偽奏 『シアワセの約束』
本来ならばエイプリルフール企画として投稿するはずだったものです。
第一章16にて、奏太が一切迷わず蓮の元へ行っていた場合のお話。
時系列的には二章番外編前にあたります。
その後の展開、人間関係等まるっきり変わっていますので、あくまでifとしてお読みください。
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シアワセな夢。
たとえそれが嘘偽りで塗り固められた、都合の良い綺麗事でしかない世界であっても。
何一つ変わらなかった自分と、変わった日常。
それは満たされていて温かくて……ひどく、心地が良い。
だからこそ変わらないし、変われない。
だからこそ変わらないことを望み、願う。
だってそこには失われるはずだった未来があって、手にしていた少女の温もりがあって、失うことのない少女の温もりがあって、手にするはずだった強さが欠けているから。
——少女の力を借りて二人で立つ。
奏太は日常が崩壊したあの日に、そう誓ったのだから。
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窓の外に広がる茹だるような熱気。
見つめるだけで手に取るように分かるその温度に、思わず顔を歪める。
数時間後には燃える太陽と再会する。何が嫌でそんな顔合わせをしなければならないのか。
……とはいえ奏太が生まれるよりずっと前は、温度調整機がなかったというのだから人間分からないものである。
学校中に張り巡らされた温度調整機。それは生徒や職員の人数、体温、外気温の全てを把握した上で導き出された適度な温度に保つなどという技術の発展さまさまな機械だ。
これがなければ今もこうして快適な学校生活は送れていないし、日常生活のあらゆる場面で汗の匂いに気をつけなければならないだろう。ありがとう、現代。おかげで助かっています。
……などと無機物に感謝の念を向けていたところ、眼前に人影が近づいてきて思考が中断。
相手にある程度の予想はつくものの、確かめようとふっと顔を上げた。
「奏太、最近どうよ? 彼女とはよ」
軽い口調で己の茶髪をいじるのは、平板秋吉。彼だった。
奏太の親友にして、奏太とその恋人たる少女との関係発展のきっかけを作ってくれた人物でもある。
とはいえあのデート以降、奏太は恋人として目立った進展を成せていないのだが、さすがにそれを口にするのも躊躇われ、
「まあ、ぼちぼちだよ。ぼちぼち」
「何だよ、それ。もっとグイグイ攻めてけっての。キスもしたんだろ?」
「……いや、うん。まあ一応」
それとない言葉でぼんやりと事実を包み隠す——はずだったのだが、どうやら秋吉にはすぐに見破られたらしい。
申し訳ないやら何やらで表情をひきつらせる彼は肩をすくめ、
「しゃーねーな。いいか、よく聞けよ?」
と切り出したのち、数分に渡って様々な助言を述べ始める。
それに奏太は相槌を打ち、内容をしっかり頭に入れて——彼のため息を合図に送り出される。
実践する、相手の元へ。
「ほら、行ってこいよ」
「分かったって。……ありがとな、秋吉」
「礼なんていいっての」
しっしっと奏太を追い払うような手振りをしてみせる秋吉は、どこか満足気だ。
弟子を送り出す師匠のような彼の生暖かな視線に目礼しつつ、奏太は歩き出す。
机の間を通り、クラスメイトの波を避け、あの少女の元へ。
「————あ、奏太君」
そうして行き着いた先、友人と言葉を交わしていた薄青髪の少女に声をかけると、それに応じた桃色の瞳がこちらを見つめ——、
「————っ」
瞬間。脳天を突き抜けるような甘美な感覚とともに、胸の奥が満たされ体が熱くなって行く。心臓の鼓動が、脈動がどくどくと力強く跳ね、少女の魅力の絶大さを全身で味わう。
頬が緩んで首から上が真っ赤に染まり、側から見ればとんだニヤケ面だ。
薄青髪の少女に好意を抱いていることも、明白なのだろう。
しかし奏太はそれを隠せないし、隠さない。好意を隠さないことが正しいと、奏太は知っているから。少女がそれを、教えてくれたから。
とはいえ、奏太の好意がどうのこうのなど、目の前の少女が疑問を持たない理由にはならない。
彼女は沈黙したままの奏太に小首を傾げ、どうしたのかと視線で問いかけてくるので、
「えー、っと。ああ、そうだ。ちょっと聞きたいことがあるから来てくれないか?」
「聞きたいこと?」
公衆の面前であからさまに怪しい言動を取ってしまったことに羞恥と申し訳なさを抱きつつ、声をかけた理由を口にする。
もっとも、それはあくまで理由の一つ——重要度で言うなら半分程度だ。声を聞きたい、姿を見たい、もっと話したい……全ては、奏太が彼女に会いたいと思うからこそのものなのだから。
「うーん…………?」
少女はそんな奏太の願望に対し、口元に手を当て数秒思案。
しかし満足のいく答えは見つけられなかったのか、左右に軽く首を振ると、
「何かは分からないけど……行こっか、奏太君!」
自身の両手を合わせ、軽快な拍手音を鳴らすと共に、行くことを決める。
それにほっと安堵の息を漏らしつつ、奏太は口元で好意を表す少女につられて微笑みを浮かべた。
いつも通りの彼女に。
いつも通りの、その姿に。
「じゃあ行こう————蓮」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
ひと月も前のことだ。
奏太は最愛の少女、美水蓮と共にデートに行った。
途中、様々な葛藤やハプニングはもちろん、どきりとさせられるようなことは何度もあったのだが、最後にあった事件はそれらとは一線を画す壮絶なものだったと言えよう。
——『獣人』。
蓮は恐怖の体現者『獣人』の一人として姿を晒し、ハクアと戦闘を行った。
その事実は騒ぎを目撃していた全ての者を震撼させ、偽りの平穏は終わりを迎えて。
奏太もまた、例に漏れず。
『ここで、待ってて』
蓮が奏太の手を振り払った瞬間。
奏太は今でもあの感覚を覚えている。自分だけが置いて行かれ、彼女が遠くへ行ってしまうあの感覚を。
だからなのだろう。あの日あの時、奏太が一切の迷いなく彼女の元へ駆けたのは。
役に立った、などと誇れるようなことは彼女に対して出来なかったけれど。
けれどそれでも、蓮は死ぬことなく今を生きている。
約束は破られることなく、今も続いているのだ。
だから奏太は、自販機前のベンチにて、隣に座った少女を見つめる。
「——どうしたの? 奏太君」
ペットボトルの飲料水を口に含み、太陽の下に可憐な顔を晒していた蓮。
夏服で短くなった制服から覗くのは、女性らしい起伏に富んだきめ細やかな肌。もう、太陽とは別の意味で眩しいくらいで。
彼女は奏太の視線に気がつくと、薄青の髪を指ですくいつつこちらを見つめる。
透き通る桃色の瞳が奏太を映し、いずれは心中を見透かされるような気がして——、
「えっと……いや、何でもないよ」
「奏太君、誤魔化してる。前に言ったけど、私嘘分かるんだからね?」
目を背けて誤魔化すが、やはりあっさりと見抜かれる。
そもそも奏太の嘘が下手ということもあるが、彼女は嘘が分かる、それは紛れも無い真実なのだから。
『嘘の味がする』。
彼女はそう言ってこれまでに何度か奏太の嘘を見破って来た。
ハクアとの一件以後、事情を聞いてからずっと。時を遡れば、スポーツテストの時も。
それは『獣人』故の能力、なのだろう。他の者達が彼女のような能力を持っているかは分からないが、あっても不思議ではないし、疑問を抱かない。
何故なら今でも、奏太にとって『獣人』の能力は分からないことばかりなのだから。概要も、その本質も。
だから。だからこそ奏太は——、
「奏太君?」
「ぁ、え」
思考の途中で割り込みが入り、それは中断される。
蓮が奏太を気遣うような様子で顔色を覗き込んできたからだ。黙り込んで彼女のことを考えていたのだから、そんな表情されて当たり前なのだが……ともあれ。
「ごめん、誤魔化して。えっと……蓮」
「どうしたの、奏太君」
「傷、さ。治って良かったな」
「————」
奏太が視線で指すのは、蓮の脇腹。
そこはあの日、ハクアによって蓮が致命傷を受けた部分である。
今でこそ傷一つなく、元通りの綺麗な艶肌の彼女だが、さらに何度か攻撃を受けていたら間違いなく死に至っていたであろう。そんな最悪の想像など、したくもないが。
「俺、あの時さ。本当に死ぬんじゃないかって思ったんだよ。だから、だから間に合って本当に……っ」
奏太の視線に沿い脇腹を撫でる蓮。
彼女を求めるように、奏太は漏らす。
歓喜、安堵、悲痛、無力、後悔、罪悪。いくつもの感情が混ざった弱々しい本音を、隠すことなく何もかもを全て。
彼女を、愛おしく想って。
「大丈夫だよ、奏太君。私はここにいるから。約束も守るから」
「約束……」
「うん、約束。私は奏太君とずっと一緒にいるし、それにね。私は死ななくて本当に良かった。奏太君に助けてもらえて良かったって、そう思うの」
「————」
掠れるようにちっぽけな奏太の言葉に対し、蓮の言葉は温かくて力強い。
たった一言。たった一句。それだけでも満たされるのに、彼女は紡ぎ繋げていく。言の葉の数々を。
彼女がくれる音の集合に、胸の内から湧いて出る感情は切なく溢れそうになる。
好きだから、そこにいるのが嬉しい。好きだからこそ、あんな蓮をもう見たくなくて。好きで、安心して。
多分きっと、奏太を慈しむように見つめる彼女も同じ感情で。もう二度と互いが互いの痛々しい姿を見たくないと、そう願っている。
奏太には嘘を見抜く力なんてないし、本当かどうかは分からない。けれどそうだったらいいなと、そう思う。
都合の良い願望を重ねているだけでも、良いのだ。
だって奏太は知っている。
「奏太君を置いていくなんて、私は嫌だもん。私は奏太君と居たい。私は奏太君が…………」
彼女は、奏太のことを愛してくれている。
奏太もまた、蓮を愛しているように。
……とはいえ、それを告白しようと思っても、恥ずかしさで顔を真っ赤にして俯いてしまうのはどちらも変わらないことなのだが。
だからこそ、奏太は言う。
恋愛感情を、言葉に乗せて。
「——好きだ、蓮。何回も言えないけど、それでも好きだから。好きだから…………聞きたいことがあるんだ」
「……聞きたいこと?」
茹だるような暑さと照れによる熱で身体中が迸るような暑さになりつつも、奏太は彼女を呼んだ理由の半分に触れた。
「————『トランス』って、どうやればいいんだ?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
学校生活を終え、奏太と蓮はそれぞれの帰路へ——着くよりも前、寄り道をしていた。
つい一ヶ月ほど前、あの日がきっかけとなって知った場所へだ。
「……やっぱでかい」
長い廊下に赤絨毯、シャンデリアと言った豪華な装飾。
地下とは思えないほど明るく、窓がないことを除けばどこかの豪邸だと言われても何ら不思議ではない。
「何度来ても慣れないな、ここ」
「とっても広いよね、このアジト。……奏太君は苦手?」
「いや、むしろ好きだよ。男のロマンがあるっていうか……うん、ワクワクする」
膨大な広さを誇る地下に作られつつも、上手く隠蔽され、存在が一切露見していない『獣人』組織——ラインヴァントの地下アジト。
それが奏太達が今いる場所であり、奏太の琴線に触れた男のロマンの塊でもある。
同じような場所として以前行った秘密基地が挙げられるが、探究心が湧く、という意味ではこのアジトに軍配が上がるだろう。地下に作られた隠れ蓑など、男なら憧れずしてどうするというのか。
……などとふざけたことを考えていられるほど、実情は優しいものではないのだが。
気を使ってくれた蓮の手前軽口を叩いてみせたが、そのくらいのことは奏太にも分かっていた。
何故なら、
「あ、レンお姉さ————ぁ」
長い廊下の先、曲がり角からいつぞやの蜜柑色の髪の少女、ユキナが現れるが、彼女は一瞬蓮の存在に歓喜の声を上げたかと思うと、すぐに柱の陰に隠れてしまう。
奏太と少女の間には距離があり、正確な表情までは読み取れない。
だが、これだけは分かっていた。
「————っ」
奏太に対する明確な怯えが、彼女にはある。
言動や声の震え、それは奏太よりも一回り歳が離れているであろう少女には隠せないものだ。
以前蓮はそれについて「照れ屋さんだから」と説明してくれたが、あの様子ではそれだけではないのだと、さすがの奏太でも分かる。
だが、理由を聞ける程奏太が彼女に何かしてあげられるとは思えないし、自分にはそんな力などないのだと、分かっていた。
まだ自分一人で満足に立つことすらできないのだ。誰かに構ってられるほど、今の奏太は強くないのだから。
「ユキナ、見つかった? うー、アタシのボールどこ行っちゃったのかなー」
「いえ、心配はいりません。もう見つかりました。さ、部屋に戻りますよ二人とも。お客さんも来たみたいですし」
そうして蓮の後を追うように歩みを続けると、先ほどユキナがいた曲がり角の先にはまだ人影と声があったことに気がつく。
姉のユズカと葵、といったか。
ユズカはこちらに気がつき、声を出そうとするが、葵がそれを妨害するように彼女を廊下の奥へと押し込め、言葉を告げさせない。
そして、
「————」
蓮に目礼、続けてこちらに顔を向け舌打ちをしたかと思えば、奏太に圧迫するような侮蔑の視線を送ってくる。
言葉一つ漏らさず、ただただ睨みつけてきて。
奏太を敵として見るかのように。あるいは、何の力も持たない弱者と見なし嘲笑しているかのように。
後者ならば、納得がいくのだが。
実際、奏太は蓮に自分が『獣人』だと知らされてから何もしてこなかったし、何の力もない。
それならば、これまで幾度となく戦闘を経験しているという葵にも、そう見られてもおかしくはないのだから。
一人で立てないような奏太は、彼と対等な立場の友人になどなれるはずもないのだから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
蓮が葵達と軽く言葉を交わらせると、そのまま向かったのは彼女の妹の部屋だ。
「あ、奏太さん。また、来たんだ」
奏太と蓮を迎えるのは、机に向かって勉学に励んでいたらしいセーラー服姿の蓮の妹——希美。
感情の一切が感じられないその言葉は、奏太を歓迎しているようにも責めているようにも聞こえ、
「ああ、何度もごめん」
「もう、奏太君。謝らなくてもいいんだよ。奏太君は『獣人』なんだし、えっとその……私の、彼氏なんだから」
この場合は、後者なのではないかと考えてしまう自分がいた。
というのも、主に先の葵達の様子を目の当たりにしたことが原因なのだが……蓮はそれを赤面しつつフォローしてくれる。
さりげないその優しさはとても嬉しいし、顔を塞ぎたくなるくらいに照れてしまうのだが、
「姉さんは、渡さない」
今度はそれが原因で別の火種が生まれてしまった。
じっとりとした目を見る限り、彼女は間違いなく拗ねているのだろう。
姉のことになると妙に感情的になる希美は、蓮の手を引いてベッドに座らせると、奏太に対しあからさまに自分のものだと主張してくる。
「ノリノリっていうかなんというか……本当蓮のこと好きなんだな」
「姉さんは、姉さん、だから」
普段の言動からは感情が見えず、時々どうしたものかと判断に困らされる時があるのだが、こうして蓮といる時は年相応というべきか、幼い面も見られて奏太としてはほっとする。
……敵意を向けられているのは、葵だけなのだと分かるから。
「ようやく落ち着ける——って、ゆっくりしてちゃダメだよね。えっと、ごめんね希美。私たちちょっとやりたいことがあって……また後で、来るから」
そうして哀愁や安堵がブレンドされた妙な心地を奏太が味わっている傍らで、蓮は本題を思い出し立ち上がる。
そのまま別れを告げるように希美の頭を軽く撫でたかと思えば、
「————またね、貴妃」
聞き慣れない名前を優しげに呟いて、奏太と共に部屋を後にした。
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「それじゃあ芽空、私と奏太君でトレーニングルーム使って来るね」
「分かったー。……あ、そういえばフェルソナが蓮のこと探してたよー?」
「あ、うん。さっき会ってきたよ。また研究に付き合ってっていう話だったけど……」
「フェルソナはフェルソナだねー」
ラインヴァントの面々への挨拶は、葵と姉妹、希美、さらに廊下でフェルソナ、梨佳と来て最後に残ったのは芽空だ。
部屋に入ってすぐに間延びした口調の彼女にクッキーを差し出されたので、奏太達はそれをつまみつつ、軽い小話を交わしていた。
「…………しかし」
小話を交えるのはいい。
心を落ち着けられるし、単純に話していて楽しいことは否定しない。
とはいえ、だ。
曲がりなりにも彼女のいる奏太が口に出すのはさすがに躊躇われるのだが、芽空という女の子ははっきり言って無防備過ぎはしないだろうか。
初対面の時と全く同じ感情を抱いている自分に驚くべきなのか、何も変わらない芽空に驚くべきなのか。
女性陣ならまだしも奏太や葵、フェルソナといった男までいるのに、そこらをネグリジェ姿で歩くのはどうなのだろう。羞恥すら感じていないのだろうか。
クッションの山に埋もれているせいでますますひどい。顔が髪の毛に埋もれてしまっているのが怖い。
「って、どうしたのー?」
——と、訝しむような視線を芽空に向けていたところ、逆に彼女に問いかけられた。
「いや、ごめん。何でもない。不思議なこともあるもんだなぁって考えてただけだから」
「運命は誰にも分からないしねー」
「ああ、いつ誰と出会い恋に落ちるかも分からないしな……」
「前から思ってたけど二人ともどこかで会ったことあるの……?」
なので芽空と顔を合わせた時には恒例になりつつある、軽口の交わし合いをここでもかます。
蓮も疑問したことではあるが、一体どうして芽空とここまで波長が合うのかは奏太にも分からない。
それこそ一言で言うなら、
「不思議なこともあるもんだなぁ……」
「奏太君、疲れてるの?」
ややノリにノリ過ぎて、蓮に真面目に心配されたのでこの辺りにしておくとして。
梨佳や芽空はこのアジトで奏太が気兼ねなく話せる数少ない相手なのだ。気持ちが高ぶってしまうのも仕方ないのではないだろうか。などという言い訳も置いておくとして。
ある程度心も落ち着き、次なる場所へ向かう準備が出来たところで奏太は蓮と共に茶会の終わりを告げる。
「それじゃ、二人とも頑張ってねー」
手を振って送り出してくれる芽空に、また来るという旨を伝えて部屋を出ると、奏太達はようやく目的地へ足を向けて。
「————」
——だからこそ、扉を閉じる瞬間の、自身の背中に向けられた視線に気づくこともなく。
怠惰を貪る少女の、その内など知らぬままに奏太は進んでいく。
似た者同士の置いてけぼりの少女の存在など、忘れて。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「『トランス』は自分の中の動物と混ざるイメージなの。私は広げて纏う……って感じで」
「広げて、纏う?」
ラインヴァンの個性豊かな面々との挨拶も終え、二人で訪れた全壁真っ白のトレーニングルーム。
そこでは時折笑顔も溢れるが、蓮も真剣なのだろう、言葉を重ねるごとに可憐な顔が凛々しいものへと変わっていく。
「本当は自分の能力が何か、分かってる方がいいんだけど……奏太君は分からないんだよね」
「ああ。記憶を失う前ならあるいは、と思うけど」
とはいえ厳しい表情ばかりではない。
こうして、彼女は奏太のために眉を寄せ、一緒に悩んでくれる。
奏太を立たせ、後押しをしてくれるのだ。
奏太が望むことを、望むままに。
それならば、
「俺だって、頑張——」
「……ねえ奏太君、本当にやるの?」
奏太は蓮からの助力を心から喜び、応えるため自分を奮い立たせようとした。
が、それは途中で中断され、彼女から再度意思を問われる。
これから起きるかもしれない事態への不安、それを浮かべた蓮に。
数時間前の学校でも、同じ旨の問いがあった。
「本当にって……そりゃ、やるよ」
「どうして?」
その時は、結局言わずじまいだった理由があって。
「……えっと、それは」
今でも悩んでいる理由だった。
それは、あの日蓮を失いかけ誓ったことを揺るがす決意でしかないからだ。
——少女の力を借りて、二人で立つ。
奏太は、そうすることでこれからも自分のことを認めようと誓ったのだから。
自分が強くなることなど出来ない。だから、弱さを認めてしまおう。諦めてしまおう。
彼女は立たせてくれる。一緒にいてくれる。それでいいのだと、願ってしまおう。
「…………俺は」
そう思っていた。
けれどこの一ヶ月間、自分が『獣人』なのだと知り、無力を知り、侮蔑と嘲笑を受け、奏太は気がついたのだ。
自分は蓮に守られるだけは嫌なのだと。彼女が離れるのは、嫌なのだと。
あの日よりも前に強くあろうと誓ったことを、思い出したのだ。
だから、
「——俺は、蓮を守りたい。無力で居たくないんだ」
「————守りたい?」
「そうだ。俺は蓮が好きだから。一緒にいたい、あんな思いをするのなんて……もう、嫌なんだよ」
だから。
だから奏太は再びここに誓おう。
蓮のために強くなろうと。
そして、強くあろうと。
「蓮、見ててくれ。多分きっと、これが俺にとって始まりだから——」
奏太が言葉を重ねても、なおも不安を取り除けない彼女の表情。
それを花のような笑顔にしたい、そう願い奏太は口の中で唱える。
——『広げて、纏う』。
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身体の中が、裂けていくような感覚があった。
眠っていた何かが呼び起こされ、徐々に意識を覚醒させていく。
「————」
涼やかな鈴の音。
それが耳に届いて、懐かしき感覚を覚える。耳触りが良くて、温かくて、心地が良い。何度でもいつまででも聞いていたくて——痛い。
内に眠るドロリとした感情が奏太の呼びかけに応じ、力を注いで痛い。痛い痛い。
「————」
そうして、身体の表層に変化が生じる。
灰色の毛皮が痛い、髪が痛い痛い赤く痛い。角が痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「————!」
身体中を蝕む痛み。鈴の音ともに訪れた何かに対する拒否反応が、拒絶が脳を犯し何も考えられなくなりそうなくらいに蹂躙されていく。
そんな中で、わずかに聞こえるものがあった。
「————!」
誰かが呼んでいた。
だけど分からない。痛みがひたすらに続き、訳が分からない。自分が、どうして。嫌だ。痛みなんて、嫌だ。嫌だ。見たくない感じたくない。
でも、聞こえてくる。
「————君!」
地に伏しているのか、立っているのか。傷つけているのか、傷つけられているのか。
もう、分からない。
理解など、したくない。向き合いたくない。
けれど声は届く。
「————奏太君!」
全てを諦めたいと思う、愛しい声が。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
意識が朦朧としていて、よく分からない。
だというのに、自分が包まれているのが分かる。
「————」
何か言葉を発してみるけれど、音が発せていないのか、そもそも聞こえないのか。返ってくるただ無音であるという事実だけ。
そんな無音で真っ暗な世界の中、愛しい少女と共にいることだけが分かる。
「————」
愛を伝えたくても、言葉は届かない。
ならば……どうしようか。
答えは簡単だ。
身体が目覚めた時に告げよう。
自分が今この瞬間、誓ったことを。
ようやく全てが分かって、確かめられたことを。
——少女の力を借りて、二人で立つ。
これではダメなのだ。
だから改めて、奏太は誓おう。
自分は無力だ。何の力もなく、一人で立つことすらままない。
少女の、蓮の力を借りなければ。
さっきだって、結局『トランス』一つ満足に出来なくて。もう、無理なのだと分かってしまった。諦めてしまった。
だからこそ変わらないし、変われない。
だからこそ変わらないことを望み、願う。
蓮の全てを信じよう。
先程の彼女の問いかけに反対しなければ、奏太はこんな思いをしなかったのだから。
蓮を求めよう。
そうすれば、奏太はずっと一緒に居られる。
蓮に誓おう。
奏太は蓮のために生き、蓮がいることで生きられるのだと。
「————約束」
そうして進んだ道が、奏太のシアワセなのだから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
といった感じになります。
所々で引っかかったことなどは、活動報告の方で軽い解説として書いてありますので、気になった方は見ていただけると幸いです。