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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
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第三章16 『歪んだ狂騒』



 変人と称すべき女性。

 入店直後に奏太にすり寄ってきたその女性は、目立つ容姿と言動によって注目の視線を浴び、奏太達にも共有のものにさせようとしていた。

 さすがにそれはごめんだし、無一文を放っておくわけにはいかない。


 と思っていたのは、つい数分前。


「……で?」


「ぁは、そんなに見られても何も出ませんよぉ? もちろんお金を頂いたことに感謝はしていますけどぉ、私何も持ってないんですから。——あぁ、でも何か欲しいものがあるのなら言ってみてくださいな」


 奏太の正面に座るのは、粘っこい声で無一文を堂々宣言し、今しがた変人認定されたばかりの長身の女性だ。


 長い睫毛の下には髪と同じこげ茶の瞳、くるくると巻かれた髪は痛み乱れることなく整えられており、言動に目を瞑れば彼女は美人の部類に入るだろうか。

 あまり陽に当たっていないのか、薄着なこともあり色白の肌が目立つが、色素の濃いパーツの一つ一つを際立たせ、どこかの秘書をやっていると言われても何ら違和感を持たないくらいの容姿を誇っていた。


 ただし言動を除けば、だ。


「いやいらないから。どっちかって言うともう少し落ち着いてくれた方が嬉しい。ユ——この子が、怯えてるから」


「ええ? そうなんですか? これはこれはごめんなさい。でもぉ、私もわざとじゃないんですよぉ? ぁは、子どもは大好物ですし、そちらのお嬢さん達も可愛らしいものですから……仕方ないじゃあありませんか? ねえ?」


「ひっ……!」


「だからそれをやめろよ」


 ずいっと顔を近づけ、光のない濁った瞳でこちらを見つめるのは、不気味な笑みを浮かべる女性。

 十人に聞いたら十人が変人、あるいは変態扱いするに違いない。フェルソナやエトとは別の意味で危険な変人。もはや狂人と言ってもいいかもしれない。


 彼女に対し、奏太の隣でソファに腰掛けるユキナは隠しようもないぐらいに怯えていた。

 何せ、声もそうだが、先程から掴んで離そうとしない奏太の左腕に震えが伝わってくるのだ。それも、尋常でないほどの。


 ただでさえトラウマを抱えていたりする少女だ。出来る限り精神的負担は与えたくないところだが、


「あぁ、そちらの二人は妹さんですよね? 兄妹仲が良いのは素晴らしいです。私好きなんですよぉ、愛。家族愛、友愛、隣人愛、恋愛……あぁ、素敵です」


 女性は胸の高まりに耐えられない、と言った様子で胸元で自身の手を抱く。恍惚とした表情で奏太達を見てトリップする姿は、擁護しようがないくらいに気味が悪い。

 もはや容姿が可哀想である。残念美人、というやつだろうか。


「ぁは、もう食べてしまいたいくらいに……どうしたんですか?」


「何でもない。素敵だから食べるって何だよって思っただけだ。……あ」


 下手な嘘で適当にごまかしつつ流してしまおう、そう思ったところで奏太はあることに気がつく。

 そして同時にどうしたものかと頭をひねりつつ、


「まだ名前聞いてなかったな。俺は奏太。えっと、二人のうち一つ結びの子がユズ。あんたが怖がらせた短い髪の子がユキだ」


 奏太を除き、さりげなく本名を名乗らないようにしておく。

 葵や奏太ならまだしも、彼女らはまだ小さな少女なのだ。

 『獣人』である以上はいつ何が起こるかも分からないし、守れる間は守り、もしもの時に備えておいて損はないだろう、と。


 そんな小さな保険をかけておく奏太に対し、女性は何も勘繰らず満足げに頷くと、


「三人とも、いい名前ですね。あぁ、社交辞令などではないんですよぉ? 音の響きが気に入ったんです。素敵ですよぉ。とぉっても、とぉってもね。……それでは、私も」


 深く瞳を閉じ、数度の呼吸。

 そののち、彼女は濁った瞳を開いてこちらを見据え、言った。


「——哀。私の名前は、(あん)(じょう)(あい)と言います」



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「ぁは。それでは化粧直しに行ってきますね。休まずにもっとお話をしていたいんですけどぉ、私も女ですから」


 彼女——哀はそう言い、頬の筋肉が壊れてしまっているような笑みを浮かべると、手をヒラヒラと振りつつ席を離れた。

 女だと自覚しているのなら、もう少し言動に気をつけないのだろうか……などと思いつつもまさか口にしたりなどするはずもなく。


 彼女の前で一体どれだけの本音を隠せばいいのだろう。

 長年人に嫌われないことばかりを考えていた奏太からすれば、平常時にそのようなことを言葉にするのは禁忌に近いので、出来ればこれ以上嫌悪感を抱かせるような言動をしないで欲しいところだ。


 気は長い方だと自負する奏太でもこのような状態になる相手。ここ最近はエト、シャルロッテ、オダマキと尖った面子ばかりに遭遇していたため、それも揺らぎつつあるのだが……ともあれ、ユキナの怯えも当然のことと言えよう。

 哀が席を立ったことで、奏太を掴むその体の震えも幾分かはマシになっているが、


「ユキナ、大丈夫か?」


「ぁ……は、はい。大丈夫……です」


 奏太の言葉に対し気丈に振る舞う——ことすら出来ないくらいには、あの女性への恐怖は残っていた。

 ユキナの場合元々の性格によるところもあるが、概ね奏太が下した評価も間違いではないのだろう。


「……大丈夫だ。見た目はどうあれ、ただの女の人だし。変なことにはならないよ」


 確かに哀は不気味な女性だった。


 意図してやっているのか、酔っ払いのそれとは比較にならない程狂ったような笑みに、飲み込まれるような濁った瞳。はっきり言って——目を背けたい。

 美人であることが分かっていてもなお浮かんでくるその嫌悪感は、もはや生理的なものだ。体が、心が、頭がそれを拒否している。見たくないと叫んでいる。


 だがそれは、


「何かあったら俺が守るから、ユキナは手掴んでるといい」


「————っ」


 隣で少女が震えているのなら、いくらだって耐え切れるものだ。

 見たくない。でもユキナのために自分は怖くないと主張する。どちらも感情の奥底にあるもので、互いを否定し合っている。

 否定と否定、その結果がユキナに対して出来る奏太の勇気だ。


「ありがとうございます……ソウタお兄さん」


 空いた片手でユキナの頭を軽く撫でてやり、震えが止まるまで続けて少女の心を落ち着かせる。


 今はこうして奏太や、あるいは葵や梨佳、ユズカが彼女を守ってあげているが、彼女にもいずれは決断の時が来る。

 誰かに守ってもらうだけじゃいけないと、決断する時が。


 もちろん哀のような人物などそう多くはいないが、少なくとも今は奏太が守ってみせよう。

 葵はユズカのためにいずれ獅子奮迅するだろうし、奏太同様に自身の実力不足を知っている。ならばこそ彼が守れない時間帯や、手の届かない範囲は奏太が守る。

 奏太と葵は対等な立場の友人なのだから。ユズカとユキナは、それだけ大事な存在なのだから。


「……それで?」


 ユキナが落ち着きを取り戻し、奏太が手渡したメニュー表を眺め始めたところで、問いかける。

 姉妹の片割れ、姉に。


「————ユズカはどうしてさっきから黙ってるんだ?」


 口にしたのは、明らかな違和感と共にずっと抱いていた疑問。

 入店時からずっとだ。

 哀と顔を合わせ、話始めてからずっと。

 ただユズカは、押し黙っていた。

 俯いた顔色はよく見えず、一体何を思っているのか、それは定かではなかったが、少なくともこれだけは言えた。


 奏太やユキナが哀に対して嫌悪による恐怖を感じたように、ユズカもまた彼女に何かを感じているのだと。


 事実、普段の彼女の言動と、その根源たる性格を考えていればおかしな様子なのだ。

 身にそぐわぬ並外れた食欲を持ち、ひと回りも体格が違う奏太よりも食事量の多いユズカ。

 ファミレスへ来たのも彼女が空腹を訴えたのが理由であり、ここへ来て早々に料理の注文をしてもおかしくはないはずだ。

 ましてや、そこに興味を抱かないはずがないし、彼女が遠慮をすることなどなおさらあり得ない。


 そして何よりも、彼女が姉であるということ。

 さりげない日常でも、今日の会話の中でも、ユズカが妹のユキナを大事に想っていることはひしひしと伝わってくる。一つ一つの言動が、優しさが、心配が。

 自身が傷つけてしまった妹を見る、あの顔が。


 あんな表情をするユズカが、哀に怯えるユキナに何も言わず視線すら向けないなど、どう考えてもおかしいのだ。

 だからこそ、奏太は理由を確かめようと問いかけたわけだが、


「————ソウタおにーさん」


 それは唐突に、しかしどこか納得する自分がいて。

 今までに何度か目にし、感じたことのある、身の毛がよだち緊張一式になるような感覚。


「あのおねーさん、かなり強い」


 培われた経験故なのだろう、研ぎ澄まされ、鋭く抉るように放たれる闘気。

 一切の油断を見せぬその表情が、気配が、この場の異質さを物語っていた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 テーブルの上に並べられた料理の数々。

 それに頬を手を当て、粘っこい愉悦の声を漏らすのは暗情哀だ。


「ぁは、美味しそうです。まさか追加でお金をいただけるなんて、本当に感謝ですよぉ。——あぁ、でも私もただもらうだけじゃありませんよぉ? このご恩はしっかりと返させてもらいますからね? 奏太君」


「何で返してくれるのかはともかくとして、別にいらないから」


「それじゃ悪いですよぉ。これでも私、収入は結構良い方なんですよぉ?」


 哀はにたりと笑みを浮かべたままお礼お礼としつこく迫ってくるので、ひとまずそれを止めて食事をするようにと急かす。

 ……奏太の所持金で注文されたハンバーグを。


 すると、彼女も奏太が急かしたことで何かしら踏ん切りがついたのか、そっと手を合わせ料理に手をつけ始めた。

 言動を見ていた限りではマナーもあまりよろしくはない——と思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

 フォークやナイフの使い方は小慣れており、音一つ立てないで口に運んでいく様は元々の容姿にそぐわぬ品のあるものだ。


 そんな彼女を目の当たりにして、いやしたからこそ、奏太は言っておかなければならないような気がして口を開く。


「収入は……まあ、ともかくとして。何回もやらかしてるなら、いい加減財布気をつけたらどうだ?」


「分かってはいるんですよぉ? ですが、どうしても直前になると忘れてしまって……ぁは、癖かもしれませんね?」


「悪癖どころじゃないぞ、それ。いつか犯罪になるぞあんた」


 出かけるたびに財布を忘れるなんて、どこも出かけられないのではないだろうか。区内の近場ならともかく電車一つ使えない、店にも入れないなどそもそも出かける意味がないのではないだろうか、などと考えつつ、


「答えたくなかったらいいんだけど、哀さんはどんな仕事やってるんだ? あー……えっと、俺が見た感じだとどこかしらの秘書とかやってそうだけど」


 それとなく話題を振ってみる。

 何せ、両隣の姉妹が黙々と食事を進めているのだ。奏太が会話を繋ぐしかあるまい。

 目の前のカルボナーラが熱を奪われつつあるが。隣のユズカに奪われそうだが。奏太のカルボナーラが。


 心配しないよう言って聞かせたものの、ほとんど気を緩めようとはしなかったユズカ。料理が来た途端にそれが緩んでしまったのか、彼女は自身の眼前にある食事と奏太のカルボナーラの間に視線を飛び交わせている。

 とはいえ、ユキナ同様に言葉を発しようとしないあたりまだ警戒はどこかしらに残っているのだろう。ちらりと見た表情にもいつもの元気さは欠けていた。


 もっとも、食事を見る瞳はいつもと変わらないあたり、料理を目の前にした場合には警戒と優先順位が同等になるのだろう。

 そんな欲望への正直さに苦笑いするやら和まされるやら。

 哀もまたある意味では似た人物なのかもしれない。笑い方や瞳が完全にホラーそのものだが。


「奏太君、私のハンバーグ欲しいんですか? 残念ですがあげられませんよぉ、これは奏太君にいただいた貴重なハンバーグですから。奏太君にはあげられません。——あぁ、それから私のことは気軽に哀と呼んでくれていいですよぉ?」


「じゃあ哀。なんか矛盾してないかそれ……」


「ぁは、そんなことありませんよぉ? 私は私の望む全てを得る。分け前なんて誰にもあげませんよぉ。……それで、お仕事のお話でしたね。私はこれでもぉ、ある所の重役なんです。詳しくは話せませんが」


「重役って…………本当に?」


「本当ですよぉ。収入も結構いいんですよぉ? これでも私は仕事が出来る方ですから」


 全くもってそうは見えない。

 一体何の仕事なら彼女が有能になるのか。営業……いや違う、怖がられるから一瞬でアウトだ。

 平然と不気味な笑みを浮かべ、私利私欲を口にしているあたり他の者と連携が取れているとは思えないのだが。


「何の仕事だよ、って聞きたいところだけど……まあ話せないこともあるよな。というかそれだけ収入が良いんなら本当に財布持ってくれ。人生を棒に振るなよ」


「心配してくれるんでしょうか? あぁ、先程から思っていましたが、優しいお方ですね。奏太君。妹さん達とも仲がよろしいようですし……あぁ、たまりません。食べたくなるくらい素敵ですよぉ、貴方」


 真面目な指摘をしたつもりが、よく分からないままに恍惚とした表情でうっとりと見つめられる。

 濁った瞳が奏太を捉え、離さずに——、


「いや、食べるならそのハンバーグだけで良い。あとは、うん。空気でも食べててくれ。俺はその間に二人を連れて帰るから」


「あぁ、つれませんね」


「初対面の人に食べたいって言われて、はいそうですかって体差し出せるか、普通」


「私も拒否されれば多少の譲歩はしますよぉ? それに、これは緊張されてる妹さん達に笑ってもらうためですから」


 少しずつ言動に感情が乗り始め、呆れや嫌悪、それらがブレンドされた言葉が口から次々と出たところで、奏太は言葉に詰まる。


「妹さん達に笑ってもらうためですから」


「いや、二回言わなくても分かるけど」


 意外、だった。

 一度言葉が止んだことで落ち着いた頭が、彼女の発言の意味を理解していく。

 失礼な話だが、こっちの都合など御構い無しのフリーダムだと思われていた哀も、実はユズカ達姉妹のことを想った発言が出来るのである。


 ただ、一つ言えるとすれば、


「……ごめん、それむしろ逆効果だ」


 空回りなんてレベルじゃない。

 彼女の発言の最中、隣のユキナは黙々と食べているように見えてその実、時折握った手がビクリと震えていたし、ユズカもまた呼応するように警戒を強めていた。


 故にそれを指摘したのだが、哀はそれに一瞬目を見開き、首を傾げただけで、


「そうなんですか? 私の上司はよく笑ってくれるのですが、子どもにはウケが悪いんでしょうか」


「……いや、多分言葉選びと表情だろ。哀はそれ直したら子どもウケ良くなるんじゃないか」


「ぁは、丁寧な言葉遣いと豊かな表情ですよぉ? それくらいは意識してますよぉ?」


「ずれてるずれてる。あんたはエトか」


 やはり正解を踏めない。

 何というかこう、彼女の会話のズレはどことなくエトを彷彿とさせる。感情が言葉によく乗るのはその為だろうか。


 なんだ、彼女なりに頑張っていたのか……などと評価を改めるところだったが、さすがにこれは色々とまずいような気がする。

 女性にしてはやや高いその背丈も、下手をすれば怖いと思われる理由の一つになりかねない。


 奏太も不器用ではあるが、彼女もまた劣らない程度には不器用過ぎはしないだろうか。

 そんな悲しい人物を前に、同情のため息を吐いて視線を落とし——、


「……で、俺のカルボナーラはないと」


 喪失に気がつく。

 話に夢中になっている間にカルボナーラの姿が消えていたという、その事実に。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 その後再度料理を注文する羽目になったり、ユズカと哀が追加で頼んだりとまあ、何ともお金の消費を感じるやりとりを挟みつつ、食事にひと段落がついた。


「それでは、失礼しますね。奏太君のご厚意に甘えさせていただきますよぉ」


「もうお礼は嫌ってほど聞いたし、お金の消費が数倍になるだけだから気にするな」


 お礼こそ言うものの一切の遠慮をしないあたり、重役の立場につくような人間としてどうかとは思うのだが、変に面倒ごとになるよりかはさっさと片付けてしまった方がいい。

 もっとも、入店して即面倒ごとは起きていたので、最小限に留めるしか手はなかったが。


 金銭の面に関して言えば、元々食費は芽空から出ているし、今回のように外食で済ませる場合には奏太を除きそこから出すようにしている。

 だから、奏太とその三、四倍を遠慮なしに食べた哀の分だけしか奏太の財布からは消費がない。


 ……と言った感じで特に何か心配することもなく、席を立つ哀に別れを告げる。


「ぁは。なんだか私、奏太君にはまた会えるような気がしますよぉ。そちらの妹さん達もぉ。その時を、楽しみにしていますね」


「今回みたいなのはごめんだけどな。……今度は財布、忘れるなよ」


 奏太のアドバイスに対し、相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る彼女を見送って。


 そうして変人も去ったことでユズカとユキナ、それぞれの肩の力が抜けていつもの表情が戻っていく。


「あ、あのソウタお兄さん。さっきはすいませんでした。わた、私その、怖くて…………」


「気にするな。哀がかなり変わってただけだから、ユキナは悪くないよ」


「で、でも……」


「慣れていけばいいって。……というか、哀やエトみたいなのはそう簡単にいないから」


 開口一番、ユキナの口から届いたのは謝罪。


 涙目で訴える彼女に優しい音色で言葉をかけつつ、いつものように頭を軽く撫でる。

 硬くなっていた表情が、結ばれていた唇が、緩やかになるのを確認するまで。


 そして、


「——ユズカ。あの人に何か怪しいそぶりはあったか?」


 ユキナからユズカへ視線を移し、小声で問いかける。

 結局終止警戒したままだった彼女に哀が危険でないかどうかを確かめるために。


「ううん、なかったよ。ずっとぽややってしてたっていうか……、強さを出してなかった」


「強さを?」


「うん。ソウタおにーさんみたいな感じ。スイ……なんとかがオフになってた。オンになったらソウタおにーさんよりずっと強いと思う」


「スイッチだな。しかし…………本当かよ」


 息を呑んで脅威を語るユズカ。

 彼女の言葉には真剣味があり、紛れもなく嘘偽りない真実なのだと分かる。

 こと戦闘において、彼女程強いものはそうはいない。その彼女が断言するのだから、信じないはずもなく。


 奏太には哀の危険性と戦闘力が読み取れなかったが、恐らくはブリガンテで『獣人』として育てられていたからこそ働く直感のようなものが、ユズカにはあるのだろう。


「…………また会うのはごめんだな、やっぱり」


 彼女の正体が何者かは分からない。


 HMAか、あるいはブリガンテの一員か。仮に後者であるとすれば、一度の壊滅を経て再編成されたメンバーの一人ということになるが……奏太以上、となると芽空に伝言を頼んでおいたのは正解だったかもしれない。


 この事に関しては持ち帰った上で葵達と話合わなければならない重要な案件だ。

 彼らが帰ってくるまでにはまだ数時間あるものの、早めに帰路へ着いた方が良い気がする。

 上手くは言えないが、そう直感が告げている。


 ——この場に居ては、いけないのだと。


「よし、それじゃ二人とも行こうか。フェルソナが暇してそうだし」


 寒気が走るような感覚を覚え、それを振り払うように買い物袋を持ち、二人を立たせる。

 まさか店を出た瞬間即戦闘、なんてことはありえないだろうが、早めに出ておきたいと。


「あ、ソウタおにーさんそんなにフェルソナに会いたいの?」


「いや、そういうわけじゃない」


 奏太の早足に疑問したユズカが茶化してくるが、軽くそれを流す。

 妙な焦燥感に眉を寄せつつ、不安を追い払うために少しでも早く歩き、姉妹とレジへ向かおうとして——、


「————おっと、大丈夫か」


 途中、顔の見えない黒フードの男にぶつかり、体を受け止められた。

 不注意故に起きた突然の出来事に一瞬固まり、すぐに離れて頭を下げる。


「あ、えっと……すみません。急いでいたもので」


「なに、気にすることじゃない。——、それじゃあ」


 慌てて奏太が述べた謝罪の言葉を、男は快く許す。

 それから間も無く、奏太の後ろの姉妹達を一瞥すると彼は去っていってしまった。

 まるでそれ以上の会話は望んでいないのだと、言うように。


「…………?」


 この暑さの中、わざわざフードを被ってきたのだろうか。

 一瞬、そんな疑問が湧くが、今は急がなければいけないのだということを思い出し、奏太は再度歩き出す。


「————」


 疑問を持った相手——黒フードの男が、奏太と姉妹を見つめているとも知らずに。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 ファミレスを出てほんの十数分。

 奏太の焦燥を裏切るような、何一つ目だったことのない道中を経て奏太達はアジトに帰ってきた。

 

 ユズカから暗情哀の強さを聞いたこともあり、些細な事にも過敏に反応し、ずっと気を緩められなかったのだが——、どうやらあの妙な胸騒ぎとそれによる心配は杞憂だったらしく。


「あ、おかえりー。遅かったね、そーた」


「ただいま、芽空。ちょっと変な人に絡まれて……ってのは、まあいいとして」


 ほっと息を吐くのも束の間、購入物の整理も終え、部屋に戻る頃にはいつの間にやら芽空が帰ってきていた。

 ヨーハンと会ってきたばかりなのだろう、着替える前の状態でベッドに腰掛け。


「————ぁ」


 その様子が、日常が、あまりに安心出来るもので、たった数時間、それだけの間に色々なことがあった頭が休息を求め始める。


「そーた。今日は何を……ううん、そうじゃなくて」


 だから、なのだろうか。

 焦燥の余韻が残る奏太に、一切の遠慮と休息も挟ませず、現実が差し迫る。


「————」


 何かを言いかけ、途中でやめた芽空が深く息を吐いた。

 ベッドから立ち上がり、真っ直ぐに奏太を見つめ、生半可なものではない覚悟を決めるために。

 決して強くはない、その精神を整えて奏太に向き合うために。


 奏太はその表情に、心当たりがあった。


「——約束、あったよね」


 そう、約束。

 それは今朝芽空と交わしたものだ。今日帰ってきたら、芽空は奏太に過去を話すのだと、彼女はそう言っていて。


 何も、奏太は全てを忘れていたなどというわけではない。

 だが、心の準備も出来ていないまま、秋吉のこと、哀のこと、先の胸騒ぎ、ぶつかったこと、約束…………いくつものことが、想いが、考えが、奏太の頭をぐちゃぐちゃにしていて、とてもではないが今の奏太は話を聞けるような状態ではなかった。


 故に、さすがにこのまま芽空に向き合うのはいけない、そう思い奏太が彼女を制止しようとするのと、彼女が口を開いたのは同時。

 そして、


「————っ!」


 そのどちらでもないものが、割り込んだ。

 けたたましい無機質な電子音と、眼前に現れた着信の表示。


 電話だ。

 それも、非通知の。


「……そーた、どうしたの?」


「いゃ、え、っと。電話、だよ」


 頭の整理はなおも追いつかず、言葉に詰まりが生じる。

 どうすれば良いのか、分からない。そもそもどうしてこの地下で電話が出来ているのか、疑問すべきところも、いったい誰からの着信なのかも、たくさんあるし考えなければいけないというのに。


 変な汗が出てきて、頭が真っ白になっていくのが分かる。一日に何度も何度も緊張とストレスが続いたからだろうか。

 どうしたら、どうすれば……ひたすらに形にならない疑問だけが浮かび、消えて。身体中がエラーを起こしたように熱くなり、連続して起こる異常に脳も対処しきれなくなって、視界がぼやけ、脳がその活動をやめて——、


「そーた」


「……ぇ、あ」


 間抜けな声が、漏れた。

 それは多分名前を呼ばれたのと、懐かしい感触が奏太の手を握っていたから。


「そーた。大丈夫、落ち着いて。何があったかは分からないけど、まずは深呼吸だよ」


「……ぁ」


 ひんやりとした感覚。


 それを奏太は知っている。

 かつて別の場所で、奏太の最愛の少女が、そうしてくれたことを。

 あの時もこうやって、頭がパンクしそうなのを助けられた。


 そして今度は、芽空に。


「…………は、ぁ」


 すぅっと、酸素を取り込む。

 一度目は上手くいかず、ぎこちないものに。

 息を吐いて、吸って。単純なその作業を繰り返し、肺を、脳を、血液を、体を酸素で一杯にしていく。

 ただひたすらに、目の前の少女の言葉通りに。


 何度も何度も繰り返し、呼吸が平静に戻っていくのを感じる。

 思考が、ぼやけた景色が、徐々に徐々に。


「…………もう、大丈夫だ」


「そーた、落ち着いた?」


「うん。落ち着いた。……ありがとう」


「どういたしまして、だよ」


 奏太が正気を取り戻すと、安堵の表情を浮かべて手を離す芽空。

 彼女はその手を胸元に当て、一度瞑目すると、再びこちらを見つめて言う。


「——電話、出よう?」


「……っ」


 彼女の言葉に、一瞬躊躇いがあった。

 しかしそれを振り払うだけの余裕は、何とか戻っていて。


 疑問がないわけではない。

 だが、芽空の言葉の裏にある何かが奏太を急かす。恐らく、奏太には分からず、彼女には分かっているものがあるのだろう。

 通話を始めれば分かる、何かが。


 ひとまず考えなければいけないことはたくさんある。だが、それは目の前に迫っている何かから目を背ける理由にはならない。

 故に奏太はまだ僅かに熱のある体を抑えつつ、顎を引いて承諾。

 そして通話ボタンを押して——、


『————久しぶりね、三日月奏太君』


「……っ! お前は!」


 飛び込んで来た声。

 その主に、奏太は驚きの声を上げる。

 何故ならその声は、奏太が嫌い、絶対に考えの交わらない平行線の相手だと認知した女性だからだ。


 世界から英雄と呼ばれた、『獣人』の、奏太の敵。

 彼女の名は、


「藤咲、華……ッ!」

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