斐があった。ちょうど木々の切れ目にけもの道があり、その先にどうやら小屋があるらしい。
僕はその場にとりあえず拾ってきたものを置いて、まだ意識のないさくらちゃんを抱きかかえて小屋に向かうことにした。
1時間そこらでどうにかなるとは思えないけど、とりあえず……。
今晩の夕飯は魚にしたい、というかとれるものがあるとすればそんなものだろう。祈りながらペットボトルで作成した即席の罠を川底に沈める。でも、鉄砲水の後って川魚たちはどうしているんだろう?
さくらちゃんを置いてきた小屋は半壊していた。どうやらこの集落はもう廃村らしく、誰もいない。試しに大声で一回だけ助けを求めてみたけど、誰からもなんの返事もないし、助けだって来なかった。天井だって今日は満点の星空が楽しめるくらいに豪快に開いている。僕らは今日この大草原のちいさなぼろ屋に一晩泊まる以外の手段がなさそうだった。
あと数分もすれば完全に日没。こんな森の中小さな女の子に暗闇を味合わせるわけにもいかない。即席で作り上げた火起こし器、研修から一年もブランクがあるけど文句は言ってられない。僕は早くも血がにじみ出した両手をまたこすり合わせる。
「気が付いた?」
まだ曖昧な記憶に瞼をパチクリさせる彼女は、まだ今状況を飲み込めないらしい。
「……ここは?」口にする彼女はすぐに眉間に皺を寄せて僕を睨む。
「流されたんだよ。僕ら。まぁ今日はここに泊まろう。もう暗いし」
何とか奇跡的に火を起こすことができたのは、僕の頑張りのおかげじゃない。小屋の中の引き出しにまだ使われていない電池があって、桜ちゃんの持ち物の中にガムがあった。それだけの事。もちろん彼女にはそのことは内緒だ。
小さな炎が二人の間で風に揺れる。そのたびに二人の影も。
「なんでまたあんなことしたの?」
あんなこと。僕は折れやしないかと心配した指を思い出す。
彼女は僕の質問にだんまりを決めてしまっている。それどころか敵を前にした彼女は身をすくめてまるで小動物のように身を縮めて警戒さえしている。
「あんたに答える義務はない」
僕から目をそらす彼女はそれだけ口にする。
「それより」
会話もろくに続かないことを予想していた僕は、彼女が何か口にすることに少し驚いて、串刺しにして焼いている魚をひっくり返す手を思わず止める。
「なんで私を助けたの?」
助けた。そんな大げさな感覚はなかった。小さな女の子が全身ずぶ寝れで、放っておいたら風邪をひいてしまう。しいて言うならその程度の理由。
「風邪ひくでしょ?」
「そうだけど……」
「だけど?」
所長の娘だから助けましたって言葉を望んでいるのだろうか。こんなところでさえ所長のことを考えていてはすぐに自滅して精神を病んでしまうから、僕は門倉さんとは呼ばない。
「私はあんたの敵なのよ!? それをこんな……」
「こんな?」
「……バカ」
ふと見上げた天井はほとんど意味をなしていない。雨さえ降らなければ、逆に楽しいキャンプかもしれない。考えるそばから流星群が降り注ぐ。
「君が僕を敵視しているのはわかる。どうしてかはわからないけど……。別にこれを機に僕の見方をしてほしいとは思はないよ。ただ、あんなところに君みたいな子供を放置しておいて行けるほど僕は人間として腐ってはいなかったらしい」
「……自覚はあるんだ?」
「大人なんて大抵そうだよ。経験あるんじゃない? 約束ほったらかしにされたとか」
思慮が足りなかった自覚はなかった。ただ話の流れで自分が思ったことを無責任に放ってしまっていた。
「ぱぱ……」
しまった、ここで、休みの日にまであの所長の話を聞くことになろうとは……。僕は取り急ぎ石と土で固定してある串刺しの魚をひっくり返して、忙しいそぶりを醸し出す。汚い手段かもしれないけど、僕はあまり聞きたくなかった。
「パパは、毎日仕事ばっかり……あんた今うちのパパの悪口言ったんだからね、覚えておきなさい」
背筋がぞっとした。年上を脅迫するなんて恐ろしい子だ。こんな状況でなければ絶対に関わることのない末恐ろしい子供に僕は一瞬おびえてしまった。
「……本当はママだっていたのに」
視線を伏せたさくらちゃんの瞳に、小さな炎が映りこんだ。
「ね、どうしてあんたは結婚しないの?」
話の方向は変わってくれたけど、これまた答えずらい質問だ。でも、所長の話よりはマシか……。
「……どうしてだろうね。僕もよくわからないんだ。僕なりに働いてお金稼いで、社会に馴染もうって大人になろうってここまで来たのに、僕だけ変わることができなかった。多分結婚しないんじゃなくて、もとからその機能が僕にはついてないだけなんだ」
「でも梢おねぇちゃんは好きなんでしょ?」
言葉に詰まる。バツが悪くてさっき返したばかりの川魚を見つめ、観念する。
「……どうかな。一緒にいて楽しいとは思うけど」
否定ではない、肯定でも……。認めたくない気持ちはあった。でも、それも否定することはできない矛盾が、いまここにこうして僕がいることで立証されている。それを桜ちゃんはきっと知らない。
「友達なの? どうなの」
「どうして君にそこまで話さないとならない? 角倉所長?」言ってから心の中で黒いものがうごめいた。
「あたし、あんたを監視するようにいわれてきてるの。だからこの際聞いとこうと思って」
梢が僕にとって友達かどうか、そもそも僕の中で梢に対して何らかの意味合いを持たせたことがない。梢は梢。
「別に本当は、あんたが梢おねぇちゃんをどう思おうが私には構わないの。でも、本当に好きならちゃんと向き合ってほしいっていうか」
「角倉所長……パパの命令に背くつもりなの?」
「パパは私に関心はない。見てればわかるよ。……本当はパパの期待にこたえたいけど」
どうも桜ちゃんはさっきから僕の視線から逃れるように右往左往と視線を移しては、地面ばかりを眺めている気がしていた。
会社にいるときは常に仕事の話ばかりをしている所長の事だ。きっとさくらちゃんのことは無関心なんだろう。
「なんだか結婚て大変そうだなぁ」
「……子供育てんのは相当大変見たい。ママ、それが嫌で家出ちゃったし」
ネグレクトという言葉が思い浮かんだ。育児放棄だなんて不衛生なイメージしかないそれとさくらちゃんが無関係であることを願う。寒くてろくに掃除されていない部屋に一人取り残されるさくらちゃん。所長はきっとギリギリまで家庭に加担はしなかったはずだ。僕らに嫌がらせはするけど、仕事に手を抜くような人じゃない。
もしかしたら、さくらちゃんは僕なんかが関与していいような生ぬるい環境で育った子じゃないのかもしれない。
と、さくらちゃんに関する情報を勝手に僕の中で整理した瞬間だった。
タイミングを計ったかのようなはっきりとした音量で、桜ちゃんのおなかのあたりからアヒルの鳴き声に似た音がして彼女は顔を赤くした。
「僕は結婚したことないし、子供もいない。だから子育ての苦労なんて知らない。君の言う通りもしかしたら好きな人くらいはいるのかもしれないけど、少なくとも僕は自分の子供じゃなくても近くにいる自分より力のない人間には手を差し伸べてあげたいかな……。可哀そうだなんんて言葉、好きじゃないかもしれないけどさ」
程よく焼けた魚からは薄っすら白い湯気が立っている。僕は二匹焼いたもののうち一つを彼女に差しだした。
「……よくとれたわね。素人がそうそうとれるものとは思えないけど」
「まぁ、角倉所長のおかげというか……。新人研修で無人島で二人きりで二泊三日のサバイバルしたんだ。わけわかんないでしょ? ……僕以外の新人はそれ知った瞬間にみんな辞めちゃった」
本当は僕だってこんな仕事と関係のなさそうな行事、全く理解が出来なかった。会社の同期は、その知らせがあった日こそ愛想笑いを浮かべてサバイバル研修に意欲的だったけど、当日を迎えるとそいつは音信不通になってしまった。
角倉所長は「根性のないやつだ。そういった人間が毎年何人と辞めていく」とため息交じりに言ってたっけ。
今思えば、そんなことをしているから婚期を逃すんだ。もっと自分らしく振舞えたら、もっと自分の欲求に素直になれたら……。
僕とさくらちゃんとの間にある炎は一定の火力を保ちながら小さく燃えている。廃村というだけあって、あたりは燃料だらけな上に昔は竈を使っていたらしく、使いきれなかった乾いた薪が山のように瓦礫の脇に重なっていたのでそれを利用して暖を取っている。
「……それって本当に必要なことだったの?」
「まぁ、あの会社に勤めるには必要なことなんじゃないのかな?」
「そうじゃなくて。あんた、なんのために働いてんの?」
「えっ?」
「そんなんだから婚期も逃すのよ。……まぁ、あたしはそのおかげでこうして暮らしていけるのかもしれないけど」
自分のために働け。そんなこと言ってくれる人はこの人生で誰もいなかった。
「……今度は婚期逃さないようにしなさいよ。梢さん、あんたの事気に入ってるみたいだから」
話の合間で薪を足そうとした手が思わず止まる。今、何ていった?
「パパにはあんたのことを監視しろって言われたけど、もういいや。アンタがこうなってしまったのはチャンスを逃させていた会社が悪い」
「ありがとう……?」
「もう、あんたはっきり見定めなさいよ! 戦うべきは何!? あんたを犠牲にした会社? それを良しとしたパパ? それに協力しようとした私? 何かを得ようとするには結局戦って勝ち取らなきゃならないのよ?」
人生初めて鉄砲水に流された日、僕は小学生に説教を受けている。
無視もできたはずだ。ちゃんと風邪をひかないように暖を確保して、獣に襲われないように囲ってあげて、寂しくないようにそばにいてあげればそれで。
僕がそうしなかったのは、彼女が僕の靄がかかった心の街の中を探し回ってくれたからなのかもしれない。
社会の波に翻弄されて、自分をなくして迷子になった僕を呼ぶ声に耳を傾けたかったのかもしれない。
火はまだ燃えているし、その明かりは例え森の中といえど見えるはずで、いくら火を扱う人間を知って何世代も森のなかで暮らす熊と言えど火の恐怖に対する耐性はないはず。
要するに油断していた。そして熊の接近を許してしまった僕には何の対策もなかった。
「「……ごめん」」
周囲の森に意識を回していた僕は、さくらちゃんの不意な一言に意識を割いた。
見ると彼女はどういうわけか顔を硬直させてうつむいていた。
「もしかして今の猛獣の唸り声みたいなのって……」
「私だって人間なんだから、おなかぐらいすくわよ……」むくれながらそういう彼女は、なんだか年相応の幼い少女でいつもみたいな勝気さが消えていてほんの少しだけかわいく思えてしまう。
「食べる? 研修、無駄じゃなかった見たいで拾ったペットボトルで作った罠でとったんだよ。何が役にたつかわからないよね人生って」
焼き目のついた魚は、魚の油で表面が泡立っている。僕はバーベキューなんて人生が充実している人たちがするようなことはしたことがない。けど、こうして誰かと外でとれたものを食べるのも悪くない。僕の手から焼いた山女を受け取る桜ちゃんを見るとそう思えてくる。
「ありがと」
「どういたしまして」
ペットボトルでとれる魚は対して大きくない。注ぎ口程度の太さで、使うペットボトルの半分ほどの大きさの物しか入らないからだ。火は通してあるけど、味付け何てできるはずもなく……。朽ち果てたこの家をもう少し探索すればもしかしたら何かしら発見があるかもしれないけど、賞味期限を考えると使う気になれなかった。
それでも彼女は大層おいしいものをもらったかのような爛々とした瞳でそれを頬張る。
「こういうことなんじゃない?」
「何が?」僕も彼女に倣い、かぶりつこうと地面に突き刺した串刺しの魚を手に持った瞬間だった。
「あんたと梢さんとその旦那さんとの関係。もしかしたら不謹慎かもしれないけど」
状況がうまく呑み込めず、しばらくぽかんと魚のように口を開くことしかできない僕に、少しだけあきれた表情で「だからさ」と彼女はまた口を開いた。
「あんたはどうして私にこれをくれようとしたの?」
「可哀そうだから……?」
「もらったあたしはどういう事情にせよ、うれしく思っている」
「そりゃどうも」
「……だからそれでいいんじゃない? もちろんそれを梢さんがどうとらえるかはわからないし、十中八九あまりいい印象をもたないとは思うけど。あんたにとってはこれは大きなチャンスで、あんたが幸せならそれで」
「……認めてくれるの?」
「公認じゃない。でも、他人の目なんか気にしてたら人生棒に振るだけよ」
「なら、君も……」
僕は少し深く息を吸い、ふと思ったことを口にする。
「君も誰のことも気にしないでもっとお父さんに甘えたらどうかな? まだ小学生なんだし」
今度は彼女がぽかんとしてた。
「ありがと。まさかあんたにそんな事言われると思わなかったから」
夜のとばりは瞬く間に降りて行き、彼女は苔の生えた地べたに丸くなって寝てしまった。それを見届けた僕も、それで体が満足したらしく気が付いたら座ったまま朝を迎えていた。
運がよかったのは、翌日は目を見張るような晴天で、近くの町で防火訓練をしていたこと。僕らを一晩見守ってくれていた炎がのろしになって自動的に救難信号になっていたらしく、小鳥のさえずりに起こされた僕が真っ先に目にしたのは、血相変えて走ってくる関係者の人の姿だった。
僕は梢になにもしていない。
この件はその事実を残して終わるはずだった。




