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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第一章 『彼女』
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第一章5 『放課後の教室』



「失礼しましたー」


 決まり文句を口にし、廊下に出て職員室の扉を閉める。


 息を吐き、ようやく軽くなった腕を軽く回すと、クラスメイトのノートを抱えていた両腕の筋肉が鈍く痛んだ。


「現国係は楽じゃなかったのか……?」


 現国の課題を集めて提出するよう言われ、ちょうどそれを運び終えたところだ。


 科目の係は楽なのだと秋吉から聞いていたのだが、どうやらその中でもハズレを引いてしまったらしい。

 毎週のように課題を集めなければならず、高校に入ってから部活動をしていない奏太からすれば、軽めの筋トレをしているようなものである。


「ハクア、だったか」


 先の集会を取り仕切っていた男の名前を口にする。


 結局、あの後着替えを済ませて教室でホームルームを行なったのだが、奏太の周り……いや、生徒達は皆集会の事が忘れられないのか、平常時とは異なる様子の者ばかりだった。


 唯一例外があるとすれば秋吉くらいで、妙にテンションの上がった女子の行動をこれでもかと観察していた。

 とは言え、慣れているのだろう。その事で怪しまれたり変な目で見られないよう、上手く隠してしまうのだが。


「————」


 記憶の海に身を沈めていると、ふいに遠くから部活動をする生徒の掛け声が聞こえてきた。


 これは野球部だろうか、グラウンドとの間には距離があり、さらに職員室を挟んでいるというのにしっかりと奏太の耳に届いた。


 その声に熱がこもっているせいか、妙に感情が高ぶるのを感じる。

 中学の頃の奏太は部活動に熱心で、それ故に今の掛け声を聞き、思わずその頃の熱を思い出して胸が熱くなったのだ。

 今にして思えば、どうしてあれ程までに部活動に力を入れていたのか、いまいち分からない。

 特別技術が優れていたわけでも、好きで好きでたまらない、などと言えるほど、バスケットボールを好きだったわけでもない。

 だからと言って、真面目の一言で片付けるのでは、何か違うようにも思う。

 自分でも納得出来るほどの根拠がない否定だが、どこかしっくりこないような気がするのだ。


 とはいえ、結局考えたところでその正体が分かるわけでもなく。

 もやもやとした思考を追い払うように、ふっと息を吐く。


 そしてそのままリュックを抱えて昇降口へ向かおうとし——、


「…………あ」


 弁当箱を教室に忘れてしまったことに気がつく。


 二階に戻るのは面倒ではあるが、明日もまた弁当を作るため、必然的に取りに行く以外の選択肢がなくなる。


 奏太は目を瞑って、深く息を吐き出す。 一体今日何度目のため息だろうか。

 昇降口に向かいかけていた体の向きを変え、階段を目指す。


 階段は職員室のすぐそばで、それを上り、テラスを通り過ぎた先に教室がある。たった一分もかからないだろうが、面倒なものは面倒だ。

 階段をとんとんと登っていき、二階の廊下に出ると、一切の声がなく、しんとした静けさがあった。


 どうやら放課後になってまだ十数分だというのに、既にほとんどの学生は残っていないらしい。

 誰もいない廊下からにじみ出るノスタルジックな雰囲気に妙な寂しさを感じつつ、教室の前で止まった。


 部活動に勤しんでいるであろう秋吉も、いつもすぐに帰ってしまう蓮も、既に教室にはいないだろう。そう思って教室のドアに手をかけると—— 、


「——うん。大丈夫」


 ドア窓越しに、人の姿が見えた。

 それは、今まさしく頭の中でぼんやりと浮かんでいた人物の一人。


 手をかけたドアを横にスライドして開けると、耳元に手を当てながら窓の外を見つめていた少女が、びくりと肩を震わせ、こちらに振り返る。


「美水さん、まだ残ってたんだ」


「あ、うん。ちょっと電話してたの」


 彼女はついさっきまで耳元に当てていた右手を下ろし、その手の中で何かを転がす。

 それはイヤホンなのだろう、空いた左手で空中で何度か手を叩いて、


「またかけるね」


 蓮は申し訳なさげにそう呟くと、こちらからは見えない宙に浮かぶ画面に触れ、左耳からイヤホンを外した。それを、右手で転がしていたイヤホンと共にブレザーのポケットにしまい、こちらに向き直ると、


「お疲れ様、重かったでしょ」


 蓮は顔を綻ばせて奏太に微笑みかける。


 夕陽を背に浴びたその振る舞いは、数分前まで内にあった気だるげな感情を一気に攫って行き、顔を紅潮させるに至った。


「…………?」


 しかしそれと同時に違和感が生じ、奏太は眉を寄せる。


 確かに目の前の蓮の佇まいは可憐で、思わず見とれてしまうものだ。それは疑いようもない事実。

 だが、今まさしく彼女が見せた表情は、日常の中で幾度となく見かける咲き誇る花のような微笑みとは違う。


 理由は簡単だ。その瞳には憂いがあった。

 もっとも、それが分かっても、憂いの正体までは分からないのだが。

 ひょっとすると、今の電話が原因なのかもしれないし、電話以前に友人と喧嘩でもしたのかもしれない。


 だが、いずれにしてもいつから彼女はこんな表情をしていたのか、奏太には分からない。

 そもそも思い返してみると、集会の後から一度も彼女と顔を合わせていないのだ。隣の席、たった数十センチの距離だというのに。

 次々と不安が膨れ上がってきて、思考に雑音が混じり始める。

 何とかそれを払おうとして、


「あれくらいならまだまだ余裕だよ。ありがと、美水さん」


 軽口を叩いてみせる。


 もちろん、好きな相手の様子が普段と違うのに、気にならないわけではないのだ。

 しかし、だからと言って焦っては元も子もないし、無理に聞き出そうとしてもかえって迷惑になるはずだから、と自身に言い聞かせることで雑音を取り除いていく。


「どういたしまして……あ、そういえばスポーツテストどうだった?」


 奏太の心中を知ってか知らずか、蓮は声色を明るくして問いかけてくる。


「結構良かったよ。握力とか、やっと六十超えたし」


「えっ、すごい。男の子ってそんなにあるんだ」


 目を見開いて驚く彼女の瞳には先程の憂いがなく、奏太はほっと息を吐く。

 普段からコロコロと表情の変わる彼女だが、暗い感情だけはあまり抱いて欲しくはないのだ。

 憂いの根源を払うことは奏太には出来ないであろうが、いくつか言葉を交わすことで、少しの間だけでも彼女から暗い気持ちが無くなるのなら。


 それならば、何度でも言の葉に音を乗せて送りたいと、そう思う。


「運動は割と得意なんだ……って美水さんもすごかったよ。たまたま五十メートル走見てたけど、七秒前半だっけ。女子の中だとかなり速い方じゃないか?」


 正しくは、たまたま蓮達のグループが前にいたため、蓮がその恵体をせっせこ動かして走る姿を主に見ていたから、なのだが。

 ちなみに蓮以外で覚えているのは、ぶりっ子走りをしていたあのおさげの子くらいで、他の女生徒の姿はほとんど覚えていない。

 何故なら、簡単な話、目線が基本蓮の方にしか向かない程度には彼女にベタ惚れだからだ。


 人によってはストーカーとも取れるようなその実情に、蓮は気づかず否定する。


「そんなに褒めてもらえるほどじゃないよ。でも、確かに速い方かなぁ。これでも、運動には少し自信があるんだよ」


 腰に手を当てて胸を張ってみせる蓮。その姿はさながら子どもが褒められた時のようで、普段の彼女とのギャップも相まって、思わず奏太は噴き出す。


「あ、信じてない!」


「いやいや、信じてるよ」


 彼女は頬を赤く染めてぷりぷりと怒り出したかと思えば、奏太の言葉を聞き、


「信じてるならいいけど……」


 うん、と小さく頷いて納得した。

 信じているのは紛れも無い本音だが、すんなりと受け入れられてしまうと、それはそれで何だか戸惑うものがある。

 とは言え、どこか調子が崩れるのは、彼女と話していてよくあることなのだが。


「あ、でも、三日月君が女の子だったら負けてたかも」


「そうかな」


「そうだよ」


 以前に交わしたやり取りが、今度は逆になって交わされ、二人は顔を合わせて笑みをこぼす。


 それにしても、自分が女の子だったら、などと考えたことはなかったが、その場合自分は、三日月奏子と言った感じの名前になるのだろうか。

 仮に奏子だった場合には、あだ名が倉庫になってひどい扱いを受けそうだ、と奏太は苦笑する。


 きっと母が居れば、自分が女の子だった時の名前を聞けるのだろうが、既にそれを確かめる術はなくて。


「いや、でもよくよく考えたら、運動で勝っても、勉強で負けてるし」


「うーん、それは要努力……かな?」


 奏太が女性であったならば、蓮の恋愛対象にはならないが、それはそれである意味幸せだったのかもしれない。

 蓮という競い合える友がいて、しかもその友達は何を取っても優秀な良い子だ。 毎日が充実して、楽しいことばかりだろう。


 ——だが、本当に幸せなことだけなのだろうか。


 例えば、競い合うことに疲れてしまって、逃げたいと思ってしまう時があるのなら。楽をしたいと、思う時が来るのなら。


 その時、今日の集会を引き起こした原因であるあの者達のように、違法ソフトに手を出さないと、そう断言出来るのだろうか。


「…………あれ」


 ありもしないもしもに思考を割いていると、ふと、疑問が湧いて出た。


「……?どうしたの、三日月君」


 思考の渦に潜る奏太は、怪訝な顔をした蓮に問いかけられる。


 奏太にとって、そんな表情を彼女にさせるのは決して気持ちの良いものではなかったが、それでも奏太には気になることがあるのだ。

 否、聞かなければならないことなのだと、直感がそう語りかけていた。


 誰にでも優しくし、素直にその感情を表す彼女。誰にでも気配りをするし、誰にでも愛をばら撒き、誰からも愛される彼女は。

 奏太が愛する彼女は、


「————蓮も、『獣人』は怖いのか?」


 ふっと時が止まったような気がした。


 それまでコロコロと変わっていた蓮の表情が不意に固まって、彼女は口をつぐんだ。

 そしてそのまま考え込むように瞳を伏せるのを見て、奏太は困惑する。


 ひょっとすると、地雷を踏んでしまったのではないか、と。


 例えば彼女には『獣人』に関するトラウマがあるか、あるいはその逆で、彼女には『獣人』の友人がいるのかもしれない。

 もしいるのだとすれば、ここで怖くないと言ってしまえば……そう考えかけ、すぐに否定する。

 何故なら、この世界においてそれを口に出すことは自殺行為にも等しいからだ。

 『獣人』と関わりがある——つまり『獣人』を肯定する者は、世間のはみ出し者であり、決して受け入れられることはない。誰しもを愛し、また誰しもに愛される彼女であっても、それは同じはずだ。


 沈黙が続き、冷や汗が流れる。

 鼓動がやけにうるさくて、胸の内から何度も叩きつけられる。

 心臓がすぐ隣におり、今この瞬間耳元で語りかけてきているような気さえして。


 それほどまでに焦り、不安を募らせるがゆえに、奏太は気がついてはいなかった。

 先程、思わず蓮の事を苗字ではなく、下の名前で呼んでいたことに。

 平常時の奏太なら、まず第一に気がついてもいいような変化だ。

 しかし今の奏太に、呼称の変化に気がつく程の余裕はなかった。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 ————一体、どのくらい時間が経っただろうか。

 何時間か、あるいはだったの数分か。いずれにしても、一分一秒が途方もなく長く感じられて。

 やがて彼女は、伏せていた目を開け、言った。


「——私は、怖くないよ」


 消え入るような声が、奏太の耳に届いた。


 彼女が否定したのは驚きだが、その一方で妙な納得もあった。

 怖くないという返答なら、辻褄が合うのだ。あの憂いが、集会によって生み出されたものならば。


 彼女は、皆の恐怖を知った上で言っているのだろう。

 『獣人』への恐怖、それはこの街だけではない。人々にとって、世界にとって、誰しもに共通で共有される感情。

 そして、奏太だけはそれを知らない。分からない。理解は叶わないし、許されない。もはや恐怖と言ってもいい。

 今の今まで共感してくれるものはおらず、誰一人として奏太と同じ感情を持ってなどいなかったのだから。


 蓮もまた、奏太とは違うのだ。


「……三日月君は?」


 問いかけられ、奏太は自身の手が震え出すのが分かった。

 それは迷いや戸惑い、恐怖、それらが入り混じって生じた震え。


 きっと蓮は、怖くないと答えることを望んでいるのだろう。

 何故ならスカートの裾をぎゅっとつかみ、唇を結んだ彼女の手が震えているからだ。


 その内面には、同じ恐怖であっても、奏太とは別種のものがあるはずで。

 自身の意見を否定される事が蓮の恐怖ならば、奏太は分からないことへの恐怖。


 仮にここで、蓮の意見を肯定し、『獣人』が怖くないと、欺瞞を口にすれば、彼女は喜ぶだろうか。

 世間からは疎まれ、異端視される思想を共感してくれる人がいる。それはきっとひどく心地が良くて、甘美な感覚のはずで。


 世界の恐怖に肯定できない、という意味では二人は同じ異端者だ。本質的には違うとは言っても、奏太が自身の恐怖から目を背けて、蓮と同じものだと言い張ればいい。

 その結果、得られるのは今までの自分が求めてきたものであり、今彼女が求めているのだから、選ぶべきなのだ。


 きっと、今よりももっと親密になれて、付き合うことだって簡単になるに違いない。いずれは、過去の自分という幻影に悩まされることもなくなるだろう。


「——俺は」


 だが、本当にそれでいいのだろうか。

 偽りを口にしてしまえば、その先にあるのは偽りの関係だ。

 それが果たして、幸せなのだろうか。彼女は、幸せなのだろうか。自分自身は、幸せなのだろうか。


 奏太は深く息を吐き、自身に問いかける。


 逃げるのか。何年も抗ってきた、自分自身が分からず、世界の恐怖も分からない苦しみから。


 逃げるのか。何年も苦しんできたであろう彼女に、自分自身の本当の気持ちを明かすことから。


「俺は…………」


 逃げるのか。正面からぶつかることを。蓮に、真っ直ぐで正直な『好き』を伝えることから。


 答えは簡単だ。言うべきことも、言わなければならないことも、言いたいことも、既に決まっている。

 本当なら、悩むことなどではなかったのだから。


 開こうとした唇が震えるのが分かった。

 内で紡ぎ出した言の葉に音を乗せる、たったそれだけの行為が、これ程までに難しいなどと思ったのは初めてかもしれない。

 しかし、それでも————、


「俺は——分からない。でも、本当にみんなが言うほど怖いものじゃないんじゃないか、ってそう思う」


 奏太の言葉を聞いた蓮は、一瞬目を見開いたかと思えば、すぐにこちらを見据え、問いかけてくる。


「分からない?」


「うん。……隠してるわけじゃないんだけど、俺——十歳より前の記憶が抜けてるんだ。それまで自分がどんな人生を過ごしてきたのか、分からない。みんなが獣人に感じる恐怖も、分からないんだ」


 ——自身に過去の記憶がない。

 この告白をしたのは、片手の指で足りる程度だろうか。今思えば、ひどく臆病なものだった。


 しかし今こうして蓮に話していることは、決して間違ってはいないのだと思う。後悔どころか、清々しささえあるのだから。


「そっか。——そう、なんだ」


 蓮は安堵の表情を浮かべ、深く息を吐き出した。


 しかしすぐにハッとなり、細い眉毛を寄せて何かを言おうとし、音が乗る寸前でそれを留める。

 目の前で不思議な動作があったことで、思わず怪しんで問いかける。


「どうした?」


 問いかけに対して 、蓮は幾度か躊躇したのが分かった。

 先の質問の時もそうだが、彼女のこのような様子を見るのは極めて珍しいことだ。

 返答があるまで見守っていると、しばらくして何に納得したのか一度大きく頷き、


「えっと、ね。私の考えすぎかもしれないけど、過去が分からないことで、三日月君は苦しんでるんじゃないか、ってそう思ったの。でも、私が三日月君のことを気遣っても、きっと迷惑だろうなって」


 虚をつかれ、体が鉄のように硬く固まるのを感じた。


 先程別の選択をしていれば、目を背けて逃げていたかもしれない、その苦しみに彼女は触れたのだ。

 過去が分からない苦しみ。奏太にしか分からないその苦しみを、彼女は逃して離さなかった。


 それを蓮に話せば、きっと彼女はひどく心配をして、奏太に対して親身になってくれるだろう。

 仮に同じ異端者としてでなかったとしても、蓮がそうしてくれることは分かっている。彼女は誰かを想える人物だと、奏太は知っているから。

 しかし、


「————そ、そこまで気にしてないって。ほら、仮に昔にトラウマとかあったんなら、それも全部忘れてるわけだしさ」


 奏太は強がって笑い、平静を装った。


 確かに奏太は、自分が分からない苦悩があるし、それを分かってくれる人物がいたら幸せな気持ちでいっぱいになるだろう。

 幸せになりたい、救われたい、解放されたい。それは確かな本音だ。


 だが、憂いを感じていた彼女にこれ以上負担をかけたくないと、そう思ったのもまた正直な気持ちなのだから。

 結果的に嘘をついてしまう形になったが、彼女が笑ってくれるのならば、それでいい。

 奏太の答えに対して、蓮はわずかに目を見開いた。その言葉をゆっくりと飲み込んでいるのか、一度目を伏せる。


 次に目を開けた時、彼女の瞳に浮かんだのは、慈愛だ。


「ね、三日月君」


 蓮の声は、極めて穏やかだった。


「どうした?」


 彼女の瞳に捉えられ、先程までとは別の意味で跳ねる鼓動を抑えつつ、蓮の言葉に耳を傾けた。


 その一挙一動に集中し、頭の中ではけたましく警報の音がなる。一体何を言われるのか。先の発言が嘘だと見抜かれてしまったのだろうか。彼女は一体何を、何が——。


 次の瞬間、彼女が口にしたのは、奏太が予想だにしていなかった言葉だ。

 ゆっくりと、瞳と同じ桃色の唇が開いて、


「明日の放課後、時間あるかな」


 彼女は慈しむようにそう言い、微笑んだ。

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