第三章1 『日常の変化は唐突に』
お待たせしました。
本日より第三章開幕です!
地を蹴る音がした。
「————」
直後、奏太の視界から人影が消え失せる。
だがそれは死角に散ったわけではない。
風を切り地を這うように迫ってきて、
「あっぶな……ッ!」
腹部に直撃を受けそうになり、寸前で回避。
しかし猛攻は止まらず、
「ちょ、速ッ、クソ!!」
連撃の嵐が迫る。
空気を、肉の全てを裂くような一撃の一つ一つを避けるのに精一杯になり、舌打ち。
「それならっ!」
状況を打破しようと後方へ向けて大きく跳躍、距離を取る。
だが相対する人影もそれを読んでいたのか、
「ソウタおにーさん、甘いよっ!」
人影——ユズカは踏み込んで距離を詰めてくる。
だが対して奏太は油断ならないこの状況で笑みを浮かべ、
「甘いのはどっちだ……ッて話だ!」
「——っ!?」
地に手をつけ、勝利を確信したらしい少女に向けて、回転を利用した蹴りを叩き込んだ。
「————ッッ!!」
結果、予測外の攻撃を受けた少女は蹴りの煽りを受けて激しく飛ばされる。
「やば、今のはさすがに、……っ!?」
やり過ぎたか、そう考えかけ緩んだ緊張はすぐさま引き締められる。
反撃が来ると、そう分かったからだ。
「————!」
声にならない声を上げ、今までとは比にならない程の速度で奏太に向かって駆けてくる少女。
少女は奏太に飛ばされた直後、その勢いを利用して壁を蹴り、反撃の力へと変えたのだ。
「もう一回……ッ!」
正面からあの切り裂きが来る、そう分かっているからこそ奏太は先と同じ蹴りを迫って来る少女に向けて放とうとして、
「————は」
唐突に、その姿が消えた。
そして、
「が、は……ッッ!!」
次の瞬間奏太を襲ったのは、真上からの踵。
奏太の蹴りを避け、視界から消えた少女によって叩き込まれたその一撃は、
「——くそ、またかよ」
奏太の意識に致命的な痛みを与えた。
世界が歪み、白んで行く。
体は少女に受けたダメージで所々が熱くなっているというのに、まるで夢でも見ているかの如く立とうとしても抵抗虚しく視界は薄れていき、
「——今回も、だね」
感情の消え失せた少女の瞳と声を最後に、意識がぷつりと途切れた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——奏太さん、死んでませんか?」
失われた意識が回帰したのは、男にしてはやや高い少年の声が聞こえた直後のことだった。
「……それで俺が死んでるって言ったらどうするんだよ」
「塩投げます」
「いや投げるなよ、かけるとか振りまくとかその辺りでいいだろ」
目を光らせ自信満々に言い放つ葵に指摘を返しつつ、彼に差し出されたタオルで体から流れる汗を拭く。
今やお馴染みのトレーニングルーム。
全面真っ白なその部屋には人影が四つあり、
「ソウタおにーさん、今日もダメだったねっ!」
「悔しいことにな」
汗を拭き終えたところでユズカとユキナ、姉妹二人が奏太の元へやって来た。
視線をユキナに、それからユズカの順に移し、少女の瞳を見つめた奏太は安堵の息を吐く。
ユズカの調子はいつもと何ら変わらぬ年相応の——いや、それよりも感情表現に富んだものへと戻っていたからだ。
何度も見てきたとはいえ、どうしても気にかけてしまう。
たとえ少女が自身の力を鎮め、こうして現実へと回帰するのは当たり前なのだと、分かっていても。
「あ、あの……っ、ソウタお兄さん、大丈夫ですか?」
そんな奏太に対し、ユキナは奏太自身の心配をしてくれる。
内心はどうあれ、今この場にいる者の中で、純粋な心配をしてくれているのはユキナだけだろう。
もとい、今に限った話ではない。
「うん、大丈夫だ」
その場で軽く屈伸をして見せ、何の心配もないのだとユキナに伝え、礼を述べる。
「いつもありがとな、ユキナ。それにユズカも葵も」
——いつも。
それはここ最近毎日のように行なっていることへの感謝だ。
奏太を含めた『獣人』にのみ可能な能力『トランス』。
それは身体の内に眠る獣を人の体と融合させ、自在に扱うためのものだ。
尋常を外れたその力は、葵との稽古を、そしてハクアと一戦を交えてようやく奏太の中で形になった。
だからこそハクアを倒したことで平穏が訪れて以降も、能力を磨き続けるために奏太は『トランス』の修練を続けていたのだが——、つい二週間ほど前、それに変化が生じた。
『ねぇねぇ、ソウタおにーさん。アタシと勝負しない?』
そんな無邪気な一言がきっかけだ。
当然、途中保護者代わりである葵や奏太の中でも葛藤があったのだが、
『——ユズカがそうしたいのであれば構いませんよ。その代わり、お互いやりすぎないように』
最終的に葵はそう言って納得した。
いや正しくは言葉では、というべきか。
納得したというのには浮かべた笑顔が目に見えて引きつっていたり、握った拳が震えていたりと明らかに無理をしていたのだから。
分かる——などと言えば、いつかのように激昂されるであろうが、あれ程ユズカが『トランス』を使うことに反対していたのだ。
意思を尊重するという選択がどれ程の迷いと熟考の果てに紡ぎ出されたのか、それは奏太の想像の域を優に越しているだろう。
ともあれ、
「どうです、ユズカ。力は戻ってきましたか?」
「んー、まだまだっ!」
こうして軽く言葉を交わせる程度にはなってきたようだ。
さらりとまだまだと言ってのけるあたり、底が知れない少女に奏太の表情が引きつってしまうのだが。
「ソウタお兄さん、さっきの写真撮ってみたんですけど、どうですか……?」
「ん、どれどれ……」
ユキナから控えめに服の袖を引っ張られ、彼女の持つビデオカメラに目を向ける。
それは奏太が以前勉強のご褒美で、ということで購入したものであり、毎日のように彼女が使っているものでもあった。
どうやら今日は奏太とユズカの戦闘を撮ったらしく、
「…………かなり言いづらいんだけど、良いか?」
画面を見つめた奏太は気まずそうな顔をユキナに向け、一言。
「……ブレてるな」
「はぅ……すみません。お姉ちゃんもソウタお兄さんも速くて、その」
彼女がスクロールする写真を一枚一枚確認していくが、そのどれもがブレている。
かろうじて二人が『トランス』の二段階目である『纏い』を使用していることは分かるのだが——、
「いや、でもこれなんていいんじゃないか?」
声が弱々しくなっていくユキナに声をかけ、カメラを見せる。
画面には勝敗を決定づけた一瞬——つまり奏太の蹴りをユズカが跳躍して避けた瞬間が表示されており、ブレなく撮れたのが奇跡とも言える一枚があった。
「わぁ、ソウタお兄さんもお姉ちゃんもかっこいい……っ!!」
それにユキナは興奮し、目を輝かせて喜ぶ。
彼女はユズカと比べれば大人びている方ではあるが、こうやって感情を隠さず歓喜するあたり、まだまだ姉同様に小さな女の子である。
「——よし、それじゃ部屋に戻って本でも読むかな」
やってやったと言わんばかりの表情を浮かべるユキナの頭を撫でつつ、奏太は立ち上がろうとして、
「……? どうした?」
妙な視線を受け見渡すと、奏太の発言に違和感を持ったらしい三人が、奏太を見て首を傾げていた。
「あの奏太さん、準備しないんですか?」
「準備って、何の?」
彼の発言が指すものを理解出来ない奏太に対し、葵は——、
「何って、芽空さんから聞いてないんですか? このアジトの当主、つまりは芽空さんの兄主催の————」
答えを奏太に告げる、はずだった。
しかしそれは唐突に妨げられ、代わりに聞こえてきた扉の音に意識を向けると、
「そーた。今からパーティー行くよー」
間延びする声とともに現れたのは同居人でありお嬢様の古里芽空。
彼女は、何の準備もしていない奏太にそう告げたのだった。
夏が過ぎ去り九月になって間もない、当たり前のように過ぎ行くはずだった休日に。