3人目 勇者クリス
突然だけどこの世界は今、邪悪な魔王とその配下の魔物たちに蹂躙されつつある。
人間たちは、日々魔物の襲撃に怯え、ただただ魔物が自分たちの町や村にやってこないことを祈るしかなかった。
そんな日々が続き、執拗な魔王たちの攻撃に人間たちの心が折れようとしていたある日のことだった。
とある、小さな田舎の村に私が生まれた。
幸い、そこはまだ魔物の襲撃がなく、温かくて優しい両親や村人に囲まれながら、私はすくすくと大きくなっていった。
そうして、少女時代を過ごし、そろそろ両親が持ってきた縁談の中から生涯の伴侶を選び、家庭を築かなければならない年になったとき、私は自分の中にとある力が眠っていたことに気づいた。
きっかけは本当に小さなことだった。
村の女友達と、村の外で将来結婚することになる男たちのことについて、いろいろと理想を語っていたそのとき。
突然、近くの茂みががさり、と揺れたかと思うと、一匹のオークがのっそりと姿を現したのだ。
初めて魔物というものと相対した私たちは、一瞬ソレが何なのか理解できずに数瞬の間呆けた顔をしていた。しかしその直後、聞くに堪えない程のおぞましい声でオークが吠え、その手に持っていた太い棍棒を地面に向かって振り下ろした。
いかに魔物たちの中でも最下級に位置する魔物とはいえ、人間とは比べ物にならない膂力で叩きつけられた棍棒の威力は凄まじく、地面を軽く抉る。
今の私ならば、相手がオークならば、たとえその数が百を数えようと千を超えようとも楽に勝つことなど造作もないが、この当時はまだ戦いも知らない一介の村娘だったので、ただただ相手の見た目(醜悪な豚のような頭に腰に簡素な布を巻いただけの半裸)に怯えながら逃げ惑うしかなかった。
悲鳴を上げながら一斉にその場から逃げ出そうとした私たちだったが、よほど慌てていたのか、あるいは恐怖で体がうまく動かなかったのか、ともかく友達の一人が足をもつれさせて地面に倒れこんだ。
その彼女へ、オークが下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくる。
「ひぃっ!?」
短く悲鳴をあげ、少しでもオークから逃げようと地面を這う友人。けれど、いくら動きの鈍いオークでもすぐに追いつける。
この国を守り、魔物と戦う王国騎士団も、魔物と戦い、その戦利品で生計を立てる冒険者も近くにはいない。つまり、私の友人に待っているのは醜いオークの慰み者になるか、あるいはただの物言わぬ肉塊に成り果てるかの未来。
「た……助けて……」
彼女が私たちに手を伸ばして助けを求める。
――こんなことがあっていいの? こんな理不尽を、私は許せるの?
私の頭の中で、そんな声が聞こえる。
いい訳がない! 許せるはずもない!
彼女にだって、幸せな未来があるはずなのだから!
さっきまで彼女自身が語っていたように、何れ村を出て、街で素敵な恋人を見つけて結婚して、優しい旦那様と元気な子供たちに囲まれて暮らす、そういう未来があるはずなのだから!
けれど、私も他の友人たちも、小さな村に住むただの小娘。当然、魔物に太刀打ちできる力などなく、助けを求める友人を見捨てることしかできない。
――本当にそれでいいの?
よくはない! 私に力があれば、今すぐにでも飛び出して、あの醜いオークの愉悦に歪んだ顔を引き裂いてやるのに!
――力が欲しい?
声が訊いてくる。
欲しい! 友人を助ける力が! 目の前で助けを求める人を救うだけの力が! 敵を倒す力が!
――そう……。なら、力をあげる。
頭の中の声がそう言った直後、私は自分の中に何かが目覚めるのを感じた。
熱く、力強く、何かが私の体の中を駆け巡る。駆け巡るたびに次第に大きくなっていくその流れは、やがて力の奔流となり、私の全身からあふれ出す。
私を中心に風が巻き起こり、私と一緒に逃げてきた友人たちが突然の風に悲鳴を上げながら目を瞑る。同時に、体が羽のように軽くなるのを感じた私は、今まで握り締めたことがない拳を強く握り固めながら一気に飛び出した。
たとえ優秀な王国騎士団でも到底間に合いそうにない距離を、それこそ一息に詰めた私は、今まさに倒れる友人に棍棒を振り下ろそうとしていたオークの横っ面を、思いっきり殴り飛ばした。
鍛えていたわけでもなければ、ろくにケンカをしたこともない、それこそ拳で殴ることなど一度もなかったただの少女から繰り出されたその一撃は、それでもオークの巨体を吹き飛ばし、近くの巨木に叩きつけた。
「ク…………リス?」
足元で、呆然と友人が見上げてくる。
どうやら私がやったことを信じられないでいるらしい。正直に言えば私自身、自分がやったことが信じられない。けれど、そんなことは後回しだ。
「逃げて!」
「えっ?」
「早く!!」
視界の端に、オークがゆっくりと立ち上がるのを捉えながら、一喝した私を、友人は一瞬だけ怯えるような顔をしてから、慌てて立ち上がって遠くにいるほかの友人たちの下へ走り去っていく。
これで、彼女たちの当面の身の安全は保証された。
あとはあいつをどうにかしなければ……。
このまま逃げることもできるだろうけど、あいつは私たちを追って村に入ってくるだろう……。
そうなれば、騎士団とか冒険者とかいない私の村は、あいつ一匹に壊滅させられる。
今のうちに仕留めなきゃ……!
立ち上がり、再び棍棒を握り締めたオークを睨みつけながら、私は周りを見回す。
せめてナイフの一本もあればよかったのだけど、生憎そういったものはない。
――魔法を使いましょう。今のあなたならそれができるから……
再び頭の中に響いた声に導かれるように、私は自分の体に意識を向ける。
自分の体を駆け巡っている力の奔流――魔素を意識して制御し、掌に集める。
次第に熱くなってくる掌をオークに向け、不思議と頭に浮かんだ呪文を唱えた。
「火炎爆!」
その直後、掌からいくつかの火球が飛び出して、真っ直ぐにオークに向かって飛んでいった。
今の私からすれば、遥かに見劣りするその魔法は、けれどしっかりとオークに当たり、爆ぜた。
魔法の直撃を食らったオークが全身を真っ黒に炭化させて倒れ、そのまま崩れ去るのも気にせず、私は今しがた自分がやったことに驚いた。
「これが……力……?」
――そう、あなたの力。大切なものを守るための……、誰かを救うための……、あなたの力
頭の声を聞きながら、私は直感する。この力で、私が何をすべきなのか。
それからその日の夜。私は両親に自分の目覚めた力のことを話し、次の日から魔物から人を救うための旅に出た。
そうして旅をしながら力を研鑽して高めているうちに、私はどんどんと強くなり、いつしか魔王の幹部たちとも互角にやりあえるだけの力を身につけ、私と志を共にする仲間もできた。
そんな私を人々はいつの間にか、こう呼ぶようになった。
「勇者クリス」と。
◆◇◆
その日、いつものように道具の作成に必要な素材を取りに行くと言う師匠に連れられて、少し遠くの未踏破の洞窟にやってきたあたしたちが、洞窟内のちょっとしたスペースで休憩していると、がちゃがちゃと鎧を鳴らしながら五人組のパーティーがやってきた。
恰好から、どこぞの冒険者パーティーらしい彼らは、そこであたしたちが休んでいるところをみて、軽く挨拶をしてきた。
「こんにちは。ご一緒しても?」
そのパーティーのリーダーらしい女性に話しかけられ、あたしは軽く頷く。
「ありがとうございます」
丁寧にお礼を言って、あたしたちが焚いた焚き火の周りに集まったパーティーは、腰の剣を下ろしたり、鎧を緩めたりして思い思いにくつろぎ始める。
「あなたたちはここへどんな用事で?」
見るからに高性能な鎧を外して一息ついた女性が、戦闘で乱れたのだろう綺麗な金髪を手で直しながら訊ねてくる。
どうでもいいけど、均整の取れた体つきと言い、少し幼い感じが残った整った顔つきと言い、結構な美人さんだ。
というか、この女の人……どこかで見たことあるような……?
「俺たちは道具屋を営んでいまして……今日はその素材を狩りに来たんです……」
リーダーの女性を見て首を傾げるあたしに代わるように、いつの間にか人数分のお茶を用意した師匠が、お茶を手渡しながら答える。
つか、師匠……。若干、女性ににやけてない? ヤラシイ……。
あたしが師匠へ侮蔑の視線を飛ばしていると、女性が手をぽんと叩いた。
「それならちょうどいいです。何か私たちに売っていただけませんか? ここに来るまでにかなりアイテムを消耗してしまったので……」
「…………そういうことなら……」
なぜか少し彼女を値踏みするように見つめた後、師匠は腰のポーチからいくつかのアイテムを取り出し、広げて見せる。
「基本的な治癒ポーションのほかにも、こっちは魔素を回復させるポーション、体力の回復を促すポーションはこれで、それは防御力を高めるポーションです」
アイテムを一つ一つ丁寧に説明する師匠の周りに、リーダーの女性だけでなく、他のパーティーメンバーも集まってくる。
そのまま、ちょっとした露天商みたいにして、いくつかの回復系アイテムのほかにも、師匠が作った性能は抜群だけどアレなアイテムも売りつける師匠。
実は意外と強かなのだ、この師匠は。
あたしがぼんやりと考えながら様子を眺めている間に取引が終わり、女性たちが出発の準備を整える。
「ありがとうございました。とても助かりました……っと、そういえばまだ事項紹介をしていませんでしたね……
私はクリス。クリスティーナ・ホルスです。世間では「勇者クリス」なんて呼ばれています」
少し恥ずかしそうに微笑みながら自己紹介する女性――クリスさん……って勇者クリス!?
「なにぃ~~~~~~~~~~!?」
思わぬ大物との出会いに驚くあたしの横で、勇者クリスとその一行は師匠から買ったアイテムを持って、洞窟の奥へ進んでいった。
それからと言うもの、王国の路地裏にある小さな道具屋に、度々勇者とその一行の姿が目撃されるようになったとかいないとか。