第三章31 『怠惰の始点』
空を見上げれば、そこにあるのは熱で奏太達を刺すように照りつける太陽。
雲など一切なく、清々しい今の心境にはちょうど良いかもしれない。
……そう思い込んでいるだけかもしれないが。
「——そーたは、私のことどのくらい知ってる?」
「どのくらい、って……今の芽空の人柄と、本名がプルメリアってことくらいか」
城を出て学生区へ向かう途中——各区間の周回を目的とした電車の線路の高架下にて、芽空は口を開いた。
胸元に手を当てて、まるで教科書の一字一句をはっきりと読み上げるように発せられたそれは、緩やかに、しかし僅かに緊張の色を帯びている。
心なしか、彼女の白い腕の先が震えているように見えて。
「芽空……」
「ううん、大丈夫」
彼女が言いたいことは分かっていた。
今、この瞬間に彼女を震わせる理由など限られているし、諸々のやりとりを考えれば答えは一つだ。
だから思わず、どう声をかけるべきかなど考えないままに名前を呼んでしまったのだが、彼女はそれに首を振って応じる。
「そーた、イヤホンって持ってる?」
「イヤホン? ああ、持ってるけど……」
「じゃあそーた、通話しよっか」
「————」
顔を上げた彼女が提案をしたのは、デバイスによる通話。
すぐ隣にいるのにわざわざイヤホン越しに会話をするなど、おかしな話……と、いうわけでもない。
奏太は頭上を、それから辺りをぐるりと見渡して、
「……ごめん。こんなんじゃ、話しづらいよな」
今日も今日とて休まず動く電車、奏太のような学生あるいは社会人、動物に子どもと、二人きりで話すには明らかな騒音が奏太達の周りでは響いていた。
大事な話をこんな中でやれという方がよっぽどおかしいというくらいに。
しかし芽空は嫌な顔一つ浮かべず、懐からイヤホンを取り出しつつ、言う。
「ううん、大丈夫。そーたにはやること、あるんだから。私もそーたも、これからの為に動く。そうだよね?」
「——、そう、だな。うん、そうだった。でももう一回だけ謝らせてくれ。こんなところでごめん、もっと落ち着いたところの方が良かったよな」
「そーた、謝ってばっかりだね。仕切り直す?」
「いや、それは色々と問題があるから……ごめん、今で」
「あ、また謝った」
何度も謝罪を繰り返す奏太に対し、くすくすと笑って気にしていないと告げる芽空。
奏太が招いた結果の一つだというのに、こうも気を遣われるのだから謝りたくなるのも無理はない。
そのことに自省し、彼女の懐の深さに感謝しつつ、奏太は彼女の言う通りに制服のポケットからイヤホンを取り出して、
「えっと……デバイスの電源は入ってるけど、もうかけていいのか?」
「うん、大丈夫。あ、今だけじゃなくていつでもね」
「大体一緒にいるし、そんなに通話する必要ないだろ……っと」
本気なのか冗談なのか、どちらなのか分からない彼女の発言を流しつつ、奏太は眼前に目をやる。
視界に広がるのは、仮想ウインドウ、アイコン。それらのうち通話を行うアプリケーションを選択、奏太は相手の少女——というか芽空と通話を始める。
『もしもし、芽空です』
「そこからやるのかよ。……奏太だけど、今時間いいか?」
『ちょっと難しいかも?』
「あ、じゃあまた改めて掛け直します……ってそんなわけにいくか」
——芽空とこうして軽口を交わすのは今に始まったことではない。
先のものもそうだし、出会った当初から今に至るまで、何度となく繰り返してきたことなのでもはや恒例と言っても良いやりとりなのだが——今、この状況。
彼女が何の考えもなしにそれをするほどふざけているとは思えない。
とすると、
『…………あのね、そーた』
「——っ」
確認に奏太がちらりと横を見たのと、芽空の纏う雰囲気が、声音が変わったのは同時。
彼女と目が合い、思わず奏太は声を失う。
それまでのんびりしている風を装っていた彼女は全てのヴェールを脱ぎ捨て、緊張と怯えで震えているにも関わらず、そのガラス玉の碧眼の奥に淀まぬ強い熱情を灯していた。
——終点であり、始点。
奏太がそれを理解すると、芽空は何かを懐かしむように空を仰ぎ、やがてゆっくりと口を開いて、
「私はね————」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
プルメリア・フォン・ルクセンにとって、世界は宝石箱だった。
同年代の少女達が人形遊びや花の冠づくり、おままごとに夢中になっている間、彼女は兄や両親と共に義手義足に代わる肉体の生成実験を、華やかなドレスと輝くティアラを、幾百幾千もの物語や文献を見て、身につけ、読んできた。
小学校には通っていなかったため、友人と呼べる友人はいなかったが……それでも、プルメリアの見る世界はどれもが色鮮やかで、新鮮でみずみずしい。飽きなど、退屈など、停滞などあるはずがない。
その理由には彼女の家柄が関係していた。
代々当主となった人物が旧家名であるヴィオルクを継承する世襲制。
その何代もの入れ替わりの中で、ルクセン家は財力と影響力をより強固なものとし、世界でも有数の名家として名が知られるようにまでなったのだ。『大災害』で大地が割れ、再生が困難になるほどのダメージを世界が受ける前も、後も。
特に、研究の分野においては権威といって何ら差し支えがないほどに社会に貢献している。
その例として、欠損した肉体の神経単位での再生技術や、仮想現実の一般化。
かのデバイスも、プルメリアの両親が開発に関わっていたくらいで。
しかしながら、彼らはそれを声高にして誇ったりなどはしなかった。
『大災害』後の都市改革を受け、資源エリアと中枢区の一部を領地とするようになっても、表舞台に出ることはあまりない。
実績を出し、名が売れようとも、領主の顔を一目見たいと市民に求められようとも、彼らが望むのは研究だからだ。
ただ研究がしたい。実験も、生成も、観察も観測も。変化も傾向も分解も結合も消失も体現も。
爆発的な欲求のもと毎日のように議論を、実験を。一日中文献を読み漁り、三日も食事を摂らずに倒れることだって。
そんな両親を、先祖を持つ一家だからこそ、プルメリアは何の疑問も抱かず欲を受け入れた。
ただ勤勉に知識を、興味のままに求めようと。
そんじょそこらの街の図書館よりも大きな書庫に入り浸り、デバイスを使用して禁視指定された本を眺めることも珍しくなかった。
——が、何も彼女はそれだけの人生であったわけではないし、家族から愛情を受けなかったわけでもない。
両親はプルメリアを含めて子供たちを溺愛していた上、同じ立場、境遇にある兄のヨーハン。
彼とプルメリアは七つ歳が離れていたものの妙な距離感などなく、本の内容がどうであるとか……ではないありふれた日常会話を交わすことも珍しくなかった。
外で遊ぶこともあったし、世俗的な遊びだって何度もした。昆虫採集に花畑の散歩、使用人の農作を手伝って泥んこになることだって。
中でも一番に好きだったのはかくれんぼうだった。
誰かが隠れて、それを鬼が見つける。シンプルなルールだったけれど、プルメリアはかくれんぼうが何よりも得意で、ヨーハンを泣かせたことすらある。
やる度に隠れる場所が見つかって、やる度に世界が広がっていく。
見つからないのが、心地いい。
だからプルメリアは、かくれんぼうが本当に好きだった。
「ルメリーはいつも元気だね」
父にも、母にも、兄にも、侍女にもそう言われた。
その度にプルメリアはガラス玉の碧眼をキラキラと光らせて頷き、笑顔になる。外のコミュニティーはなかったけれど、自分の周りは宝石ばかりなのだから、これでいいのだと。
実際、手の届く範囲のものを知って、理解して、それでもまだ知らないたくさんのものがあって、追いかけるだけ、見上げるだけの日々でも楽しかったのだ。
「……パーティー?」
そんなある日。プルメリアが八歳の誕生日の時だ。
父が彼女のために開いたパーティー。一家全員の参加は当然のこと、旧家からの付き合いがある者、知人友人、HMA総長藤咲華を始めとする都内の有力者。
加えて、彼女の父は研究者であると同時に世俗的なものを好む性質があったので、手品師や落語家まで招待されるという、貴族のパーティーにしては何とも奇天烈な場が形成されていたと言えよう。
落語に関してはプルメリア自身、最後まで何が面白いのか理解出来なかったが、八歳になって初めて知った外の人々。声、音、光景。どれもが刺激的で、彼女の世界はぐんと広がり始める。
その一番の理由が、
「————あ、あの……あなたは……?」
「——私? 私はね、プルメリア。ルメリーって呼んでね!」
両親に連れられてきていたのだという白金髪に紫の瞳を持った少女、シャルロッテ・フォン・フロイセン。
プルメリアが気になって声をかけると、慌ててグラスに入っていたパインジュースをこぼしてしまったあたり、彼女は人付き合いがあまり得意ではないのだろうとプルメリアは子どもながらに判断。
多分きっと、色々知らないから怖がっているのだろう。自分のことも、世界のことも、たくさんのことを知って、教えて、そうすれば彼女は自分のように元気になれるだろう。
自分はそうしてあげたいなと、ただなんとなくプルメリアは思った。
だからプルメリアは震えるシャルロッテの手を引いて、外へ連れ出した。
「ぁ、あの。わた、私、あんまりダンスとか出来なくって……」
「大丈夫、私も昨日練習したばかりだよ!」
誰もが城の中で談話に、食事に、見物に夢中になっているところを、二人で抜け出す。何とも夢のような話だった。
駆けた先は、色とりどりの花が咲き乱れる無人の裏庭。そこで二人を照らすのは、場内から漏れる眩い光と、過度な装飾はいらないのだと言っているかのような月の淡い光のみ。
誰かが褒めたり貶すわけでもない、二人しかいない、二人だけの空間。そんな中で、プルメリアは不安げな表情のシャルロッテに合図をして、始めた。
——長い、長い舞踏会を。
ヨーハンからパーティーのためにと教えてもらったダンスは、あくまで相手も基礎が出来ていることを前提にしたものなので、覚えたてのプルメリアがシャルロッテをリードするなど無茶以外の何者でもない。
何度か足をひっかけそうになったり、おでこがぶつかることもあった。ステップは拙く、手を握って引き引かれる手はあまりに頼りない、不器用なダンスだ。
だが、プルメリア生来の物覚えと要領の良さは、一般のそれとは大きく異なる。
急造だったはずのそれはすぐに見栄えが良く無駄のない動きへと変わり、いっそ芸術的と言っても良いくらいに鋭く、しかし繊細なダンス。
加えて、ヨーハンがプルメリアに教えてくれていた時の様子を思い出すことで、それと同等、あるいはそれ以上の技術と説明をもってシャルロッテをリードをしていた。
その結果、
「わ、わわ……! 出来てる、ね……!」
「うん、出来てる! シャロも一緒に踊れてるよ!」
気がつけば二人は月下の花舞台にて、風のように舞い、火のように情熱的で、透き通る水のように清らかで美しいダンスを踊っていた。
声は弾み、連続の運動で汗を流し、それでも笑顔は絶やさない。
不安などどこかへ飛んで消えて、そこにあるのは目の前の舞踏会を楽しむ二人のお姫様だ。熱情に身を任せ、いずれは解ける魔法の中にあったとしても、今この瞬間を永遠のものとしよう、と。
しかし、熱はそれだけに止まらない。
「————今、シャロって……」
ぴたり、と唐突にシャルロッテの動きが止まり、つられてプルメリアも転びそうになりながらも、激しい動きを制止。両者はこの時になってようやく互いの息が相当に荒くなっていることに気がつく。
当然、普段から運動をしているプルメリアも、だ。
使用人に整えてもらった鶯色の長髪は乱れているし、靴だって土で汚れてしまっている。
とてもではないが、お嬢様と言うにはあまりに冒険が過ぎる程に。
——だが、それでも彼女はプルメリア・フォン・ルクセンだ。
呼吸が荒いから、なんだ。汗をかいているから、なんだ。
シャルロッテの質問に答えないわけがない。自分が誘って、自分がシャルロッテを笑顔にしたい、そう思ったのだからと握っている両手にグッと力を込めて、一歩踏み出す。
興奮した頭が、心がプルメリアの想いを言葉にして、
「……うんっ! シャルロッテだから、シャロ。今こうやって踊ったんだから、私達友達だよ。だからシャロ! だからルメリーなの!」
そして指を絡めて握ったシャルロッテの右手を、自身の左頬へ当てると、
「だから、シャロも呼んで欲しいな。私の名前。ルメリー、って!」
それはやや強引で、不器用な要求。
家族と使用人くらいしか話したことのなかった、プルメリアなりの精一杯だった。
震えることなどなく、表情に浮かべるのは浮かべるのは未来への期待と今への喜びの笑み。
だが、そんなプルメリアを見て我に返ったらしいシャルロッテは、まつげを震えさせ、口を何度か開閉させる。
恐らくそれは、迷いと戸惑いがシャルロッテの中で渦巻いていたからなのだろう。プルメリア同様に上気していたはずの顔は熱を失い、代わりに涙さえ浮かべる程だったのだから。
「ぇ、っ……と。あの、わたし…………」
————断られる。
怯えてはいなくとも、明らかに彼女は関係が進展することを拒んでいる。人付き合いが苦手だということは誰の目から見ても明らかだし、ましてやプルメリアは強引に彼女を連れ出したのだ。だから断られるのは必然で——。
プルメリア以外の、人付き合いを多少なりしてきた者ならそう思うだろう。
だが、プルメリアには同年代の友達などいなかった。距離感など分からないし、引っ張ってあげたいと思ったから彼女の手を引っ張った。
だからこの時も、友達になりたい。なれる。それだけを信じていたから、ただ首を傾げるだけ。
「………………ぁ、う」
だからこの時、シャルロッテの迷いを何とか断ち切らせ、決断させるに至った。
「————ル、メリー」
蚊の鳴くような声。
それが白金の少女から聞こえて、ぱあっとプルメリアの顔が明るくなる。
だからもう一度とせがむと、
「ル、ルメリー! ……えっと、シャルロッテ、です。よろしくお願いします」
前半の気合いとは裏腹に、自信なさげな後半の声。
——けれどそれはプロローグの終わりであり、二人の始まり。
勉学も、研究も、遊びも、人付き合いも勤勉な少女と、気が弱く人付き合いに怠惰な少女の、出会い。
それはプルメリアが八歳の誕生日に得た、大切な宝物。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——物音一つない、部屋の中。
城内のその一室に、プルメリアはそろりと入り込んだかと思えば、そのまま前進。衣装タンスの前まで来ると、一切の迷いなどなくそれを開けて、
「——シャロ、見ーつけたっ!」
「ひぅっ!? ……ルメリー、見つけるの早いよ……」
「ふふっ。私ね、見つけるのも得意なんだよ。隠れる方が得意だけど」
プルメリアは淀みない満面の笑みで、かくれんぼうの終わりを元気な声で告げた。
文字通り驚きで飛び跳ねるシャルロッテに、遠慮などなくただ全力に。
——あれからというもの、兄とばかり遊んでいたプルメリアは、シャルロッテと遊ぶようになった。
ヨーハンが元いた位置にシャルロッテが入る形になったので、当然ながらシャルロッテは遊ぶたびに疲労困ぱいであったが。
しかしそれでも、二人が付き合いをやめなかったのは、互いが互いのことを友達として見ており、疲れても楽しいとそう思えたから。
そう、それぞれの性格上引っ張って引っ張られて、ということは多々あったものの、どちらが上で、どちらが下かなど一切意識しない対等な関係だったのだ。
「また見つかっちゃったけど、今度は私ルメリーに勝て…………るか分からないけど、勝つんだから」
「じゃあ私もその分シャロに勝つね。そうしたらおあいこだよね!」
「う……それじゃあ私勝てない……」
シャルロッテはプルメリアの一つ年下なのだと本人から聞かされたが、まだ幼い彼女らにとっては歳の差など些細な問題に過ぎない。
だからシャルロッテも、プルメリアとの関係に慣れた頃には対抗意識をそれなりに見せていたし、プルメリアもそれが楽しくて夢中になって競い合っていた。
……大半の勝負はプルメリアの勝利に終わるのだが。
ともあれ、そんな関係であったがために、二人はかくれんぼうを終えて部屋を出る時もいつもと何ら変わらぬ様子で、その日も変化はないけれど騒がしく輝く日常を送る……そう思っていた。
「————こんにちは。貴方達がシャルロッテお嬢様と、プルメリアお嬢様でいいのかしら」
やけに楽しげな口調に呼び止められたのは、プルメリアが部屋を出て、シャルロッテと共に書庫へ行く途中だった。
長い廊下の先から歩いてきたのは、正装に身を包むプルメリアの兄ヨーハンと、黒のスーツ姿の女性。
彼女は薄赤の髪を風になびかせ、プルメリアの前で膝を曲げてしゃがむと、
「初めまして、私の名前は藤咲華。貴方達二人に、付き合ってもらいたいことがあるの」
隣で怯えて震えるシャルロッテを知ってか否か。
女性——藤咲華は、そう言って艶やかに微笑むのだった。