第三章27 『喪失者三人、囚われは二人』
記憶喪失。
それは、三日月奏太という人間を語る上では絶対に欠かせないものだ。
「何で、お前が……」
「今聞いているのは俺だ。君じゃあない。——赤毛君、君は記憶喪失をしたことがあるか?」
繰り返されるアザミの問いに、奏太は即座に反応を見せることが出来ない。
驚きもあるが、言葉に出来ない妙な納得、それから彼が今しがた口にした内容への疑問があるからだ。どうして彼はそれを奏太に問いかけたのか。どうして彼がそれについて言及するのか。どうして、何故、と。
はっきり言って、奏太の中での答えは決まっている。嘘をつく必要もなければ隠す必要もない。
——奏太は十歳のある日、それまでの記憶の一切を失った。きっかけこそ分からないものの、この事実は絶対に揺るがないのだから。
歩き方や言葉の話し方、食事等々生きる上で必要な記憶は残っていたが、家族や友人と過ごして来たはずの日々は奏太の中から根こそぎ抜け落ち、結果十年という空洞が奏太の中には生まれて。
十年間自分はどんな人柄だったのか、どんなことをして、どんなものと出会って、仲良くなって幸せに——いくら考えたとて、事実を聞いたとて、実感など湧いて来はしない。
記憶のない奏太など、魂がなくなった抜け殻でしかないとずっとずっと思ってきて。件の動画の『鬼』の事を知らず、『獣人』が分からず、世界から置いていかれて……そう、思っていた。
けれど、薄青の少女美水蓮に奏太は救われた。
今の奏太を認めてくれた。
自己定義が曖昧で、一人で立つことすらままならなかった奏太の側にいると、あの日あの瞬間、奏太に約束をしてくれた。
あの約束が守られることはもうないけれど、奏太は知っている。彼女が奏太を好きでいてくれた事を。
たくさんのことを、約束を彼女が教えてくれた事を。
——世界を幸せにする。
その為に奏太は未来を見るのだ。
悔恨に撃たれようとも、戻って来はしない過去に縛られたとしても。向き合い、乗り越えて、今の奏太がいる。
「…………なのに」
ここに来て、もう一度向き合うことになった。
失われた過去に。奏太を語る上では欠かせない、喪失に。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「————」
何分、何秒が経ったのかは分からない。
しかし、いつの間にかアザミが顔を離して奏太の言葉を待っていたことや、噴き出していた冷や汗が乾いて気持ちが悪い感覚がするあたり、ほんの数秒の間でないことは確かだ。
その間、一室を覆っていた深く、重い沈黙。それを破り、奏太は口を開いた。
「————俺には、十歳以前の記憶がない」
「……ほう?」
対して、確信があったのか満足の笑みを交えた相槌が返ってくるが、それには深く言及をせず、そのまま視線を自身の掌へと落とす。
それから、緊張を確かめるように、心を落ち着かせるように何度も開いて閉じてを繰り返して。
今は蓮や芽空、葵にソウゴに語った時は違う。夏休み期間に梨佳と希美にも簡単に話をしたが、彼女らの時とも違う。
この状況に一番近いのはあの鳥仮面——フェルソナだ。
彼は奏太と同じ記憶喪失者であり、特定の感情がなくなっていた事も共通している。奏太は『怒り』を、彼は『欲望』を。
お互いの事情を知ったきっかけはほんの偶然、けれど関係の濃さは歴然で、故意の喪失を疑う理由にもなったわけだが……それでも、未だ解けていない謎は多い。
だからこそ、
「アザミ。お前はこの喪失について、何か知っているのか?」
「————」
「ブリガンテっていう組織は……いや違うな。下っ端は別で、そう、幹部だ。『カルテ・ダ・ジョーコ』もそれに関わってるのか?」
喪失の情報を得るためともう一つ、先の問いで不明瞭となってしまったあるものを解き明かそうと、問いかける。
賭けの結果が違っていた場合、彼の質問がどのようなものになっていたかは分からないが、少なくともこの賭けで、それぞれ二回しか与えられなかった権利を彼は奏太の『獣人』の始まりに絞った。それにはどんな情報よりも価値があるのだと。
ということは、だ。奏太の推測通りならば——、
「本来のブリガンテは喪失者で構成された組織。HMAを倒してこの世界の支配構造を変えることで、記憶を喪失させた相手を見つけ出し潰す……それが目的だろ。『キング』のアザミ」
ブリガンテの構成。
それは、オダマキから聞いた事前情報と奏太が戦闘によって直に得た情報を合わせると、大きく三構造に分けられる。
一つ目は違法ファイルをデバイスに入れて身体強化した者、及び居場所がないのであろう『獣人』。これらが混合した下っ端だ。身分階級のピラミッドで表すならば間違いなく最下層に位置するであろう者たちで、本来のブリガンテにはなかった層であり、兵隊というよりはモノとして扱われている、と言っても過言ではない。
次に、それを動かし、時には自身も『纏い』を発動させて戦うのが二つ目、『カルテ・ダ・ジョーコ』。
トランプがもとになっていることから、恐らくは奏太が相対した茶毛皮の男が一から十のいずれかで、ジャックは名前の通りJに該当するのだろう。
クイーンやジョーカーの存在が気になるところではあるが、奏太が今考えたとて顔も姿も知らない相手だ。これ以上の情報はないと一度切り捨てて考えるしかあるまい。
何より重要なのは、『カルテ・ダ・ジョーコ』と最後の三つ目、それらのありようなのだから。
上層に立って下層、中層をまとめ、自らの欲望を叶えようとするアザミ。キングたる彼は先の戦闘において、奏太が茶毛皮の男とぶつかりそうになったところへ姿を現した。
それはたまたまかと思っていたが————もし、そうではないとしたら。
例えば、彼が奏太という危険を察知して守ろうとしたのなら。
その時考えられるのは、目的の為にユズカ達をモノとして扱うような彼が『カルテ・ダ・ジョーコ』を特別扱いしている、という仮説だ。
彼が長々と語っていた理不尽への『怒り』……怨みと言ってもいい程の執着の中に、仲間達を想う気持ちがあったとするのなら。
奏太とやり方こそ違うものの、彼は幸せを望んだのだ、と。
もちろん、その為にユズカ達を利用するなど、奏太は許せるはずがない。
誰かのために誰かが犠牲になるなど、そんな話があってたまるものか。
救えるだけ、なんかじゃない。
救えなくても、なんかじゃない。
何が何でも絶対に救うのだと奏太は叫ぶのだ。
たとえそれが傲慢な願いであっても、かつて奏太は華にそう言ったし、今も絶対に揺るがない。揺らぐことなど、あり得ないのだから。
奏太はそれを彼に伝えなければならない。同じ境遇であるならば、同じように幸せを望むものであるならば、和解の道もあるはずなのだと。
だからこそ奏太は沈黙したままの彼の言葉を待ち、最後まで聞き入れようとする。そうした考えもあるのだと頷き、最後には首を振って否定するために。
「————く」
しかし、それは奏太の想像などいとも簡単に飛び越える。
アザミは体を震わせ、涙を流していた。こみ上げてくる感情に口元を抑え、奏太にも痛みを分かってもらおうと顔を上げて——、
「く、あっはははは!!! あは、ははは!!」
「なっ……」
否、彼は空気を裂いて爆笑を弾けさせた。一体何がおかしいのか、目尻に涙まで浮かべて。
驚き、表情を固める奏太は彼に対して満足な言葉が発せず、
「く、くく。あァんまり笑わせんなよ、赤毛クン。涙出ちまったじゃァねえか」
直後、これまでの好青年っぷりの全てを、仮面を剥がしたアザミが現れる。
鋭い眼光はそのままに、口調と精神性は、全てが表舞台に。
「…………それがお前の本性かよ、アザミ」
「本性? なァんのことだか。アレも俺で、今のも俺だ。違いなんかねえよ」
「じゃあ、笑った理由は何だ。何かおかしいっていうのかよ、ブリガンテは……お前は」
「——ひとォつ。訂正しておいてやァるよ。赤毛クンの言う喪失者は、確かにブリガンテにいる。俺がその一人だからな」
「じゃあ——!」
手錠があることを忘れていた奏太は、思わず前のめりになって叫び、勢い余って地面に倒れてしまう。
しかしそれでも、推測は正しかった。ならば何を訂正する必要があるのかと視線を向ける奏太に対し、アザミは銀髪をざっとかきあげると、
「————っ!?」
額を中指で弾かれ、凄まじい衝撃を伴って体ごと壁へ激突する。
その前動作なしの攻撃に文句を口にしようとするが、背中をぶつけて肺から一気に酸素が抜けたためか、言葉が上手く発せない。ただ、荒く息が漏れるだけだ。
「ぅ、は……っ!」
「けェど、それは俺とジャックだけで、ブリガンテが俺にとっちゃ道具なのは変わァんねえんだよ」
苦痛に顔を歪めるのは、奏太だけではない。
奏太は打ち付けた背中の痛みで、アザミは胸中に抱いているのであろう不快感で。それを飲み込みきれないのか、舌打ちをし、奏太の側まで来ると、
「赤毛クンよォ。甘い期待抱いてェんじゃねえよ。偽善者ぶってんじゃあねえよ。俺もてめェも『獣人』だ! 獣だ! 生きるために、殺すために、食べるために、貪るために、傷つけるために、犯して、冒して、侵して、奪うためなら何だってする。それが本能だ。それが獣だろォが!!」
「————」
「目的はたった一つ。HMAに——あの魔女に奪われたもんを取り返す。喪失者だろうとなかろうと、それは何も変わりやしねえよ。そのためにブリガンテを使うことも。ジャックを、あの姉妹を使うのも。何も、なァんも変わっちゃいねえ。アイツらは道具だ。全員そォれが分かって従ってんだよ。——けェど」
アザミは奏太の期待を、甘えを、それらの一切をバッサリと切り捨てる。憐れまれることを許さず、同情されることを拒んで。
しかし、最後に言葉を区切った彼の表情には先とは違う表情が浮かんでおり、無言で睨みつける奏太のシャツの襟首を掴むと、金眼を見開き、口元が裂けてしまいそうなくらいどう猛な笑みを浮かべて言った。
「————赤毛クン。てめェが望むなァら、道具じゃねえ同胞として迎え入れてやる。『獣人』なら、HMAに決して少なくねえ怨みも怒りも、奪われたもんも、あるはずだ。そォうだろ?」
——それは提案。
同じ境遇、同じ『獣人』、同じ喪失者である奏太をブリガンテに勧誘するものだ。
HMAへの怒りがあるならば、奪われた全てを取り返そうと。
確かに彼の言う通り、奏太はHMAにいくつものものを奪われた。
大切な居場所を。大切な時間を。……大切な人を。
それが原因で、命を捨てようとさえ思ったこともある。湧き上がる『怒り』のままに、復讐に駆られたことも。
実際、ハクアを殺した理由の中に『怒り』は少なからず含まれている。奪われたものへの、『怒り』が。
アザミにも、そういったものがあるということなのだろうか。
奪われたものが、大切だったものが。
だとしたら、彼が否定した奏太の推測とは別の意味で、彼は奏太と同じだ。
「————っ」
見上げれば、そこには全身から狂気を迸らせるアザミがいる。
彼の放つそれに圧迫されるような感覚が奏太の中にあった。
だが、それと同時に何かが引いていく感覚もあって。
「…………するんじゃねェよ」
「あァ?」
かつて死ぬほど憎み、自暴自棄になって挑んだ相手。
あの男に対して奏太が向けた感情であり、今の今まで決意だの何だの、決めたつもりで結局のところ甘さが見えていた心が、出した答え。
敵意や殺意とは別のところにあるそれが、熱を失っていく。諦める。どうしようもないのだと、分かる。
信じたかった。それを認めてしまえば、取り返しのつかないことになる。だが、分かっていた。あの男同様にアザミはそういう相手なのだと。許してはならない相手なのだと。見逃して良い相手などではないのだと。
幸せになっては、いけないのだと。
「————俺をてめェらと一緒にしてんじゃねェよ。俺は誰かを道具に使ったりなんてしねェ。誰かを犠牲にするなんて認めねェ。それを良しとするアザミ、てめェを……お前を! 俺は絶対に許さない!」
奏太は痛む身体に鞭を打ち、地面を引っ掻き、足掻いて、立ち上がる。
飛びかかりなどはしない。
今ここでそれをしたところで、奏太に勝ち目はない。
だから、本能で襲いかかることなどしない。
奏太は『獣人』だ。
——だから、どうした。
「お前に略奪なんてさせない。俺は——俺達は、ブリガンテに奪われた全てを取り返す。だから刻め、アザミ」
奏太はいつだって思い浮かべる。
たとえ数ヶ月でも、拳を交え、本音に触れて、認め合い、苦難を共にした者達を。
無駄な日々も、無駄な出会いもなかった。全部が全部、奏太にとって大切なもので、大切な者達だ。
欠けて良いはずなんて、絶対にない。
奏太はいつだって、あの少女のことを忘れていないから。
彼女と交わした約束を、忘れていないから。
だから奏太は、すぅっと息を吸いこんで、誓う。
「俺は、ラインヴァントの『ユニコーン』三日月奏太。——お前を倒して、人も、『獣人』も、全てを幸せにする男だ」
アザミの手など、取りはしない。
同じ喪失者で、奏太やフェルソナの知らない何かを知っているのであっても、今この時点から彼は敵だ。
もう、その決断だけは迷わない。
そしてそれを彼も感じ取ったのだろう。最初は奏太の言葉に驚き、言葉を失っていたが、数秒の瞑目を挟んで、
「…………三日月奏太、か。覚えておいてやァるよ。取り返すってェ言うんなら、楽しィみにしてるぜ?」
両の金眼で奏太を捉え、相対する器量を見せた。
一切の油断などなく、自信に満ち満ちた獣の如き笑みを浮かべて。
しかしふいにその笑みは解かれ、視線は奏太の手首、先程アザミから受け取った腕時計へと向けられ、
「……つい話し過ぎたけェどよお、賭けはこれで終わりだ。俺達と事を構えるっていうなら、さっきくれてやった情報、有効活用しろよ?」
「そっちこそ、後悔するなよ。あと…………」
「あん?」
敵対しているはずなのに、こちらがハンデをもらっているような気がして変な感じがするが——ともあれ。
奏太は体のあちこちに手をやり、目を向けて、ある一つの結論を出す。
「——目覚めた時に体が痛かったのは、お前らの下っ端がやったことか? それから手当てをしてくれたのって」
「あァ、あいつらがやってたみてえだ。悪いな。今頃はスリーのやつが反省さァせてるとこだろうよ。俺は抵抗出来ねえ相手をいたぶる趣味はねえってのに。……んで、手当てはジャックのやつだ」
「ああ……あの子か」
銀髪金眼のアザミとは対照的な、月のような金髪と銀眼の持ち主ジャック。
奏太が目覚めた時から側にいたようだが、あちこちに絆創膏やガーゼが貼られているのは彼女のおかげだったらしい。
スリーという名前や、下っ端達がやったことに触れたくないわけではないが、
「じゃあアザミ。ジャックって子に、ありがとうって伝えておいてくれ。——そしたら、もう今度からは敵だから」
「……伝えておいてやァるよ。てめェ、甘いんだか度胸あるんだか、よく分かんねえな」
奏太が緩やかな笑みで前半を、低い声で後半を述べたことにアザミが首をかしげるが、もう二人の間に交わす言葉はない。
次に会う時は、完全な敵同士なのだから。
だから、アザミは敵意を込めた視線を奏太と交え、くるりと反転。
部屋を出て行く。
「————あァ、そういや言い忘れてたことがひとォつ、あるんだった」
——寸前、彼は顔だけをこちらに向けて、言った。
わざとなのか、はたまた本当に忘れていたのか。どちらにしても、奏太が頰を引っ叩かれたかのような衝撃を受けたのは言うまでもない。
それは、他の何物でもなく、『最悪』。
彼によって、『最悪』が言い放たれたのだから。
「姉妹の姉は、もう手に入れたんだ」
狡猾に、無慈悲に、悪辣に。
狂気の笑みを、奏太に向けて。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「————なんで」
奏太は強く、拳を地面に叩きつける。
皮膚が破れ、血が垂れていることなど一切気に留めず。
「なんで、ユズカまで……っ!!」
——ユキナだけでなく、ユズカもラインヴァントの手に堕ちた。
どうしてなのか、分からない。
奏太がここへ乗り込んできてから、今に至るまでの間に何があったのか。
ユズカは葵や芽空に任せてきたはずだ。
だから、ユキナは奏太が助けると、そう言ったはずなのに。
奏太が見えないところで何があったというのか。奏太が離れたしまったからなのか、だとしたら奏太は。
「————暗い顔をしていますね」
自身を責める波は止まること押し寄せ、奏太をどこまでも沈めていく……はずだった。
割り込んだのは声。
それは男にしては妙に高く、奏太が対等な友人として慕い、慕われている相手。
クリーム色の髪を撫で付け、中性的な顔で入口から奏太を見つめる男だ。
「…………葵」
「行きましょう、奏太さん。——相当にひどいこの状況を、乗り越えるために」
——天姫宮葵。
姉妹の保護者である彼は、真剣な面持ちでそう言った。