第1話 陽だまりエンカウンター
——情熱的な恋がしたい。
そう思ったのは何時からだろうか?
左目の下で交差する前髪を弄りながら、文月晴臣は考える。
——べ、別に彼女なんて欲しくないし!?
などと意味のわからない意地を張っていた時期が彼にはあったのだ。
会話の中でウケを狙って言うことがほとんどだったが、きっと心の何処かでは、それを欲していたのだろう。
だからその日、彼は恋に落ちた。
その日の放課後、彼は友人に呼び出されていた。場所は学校の南校舎の三階、その一番奥——正面から見て一番左端——の教室、自習室である。
——勉強教えてくれ。ジュース一本奢ってやるから。
この言葉に釣られるようなことは無い、といえば嘘になる程ある飲料が好きな晴臣だが、この日だけは何故か約束をすっぽかした。
何故来なかったのかと聞かれれば、彼はこう答えるだろう。
教室を間違えて、その中にいた人と談笑してました、と。
誰が聞いても呆れかえるようなこの『間違い』が、彼の往生際の悪い意地を消し去ることになると、彼を呼び出した張本人、小葉冬人は知る。
…………彼をしばいた後で。
「全く冬人め、何であんな優秀な幼馴染がいるくせして僕に勉強を教えさせようとするんだ? どう考えても普通は幼馴染を呼んで二人でイチャイチャしながら勉強したいって考えると思うんだけど……いや、冬人に限ってそれはないわ。あの朴念仁にそんなん考えつくハズもなかったわ」
ブツクサと友人を詰りながら階段を上る男子生徒が一人。男子にしては少し長めの黒髪と、学校指定の濃緑色の制服にチェックのズボン、頭頂部の内側に曲がったアホ毛。
左目の下で前髪が交差している。
「南校舎の左端って言ってたっけ?」
確認するように呟く彼は、階の確認を怠っていた。だが、それに気づいている様子は無い。
彼は、もう一階分の階段を上ることなく、南校舎二階の廊下を歩いていった。
この高校——風峰高校——では基本的に土曜補習があり、昼過ぎには終わるのでそれが終わり次第部活動に移行、という形になっている。
剣道部と手芸部が盛んな風峰高校だが晴臣はどの部活動にも所属しておらず、それ故に彼は今現在進行形で無人の廊下を歩いていた。
春の暖かい日差しが廊下の窓から差し込み光の絨毯を敷いており、その陽気に当てられたのか彼は口笛を吹き始めた。
奏でる曲は『愛憎』。
——Even though I loved you, you passed away. I do not say why. Because it is too much. However. I hate you. You who left me when you left.
暖かな昼下がりにはおよそ似つかわしくない悲壮感の漂うメロディが廊下に満ちる中、彼は目的地のスライド式のドアを開けた。
————本。
それが彼の部屋を見た感想だった。第一印象としては、「文芸部かな?」といったところ。
どう見ても冬人に指定された場所ではないので、普段ならば速攻謝罪からの退室のコンボを決めるのだが、
彼は硬直していた。
部屋の両側にそびえる本棚の渓谷とその谷間に配置された長テーブル。奥の壁に一つだけある窓から差し込む光が陽だまりとなる場所で、本を読み続ける女生徒。
その女生徒を見て晴臣は思った。
——控えめに言っても、間違いなく可愛い。
外人との混血なのか、珍しい灰色の髪を結って側頭部に垂らす、いわゆるサイドテールという髪型をした彼女は、小さめな体躯も相まって少し幼さを感じさせる容姿をしていた。
その全てに見惚れて固まっていた晴臣だが、一応説明しておくと彼はそもそもあまり他人に対して評価をくだすような性格をしていない。自他共に認めるほどの気さくな性格も実は友達作りの為に無理矢理貼り付けている仮面であったりする程、彼は基本的に赤の他人には無頓着なのだ。
その晴臣が見惚れた上に口をあんぐりさせて硬直するということがどれ程異常か、ここに彼の友人がいれば事細かに説明してくれることだろう。
それは置いておくとして。
五分経過。
五分経過である。
互いが言葉を話すことなく、五分の時が静寂の彼方へ過ぎ去っていた。
他人に無頓着とはいえ人付き合いの得意な方であり、尚且つ女生徒に興味を抱いたはずの晴臣が一言も喋らない理由。それは。
(は、反応のはの字も無いんですけど、どゆこと? これは? )
女生徒が晴臣が全く相手にしたことの無いタイプの人間だったからだ。
と言っても口数の少ない人と話したことが無いわけでは無い。ただ、ドアを開けたのに本を読む姿勢のまま動かない人間など、三次元では関わったことがなかった。
だが、人の行動とは総じて、探究心を糧としてなされるものである。
晴臣は椅子に座る女生徒の元へ近づいていった。
「何してるの?」
彼は話しかけて見て驚愕した。自分の台詞のアホさ加減に。
どう見ても本読んでますやん、と晴臣が思った直後、澄んだ声が鼓膜を揺らした。
「本を読んでる」
——ウン、ソウダネ。ごめん、僕の聞き方が最悪だったよ。
「何の本を読んでるの?割と僕本好きなんだよね」
間違いでは無いのだが、何故か自分でも嘘くさい、と思わずにはいられない台詞がでた。それでも会話を続けられれば問題無い。会話を続けることに意味があるのだ。
相手の返事は。
「『悲哀の骸』」
「そ、それはまた随分と重そうな…どんな話なの?」
「……主人公が行方不明のヒロインを探す旅に出て、多くの人に助けられながら『愛』を痛感する物語」
相槌を打とうとした晴臣だったがそれを遮るように女生徒は「ただ」と続け、
「ヒロインは最後死体で発見される上に主人公に貪り喰われるのだけど」
と、淡々と告げた。
「ゔっ!?」
思わず怪音を発してしまう様な壮絶なラストをネタバレされてしまい、口角を引き攣らせる晴臣に気づく素振りも無くペラペラと本をめくった女生徒はそれを晴臣に見えるようにすると
「ほら、ここ」
と、件の場面をみせてくる。
読書の邪魔したこと実は怒ってるんじゃないかなこの人、と不安になる晴臣だが、それは杞憂に終わった。
「ヒロインの死体を食べる動機と理由が長々と書かれているのだけど……」
意見でも求められるのだろうか、と会話の先を読んで晴臣は意見を考え始める。
そしてそんなことを考えているとは露ほども顔に出さず、会話を促す。
「ふむふむ、それで?」
そして彼女は、衝撃の一言を呟いた。
「『愛』って、何?」
「…………え?」
予想の外側から飛んできた言葉に喉を貫かれた晴臣は、辛うじて発した疑問符以上の言葉を、告げることが出来なかった。