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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

不思議不可思議短編集

どうか、ミノタウロスよ救われて


 時は今か昔か、はたまた人の知らない夢の時間か。

 場所は西洋か東洋か、或いは遠く離れた並び立ち、共に駆ける世界のいずれか。


 そんなあやふやな場所にダンブルドンという小さな村があった。

 羽を持った小さく若緑の妖精が朗らかに空を飛び、牧歌的な風景に石レンガの建物が溶け込んでいる。

 河は陽の光を浴び、せせらぎの音を輝かせ、山は雲を押し上げ、峰は横たわっている。


「とこしえの森、罪流す雨の大河、繁栄の花は咲き誇り、けんなる人は狂い咲く、それがダンブルドン、無垢なる花園」


 そう口ずさんだ僅かな詩に小鳥たちも囀る。

 尖塔の石柵に肘をついていた手を止まり木にして、妖精のように面白げに彼らもピーピーと歌った。


「そんな歌を歌うな、耳が腐りそうだ」


 バルコニーに出ている俺を後ろから指さすように、この白日の下にはその姿を晒したくなさげに一人の老人が尖塔の中からしゃがれた声を出していた。


 誰もそうとは呼ばないけれど、

 誰にも好かれてないけれど、

 俺はこう呼ぶ、ダンブルトンの鍛治師、と。


「鍛治師さんの体は鋼鉄でできていると聞くけど。それでも腐るものなのかい?」


「体が鉄でできていようと、肉でできていようと、魂が腐るのは皆平等だ。そんな歌を歌ってたらロクな大人にならんぞ」


「鍛治師さんにはどうでもいいことかもしれないけど、もう俺も十八にもなって大人だよ」


 歌をやめた小鳥が止まり木から飛び立つと、俺はその両手両足を目一杯伸ばして、鍛治師の前でガタイの大きさを示した。


 ダンブルトンの消防士。

 ただ一人のファイヤーファイター。


 ダンブルトンの色んな火を潜ってこの体は錬鉄されたように強くなった。そのお墨付きを目の前の鉄職人につけて欲しいくらいだ。


「図体だけはデカくなりやがったな……」


「他も色々大きくなったさ」


「脳みそだけは小さいままかもな」


「んな!?」


 煤を被った鉄の家。

 灰を降らせる炎の筵。


 唯一の鍛冶師だけど、その家からはいつも炎と鉄が飛ぶ煤の煙が鱗粉のように囲んでいて村の人からは嫌われている。


 鉄が嫌い。

 炎も嫌い。

 透明で青い空を汚すシミのような煙は大っ嫌い。

 なによりあの偏屈な性格が大大ッ嫌い。


 平和な村なんだ。

 けれど、鍛冶師さんは鍛冶師だから刀を作ったり、鎧を作ったりしている。

 誰も買わないはずなのに、どこにも選ばれた戦士はいないのに。


「……鍛冶師さんはいつまで鍛冶師でいるの?」


「……さぁな」


 その言葉を残して尖塔の中の螺旋階段をヒタヒタと降りる足音が下へ下へと向かっていた。


 俺もその後をついていく。

 螺旋の渦はとにかく深い。


 尖塔は高く、雲を突く槍のよう。


 村の人たちは槍なんて見たことがないだろうから、そんなことは思わないだろうけど、その形は本当に鍛治師さんが作った鉄の槍のようだった。


 もしかしたら、成り立ちは逆なのかもしれないけど、彼が嫌いなこの村のものを真似たとはそうそう思えない。


「ここは永久に争いの起こらない平和な村だよ。他所がどうかは知らないけど、武器なんて作ったってどうにもならない村だ。それなのに、なんで?」


「永久に争いの起こらない平和な村ね。ダンブルドン、無垢なる楽園。ここの人間は皆そう言うが、俺からしてみればどうと言うことはない。苦しみから逃避してるだけだ」


「苦しまないならそれでいいじゃないか。誰もが平和に暮らせてる。裕福じゃなくとも、ここには幸福が溢れてる。花屋の笑顔を見たことある? 木こりの楽しい話は聞いた?」


「さぁな、知らねえよ」


 一蹴。

 そして螺旋階段を雪崩れるように降りていく。


「お前が歌うあの腐った歌、あれに出てくる森と河のことを知れば、この村が如何に業深いかは分かるだろうよ」


 そこで鍛治師の姿は完全に闇へと消える。

 螺旋の渦に飲み込まれて、あるはずの底を抜けて、大地の内殻に潜り込んだのか。


 俺はその後に問いたかったことも言えずに、尖塔を出た。


 見渡す限りの青空。

 万物を照らす命の太陽。

 罪流す雨の大河。

 とこしえの森。


「河と森……眠りと流れは罪を帳消しにしてくれるさ。それに……」


「なにより綺麗なところだろ」


 彼が罵る大河も森も、ここから見える絶景だった。

 ああ言われると気分がいいものではなかったけれど。

 河上から今日もまた流れてきていた。








 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 





 

 村の中。

 敷石に弾かれる靴の音。

 カッポカッポと軽快な音を鳴らして、まばらなリズムを取る。

 俺の靴は踵に鍛治師さんが作ってくれたどんな岩道でも足裏を怪我しない靴のおかげで他の人より変な音が鳴る。


 鉄臭い音。意識しないと聞き分けられない。


「こんにちはアステリオス、今日もいい天気ね!」


 村の商店通りで出会ったのは村娘の一人、くるりと癖のある赤毛とそばかすが可愛らしいウンディーネだった。


「やぁ、ウンディーネ。いつもながらだけど、今日は人一倍元気だね」


「えぇ、今日はちょっとしたパーティーを開くつもりなのよ! そのためにたくさん料理を作るの!」


「お祝い事……君の妹、ローレライの誕生日はまだ先じゃなかったかい?」


「あはは! アステリオスったら! パーティーをなんでもない日に開いちゃダメってルールはないでしょ? 毎日がパーティーだと楽しいと思ってねみんなを招待するのよ!」


「そうか、皆んなを……」


 彼女のパーティーはきっと楽しいものだろう。

 夜更けの大地に火が灯り、静寂な村に豊かな笑い声と歌が響く。みんながみんな焚き火を囲んで踊り、この村がその瞬間だけは1番輝かしく賑やかしい星になる。


 けれど、そこに彼はいない。


 闇に溶け込み、影を飲み込む彼は。


「『そのみんなの中に鍛治師さんは入ってないんだろうなぁ』って顔してるわね?」


 赤い植物のような髪が目に入りそうなほど近くに寄って、ウンディーネが湖のような目に疑念を込めて俺を見た。疑念というよりは確信に近いものだったか。


 湖面にはまさしく俺の顔が映る。

 図星を突かれて、動揺しているわかりやすい顔。


 我ながらに色が出やすい顔である。


 ここで言い返さなかったら、自分の中の何かが負けてしまうと思って、ただの村娘相手に強がりながら辿々しく答えた。


「そんなこと、まぁ、あるけど」


 嘘もつけないし、取り繕っても無駄だろう。

 俺がそう言うとウンディーネは深くため息をついて、俺の胸を掌で叩いた。


「あなたって人は、そればかり! 駄目だわアステリオス、あなたは勇敢にも炎に立ち向かう消防士。この村きっての度胸もの。けれど、その勇敢さを彼に共感するために使ってはダメなの。あなたは勇敢なアステリオス、蛮勇な戦士じゃないでしょ?」


「俺は確かに戦士じゃないよ、けれど火に立ち向かうのも『戦い』だ。最近は雷も落ちないから、とこしえの森にも、この村にも火事はないけど、それでもこの村を守る男だろ」


 同い年相手とは言え、こうも女の子に強気に反論している自分が恥ずかしくなってきた。けどやっぱりそれだけ固執しなければならない宝石のように繊細で硬い思いが自分の心に宿ってる気がした。


 語気が強かったのか、ウンディーネがひとしきり黙ってしまった。俺にはその沈黙がまずいように感じられた。


 湖面の瞳が揺れることなく暗くなる。

 青色が緑がかったかと思えば深い色へと変わっていく。


「鬼火退治のアステリオス、平和の守護者アステリオス。誰もが愛する人気者、子供を助ける英雄さん……あなたは嫌われ者の鉄臭い老いぼれとは違うのよ」


 さっきまでの笑顔が消えて、陽の暑さでかいた汗の雫がゆっくりと顔の輪郭を伝って落ちてった。


 彼女の諭すような冷え切った声が妙に不気味に感じられた。


 でも分かる。

 俺と彼は確かに違う。


 火を起こして作る者。

 火を消して守る者。


 本当は俺もなりたかったのはあっちだけれど、正義の英雄にもなりたくて、だから色々混ざってこうなって始まった。


 だから確かに違う。

 違うなりにも同じところはちょっとあるかも知れない。


「違う……違うよ、ウンディーネ。鍛治師さんは鉄臭くて、嫌味は言うけど、たまに」


 言おうとして気づいた。

 話が白熱すると聞こえなくなるこの馬鹿耳でも、なぜかそれらの話は聞けてしまった。


 眼前の彼女がこうも態度を変えたのはもっと前からこんな話し声たちが聞こえていたからかも知れない。


(まーたアステリオスがあの老いぼれに肩入れしてるよ、いい加減に奴のことをまともにみれねーもんかな)


(噂だけど、アステリオスはあの鍛治師に惚れてるらしいぞ……)


(そりゃあ村娘たちは可哀想ってもんだ……あんな老いぼれ野郎にプリンスを取られて……)


 声が怖い。

 鋭くもなく、熱くもない。

 冷えた砂漠の砂を全身にかかられているようだ。

 

 渦巻く負の心に取り憑かれ、俺は咄嗟に耳を押さえたくなった。


 けれど、その手を別の手が掴むんだ。


「私の愛しいアステリオス。あなたは人一倍無垢だから、何にも染まっちゃう。本当に可愛い人……煤けた色にならないように気をつけて」


 動けない俺の隣を彼女はゆっくりと過ぎ去っていく。握ったばかりの手を捨て置くようにして。

 カゴいっぱいの食材を重くなさそうに抱えて、もっと冷たい言葉を吐く。


「みんなの人気者じゃなくなったら……あなたを好く人なんていなくなっちゃうんだから」


 あぁ、暑い。


 あぁ、寒い。


 でも、こんなことなら、炎の中にでも飛び込んでしまいたい。






 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 尖塔は投錨されたままそこにある。

 全てに開かれて、自由を許しているのに、ここに踏み入るのは俺とあの黒き鉄人だけ。


 誰も来ない。誰も求めない。


 夕焼けの空。

 焦土と化した空の下。

 飛ぶ烏たちの鳴き声を憂愁として聞く。


 ホライゾンの下をくぐる前の太陽が一番綺麗に見える。しかしながら、あの山の向こう、なだらかな向こう側へと消えて夜を置いていくあの陽は憎らしくてたまらない。


 熱を帯びた空気も死に絶えるように涼やかになる。

 眼下に広がる村には炎の灯りがちらちらと弾ける。

 ウンディーネの家の庭の炎が一番大きくて、聞こえてくる酔っ払いの嬌声に耳を塞ぎたくなった。


「鬼火退治のアステリオス、平和の守護者アステリオス。誰もが愛する人気者……」


 口ずさんでも砂を噛むようだ。

 冷たい心に押し当てられたとても熱い烙印。

 

「………………嘘つき」


 恨みか、歎きか。


 幻想をそのまま世界に張り付けたような世界。それは良い意味でも、悪い意味でもそうだ。

 騙され続けなければ、信じ続けなければ、この閉じた世界は綺麗なままを保てない。


 けれども、俺は知ってしまった。

 何故か今日という日に目覚めてしまった。


 荘厳な結界の中で発生した唯一の誤りとなった。

 どうしてこんなに虚しくなるんだろう。自分のやってきた正義が全て虚しく感じる。

 

 結局俺もこの村もこの『美しい世界』のために清廉で、潔白な信徒のように振舞うしかなかったのか。


 星の暗がりを鮮やかに照らすあのきらめきを呪う。


 それでも、この清廉で神聖な世界に呪いなんてただの汚れみたく、雨と一緒に川に流されてしまうのだ。


 そして、明くる日には全部なかったかのように、さっぱりと晴れ渡る空の下、子供たちと一緒に踊ってしまう。これ以上ない笑顔を浮かべながら。


 かみ合わない側面たちの葛藤が自分の中で酩酊したように火花を散らす。

 

「お前に嫌われたらこの村もお終いだろうな。なぁ平和の守護者さん。やつらの平和の象徴にされて、担がれて、やっと自分がいなくても『平和』が続くと気づいたかい?」


 黒き鋼鉄の刀。

 悩みなんかじゃ鈍にならない完ぺきな刀を作る灼熱の人。


 陽に照らされた黄金色の顔を見ると、自分の中の弱気な心を見透かされているようで、顔を太陽に向きなおさせるしかなかった。


「火の手が上がれば、俺が必要だ。俺は平和の守護者なんだから」


「その火の手とやらもここいらじゃ全然上がらねーな」


 図星を突かれて言い淀む。


 英雄は怪物がいなければ英雄とならない。

 どんなに力を持っていても、今では確かに意味はない。


 火は自然の手を離れて、この妖精村の人間の手に落ちた。ともに失墜することになったサラマンダーとイフリータの気持ちは嫌でも察せる。事実彼ら彼女らと俺は同じなのだ。炎の衰退、従属と共に閉じたこの箱庭では行きつく先すらなくなってしまったガラクタ。


 人気者でないと、新しい役割につかないと、次を目指さないと、死んでしまう、殺されてしまう。


 役目を終えた古い概念は刷新されて、転輪せねばならないから。


 こうやって何度も輪廻転生をなぞるのだ。

 まるでアリアドネの迷宮、彷徨う牛鬼のアステリオス(ミノタウロス)


 輝く者の名を剥奪されてしまったら、きっと殺されてしまう。


 村人たちの声が、嫌悪の視線が足元から蘇って、俺の身体を雁字搦めにして閉じ込める。

 それは恐ろしいほどに順当で、気持ち悪いほど清らかなのだ。


「……子供の頃は本当にいい村だと思ってたんだ。みんな笑顔で、どこも平和で。けれど大人になって、その幻想の生垣を超えると、見える景色がおかしくなってきた。笑顔の裏も、平和の下も」


 あらゆる罪は許されない、例えそれが原罪だったとしても。

 それがこの妖精閉塞世界。みんな人間を辞めて妖精に成り代わらなければいけないほど、罪に溢れていたかつての流罪の地。


 ダンブルトン、無垢なる楽園。

 正義なんて一律にならないものがない。だから罪がない、それだけの村。


 犯した罪は川でまるで洗濯でもするように簡単に洗礼されてしまう。或いは森に埋められてしまう。


「本当は知ってたんだ、とこしえに『眠る』森のことも、『罪人を』流す雨の大河のことも。この村は罪を流している、清算はないままに。けど、それが無垢な楽園の真実」


「それを知ってるなら話ははやいだろ」


 鍛冶師さんの瞳は夕焼け色に染まらない。

 真摯に汚れたものも綺麗なものも見分ける審美の薄緑の眼。


 その眼が好きだった。諂いの笑みにも、衆愚的な嫌悪にも歪まない凛とした目線。


 鉄の眼、腐らない眼。

 あぁ、俺の敬愛するあなた。


「アステリオス……お前は早くこの村を出ろ。旅に出て広い空の果てを見つけてこい。俺は外から来たドワーフ、一度工房を建てちまうとそうそう離れられない性だが、お前なら何処へとも行ける」


 何処へでも。

 ならば行ってみたいとは思う。あの太陽がどこに沈むのか。月がどこから起き上がるのか。

 それが世界の果てだというなら、星の彼方すらアステリオスの名に相応しく輝きをもって行きたい。


 けど、

 それは叶わないはず。


「黄金の海、鏡の森、泡立つ島、迷宮都市、世界はお前の知らないことだらけだ。この停滞の村はその世界のたった1ピースに過ぎない。自分の目でもっと世界を見なけりゃ、何が正しくて、何が悪いのかなんてわからずじまいだ」


 正しさなんてもう知りたくない。

 悪なんてもっと知りたくない。


 自分の中にある青少年的な欲がはけ口を求めて、渦巻く。本能が答えを囁くけど、自我がそれを切り刻む。重みのある愛が痛みを伴って膨らんでいく。


 生唾を飲んで、震える子供のような声で、鍛冶師に求める。


「他にも俺はもっと知らないことを知るべきなのかも知れない。だから、行くなら一緒がいいよ。俺の本当の友達はまだ鍛治師さんしか知らないんだ」


「俺の名前も知らねーくせに友達ぶるんじゃねぇやい……安心しろ。俺は長生きな身だ。お前が会いたい時にこっそり会いにくればいい。あの尖塔には俺とお前しか来ないだろ。そこに行けば俺に会えるさ」


「それでも、無理だよ……外は怖い。だってここ以上に恐ろしく、痛いかも知れないから」


 怖がりなアステリオス。

 暗闇びびりのアステリオス。


 だから、輝く者(アステリオス)を与えられたのに、それでも愛を求めて、彷徨う迷宮牛鬼。


 子供のように、目の前の鍛冶師に親愛を求める。


「自分の中に現れる幻想は打ち砕いても湧いてきやがる。だから、現実を見ろ、何も怖がらなくていいと安心しろ」


「安心なんて簡単に言わないでよ、誰もいない暗闇がどれほど怖いことか。俺が消防士になったのだってみんなから好かれるためだったんだ。火の中よりも、崩れる瓦礫の中よりも、孤独の中が、怖かった……だから、必死に、目を瞑ってやってきたんだ」


 彼の鼓舞でも中々暗闇は崩れない。冷たい冷たい床の上、前後不覚で彷徨う恐怖はたまらない。

 ダイダロスの作った迷宮はそう、光すら通さない永久の迷宮。暗闇とはそこを這うようなものだ。


 鍛冶師はそこに光を点けるように、言う。

 彼の言葉が体を温める。


「始まりはみんな孤独だ。だから仲間を求めて彷徨ってる。お前が迷宮にいるなら、いつか誰かが手を差し伸べてくれる。それは俺じゃない全く新しい誰かさんだ」


「全く新しい、誰か……」


 出会いというのはいいものなのだろうか?

 新しい人、鍛治師さんやウンディーネ、ローレライとは違った人。

 何もかも違うかもしれない。


 あんな風にいう人じゃないかもしれない。

 鍛治師さんみたく優しい人じゃないかもしれない。


「恐怖はあるだろう。人は恐怖と共に生きてる。だけど、恐怖に支配されたまま生きるのは違う」


 陽光は境界の向こうへと消え去った。

 彼方からの声も次第に遠くなり、星々が煌めいた。


「その両手は暗闇を探るため、その両足は新天地を踏み抱くためにあると知れ」


 ……決心はつかなかった。

 諭されて、流されて。いまだに恐怖は残ってる。


 この村はいずれ絶望の園に変わるように思えるが、今は清水の如き楽園だ。だから離れ難くも思えるかもしれない。


 けれど、いつかは旅立ちの日が来る。

 それは俺の役目が潰えたとき、この村に必要とされなくなったとき。


 炎と鋤が俺を切り裂き焼き尽くし、その身は下流へと消えていく運命にあったはず。


 そんなこの村の煙よりも黒く汚れた側面が現出する前に鍛治師さんは俺を送り出そうとしてくれたのだろう。


 今日もあの人は厳しく、そして、優しかった。






 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇







 炎の歌。


 安静の夜。


 祭りの匂い。


 人々の笑い声。


 響く。響く。響く。


 切なく、響く。


 一人の男の木の枝の山の上に鎮座している。いや、山の山頂に縛り付けられ、身動きが取れないようにされている。


 男、ダンブルトンの鍛治師は真夜中、炎の宴の主賓として参上させられたのだった。


 キラキラと輝くのは星々。

 ギラギラと鋭いのは双眸。


 街の妖精たちが揃い踏みで、木山の上の鍛治師を恨みがましく睨んでいた。


「アステリオスを誑かす悪いドワーフ。鉄の武器で街を戦火に導こうとしたヘウァイストスの煤埃。私たちがいる限り戦争に関わる悪徳、罪業は許さないわ」


 ウンディーネが高らかに宣言すると、妖精たちは歓喜して共に叫ぶ。その唸り声は狼のそれの如く山を超えて響き渡った。


 誘拐され、このように処刑されそうになっても、ダンブルトンの鍛治師はその表情を鉄仮面のように少しばかりも変えはしない。


「俺が戦争を企ててる証拠なんてどうせ武器の製造くらいなものだろうが、まぁどのみち魔女裁判だ。言い訳したって無駄なんだろ?」


「あら、物分かりがいいのね。今更あなたが何を言ってももう処刑は決まり切った運命、平和のためを思うなら、石の下で眠りなさい」


「あぁ、そうかい。お前たちほどに団結力のある外道が渡されてもない武器のせいで、争うとは思ってなかったさ」


「戯言は結構よ。さぁ、火をつけて! 聖なる火が火の粉となって星となる。あなたの悪を浄化してね」


 メラメラと燃える炎。

 

 炎の山は勢いをすぐさま増して、空を照らす大きな灯りになる。


 村の希望を体現したような炎の輝き。

 囲んだ村人達の笑い声も、その影も、大きく大きく尾を引いている。


 囲んで、回って、激しく踊る。


 燃えろよ、燃えろ。

 月まで焦せ聖なる炎。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 遠くに見える炎の影。

 星の海すら霞むほどの大きな影。


 それが今、俺の逃げ出す暗き森にすら忍び寄ろうとしているようだった。


「……炎がやけに大きく見える」


 火事ではないとは分かるけど、ウンディーネが催しただけの祭りの炎にしては大きい気がした。


 肌で感じる焼けつく嫌な予感。


「いや、いや……これも俺が怖がってるだけだ……」


 そう言い聞かせて、森の中に消えようとする。

 嫌な予感が肌を焦がすような痛みになってる気がした。

 森の汗ばむ暑さに恐ろしくなる。


 しかし、次の瞬間には恐怖を振り払って目を見開いてしまった。


 炎の色が一瞬だけ、鮮緑に光ったのだ。


「あれは……あの色は……!」


 昔に鍛治師さんに見せてもらった金属がもたらす鮮やかな火花の色。


 あんな色、鍛治師さんしか出せるわけがない。


 珍しい金属が燃える色、その鮮明が脳裏に刻まれる。

 汗を拭うことも、瞼を閉じることができないまま、転げ落ちる野獣のように森を抜けて、あの炎の原因に当たろうと駆けた。


 恐怖も、不安も、今は心臓の音より遅い。


 足の骨が軋んでも、肺と横腹に激痛が走っても、一心不乱にあそこに行かなければならないという使命感だけが俺を突き動かせた。


 走れ、走れ!


 間に合わなかったら、最悪のことが起こってたら、そんな言葉が共に起こる。只追いつかれないように、考えるよりも先に足が出ていた。自分の足元からなる安寧の鈴の音も今は歪んで聞こえた。


 暗闇を駆けて。

 無闇に走って。


 転げ落ちても、火の光は狂うように煌めいてる。


 あの鮮烈な輝きが目を奪った。それが視界をどんな暗闇よりも暗くしてしまう。

 前後も左右も形は分からない。あの炎だけに誘われて、森を抜けた匂いを感じ取ったら、構わず夜のその先へ。


 高所から降りて、きっと家屋に炎は遮られたはずなのに、それでも暗闇に染まった視界の中、一点に、あらゆる障害を越えてその輝きで道を導の如く示してくれた。

 走れ、と鼓動が叫ぶ。山を駆け下りた分の疲れは持ち越して、膨張して躍動する両脚を、コヨーテのように素早く動かした。


 聞こえてきた。

 炎は、もう目の前に。


 炎と闇に覆われた目の代わりに、耳が煤けた声を拾い集めた。


 殺せ! 殺せ! 殺せ!


 燃えろ! 燃えろ! 燃えろ!


 蒸気のように耳を火傷させる大合唱が炎星の周りから聞こえてくる。輝く星に手を伸ばせば、声が棒切れを俺をもって叩く。


 燃やせ……燃やせ……燃やせ……


 地獄の底から煮えたぎる。心の中から溢れ出る憤怒の溶解鉄。

 肉の焼けた匂いと、鉄の溶けた匂いが炎の匂いに混ざってる。


 星の中に両腕を突っ込んで、その核を抱き上げた。


「ウ、ァ……ァア」


 呻いたのは誰だ。


 視界には暗闇の中に星の輝きが一つ。

 全身焼け爛れているだろう。耳も焼けて怒号すら曖昧に聞こえる。


 抱き上げたガラスのような残骸に今は炎の熱はない。流麗な海のような冷たさが焼けた両腕を冷まし、心の中に雫を落した。


 その一滴ののちに鬼が生まれた。


 亡骸を抱え、慟哭するのは英雄でなく怪物。

 山を超え、彼方を超えて世界を揺るがす獣の産声が響き渡った。


 目は豪炎に燃えたぎり、その肉体は巨大な雄牛のように膨張し、悪魔のような二角のツノを生やした。


 楽園の獣。

 終止符を打つ牛鬼が暗闇の中で怯える幾つかの息遣いを察知すると、凄まじい速さでその頭蓋を剛腕で捉えて、轢き潰した。


 目が見えなくとも、耳と嗅覚が牛鬼を案内して、悪を断罪せりと片っ端から殺していった。


 もはや殺さなくてはならない理由など忘れて、人々の恐怖を啜り、笑った。


 散布された血が映える。

 見えなくともその鉄のような匂いだけは鋭く匂う。

 あの工房、あの人の匂いでもあるからと。


 あの人、とは?

 牛鬼は思い出せない。けれど、思い出せなくてよかったのだ。大事なのは殺すことで、それ以外はボヤボヤして分からないから。


 臓物を引き裂き、顎を砕く感触しかもう分からない。


 血の匂いを嗅ぐたびに、牛鬼の身体は硬くなり、強くなり、鍛錬された斬鉄剣のように全てを切り裂く兵器となった。


 断末魔、屍の山、血の海、夜の帳がやっと開けたときには村は見る影もなく、何も無くなっていた。


 渇いた血が崩れた瓦礫に混ざって、朝が来る前までそこで人々が平和に暮らしていたなどとは嘘のようだ。


「ウ、ァ……」


 朝日に照らされた牛鬼。

 けれども、彼の目には光は映らない。

 未だに罪人を殺すことを求めて、血の匂いを嗅ぎながら村を彷徨っている。


 牛鬼の迷宮と化した村。


 牛鬼の噂はいつしか村の外の世界へと伝わった。牛のような怪物があの村にいる、と。


 噂はたちまち広まって遠くへ、遠くへと広まった。それは長い長い言葉伝えの旅だった。


 誰かが言った。誰かが聞いた。

 言い間違えた。聞き間違えた。


 そうして伝承は色々と変わり、神の出てくる伝説にもなったりもした。

 一番変わったのは村の名前だろうか。


 あの村の名前は()()()()()だった、と。


 彼はそうしてダイダロスを彷徨う牛鬼とされ、来る勇者、蛮族をいつかの夜を思い出して殺そうとする。



 理性も愛も正義も無くなった怪物が癒されるのはいつのことか……





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[良い点] 時代の正義を感じました 誰かを悪にして成立する時代を感じました [一言] 考えなければ平和なんですね 協調は凶兆 ……ある意味のナチズムかな?
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