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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
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第三章20 『獅子王』



 体が、思うように動かない。


 そのことに気がついたのは、いつのことだっただろう。

 少なくとも、つい最近のことじゃない。前の月か、その前の前か。……分からない。

 それもそのはずだ。長い間自分は獣の姿にならず——『トランス』を使わないで、いたのだから。


『————いいですか、ユズカ。動物の姿になるのは必要な時だけにしてください。それはユキナを守るためでもありますから』


 クリーム色の髪の毛の、ちょっと変な少年。男なんだか、女なんだかよく分からない見た目をした、弱くて偉そうな。

 自分は彼の言うことを聞き、力を抑えて。


『————お姉ちゃん。えっと、その、私料理始めてみようと思うんだけど……』


 いつもどこか不安げな、自分の最愛の妹。彼女はとある女性に憧れて、料理を始めた。

 だけれど、適当に放り込むだけで何故か美味しくなる自分とは違って、失敗ばかりだった彼女。

 何度も切り傷を作って、火傷をして、料理を焦がしてしまって。

 自分は別に気にしないので、彼女が失敗した料理を次々に口にして食べ切ると、


『————ごめんね、お姉ちゃん』


 そう言って涙ぐみ、謝って。


 そんな彼女がお手伝いとして上手く立ち回れるようになったのは、始めて一ヶ月が経った頃だった。


『————お姉ちゃん。えっと、その。私まだお手伝いだけど……たくさん食べてね』


 笑顔が溢れて、とても嬉しそうで。

 組織にいた時よりもずっと良い表情をしていた。自分なんかより、よっぽど女の子らしくて。


 そんな彼女を見ていたから。


 自分には何が出来るのだろう。

 自分は、何ならしても良いのだろう。

 いつしかそう考えるようになっていた。


 生きるためにご飯を食べる。……でもそれは何か違うような気がする。

 色々散らかるけど、片付けは少年に任せて料理をする。……でもそれは少年達に止められてしまった。

 ユキナを守るために戦う。……でもそれは、少年に止められた。


『————アタシに、出来ること……』


 『トランス』を使わない、使えない自分に何が。

 体も鈍り、妹程女の子らしくもない自分に、何が。


 ————何が、残っているのだろう。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「——ねえ、ソウタおにーさん。アタシこのぞわわってする変なおねーさんと戦ってみてもいい?」


 それは、強い好奇心。


 幼い頃からずっとずっと力をつけ、戦の場に身を置いてきたからこそ抱いた興味。

 長らく沈んでいたけれど、あの日あの時、黒髪の少年に声をかけられたからこそ目覚めた闘争心。

 自分が側に居られなかったから、黒髪の少年の恋人であり、妹の憧れである少女を死なせてしまったこと。自分のたった一人の妹を、危険な目に晒してしまったことによる後悔とそこから生まれた警戒心。


 混じって混じって、ごちゃ混ぜになって。

 ——だからこそ、戦いたいとユズカは思った。


「本当は戦わせたくないんだけど……一回だけだ。全力で戦ってもいいから」


 頭を抱えていた黒髪の少年——奏太は、そんなユズカの想いを悟ってくれたのか、渋々承諾してくれて。


 ユズカが戦うことには彼も反対していると分かっていたけれど、それでも承諾したのは何か考えがあってのことなのだろう。

 むろんユズカにとっては、別にどうでも良いことなのだが。


「ありがとね、ソウタおにーさん」


 勉強はともかくとして、きっと彼や葵に聞いても答えてはくれないだろうから。だから、つまらない。だから、どうでもいいのだ。


 重要なのは、戦えると言う事実だけなのだ。


「……お礼は受け取らないし、これ以降は絶対に戦っちゃダメだからな」


「んー、考えとく!」


「そう答えるやつは大体何も考えてない。秋吉とか梨佳とかな。…………だから、約束だ」


 ……どうでも、良くないのかもしれない。


 変わり身が早いことこの上なしだけれど、こうして奏太が時々浮かべる優しい表情は誰かに似ていた。

 しゃがみ、目線を合わせてくれて、小指を突き出して。

 その表情と仕草は、誰のものだっただろうか。


 ユキナが憧れていた蓮という女性のものだったか。

 彼女の親友であり、よく自分やユキナと遊んでくれる梨佳から向けられたものだったかもしれない。


 ——あるいは。

 あるいは、あのいつも偉そうな少年か。


「……分かったよ、ソウタおにーさん。じゃあこれだけ。どうせみゃおみゃおも怒るだろーしね!」


「その場合怒られるのは俺もだしな……」


 自分の中で結論が出たならば、行動はすんなりと。

 奏太の指約束に応じ、契りを交わす。何の躊躇いもなく、何の抵抗も感じず。

 葵が決め手となったことに、どうもムッとした表情を浮かべてしまうところではあるけれど。

 けれど当然といえば当然なのかもしれない。


 ユキナも合わせて、自分は彼に世話を焼いてもらっているおかげで、毎日美味しいご飯を食べられる。毎日、好きに過ごせる。

 ユキナはともかく、自分は決してお礼など言わないけれど、感謝しているのだから。


 ああ、でも。

 彼を何かしらに付き合わせることに罪の意識なんてものは感じない。

 とりあえず付き合ってくれるのだし、いちいちそんなことを考える方が無駄というものだ。


 ユキナに対してなら、ともかく。


「それじゃ、変なおねーさん。アタシと戦ってほしーんだけど」


 とにかく、だ。

 今は彼のことなど忘れてしまって、後のことは後のこと。どうせ奏太達がどうにかしてくれるだろうと割り切る。


 ユズカが今考え、意識を向けるべきは、


「……いいよね?」


「——ぁは、いいですよぉ? 私もぉ、あなたのことはとぉっても気になってましたしね」


 眼前——見上げた先で気持ちの悪い笑みを浮かべた、長身の女性なのだから。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 灰色、気持ち悪い。


 部屋に入って真っ先に抱いた感想だ。

 どこもかしこも灰色で、壁を破っても壊してもぶち抜いても、恐らくは灰色続きなのだろう。

 そんな気が狂うような景色を見るのは嫌だが、だからと言ってこのまま灰色に包まれるのも気分はあまり良くない。

 奏太も顔をしかめて嫌そうな顔をしていたし、芽空も同じく。


「————」


 しかし、そんな景色の話など考えている場合ではない。

 ユズカは自身の置かれている状況を改めて確認、遂行の為の準備を始める。


「ん、よいしょっ」


 ——ただ、少し力を加えるだけ。


 それだけで、自分の中に眠る動物の力は人の体と混ざって一つになる。

 奏太は何か呪文を唱えているけれど、ユズカにとってそんなものは必要ない。

 体と頭が覚えている。気がついた時にはもう、出来ていた。

 ライオン……というのだったか、それを身に纏う『トランス』とやらが。


「ぁは、とぉっても可愛らしくて素敵で食べたくなるくらいですね?」


 動物の姿になった時には、妙に懐かしい感覚がする。

 元々自分はそういう存在であったかのように。自分は動物なのだと知っているように。

 そうあるべきだと、誰かに訴えかけられているように。


 だからこそ、『トランス』を発動させたユズカを見て、唇を舐める変人アイが不快で。

 ユキナにも同じ視線と笑みを向けていたあたり、かなり許し難い相手だ。いや、許す気はそもそもないけれど。


「……ふう」


 けれど、そんな感情は持つだけ邪魔だと、ため息一つで追い払う。

 そして、


「アタシはもう準備出来たけど、変なおねーさんはそれでいいの?」


 ユズカは声を低くし、身体中の神経一つ一つを研ぎ澄ませて臨戦態勢に入った。

 今から相対するのは、一切の油断など許せないであろう相手なのだから。

 拳を交えずともそれ程の実力を持った相手だということは分かる。華やソウゴ、彼女らもまた同様に。


 そう警戒するユズカに対し、アイの反応は至ってシンプル。


「大丈夫ですよぉ? 私はあるがままの私で、ありのままの飾らないあなたを受け止めます。獣であるあなたを」


 両手を開いて、全てを受け入れる体制をとる。無防備に、ゆったりと。

 にたにたと浮かべられるその笑いは、強さから来る余裕故のものか、あるいは彼女が狂気に染まった女性であるからなのか。


 いずれにせよ、言えることはたった一つ。


「変なおねーさん、気持ち悪いね」


 不快で不快で、たまらない。

 だから一呼吸。息を整えて、


「————っふ!」


 強く地面を踏み込み、地を駆けた。体を屈め、這うように低く。


 身体に風を纏うような感覚を味わいながら、ユズカの姿を見失った相対者、その顎先を右の掌底で突き上げて——意識を奪う。


 それは目が慣れていない者、特に初見であれば、一瞬の出来事で終わってしまうものだ。

 奏太は一度目だけでなく何度もこの手で沈んでいたし、おまけで葵も気絶させたことがある。


 今までで唯一意識を奪えなかったのは、蓮という少女だけだ。

 彼女は相当鍛錬を積んでいたようだし、予測出来ない何かがない限りはユズカにだって負けはしないだろう。勝つことも、恐らくはないのだろうけれど。


 だがその唯一は、


「————ぁは、重たい。力強い。あぁ、良い刺激ですよぉ?」


 当たる寸前、ユズカの手首を掴んだことで突き上げを無力化したアイによって、儚い幻想として砕かれる。

 元々の身長差もあり、体が浮いた状態になるが、


「……っ、まだまだ!」


 これにショックを受けて止まる程ユズカも平和ボケしたわけではない。

 掴まれたままの右手を、獣の——『トランス』の力で払って地面に着地、そのまま足払いを食らわせようとするも、


「効きませんよぉ?」


 動じず後ろへ跳んだアイにかわされた。


「お姉さん、速いね……っ!」


 ならばと脚にぐんと力を込め、全身のバネを利用して跳躍、アイに攻撃の連打を叩き込んでいく。


「————ぁは、いいですよぉ! 最っ高ですあなた!」


「————アタシ、それぞわわってするからやめて欲しいな!」


 宙で弧を描く右蹴りを腕に食らわし、その勢いを利用して鋭い回転蹴りを同じ箇所へ。地に足がつくと強靭な爪による引っ掻き、肘打ち、拳突き、トドメに腹へ飛び蹴りを食らわせて吹き飛ばす。


 いずれも地を揺らし、当たれば肉をゼリーのように抉って骨を粉微塵にしてしまう化け物じみた攻撃の数々だ。

 休む暇を与えず放たれ、距離を取れば詰められ、重く、深く、鋭い。


 ユズカは『トランス』の適性はもちろんのこと、元となった動物も相性も抜群である。たとえ武道の達人であれ、人の身でありながら先の攻撃を見切ってみせたアイであれ、全力のユズカには敵わないはずだ。

 スタミナは小一時間戦い続けたとて切れることはなく、素の運動能力は同年代と比べて劣らない……どころか葵を優に越し、奏太にも届きうる程一線を画していた。


 そしてそんな彼女から放たれるのは、引っ掻くより抉り取ることに特化した強靭な白爪、ライオンの筋力を一点に収束させた剛拳、全てを砕き裂くような鋭い蹴り。

 手加減など、あり得ない。

 目の前の獲物にひたすら貪欲に、獰猛に、一心不乱に襲いかかる。


 故に『獅子王』。

 ラインヴァント一の強さを誇り、それが揺らぐことなど絶対にない。

 身に宿す能力も、生まれもった天賦の才も、彼女の鍛えられた全ては誰にも勝るのだから。


「————ぁは」


 相手が、アイでなければ。


「…………え」


 確かな感触があった。

 途中はどうあれ、最後の飛び蹴り。腹部へ捻りを加えて当てたあの一撃は、確かに決まっていたはずなのだ。そのまま衝撃に飛ばされ、壁に激突して気絶する。そうなるはずだったのだ。


 だが、現実はどうだろう。


「……変なおねーさん、相当強いんだね」


「いえいえ、あなたほどじゃないですよぉ? 本気のあなたには劣るでしょうから」


 そこに立っていたのは、相も変わらぬ気持ちの悪い面。

 光のない瞳でこちらをじっと見つめ、狂った笑みを浮かべる女性だ。


 全ての攻撃を受け止め、払い、かわし、流す。

 生半可な実力で出来ることではない。だが、そうすることでアイはユズカの攻撃を無力化していたのだ。

 あの感触も、さして彼女にはダメージとして通っていないのだろう。


 それに反射的に顔をしかめ、同時に彼女の言葉に困惑する。


「本気のアタシ、って…………」


 自分でも、声が震えているのが分かった。

 武者震いなのか、恐怖なのか。

 必死に何かから目を背けようとしているのか。


 訳の分からない思考に割り込んでくるのは、訳の分からない女性の訳の分からない言葉。


「気がついてないわけじゃないですよね? あぁ、それとも。それともあなたは、奏太君達に見られるのが嫌なんでしょうか? 安心してください、今あの子達はお話に夢中になっているようですから。いえ、そうさせていると言ったほうがこの場合は正しいでしょうか?」


「……何を言ってるのか分かんないよ、変なおねーさん」


 分からない、分からない分からない。

 けれどそれでも、見たくない、聞きたくもないことに耳を塞いで、爆発しそうな感情を必死に抑える。

 今は彼女の言葉を聞いている余裕などあってはいけないのだ。

 戦い、戦わなければ、自分は————、


「隙だらけ、ですよぉ?」


「——っっ!!」


 突然に耳に入ってきた声に、びくりと体を震わせる。

 『獅子王』たる強さなど、とうに消えてしまったかのように。


 すぐ近くにこげ茶の髪がある。笑みを浮かべる女性がいる。気持ちが悪い、気味が悪い。戦わないと、自分は、ユキナを守り自分は、自分は自分は戦い戦い。


「アタシは、戦わないとユキナの、ユキナのために……」


「——それじゃダメなんですよぉ?」


 強い強迫観念に襲われ、呪言のようにブツブツと言葉を述べるユズカ。


 それに対し、アイは一貫して笑みを——浮かべておらず、表情を失っていた。失望し、呆れるように。

 しかし、それでも彼女は身を引かない。ゆっくりと口を開いて、ユズカの耳元で囁く。


「あなた、気がついているんでしょう? 今のあなたでは私に敵わない。私に届かない。あるがままの私を、ありのままでない獣でないあなたは倒せない。あなたの戦いを見ている限り、拳を受けている限り、あなたが獣として生きてきたことは明白。分かります、分かりますよぉ? でもぉ、ダメなんです。今のあなたには欠けている。獣としての本能も、全てを使い食らいつこうとする牙も、ありとあらゆるものに光がない。紛い物の獣です。——あぁ、そういえばあなたは誰かの名前を口にしていましたね? ユキナ、というとあの時一緒にいたあなたの妹ですか。とっても可愛らしい子でしたね。あなたが愛するのも当然でしょう。あぁ、でも。あれはあなたにとっての足手まとい。あなたがあなたでいられなくなるだけのお荷物です。あなたがありのままでいることを、あなたが獣であり続け、飾らぬ純粋なモノであることを私は求めていたのに。あなたがあなたのために、あなたが欲するものをあなたが得ようとし、あなたがあなただけにあるものに気がついていれば、あなたはもっと強い。強かった。強くあれた。強くなれたのに。あぁ、残念ですね? 誰かの為を想えばあなたの獣は失われてしまう。誰かの為を想ってもあなたの獣は叶えられない。あなたの獣じゃ、届かないんです。あなたは人じゃない。獣。獣、獣獣獣獣。そうでしょう? なら人の心など忘れてしまえばいいんです。誰かのことなど忘れて、自分のために。ただただ自分のために。誰かのことなんてどうでもいい。鬱陶しい。忘れてしまえばいい。全てを捨てて、自分のために。————大事な誰かなんて、あなたにはどうでもいいモノなんですよぉ?」


 絶句。

 ユズカは眼前の狂人に言葉を失った。

 何を言っているのか、それを理解する思考も余裕も今のユズカにはないのだから。

 

「————」


 だから代わりに、本能が動いた。

 声など失い、けれど体は動き。

 強く地を蹴って距離を取る。


「…………ぁは」


 『分からないモノ』が、こちらをじっとりと眺め、粘っこい喜びの声を上げる。

 ユズカの変容に、震えて。


 だから、ただなんとなく。それが不快で全身に力を込めた。


「————」


 不思議な感覚だ。体が熱いのに、頭のどこかは冷え切っていた。


 身体の奥底から力がとめどなく溢れてきて、目の前にいる『分からないモノ』を倒さなければならないのだと、ただそれだけを全身が訴えかけてくる。

 だからそれに逆らわない。

 だからそれに、身を委ねる。


 ——その姿は、奇しくもハクア戦で見せた奏太の姿に近い。『怒り』のままに獣と一体化し、力を求めて。

 だが、それに奏太は気がつかないし、気がつけない。

 それをユズカは、知らない。


 二人のそれが、同じようで異なるものだということにも。


「————」


 ユズカは軽く息を吐き、駆ける。

 それはこれまでとは比較にならない砲弾の如き速さで、蓮の速度にも迫り——否、それよりも速い。


 まさしく爆速。全ての無駄を捨て、全ての迷いを断ち切られて、ようやく辿り着いた領域。

 かつては踏みかけていたその場所へ、ユキナは再び舞い戻ろうとする。


 獣の王として、真の『獅子王』として。

 

 『獅子王』の速度は、この立会いの中で一度たりとも生み出せなかった『分からないモノ』の油断を生み、対応をされるよりも先に、彼女の喉元へと襲い掛かった。


「————ダ、メ」


 目にも留まらぬ速さで喉に牙を立て、噛み砕く。たったそれだけの動作。既に有効範囲にいる以上は、どう足掻いたとてもう彼女にはかわせるはずもない。


 『獅子王』が、ここに来てユズカという少女の意思を聞かなければ。

 牙が当たる直前で、『トランス』を解いたりしなければ。


「…………、ッは!」


 普段の何十倍と上昇していた運動能力。それが途中で中断されるとなれば、自ずと訪れるのは落下。喉元に迫った体は届かず、当たらず、受け身一つ取れないまま鈍い音を立てて地面に落ちた。

 当然、背中への強い衝撃と痛みがあったが、ユズカはそれよりも落ちる寸前に見えた、ある動作に疑問する。


「へ……ん。な、おねーさん。さっきの…………」


 強く背中を打った影響で言葉に詰まり、思考もぐちゃぐちゃだが、必死に思い出し、考える。

 牙が当たる直前、ぐるりとこちらへ顔を向けたアイ。その動作には、これまで一切感じられなかった攻撃の意思があった。

 あれは一体、何だったのかと。


「……ぁは。正直、驚きましたよぉ」


 聞こえなかったのだろうか。ユズカの問いかけに、明確な返答はない。

 けれど、答えに近いものはあった。


「今度は、防衛じゃないあなたと戦えることを楽しみにしています。あぁ、あなた。最高に、最っ高に素敵でしたよぉ」


 何か、よく分からないことを言っているが、それよりも。

 ユズカの首元を手刀で抑え、恍惚な表情を浮かべる女性。

 彼女は、アイは、


「気持ち、悪いね」


 口元からよだれを溢れさせていた。こちらを狂おしいほどの愛情を持って見つめて、耐えきれずに滴り落ちたと言わんばかりに。

 目の前に最高の獲物を見つけて、本能のままに食らいつこうとしているかのように。


 ————あぁ、そうか。


 気持ちの悪い光景に、よだれで地面を濡らしていく彼女に顔を歪ませながら、ユズカは納得していた。

 何故なら、


「……強いね、変なおねーさん」


 アイの言った、ユズカが目指すべきだという獣は——まさしく、彼女のようなモノなのだから。

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